序章 《始まりの夜》


 カツカツカツ。
 真夜中の閑静な住宅街に響く足音。深夜零時を過ぎてしまっているせいか、通りには人の気配は皆無と言っていいほどなく、周囲の家々の窓も大半が暗闇に包まれ、ひっそりと静まりかえっている。
 いくら住み慣れ、通り慣れた道でもひっそりと静まりかえっていると妙に落ち着かず、自然と家路を急ぐように歩く速度は速くなってゆく。
 もうじき会社を寿退社するため、引き継ぎに思いの外時間がかかってしまい、業務に追われる日々が続いている。
 結婚式の準備と、仕事の引き継ぎ、日常常務の処理なども同時進行でしていかなくてはならないため、目が回るような忙しさが続いているが、それでもこれ以上ないほど毎日が充実をし、順風満帆と言える日々を送っていた。例えどんなに忙しくても幸せな毎日。
 だが、憂える事が何一つないわけではない。
 そのことを思うと、浮き足立っていた気分が一気に沈んでしまう。申し訳ないと思いつつもどうしようも出来なかったことだった。
 彼は、全部終わったことだと言うのだが、どうしても不安が残る。
 あの時、彼女が見せた陰鬱な暗い目・・・諦めたような事を言ってはいたが、けして本心ではないと・・・納得したわけではないと目が語っていた。
 怖い。
 何も知らなかったとはいえ、結果的に彼女から全てを奪ってしまった自分を彼女は憎んでいる。
 それが。あの一瞬・・・僅かに目があったあの一瞬で判った。
 人と目が合って怖いと思ったのは初めてだ。何かあるのではないかと相談しても、心配する必要はないと彼はあっけらかんと言い放っていた。
 綺麗に終わったことなのだから、何も気にすることは何もないといい、全てが終わったと思っている彼にそれ以上ごねることはできなかった。あまりしつこく言い続けると、お前は関係ないことだと言い放ち口を閉ざしてしまうためそれ以上言うことが出来なかったとも言う。
 確かにあまり根掘り葉掘り聞かれたいことでは無いと言うことは判っているのだが、それでも不安が解消されることはない。
 本当に全てが終わったのだろうかと・・・・・・
 答はわかっている。
 終わったと思っているのは彼だけで、きっと彼女の中では終わっていないと。
 終われるわけがないことぐらい判っている。
 あまりにも一方的過ぎる。
 自分が彼女の立場なら、そんなに簡単に納得できるはずがない。それでも、気楽に言い放つ彼の言葉に肯いてしまったのは、自分もまた諦めることはできないからだ。
 彼女の事を思い身を引くことが出来ないのならば、このまま目を瞑ってしまう方がいいのだ。そう言い聞かせて、顔を軽くパンっとたたく。
 いつまでも終わったことをくよくよしていても仕方ない。やることは山積みで迷っている暇はないのだから。
 意識を切り替えるように薬指に輝く指輪に視線を落とすと、自然と笑みが広がってくる。けして高価な物ではないが、彼の思いが籠もった約束の指輪。それを眺めているだけで、暖かい思いに満たされ、疲れ切った身体が軽く感じる。
 人間誰しもすっきりと終わらない過去の一つや二つあるのだ。自分にだってあまりほじくり返されたくない過去ぐらいある。いつまでもこの話題を出していても、自分にも彼にもいいことはないだろう。
 頭を切り換えると次に考えることは、これからのこと。
 帰ったら今日は何をしようか。明日は休みなのだが式場に朝から行かねばならず、ゆっくりしている暇はない。出来ることは今日の内に片づけておかなければ・・・そんなことを考えながら家路を急ぐ。
 いつも通る道を曲がろうとした時、その道の前には工事中の看板が立てかけられており、通行止めの知らせが書かれていた。
「・・・もう、勘弁してほしいわ」
 道は他にもあるのだが、車の通りさえまばらな暗く細い道。痴漢も出没し、あまり歩きたくはないのだが・・・他に道がないのだから仕方ない。
 諦めると彼女は、いつも曲がる道を通り過ぎ、さらに先へと進む。
 彼女が道を曲がった事で姿が見えなくなると、まるでそのタイミングを計っていたかのように、通行止めとなっていた道の影から一人の女が姿を現す。
 女は今は角を曲がって見ることの叶わない彼女の後を追うように、視線を向けニヤリ・・・と口元に笑みを刻むと後を追うように歩き出した。
 足音を潜ませるどころか、わざとらしくヒールの音を響かせながら、女は一定の距離を保って少し先を歩く彼女の後をついてゆく。


