序章より抜粋
灼熱の地獄と言う以外なんと言えただろうか。
天をも焦がさんばかりの勢いで、立ち上る赤き炎はまるで伝説の中に息づく龍のように、うねりをあげ我が物の如く空を舞い、黒煙をまき散らせながら、ありとあらゆる物を、飲み込み、灰燼に帰してゆく。
大いなる力の前に人は・・・いや、いかなる物も抗う術を持たない。
人々はただ恐怖に戦き、闇夜にさまよい逃げる術を模索することしか出来ず、住み慣れた我が家が瞬く間に燃え落ち行く様を嘆き悲しむ暇などもなかった。
ただ、追い立てるように勢いを増していく炎から、一刻も早く逃れる他何も考えることなど出来ない。
だが、どこへ逃げればいいのだろうか。
住み慣れた土地だというのに、どこへ逃げれば良いのかが判らない。
風に煽られた炎がさらに上昇気流を産み、上昇気流に乗った炎はさらに勢いを増し、空気を奪い、酸素を奪ってゆく。
遥か上空まで達した黒煙が視界を塞ぎ、台風のような勢いを持った強風が、炎を煽り逃げ道を塞いでゆく。
逃げ道などどこにもない。四方を炎に囲まれ、逃げる道すら見つけることできず、嬲られるがまま死する以外他はなかった。
熱い。
暑いではない。
熱いとしか形容できなかった。
何をしたというのだろうか。
自分達はただ、この土地で日々の営みを送っていたにしか過ぎないというのに。
国と国同士の思惑など、自分達には何一つ関わりなかったというのに。
なぜ、ここまでされなければならなかったのだろうか。
恨みの声はけして届かない。
哀しみの声はどこにも届かない。
その思いすら、炎の中に飲まれ消えてゆく。
熱い。
ただ、二文字を残して。
幾千、幾万の言葉が一夜、二夜、過ごす事につもりゆく。
熱い。
水を求め感覚の無くなった足を動かす。
黒煙が視界を隠す故見えないのか、それとも炎に焼かれて見えないのか、それすらも判らない。
体中のあちこちが悲鳴を上げていたようにも思うのだが、全ての感覚がもうどうでも良かった。
ただ、水が欲しかった・・・・・・・・・・・・・・
水・・・
カラカラに喉が渇いて、潤したかった。
冬の水のように冷えた水が飲みたかった。
喉の渇きを潤すために。
身体を巡る熱を冷ますために。
「おかーちゃん・・・どこ?」
人の波にもまれ、炎にはばまれ、気が付けば自分の隣にいた母の姿がどこにもなかった。
「おかーちゃ、・・・お水ちょーらい・・・おかーちゃんどこ? まーちゃん、ここにいるよ・・・」
探しても探しても母の姿はどこにもない。
あてもなく彷徨い、家の前で膝を抱える。
熱かった。
顔と言わず全身が汗みずくで身体が干上がっていた。
水瓶を覗いてもそこには水は欠片も残ってはいなかった。
「おかーちゃん、のどかわいたよぉ・・・」
炎から隠れるように家の影に身を潜め、母が帰ってくるのをずっと待つことしか出来なかった。
※ ※ ※
異変はある日、前触れも一切無く唐突に訪れものだ。
誰がそう言ったのだろうか。
誰もが予想することすらしない・・・いや、できないからこそ、異変というのかもしれない。
いつ誰のみに降りかかるか判らない。
言い換えれば、誰の上にでも降りかかるとも言える。
だが、皆がなぜか思いこむ。
誰かの上であって、自分の上ではない。と。
そう言い切れる理由などどこにもないというのに。
夜も更け始めた時刻・・・日付線を越えて間もなくの頃。
寝静まる者もいれば、まだ宵の口と言わんばかりに意識が冴えている者もいただろうが、住宅街ともなれば静まりかえり、人の気配は道からは絶える。
所々灯りの灯る部屋はあっても、ほとんどの部屋の灯りが消え、翌日に備え眠りにつき始める時刻。
佐原家もそれは変わらなかった。
夫は職業上生活が不規則になりがちで、深夜の帰宅や早朝まで仕事をしていることもあったが、他の家族はすべて布団の中に潜り込んでいた。
その日、夫は仕事で留守だった。
家の中には夫の両親・・・義父母と幼い息子と妻の三人しかおらず、夜の十一時頃には家の灯りは全て消え、全員がそれぞれの布団の中に身を横たえていた。
幼い息子は九時にはベッドに入れるようにしているため、朝まで目を覚ますことはそうそうない。
きぃ・・・・
微かな蝶番の軋みが寝静まった空気を震わせる。
ペタペタペタペタ
床の上を歩く足音が続いて意識に触れる。
義母がトイレにでも起きたのだろうか?
だが、それにしては足音が軽いように感じた。義母は踏みしめるため、ドシドシと音が響くような歩き方をする。
では、気のせいか?
