サイトに掲載している残夏の森をリメイクしました。
残禍の悪夢(ざんかのあくむ)




 いつものごとく本文一部抜粋です。
 参考程度に試し読みして下さい♪






  序章






 その記憶は幾年月が経ようとも風化することはなく、人々の記憶にこびりついていた。
 誰もが時の流れに洗い流されて消えて行くと思い込むだけで、それは、けして忘れる事など出来ない。
 だからこそ皆忘れようと努力をした。
 けしてその事を思い出すまいとし、話題に出す事を禁じ、この地の歴史からその事実を綺麗に消していった。
 痕跡を全て無くし初めから存在しなかったかのように振る舞った。


 だが、それでもその記憶はけして彼らの中から消えることはなく、今もこびりついている。


「今年の夏は妙に暑いねぇ・・・こんなに風のない年って今まであったかしらねぇ」


 その一言は長年連れ添ってきた妻から漏れた言葉だった。
 彼女は首筋を流れ伝う汗をタオルで拭いながら、ギラギラと照りつける太陽を見上げていた。
 その様子に夫は妻が余所から来た女だったことを唐突に思い出す。
 思い返してみれば二十年前に早期退職して、田舎に戻ってきてから彼女はここで暮らすようになったのだ。彼女はここで生まれ育った者ではない。
 夫の中で急に今まで感じたことのない【よそ者】という認識が生まれる。
 だが、夫はそんな事を臆面に出すことなく野良仕事を続けながらぽそりと呟いた。
「まれにあるのさ・・・神さんが風を封じちまう年が」
「神さんが風を封じる?」
 初めて聞いた言葉に妻はきょとんとする。
 意味が良く判らなかったのだろう。
 だが、判らないならば判らないままで良い。
 いや、判らない方が良いことだった。
「昔から言われていることさ。風がない夏は神さんが風を封じっちまったってな」
「面白い話ねぇ。なんでそんな風に言われたのかしらね」
 生まれも育ちも東京の妻にはそう言った話には今まで縁がなかったのだろう。
 不思議そうに問いかけて来る。
「さぁな。いつから言われたなんて気にしたもんはおらん。ただ、昔からそういわれているだけだ。禍が起こる前触れだってな  」
「禍?」
 なぜそれだけで禍と言われるのだろうか。
 それも、この科学の発達とした世で。
 田舎というものを転居してくるまで知らなかった妻は不思議そうな顔をする。
 自分とて神がいるかと言われれば、会ったことも見たことも無いものを信じることは出来ない。
 だが、【禍】というものがどういうものなのかは、肌で知っている。
 アレをそうと言わなければ何というのか・・・
 だが、見た物でなければ話を聞いても実感することは出来ないだろう。
 だから、夫は無難な言葉を続けた。
「風がなきゃ暑さが篭もる。暑さが増せば食べ物も腐りやすい。夜も昼みてぇに暑いから、身体を壊す者が増える。渇水に見舞われる事もおおい。地は割れて畑も田んぼも乾涸らびる。夏に作物が育たなきゃ冬を越せねぇ」
「ああ・・・飢饉になるってことね。そうよね、昔は飢饉で一揆とかの騒動があったんだったわよね。でも神様も大変よねぇ。何か嫌な事があると直ぐに自分のせいにされちゃうんだから」
 ケラケラと陽気に笑いながら夫の話を聞いていた妻は夫の最後の一言を聞く事はなかった。


 そして、人が狂う  と。


 夫は曲げっぱなしにしていた腰を伸ばして、雲一つない空を見上げて目を細める。
 まだ、朝という時間にもかかわらず、太陽は天空の覇者として蒼穹で輝きを放っていた。
 忘れようもない・・・あの夏も異様に暑い夏で、雲一つ無い快晴が幾日も続いた、異常に暑い夏だった。
 風がそよりとも吹かず、熱せられた空気が村を丸ごと蒸し焼きにするかのように停滞し、陽が沈み夜になっても気温が下がることがなかった。
 当然日中に出歩く人の姿を見ることもまれで、人の気配という気配がなくひっそりとし、まるで、廃村のような趣さえ漂い、ただ、蝉の鳴き声だけが暑さに負けることなく響きわたるだけだった。
 だが、今はそんな暑さなど誰一人気にしていなかった。
 生い茂る下草をかき分けて、幾人もの人が息を殺しながら足を進める。
 この暑さの中だというのにスーツをきっちりと着込んだ男が先頭に立ち、その後に付いていくように制服を着込んだ者、さらにはTシャツにチノパン姿の男達がその後に続き、額に汗を滲ませながら歩みを進めていた。
 じりじりと照りつける太陽は鬱蒼と生い茂る木々によって遮られているため、日中だというのに森の中は薄暗く、風がないため停滞した熱気と湿度は男達の体力を奪って行くには十分なものだったが、誰もがそんなことに意識を奪われるものはなかった。
 流れ落ちる汗をそのままに、目的地にたどり着くと、先頭を行く男が無言のまま手を動かして、男達に拡散するよう指示を出す。
 男達は小さくうなずき返すと止めていた足を再び動かして指示通りに拡散した。
 そして、予定通りの配置にたどり着くとスーツを着た男はホルスターから黒光りする物を取り出すと両手で構えてうなずき返す。
 それを合図に、もう一人の男がドアノブに手を掛けて勢いよく扉を開いた。
 その瞬間、鼻を突くのは強烈なまでの異臭。
 すでに周囲は異臭に包まれていたが、それ以上の強烈な臭いが漂ってくる。
 思わず胸が悪くなる・・・いや、そんな平凡な言葉では言い表せられない。
 扉を開けたとたん飛び立つ虫の羽音。
 何かが腐る強烈な臭い。
 あまりの状況に思わず逃げ出してしまった者。
 誰かが吐く音も聞こえた。
 だが、それらの目の当たりにして誰かを構う余裕がある者など、この場にはいなかった・・・・


 夫は嫌な記憶を振り払うかのように頭を激しく振る。
 そんな事で記憶が無くなるなら、とうの昔に消えているはずだ。
 半世紀近く経とうと言うのに、未だにあの時の光景が目に焼き付いて離れない。
 なぜ、あの時応援に駆け付けてしまったのか・・・・・・
 身体の奥からせり上がってくる物を意思の力でねじ伏せ、深呼吸をして落ち着かせると、水筒に手を伸ばしよく冷えた麦茶を一気に喉に流し入れ、凝りを吐き出すように深く息を吐き出す。


「人が暑さに狂わなきゃいいけどな  」


 濡れた口許をぐいっと腕で拭いながら空を見上げ、そして何かを振り払うかのように軽く頭を振ると、手にしていた桑を持って妻の後を追うように家の方へと戻ってゆく。


 その夜、見慣れない車が町を走り抜け、森の奥に消えていったことを誰一人も気がつく者はいなかった。