 コツコツコツ・・・・


 二つの足音が速度を変えることなく、静まりかえった住宅街に響く。
 駅からしばらくは同じ時間帯に改札をくぐり抜けた乗客達が幾人もいたが、それも五分も経てばちりぢりになり、自分の周りには誰もいなかったはずだ。
 特に住宅街に入ってからは、車が気まぐれのように時折脇を走り抜けていく以外に、他の存在を感じることはなかった。
 周囲の家々の明かりも大半が落ち、起きている人間の方が少ないことをそこはかとなく感じさせていたほどだ。
 だというのに、足音がもう一つ聞こえてくる。
 気のせいだろうか?
 いや確かに自分以外のもう一つの足音が聞こえてくる・・・
 コツコツコツ。と。
 それは、ヒールの音だ。
 ある意味聞き慣れている音に安堵のため息を漏らし微苦笑が口元に浮かぶ。
 警戒する必要などなにもない。
 深夜の時間帯に人気のない道を、見も知らぬ男と歩くのは遠慮したいが、相手が女なら逆に少しばかりほっとする。
 いくら近所とはいえ、痴漢多発するエリアで有名な通りだ。出来ることなら一人より見知らぬ人間でも二人で歩いたほうが心強い。
 意識はすぐに背後からそれてゆくのだが、ヒールの足音以外の音が聞こえてきて、再び意識は背後へと引きずられていく。
 ヒールの音に混ざって聞こえるのは、衣擦れの音だろうか。やたらとガサガサと音を立てているような気がするが、振り返って見るのもはばかれて、気にしないようにしながら家路を急ぐ。
 だが、その足音は自分と同じ速度で背後から聞こえてくるような気がした。
 誰かが後を付けている?
 気のせいかと思いつつも、歩く速度を速めてみる。すると背後から聞こえてくる足音も確かに早まっている。やはり付けられているようだ。
 痴漢。という言葉が脳裏に浮かぶ。
 昼でもあまり人の通りがないせいか、日中でも痴漢が出やすいと言われる狭い通り。夜に何度も女性が痴漢にあっているという話だけは耳に挟んでいる。
 女物の靴がたてる足音のように感じたが、実は男物でも高い音を響かせる靴があるのだろうか?
 振り返りたいが下手に刺激するのも怖いため、必死に背後を振り返るのをこらえる。
 もうすぐアパートだ。アパートまでたどり着けば婚約者が待っていてくれるのだから、何も心配をする必要はない。家までの距離ももう五分とかからない所まで来ている。公衆電話を探して電話をして迎えに来て貰うよりも、急いで帰った方が断然早い。
 得体の知れない恐怖を感じ、無意識のうちに早足だった速度はアップして、とうとう走り出してしまう。すると背後の見えない姿も一気に走り出す。
「許さない」
 声が真後ろから聞こえ、思わず足を止めて振り返ってしまうと、女が一人立っていた。
 それは異様な光景だった。
 暗闇に浮かび上がる白っぽい姿。街灯はあるが薄暗いこの通りの中で、なぜそこだけ区切られたように姿が浮いて見えるのか・・・女はウェディングドレスを身に纏い、背後に立っている。
 長く伸ばした髪の隙間から覗く顔。不気味なほどランランとした眼差しが自分を射抜き、真っ赤な口紅を塗ったくった唇が、ゆるく弧を描く。


「絶対に、許さない・・・・」


 振り上げられたそれを身体を捻ってかわすと、助けを求めて声を張り上げるのだが恐怖に引きつった咽からはかすれた声しか出なかった。
 ウェディングドレスを着た女は不気味な声を咽の奥から漏らしながら、逃げる女を追いかける。二人分の乱れた足音が夜道に響き渡るが、誰も様子をうかがうために外の顔を出す者はいない。
 誰か助けて!
 必死に祈るが、通りの両サイドに並ぶ家々の玄関は固く閉ざされ、開く様子は欠片も見せない。
 どの家も寝静まり、外の様子など気がつかないのだろう。
 助けを求められないことに、恐怖に苛まれながら、それでもひたすら走り続ける。
「助けて・・・・・・」
 彼女の脅えた声を嘲り笑いながら、ウェディングドレスを纏った女は、月光を弾くナイフを振り上げると、ビュンっと耳元を掠めて振り下す。
 ナイフは頬の薄皮と数本の髪を切り裂いて空を切った。
 頬に赤い一文字が滲みあがると、女はニヤリと笑みを刻みながら、ものすごい眼差しを向けたのだ。


