千の暁













 明治四年。
 函館へ来て二度目の冬がもうじき終わろうとしていた。
 あの激動の数年が嘘のように、今は静かで平穏な日々が過ぎてゆく。
 手放すことの出来ない宝を二つも抱えて・・・・
 

「千鶴」


 ちくちくと指先を器用に動かして、ほころびた着物を繕っていると、今は夫となった土方がひょいと顔を覗かせる。
「村長に呼ばれた。少し出てくるが昼過ぎには戻ってくる」
 土方に声を掛けられ、千鶴は視線を外に向ける。
 今日は久方ぶりに天気が良いせいか、灰色の薄雲越しに太陽がぼんやりとだが見え、今がだいたいどのぐらいの時刻になるか教えてくれた。
「昼餉はどうなさいますか?」
 村長の用事となればなんだかんだといって夕刻になるかもしれない。下手をすれば夜半になる可能性も十分にあるのだが、とりあず準備的に気にしなければならないのはまず昼食だった。
「悪いが昼はいい。夕餉の支度だけは頼む」
 その夕食にすら間に合わない事態になれば、土方は人をやって遅くなることをつたえてくれる。だが、ここ最近はそう滅多に遅くなることもなく、どんなに遅くなっても陽が暮れた頃には帰宅をしていた。
「判りました。気をつけていってらっしゃいませ」
 千鶴が縫いかけの着物を脇に置いて、ゆっくりと立ち上がろうとするが、土方はそれを片手で制す。
「見送りはかまわねえよ。それより、天気は良いが冷える。身体を冷やすなよ?」
 夫の気遣いに千鶴は嬉しそうに笑みを浮かべると、「はい」としっかりと応じる。
 今は身体を冷やすのは厳禁だ。それは千鶴も良くわかっているため、いつもよりさらに素直に返事を返す。
「歳三さんこそ、暖かい格好をなさってお出かけなさって下さいね」
「判ってる」
 そうは言うが、土方は軽装を好むせいか、この極寒の北国だというのに、厚着をけしてしたがらない。それで風邪を引いては元も子もないのだが、元々の基礎体力の差なのか、それとも鍛えられているからなのか、風邪を引きそうで引かないのが土方だった。
 だが、それでも心配せずにいられるわけではない。
 今までは風邪を引かなくても、今度は風邪を引くかもしれない。
 その風邪がたちの悪いものだったら、あっけないほど簡単に人は命を落とすのだから。
「暗くなる前には帰ってくる」
 土方はそう言うと、千鶴の頬に軽く口づけを落として出かけてしまうが、優しく触れて離れていった感触に、千鶴は幸せそうな笑みを浮かべて、出かけてゆく土方を見送る。
 





 後に函館戦争と呼ばれる、旧幕府軍と新政府軍の戦いの後、土方は千鶴と所帯を持ち、函館の片隅にある小さな村に居を構えた。
 本来ならば、土方は旧幕府軍の・・・賊軍の幹部として政府軍に捕らえられ、なんらかの裁きを受けただろう。
 だが、土方は裁きを受けることなく、隠棲生活を送っていた。
 あの日・・・風間との戦いを終えた後土方は力尽き、昏睡状態に陥った。
 弁天台へ向かう途中で受けた銃創が、土方の体力を・・・いや、羅刹としての力を失いつつあった土方の身体を、さらに追いつめることになったのは明らかだ。
 元々、すでに土方の身体は限界近くまで来ていたのかもしれない。
 いつ、灰とかし消えてもおかしくなかったのかもしれない。
 傷の治りは今までと比べものにならないほど遅く、土方の意識が戻るまでに二週間という時間を要した。
 そして、その間に新政府軍との戦は終焉を迎え、昏々と眠り続ける土方は弁天台へ向かう途中に戦死した事になり、遺体はないまま葬儀すら済まされていた。
 そうすることによって、大鳥は土方に負わされるはずの責めから守った。




