いつものごとく本文一部抜粋です。
 参考程度に試し読みして下さい♪







 序之幕








 車から降りた瞬間、麻衣は反射的に身を震わせる。
 煖房で温められた車内とは正反対なまでに、外は全てを凍てつかせるほど冷たく冷え切っており、吐き出す呼気が白く棚引いて消えてゆく。
 今年も暖冬になる  冬の初めにはそんなニュースが流れていたはずだったのだが、実際に冬が訪れてみれば暖冬どころではなく厳冬となった。
 日本各地で今年は寒さが厳しく、都内でも幾度か降雪があったほど、今年の冬は寒さが厳しかった。
 この日も、今年何度目になるか判らない雪が、空から風に吹かれて舞い散っている。
 都心部ならばこの程度なら積もる前に溶けてしまい、路面を白く染めることなく消えていっただろう。
 だが、人気のないこの地は雪化粧を施し初めていた。
 空を見上げれば灰色の雲が空を覆い尽くし、晴れる様子も止む様子もみせない。どちらかといえばこれから本降りになっていくのだろう。
 予報では昼直ぐに降り始めた雪は、これからどんどん勢いを増して夜半まで降り続けると言う。
 この様子では雪が降り積もり、明日の朝は交通網が麻痺しているだろう。
 めったに雪が降らないために、雪に対して都心部の交通は弱い。まったく対策がなされていないわけではないが、雪国と同じようにはいかない。
「ぼんやりしていると、足をとられるぞ」
 車のエンジンを切ってから姿を現したナルが、寒さを感じさせない声で忠告を口にする。
「さすがに、歩くときは足元見て歩くよ」
 いくらなんでもこんな状態で上の空では歩かない。
「お前の場合は足元を見ていても滑りそうだがな」
「ひっど、そこまでドジじゃ・・・のわっ!」
 自分で言っておきながらなんだが、ナルに食ってかかろうとして足を滑らせていたら、ドジだと言う事を認めたようなものだった。
 案の上呆れたような顔でナルが腕を伸ばし、バランスを崩した麻衣の腕を掴んで引き戻す。
「で、そこまでドジじゃないって?」
「・・・・・・・・・・ゆ、雪になれたないんだから仕方ないでしょう!」
「ふーん」
 そもそも雪の上を歩くのは数年ぶりだ。
 まともに雪と接したことのない東京の人間なのだから、雪に足を取られるのは仕方ないことだ。
 と、いいたいところだが、同じく雪とは縁のない生活を送っているはずのナルの足取りに不安な所は何一つない。
「まぁいい。本格的に積もる前にここをでたいんだが?」
 ナルは周囲に視線を巡らせる。
 粉雪はいつのまにか綿雪に変わり、少しずつ確実に周囲に積もっていって居るのが、ほんの少ししか外に出ていなくても判る。
 のんびりとしていたらあっという間に路面は雪に覆われてしまう。
 いくら、タイヤをスタットレスにしているとはいえ、雪道には不慣れだ。出来るだけ積もらないうちにここを出たいと思うのはナルだけではなく麻衣も同感だ。
「別の日にすれば良かったね・・・ごめんね」
 花束を抱えている腕とは逆の手で桶を手に取ろうと身を屈めるが、その前にナルが腕を伸ばして手に取る。
「今日じゃなきゃ意味が無いんだろ?」
「・・・・意味が無い訳じゃ無いけれど  」
 ただ、今日が母親の祥月命日でその日に来たかった  それだけと言えばそれだけだ。法事をする日でもなく、別の日に出直してもなにも支障は無い。
「墓参りをするぐらいの時間はある」
 この日のおでかけに関してだけは何も言わず、ナルは付き合ってくれる。
 普段もこうだったら良いのに・・・と思わなくも無いが、抑えて欲しいポイントをハズされないのは大きい。
 麻衣は寒さとは別の意味で頬を赤く染め、満面な笑みを浮かべてナルと共に遺骨を預けている本堂へと向かう。
 彼を見かけたのは、その帰りのことだった。
 いや、見かけたというよりも青年の元へ誘われたというべきか。
 かすかになのだが、澄んだ美しい歌声が聞こえたような気がし、麻衣は不意に足を止める。
 ここは東京都内にはあるが、郊外にある墓地で唄が聞こえてくるような場所ではない。
 吹き抜ける風がそう聞こえたのか。
 美しい歌声だが、切なくて胸が締め付けられるほど哀しい歌声。
「ねぇ、ナル」
 先を歩くナルの名を呼んで呼び止める。
「歌声が聞こえてこない?」
「歌?」
 麻衣の視線が宙を流離うように周囲を見渡しながら音源を探そうとするが、ナルにはそれらしい音は聞こえない。
 本格的に降り始めた雪が周囲の音を吸収してしまっているため、近くの国道を走る車の走行音すら遠くかすかに聞こえてくるほどだ。
 こんな雪の中墓参りをする者も皆無といってもいい状況で、歌が聞こえてくるはずがない。
 教会ならまだしも、日本の墓地でならなおさらだ。
「僕には聞こえないが?」
 空耳だろう。と続けられるが、麻衣は「聞こえるよ・・・」と呟くと、まるで何かに引き寄せられるかのように歩き始める。
「麻衣!」
 本当に誰かが歌っていたのだとするのなら、酔狂な人間がいる者だ。で、終わるが墓地というこの場で今の麻衣の状態は洒落にならない。