「許さない。あんたが、それを持っているなんて絶対に許さない」


 獣のうなり声のような低い声が闇夜に木霊す。


「返してよ、それ。あたしが貰うはずだったものなんだから」


 彼女は首をフルフルと振って自分の手をぎゅっと握りしめると、目の前にいる悪鬼のような女から隠す。
 自分は何か悪い夢でも見ているのだろうか。
 ウェディングドレスを着た女に追いかけられ、ナイフを振り回されて町の中を逃げ回るなど考えられない。
 現実離れした現状に頭の中はどんどん麻痺状態になり、何も考えられなくなるが、それでも反射的に足を動かしてその場から逃げようとする。しかし、思うように早く走ることが出来ない。
 逃げなきゃ。
 必死になって足を動かす。まるで泥沼の中を歩いているように思うように動かない身体に苛つきながら逃げるが、長い髪を捕まれて引きずり倒される。


「それを、あたしに返しなさいよ!!」


 ナイフは左肩深く突き刺さり、彼女の口から初めて甲高い悲鳴が漏れる。その声を聞きながら女は嬉しげに笑い声を響かせながら、肩に食い込んだナイフを勢いよく抜く。
 銀光に煌めく刃は、ねっとりとした赤い血に濡れ女の手を汚す。
「や・・・やめてよぉぉ」
 脅え噎び泣く彼女を見下ろしながら、女は再び刃を振りかざす。
 このままでは殺される。そう思った彼女は右手を振り上げて、手に持っていたハンドバックで女の横っ面を思いっきりひっぱたたく。受け身を取ることなくもろに側頭部に思わぬ衝撃を受けた女は、火花が散るような衝撃に視界が一瞬暗くなり、身体がふらりと傾く。
 その一瞬の隙を見逃すことなく、さらに足で女の腹部を蹴飛ばして、己の上からどけると身体を起こして逃げ出す。
 肩はジクジクと痛みを訴えてき、脂汗がじっとりと浮かび全身を濡らしていく。寒いのか熱いのか判らず、呼吸がせわしなくなるが足を止める余裕はない。
 血はポタポタと肩からしたたり落ち、アスファルトに赤い染みを作っていく。右手で左肩を押さえながら自分を必死に励ます。
 あと少しだ。
 あと少しで家に着く。
 そうすれば、彼はもう待っていてくれているのだ。
 踏切を渡ってしまえば後すぐだ・・・


 カンカンカンカンと鳴り響き始めた踏切。遮断機がゆっくりと下り始めていることに気が付くと、彼女は痛む肩を無視して足を速める。
 踏切が折りきる前に渡ってしまえば、もう大丈夫。逆に渡らなかったら追いつかれてしまう。


「待ちなさいよ。それを返してよ・・・」


 赫い血によって汚れた顔を歪ませながら、女は笑みを醜く歪んだ顔に刻む。
 街灯などほとんどないこの暗い夜道で、少し離れた女の顔がなぜこんなにもはっきりと見えるのだろうか。
 その疑問は目を射抜くような強い光に解消される。あまりの強さに思わず目を細めてしまうと、その光がどこから来るのか、何が照らしているのか等、理解する前に全てをなぎ倒すような強い風圧が押し寄せてくる。
 

 ぷわぁぁぁぁ!!


 耳を劈くような汽笛が、夜陰を切り裂くように鳴り響く。


            カンカンカンカンカンカン
カンカンカンカンカンカンカン


 警報音が鳴りやみ、踏切がゆっくりとあがるのを、彼女は呆然と見ていた・・・・・・
 頬に赤い飛沫を受けて。









             カエ・・・セ   






 ネェ・・・ソレ、アタシノよ?
 