「土方君は、我々の誰よりも政府軍に・・・いや、薩長軍に怨みを買っているからね」




 大鳥はそう苦笑を浮かべながら眠り続ける土方を見下ろす。
 幕府軍は薩長に親の敵のように思われていた。
 それこそ徳川創設初期・・・関ヶ原の時まで戻りかねない勢いで。
 だが、その幕府軍よりも新選組は薩長軍の怨みを買っていた。
 蝦夷の地からは遙か遠い西の都で。
「投降すれば、土方君は流罪か投獄・・・下手をすれば、変な言いがかりを付けられて死罪に処せられるかもしれない・・・近藤局長のように、ね」
 【死罪】という言葉が大鳥の口から出たとき、千鶴の顔から血の気が引く。
 近藤の最後を見届けたわけではないが、土方も近藤のように首を斬り落とされる可能性が無いとは誰も言い切れなかった。
 流罪や投獄なら、赦免される日の望みは棄てきれない。だが、死罪が下ったらもうその先はないのだ。
 それを大鳥も榎本も憂慮していた。
 自分達に下る処分よりも。
 だから彼らは決めたのだ。
 土方はあの日・・・弁天台へ向かう途中に、銃に撃たれ戦死したことにしてしまう事に。
「彼は一人責任を取ることなく生き残ることをよしとしないだろうけれど、僕としては最後の責任を彼には果たして貰いたいからね」
「最後の責任・・・ですか?」
 投降することが確実になった今、他にどんな責任があるというのだろうか?
 落ち延びるにしても、再び決起するにしても、もう後がない。
 これ以上逃れられる地はどこにもなく、彼らは躍起になって残党狩りを行うに違いない。
 なにより、これ以上戦ってももうどうにもならない。
 風は政府軍に向かって吹き、その風向きが変わることはもう望みようがない。
 蝶の羽ばたきで台風の風向きを変えようとするようなものだ。
 今さらどう足掻いても、風向きが変わることはない。そのぐらいのことは千鶴でも判っていた。なにより、大鳥を初めとし旧幕府軍は政府軍に降伏するのだ。
 これから先を生き延びて、何かに挑むために。
 土方一人、政府軍の手から逃れたとしても、もう何もすることはできないはずだ。
「あるんだよ。土方君たった一人しか出来ない務めがね」
「土方さんにしか出来ない努めですか・・・?」
 大鳥の言っていることが判らず千鶴は首を傾げる。
「そう、土方君だってもう今さら誰にも譲ろうとしないだろうし」
 新選組局長の座のことだろうか?
 だが、それは土方にもしもの事があった場合に備え、すでに土方は後継を決めており、土方が昏睡状態に陥っている間に・・・いや、死亡したことになったとたんに、新選組局長の座は、相馬主計に移っていたはずだ。
 今の土方が新選組以外に何に固執するというのだろうか。
「君のことだよ。雪村君」
 千鶴が眉間に皺を刻みながら本気で考えあぐねていると、大鳥は苦笑を漏らしながら答を告げる。
「土方君には何としても生き延びて、君を幸せに・・・いや、君と幸せになって貰いたい。それが、土方君に課せられた最後の務めだよ」
 穏やかな・・・優しい微笑を浮かべながら告げられた言葉は、千鶴には思いにもよらない言葉だった。
 土方との、生を望んだことが無いのかと聞かれれば否と答える。
 一度ではない、何度も土方と共に、これからもずっと生きていくことが出来たら・・・と思ったことは何度もある。
 その傍らにずっと居ることが出来ればと・・・・だが、それは贅沢な願いで、口にする事はけして出来なかった。
 土方を困らせてしまうだけだから・・・だから、望むことは一度も無かった。
「だから、雪村君・・・君は、土方君と共に幸せにおなり」
 そう言いながら、大鳥は千鶴の頭にそっと手を伸ばし優しく撫でる。
 似てはいない。
 大柄で、豪快な人で、いつも人の心を明るく軽くしてくれた笑顔を浮かべていた近藤と、大鳥は似ているところを探すのが難しいほど似ていない。
 なのに、その暖かい手はまるで近藤のようでいて・・・・
   雪村君、トシの事を幸せにしてやってくれ。
 まるで、そう言われているように思えてならなかった・・・・
 千鶴は思わず涙を滲ませて、唇を震えさせながらも笑みを浮かべて、大きく頷き返す。
 それが、この時の千鶴に出来た精一杯だった。