と思ったが、また軽い足音が聞こえ、水が流れ出る音が続いて聞こえてくる。
枕元に置いてある携帯に手を伸ばして開くと、青白い光が灯り液晶の画面に現在の時間が表示される。
時刻は零時半。
横になってまだ一時間半ほどしか経過しておらず、当然のことながら息子が起き出す時刻ではない。
おむつ放れも良く、夜中に尿意を覚えることもまれで、一度寝ると雷が落ちても起きないほど、ぐっすりと眠り込む息子が、なぜこんな時間に起き始めたのだろうか。
先ほどから聞こえ続ける水音も気になり、パジャマの上にカーディガンを羽織ると、ベッドから起き出す。
日中はだいぶ日差しが柔らかくなり暖かな陽気の時もあるが、夜半になるとまだ冬の名残を感じるほど、気温がぐっと冷え込むため、フローリングを素足で歩くとすぐに足が冷たくなっていく。
スリッパを履いてこなかったことを少し後悔しながら、階段を下りていく。
先ほどから変わらず音は聞こえるが、灯りは一つもついていないようだった。
階段も二階の廊下も真っ暗だ。
真っ暗の中で音だけ聞こえるというのは気持ちのいいものではない。階段の電気も廊下の電気もすべて付けて、ドアが半分程だけ空いているキッチンを覗き込む。
「まーくん? どうしたの?」
灯りのついていないキッチンでガサゴソと身動きする小さな人影があった。
驚いて灯りをつけると、ついこの前五歳の誕生日を迎えたばかりの息子が、ダイニング・チェアーを引っ張り込んできて、流しの上に上がり込んで蛇口に口を付けるようにして、水を飲んでいる姿が灯りに照らされる。
「喉が乾いたの? コップに入れてあげるから、蛇口に口を付けて直接のんじゃ駄目よ。
お行儀が悪いでしょう? それに足を滑らせて転んだら痛い痛いしちゃうわよ」
こっそり起きて水を飲んでいたようだが、母親が灯りを付けて注意をしているにもかかわらず、息子は一心に水を飲み続けていた。
この子はこんなに水道水を飲んだだろうか?
そんな疑問がふいに浮かび上がる。
牛乳や麦茶を喉が渇いたときにはあげるせいか、水道水を欲したことはほとんどなかったように思うのだが・・・
少し疑問にも思いつつ、いまだ蛇口に口を付けて水を飲み続ける、幼い息子の身体を両腕で抱えて抱き下ろそうとすると、急に暴れ始める。
「や! おみずのむの!!」
母親の腕を振り払おうとするが、母親は難なく息子を床に下ろすと、グラスに水を注いで息子に手渡す。
もう十分に飲んだように思えるのだが、まだ満足していないらしく、水を強く欲していた。
それほど喉が渇くような夕食を今日出しただろうか?
味付けは特に違和感はなく、自分には喉が渇くような物は無かったと思うのだが・・・子供には味付けが濃すぎたのだろうか?
幼い息子は母親の手からむしり取るようにグラスを受け取ると、一気に煽るように飲み干していく。
喉が勢いよく上下に動き、唇の端から冷たい水がこぼれても気にする様子はない。
瞬く間にグラスが空になっていく。これで人心地が付くだろう。
そんなことをつらつらと考えながら、寝る前にトイレに促そうと考えていると、グラスを母親に押しつけてお代わりの要求をする。
「もっと、お水ちょーだい」
「もっと? これ以上飲むとお腹壊しちゃうわよ」
「もっと、もっとちょーだいってば!」
「でも、まーくん。これ以上飲んじゃうとおねしょしちゃうわよ?」
「のどがかわいているの!」
「今飲んだばかりでしょう?」
「まーくん、お水がほしいの!!」
顔を真っ赤にして地団駄を踏みかねない勢いで叫ぶ。
まだ、自分の腰にも達しない小さな子供だというのに、勢いに押されて母親は押しつけられたグラスにもう一度水をそそぐ。
手渡されるのをもどかしそうに母親からグラスを奪うと、勢いよく煽るが、慌てて飲んだせいかむせて、水の大半を床の上に零してしまう。
「慌てて飲むからよ。
水はなくなんないんだから、ゆっくり飲みなさい」
雑巾で床の上に零れた水を拭こうとするが、息子は母親を突き飛ばすと、その場に跪いて床の上に零れた水を小さな舌で舐め取る。
「お水・・・お水・・・もったいない、もっともっと・・・もっとお水ちょーだい」
ここに来て、母親は息子が尋常でないことに気が付く。あどけない黒い双眸は異様なほどぎらついていて、殺伐とした迫力を持っていた。
手の掛かる可愛い息子が、この時ほど恐ろしく感じたことはない。
動きがとれずその場で呆然としゃがみ込んでいる母親から視線を離すと、息子は再び流しによじ昇って、蛇口から勢いよく流れ出る水を飲み続ける。
噎せて吐こうとも、水を飲もうとするのを止めない。
「まーくん!? 止めなさい!! 止めて!!」
飛び散る水の冷たさに正気に戻った母親が、水を飲むのを止めさせようとするが、息子は水を飲もうとするのを止めようとしなかった。
騒ぎを聞きつけた義母がようやく起き出し、わけが判らないまま母親と共に必死になって飲むのを止めさせようとするが、息子は止めようとしない。
もがいて暴れてそれでも、無理矢理に蛇口から引き離そうとすると、火がついたように泣きだして止まらない。
どのぐらいの時間が経過したのか、判らない。
朝まで続くかと思われた悪夢のような時間は不意に途切れる。
まるで、ゼンマイが切れたからくり人形のように、ふつりと動きを止めるまで。
ずるずるずる・・・崩れ落ちるように、意識をなくすまで息子の狂乱は続いたのだった。
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