 女は不意に足を止めると、ため息をつく。
 考え事をしていたためについつい道を一本通り過ぎてしまったようだ。戻って陸橋を渡るよりも、このまままっすぐに進んで踏切を渡った方が早く帰れるだろう。
 結婚式のことで考えることがたくさんありすぎて、少し疲れているのかもしれない。そう思とこれも一種の幸せ病とでもいえるのだろうか? 友人に話したらのろけはやめてと言われてしまいそうだ。
 思わず想像して苦笑を漏らしてしまう。


 ネェ・・・ソレ、カエシテヨ


「・・・・・・・・・?」
 誰かに声をかけられたような気がし、立ち止まって背後や周囲に視線を巡らせるが、帰宅ラッシュ時を過ぎたこの時間帯に人の気配は皆無と言っていい程なく、自分以外この夜道を歩いている者の姿はあなかった。
 元々この道は人の気配がない通りで、住宅街とはいえ住人ともすれ違うのがまれな道だ。
「気のせいかしら?」
 女は首を傾げて止めた足を再び動かし始める。
 カツコツカツコツ。自分一人だけの足音が闇に響く。時折線路を走り抜ける電車の音や、踏切の警報機の音が聞こえるぐらいで、音らしい音はほとんど聞こえない。
 確かに話しかけられたような気がしたのだが、きっと近辺の住宅から漏れたテレビの音かなにかだろう。すぐに気はそがれ、女は自分の家を目指してまた足早に歩いていく。


 ねぇ・・・カエシテヨ


 また、誰かに話しかけられたような気がし足を今度こそ止めて勢いよく背後を振り返る。だが、そこには人の姿はない。薄暗い夜道。幅は狭く街灯がたよりなく照らしているだけで、見通しは良いとは言えないが、遮蔽物は何もないため誰かが隠れると言うことは出来ない。
 だが、気味が悪いにことは変わりない。
 女はだんだん歩く速度を上げる。
 カツカツカツカツ・・・乱れた足音が響く。
 次第に呼気が早くなり始め、うっすらと額に汗が滲み出てき、怯えたように顔が引きつってゆく。


 カエシテヨ・・・アタシがモラウハズダッタンダカラ


 地の底から聞こえてくるような声がすぐ傍から聞こえ、女は悲鳴を上げながら走り出す。何かがいる。何か・・・誰かは判らない。誰かの姿も見えない。だが、すぐ傍にいるのだ。背後からは音は何も聞こえない。それでも気配がある。


 アタシがモラウハズダッタンダカラ


 何かを引きずるような重い音が聞こえ、それは急速に近づいて来たかと思うと走る女の手を誰かが掴んだ。白いレースの手袋に包まれた手が女の足をがっちりと掴む。
 いきなり足を捕まれたために、もつれその場に派手に転び膝を思いっきりすりむく。したたか膝を打ち付け痛みに涙が滲んでくる。
「・・・ひぃ!」
 まるで氷に握りしめられたのではないかと錯覚してしまうほど冷たい手。
「放してよ!」
 力一杯振り払おうと足をがむしゃらになって動かすが、まるで男に足を握られているようでびくともしない。自分の足を握りしめる手を思いっきりヒールで蹴りつけようとも、足首を握る力はゆるまない。それどころか、握りしめる力はますます強くなり、骨がきしむ音さえ聞こえてきそうだった。
「なんなのよ!」
 今にも泣きだしそうな声で叫びながら、己の足を掴む者を睨み付けるが、その顔が恐怖に歪み唇がわななく。その場に這い蹲りながら、腕を伸ばしていたモノを目にし女は全身を震わせる。何がなんだか判らなかった。
 あり得ない姿でそれはその場に這いずっていたのだ。


 ニガサナイ
 ダッテ、ソレハ、アタシノヨ?


 ソレは腕を伸ばすと女の身体を這い上ってゆく。膝から胴に手を伸ばし、その手首を掴む。女はふりほどこうと力を入れるが、ソレは抵抗を感じていないかのように涼しい顔をして、女の左手をこじ開ける。
「なんなのよ> これは、あたしのよ?」
 泣き崩れた顔で叫ぶと、ニヤリと。目を三日月型に歪めて彼女は嗤う。なぜこんなにもはっきりと判るのだろう。
 そう思った時、目を強い光が射抜く。


 脳髄に突き刺さるような、警報機の音が聞こえたのはこの時だった