本文 序章より




 心というものが簡単にコントロールできてしまえるものならば、どれほど良かっただろうか。そうすれば、醜い己の心に振り回されることなく、潔く・・・そう、潔く全てを終えることが出来た。
 判っているから。
 理性では、判っていたから。
 これは、もうどうしようもないことなのだと。
 血反吐を吐くほど努力をしたとしても、恥も外聞もなく縋りあがいたところで、翻る問題でも無いことだと言うことは、いやと言うほど判っていたから。
 どれほど見つめても、けして見つめ返されることのない眼差し。他人行儀な呼び方。触れることを拒絶され、近づくことさえままならない現実。
 出会った直後と、今とでどれほどの距離が縮まったのだというのだろうか。
 認められているとは思う。
 だが、それだけだ。
 己の持つ能力を認められただけ・・・それ以上も以下もない。
 言い換えれば、それ以外何も変わらず、そして替えは幾らでもいると言うことだ。次を見つけるのに苦労をするかもしれない。だが、彼に求められているのは「己」ではなく「能力」そして、唯一求められているそれさえも、時には危ういものになり、確固たる繋がりは改めてみれば、非常に頼りないものであった。
 所詮、その程度の距離しか詰められなかったのだ。
 「能力」にたいしての信頼は得ているだろうが、もっと内情深く触れ合うことは、ついぞ叶わなかった。
 拒絶されることはあれど、求められることなどけしてあり得ない。
 ここまで判っているのだ。もういい加減踏ん切りを付けて整理をしてしまうのが一番良いのだと判っている。
 そう理性で渦巻く感情を制御出来てしまえば・・・吹っ切れてしまえば、このような事態にならなかったのかもしれない。
 だが、人の心は簡単に割り切ることはできない。
 己のこととはいえ、目に見えないからこそ、真実把握することは出来ない。幾ら努力しても、冷静になろうとしても、いざとなれば己のことを客観的に見ることなどどれほど優秀な人間でも無理なのだ。
 天才という名を欲しいままにしている彼でさえ、感情が理性を超えれば制御することなど出来ないのだから・・・いや、制御をすることを最初から考えてもいないのだから。

   迷う余地があると思っているのですか?

 感情を伺わせることのない、冷徹な声が脳裏に蘇る。
 己を見つめる眼差しが、冷たく凍てつき、下げすさむ色を浮かべ、唇が嘲笑の形を刻み、彼は残酷なまでに無情な言葉を吐き付ける。
 周りの者が思わず彼に非難の声を上げるほど、それは容赦のない言葉の羅列。
 だが、それさえもが喜びと化した。
 愚かだと言うことは判っている。
 たとえ、嘲笑であろうとも、避難であろうとも、罵詈雑言であろうとも、彼に憎まれ疎まれる事になろうとも、彼が今だけは自分を見ているという事実に、己の心は呆れるほど素直に高揚した。
 その瞳が己を顧みないことに比べたら、向けられる感情など何でも構わないと。だから自分を見て欲しいと。
 それが、どれだけ情けないことなのか、判っていても・・・望まずにはいられなかった。その瞳に自分だけを映していて欲しいと・・・

   貴方は、自分自身に負けたいのですか?

 穏やかさを忘れない人が荒げた声が煩わしく感じるほど、至福の一時だったのだ。
 むろん、そんな夢は長続きはしない。
 あっけないほど無惨に終わってしまった夢。
 判っている。
 夢を見れたと思うことさえ間違っていることなど。
 自分の弱い心に押しつぶされているということも。
 だが、彼が言うほど簡単に押し返すことなど自分には出来なかった。

 いつまでも、いつまでも引きずる思いを簡単に、切り捨てることなど