 そう判断したナルは舌打ちをすると、すぐに麻衣を引き止めるべく追いかけるが、麻衣の足は思ったよりも早く立ち止まったため、難なくすぐに追いつき、その腕をやや強引に掴む。
 だが、麻衣はナルに腕を掴まれたことなど気にすることなく、ただ、一点に視線を向けたままで、麻衣の意識にナルが入る事はなかった。
 完全に何かに意識を奪われている。
 そうとしか思えない様子に、ナルは柳眉を潜め周囲の状況を把握するべく意識を周辺へと向ける。
 麻衣が聞こえるという唄声はナルにはあいかわらず聞こえて来ない。
 だが、その代わりと言うわけではないが、自分達の他に存在するもう一人の人間を視野に収める。
 かすかに唇からもれる白い呼気が彼が生者だと言う事を知らしめてくれるが、それがなければ幽鬼と錯覚しかねないほど、シンシンと冷え込む中、彼は微動だすることなくその場にたたずんでいた。
 見る者の胸が締め付けられるほどの切ない眼差しを、冷たい墓石に向けて。
 墓地という場所柄明るく楽しく過ごせる場所ではない。
 麻衣とて、母を亡くしてもう幾年月も経つが、墓参りに来れば切なさと寂しさがこみ上げてくる。
 おそらくその思いは一生変わらないだろう。
 彼も誰かとても大切な人を亡くした事を想像する事はたやすく、そしてその表情はまだそう時は経てないのだろうと思わせた。
 だが、少なくとも麻衣が聞いたという歌を唄っているようには見えない事だけは確実だ。
 とてもではないが、歌など唄おうと思える状態ではなく、唄っているようにも見えない。
「大切な人  亡くしたのかな?」
 どれほどその場にいるのか、肩や髪に積もった雪以上に白く見える肌に、すくなくはない時の経過を感じさせた。
 骨の芯まで冷えて悴んでいるだろう。
 それでも、彼は離れずその場に立ちつくしていた。
 その手に、たった一輪の紅い薔薇が握りしめたままに。
 その花は目の前の墓地に捧げられる花なのか、手向けには向かない花  だが、そのたった一輪の赤い薔薇が全てを物語る。
 無機質な墓石の下に眠る者が彼にとってどんな意味合いを持った人なのかを・・・
 わななく唇が言葉を紡ぐように動くが、彼がどんな言葉を向けたのかは麻衣までは聞こえない。
「歌・・・あの人の所から聞こえたような気がするの」
 ぽつりと麻衣は囁くように呟く。
「僕には歌っているようには見えないが?」
「あたしにも見えないけれど・・・すごく澄んだ、きれいな声が確かに聞こえたの」
 どこからと聞かれると返答に困るが、確かに唄声が聞こえて気になる方へ足を向けたら、一人の青年が立っていたのだ。
 まるで、見つけて欲しいと言わんばかりに。
 だが、だからといって声を掛けられる雰囲気ではなかった。
 麻衣達と青年の距離はおよそ十メートル弱あり、向こうは二人の存在に気がついた様子はない。
 どのぐらいその場にいるのか判らないが、風邪を引きますよ・・・と声を掛けることすら、躊躇わされたが、声を掛けるべきなのだろうか。
 気にせず通り過ぎてしまえば良いのかもしれないが、その場の空気に呑まれたかのように、立ち尽くす麻衣の肩にナルは無言で腕を回し歩くように促す。
「ナル?」
 促されるまま歩き始めながら、頭ひとつ高いナルを見上げる。
「雪が本格的に降る前に戻る」
 青年に関しても、麻衣が聞いたという歌に関しても、言葉にする事はなかった。
 ただ、少しばかり険しい表情でまっすぐに前を見て、足早に歩いていこうとする。
 見も知らぬ人間のことだ。ナルには意識が触れるようなことではなかったのかもしれない。言葉どおりただ雪が本降りになる前に帰宅したかっただけかもしれない。
 それでも、あの場に立ちつくす青年が気になり、背後を振り返るが、角を曲がってしまったために、その姿を視認することは出来なかった。
 麻衣の速度に合わせつつも足を止めることなく歩いて行くナルの腕にそっと腕を回してぎゅっとしがみつく。

「・・・・大切な人を残して逝く事も、残されることも  とても、つらいね」

 大切な人を残して逝かざるえない者はどんな想いを抱いて、その瞼を閉じるのか。
 残される者の気持ちは痛いほど麻衣は分かるが、残して逝く者の気持ちは分からない。
 ただ、今もまだ微かに聞こえてくるこの歌があまりにも切なくて切なくて、知らないうちに涙があふれて頬を濡らして行く。
 呼吸がままならなく感じるほど、切なく哀しい歌声・・・

 この唄声の持ち主は、けして彼に届かないと判っていても、彼のために唄っているのだろう  

 願わくば、この歌声が彼の耳に・・・心に届けばと思いながら、墓地を後にする。







 男は気が付かない。
 その場に麻衣とナルがいたことも。
 哀しく切ない歌声が響いていた事も・・・


 ただ、静かに悲しみに満ちたまなざしで、墓石を見続け、かすかに言葉を呟く。


 だが、その呟きを耳にするものは誰もいない。


























 最後に残ったのは、白い雪の上に散った紅い薔薇の花びらだけだった。