                            +   +   +







 土方の意識が戻ったのは、全てのケリがついた後の事だ。
 意識が戻っても、すぐには身体は言うことを聞かず、起きている時間よりも寝ている時間の方が長く、さらに数日間は夢と現を彷徨っているような状態が続き、ようやく身体を起こすことが出来るようになり、歩けるようになったときには、暦は六月になろうとしていた。
「俺だけが何の責を負うことなく生き残ったか  相馬には責任だけを取らせる役目をおわせちまったな」
 蝦夷の地に訪れた遅い春も過ぎ、初夏を迎える頃・・・土方は苦虫を噛み潰したような顔をしてぽつりと呟く。
「新選組を掲げた張本人がのうのうと生き残って、部下にてめぇのケツ拭かせることになるとはな  切腹もんじゃねえか」
 新選組を掲げ、育ててきたのは間違いなく土方だろう。
 ならず者の集まりにしか過ぎない新選組を、一つの組織としてまとめ上げ、ここまで引っ張ってきたのも。
「相馬さんがおしゃってました。今までずっと休み無く走り続けて来たのだから、そろそろ全てを部下に任せて身体を休めても良い頃です。近藤局長の供はあの時果たせなかった自分が引き受けるからと・・・・・」
「はっ、あいつも言うようになったもんだ・・・・」
 土方は窓から入ってくる爽やかな風を受けながら、視線を何処までも澄んだ青い空へと向ける。
「俺の代わりに貧乏くじを引いた相馬はどうなった?」
「伊豆の新島へ遠流になったと伺ってます」
「伊豆の新島か・・・遠いな。さすがに、遠流になったら嫁さんを連れて行くわけにはいかねえな」
「土方さん・・・・?」
 相馬は独り身だ。嫁も何も同伴者は居ないはずだが?
 千鶴が不思議そうに首を傾げて土方を見上げると、土方は苦笑を深めて千鶴を見返す。
「島流しの処分を受けてたら、お前を連れて行くことは叶わなかったな・・・って言っているんだよ。そんぐれえ察しやがれ」
「ひ・・・土方さ・・・・ん  
 思いにもよらない言葉に、千鶴は息を呑む。
 確かに土方は「惚れている」と言ってくれた。
 自分が生きる目的になっていると・・・自分の存在が土方をずっと支えていたのだと。
 だが、将来の約束をしたわけではなかった。
 大鳥や相馬は二人共に幸せになってくれればそれでいいと、そう言ってくれたが、実際にこれからどうなるのか千鶴にはまったく判らない。
 確かに思いを交わし合い、口づけも交わした・・・だが、その先はまったく見えていなかった。
 あの戦いの前・・・二人とも、生きたいと願ってはいたが、おそらく生き残れるとは思っていなかったのだ。
 だから、戦いの終わった後を思い描く事は無かった。
 こうして、共に無事に生き残った後であっても。
「最後の新選組局長として、新選組の幕を引くのは俺だとずっと思っていた。他の誰にもその役目を負わせる気なんざ、なかったってのによ。俺が寝ている間に全ての幕が引かれ、俺は蚊帳の外に放り投げ出されていると来た。おめおめと俺一人だけ生き残ってどうする。近藤さんも、総司も、平助や山南さん・・・皆がもういねえってのによ」
 爪が掌に食い込むほどぐっと手を握りしめ、何かを堪えるように土方は息を呑む。
 手に傷がつくと・・・千鶴は咄嗟に手を伸ばそうとするが、その前に土方はゆっくりと・・・静かに息を吐くと、握りしめていた手をほどきそっと千鶴の頬に触れる。
「お前が居なかったら・・・今の・・・一人生き残った俺を認める事はできなかっただろうな  」
 痛みを堪えるような目を初めて千鶴は見たような気がした。
 今まで、幾度もこの人が苦しむところを見て来た。
 近藤の最後を教えてくれたときも。
 目の前で平助と山南が、灰となり消えていく時も。
 千鶴は傍で見ていることしか出来なかった。
 今も、傍にいることしか出来ない自分が歯がゆい。
 どうすれば、この人の苦しみを、悲しみを、痛みを和らげることが出来るだろうか。
 どうすれば・・・この人が背負ってきた重荷を、共に背負える事ができるだろうか。
 一人で背負わないで欲しいと・・・共に分かち合って欲しいと、そう告げようとしたが言葉になる前に、千鶴は土方に強く抱き寄せられる。
「お前が俺の支えになっていると  言ったな」
 強く胸に抱き寄せられ、耳元で囁かれた言葉に、千鶴はコクリと頷き返す。
「これからも・・・俺の支えになってくれ。千鶴  お前が傍に居てくれれば、俺は生きたいと思っていられる。女々しい男と笑うか? お前がいるから生きていけると言うなんて」
 土方の言葉に千鶴は思いっきり首を振って否定する。
「新選組の鬼副長と怖れられた俺が、敵に背を向けてのうのうと一人生き残って、惚れた女と幸せになろうなんざ、片腹痛いと笑うか? あんだけ隊士達を切腹や死罪にしてきた張本人がよ。俺が切腹させた隊士達が全員化けて出てきても文句言えやしねえ」
 千鶴は自嘲を浮かべながら呟く土方の背に、両腕を伸ばして手を回すと、可能な限り強く・・・強く抱きしめる。
 土方の腕は簡単に自分を抱きしめて、胸の中に囲う事ができるというのに、自分の腕では土方を抱えきれない。
 抱きしめたいのに。
 傷ついて・・・ボロボロになっている土方を抱きしめて、癒したいのに、手が届かない。
 千鶴は、背に抱きついたまま背伸びをするようにつま先立ちになり、土方の唇にそっと触れるだけの口づけをする。
「お傍において下さい・・・ずっと、傍にいますから。だからどうか、私と共に生きて下さい  」
 どうか、これ以上自分を傷つけるような事を言って欲しくなくて、唇に触れるように口づけて囁くと、土方は見開いた目を細め苦笑いを浮かべる。 
「それは、男(おれ)の台詞だ  」
 土方はそっと千鶴の両頬を掌で包み込み、鼻と鼻が触れ合うほど近くで見つめ合う。
 焦点が合うギリギリの所で、互いに見つめ合い、どちらともなく瞼を閉じる。
 吐息を唇に感じたのはほんの僅かな事で、すぐに唇に柔らかく暖かい温もりが触れる。
 初めは優しく、掠めるように。
 それが、徐々に深く混じり合いを持つようになる。
 心が穏やかになるような、優しいふれあいではなく、まるで、荒波の中に放り投げられたかのように。互いが互いにすがりつき、他には何も見えないと言わんばかりに、時折鼻先から甘い声が漏れ、それが土方の琴線を震わせる。
 女に触れるのは初めてではない。
 いや、若い頃から土方は女に無駄なほどよくもてた。
 役者顔負けの整った風貌のため、黙っていても女の方が言い寄って来、土方自身それなりに女遊びを楽しんだ頃もある。その数を自慢したこともあれば、人においそれと言えないような事になったこともある。
 だが、誰一人として、土方の理性を震わせるほど、欲しいと思わせた事は無かった。
   盛りがついたガキかよ。
 思わず苦笑が漏れる。
 だが、どうしようもない衝動が沸き起こり、堪えようが無かった。
 元来欲しいものは何でも手に入れてきた。
 そして、今、一番欲しい者は腕の中にある。
 しかし、千鶴は何もしらない初心な娘だ。
 少しずつならしていくべきだと。理性では判っている。
 だが、どうしても千鶴が欲しかった・・・
 この手に・・・腕の中に抱きしめて、もう手放したくはない。
「千鶴  」
 土方が唇を僅かに放すと、千鶴は喘ぐように空気を吸い込みながら、膝から力が抜けてへたりこみそうになる。その身体を土方はしっかりと支えながら、耳元に唇をよせて囁く。
「お前が  欲しい」
 甘く掠れた声は熱を孕んで耳朶を擽る。
 今まで幾度も土方の声を聞いてきたが、こんな声は初めてで、ぞくり・・・と背に泡立つものを感じ、千鶴は身を震わせる。
 そんな己の反応に戸惑いつつ、羞恥に身を染めて千鶴は俯く。
 土方がどんな意味を込めて囁いたのか判らないほど、世間を知らないわけではなかった。
「わ・・・わたしを  」
 女の口から言うにははしたないとしか思えない。
 だが、千鶴は意を決すると顔を上げて、真っ直ぐ土方の双眸を見つめて答える。
 ふわりと・・・華開くような笑みを浮かべて。
「私を  」
 貴方のものに・・・と言う言葉は土方の口の中にかき消えてゆく・・・・


 それから、二人は政府軍の目から逃れるように、函館の郊外にある小さな村へ身を寄せた。
 本来ならば蝦夷から離れ、新選組とは縁もゆかりもない地へ移った方が良かったのかもしれないが、今は何処もかしこも政府軍が残党狩りをしているため、移動がままならなかった。
 いくら、土方は死んだ者として処理をされているとはいえ、土方の顔は広く広まりすぎている。うっかりと土方の顔を知っている者と会ってしまったら、全てが水の泡となってしまう。
 むろん、函館も残党狩りの手は厳しいが、恭順の意を示した者達は早々に捕縛され、抵抗した者達は、早い内に惨殺された。残党と言っても残っていないと言って良いほどで、また蝦夷の地はそのほとんどが未開の地だ。
 函館から離れての生活は困難を極める。
 言い方を変えれば、逃げ場が無いに等しかった。
 そのため、ある程度の時期をやりすごすと、政府軍は小さな集落には目を向けることが無くなり、土方は姓を雪村と名乗り、村の片隅で静かに千鶴と共に過ごすようになったのだった。








続く