千の暁












 土方を見送って再び繕い物をしていると、慌てふためいた足音が聞こえて来た。土方のたてる足音ではないことはすぐに判ったが、いったい何があったのだろうか。
 外の様子を伺うために、縫い物の手を止めると一人の男が駆け込んでくる。
「千鶴さん! 千鶴さん! いるか!?」
 村の中で何かと親身になってくれる、雷蔵と言う名の男が血相を変えて叫ぶ。
「雷蔵さん? どうかされました?」
 千鶴がよいしょと重たげに身体を起こすと、雷蔵は千鶴の腕をいきなり引っ張る。
「すぐ来てくれ。夕べからおらの倅が酷い熱を出していて、苦しがっているんだよ!」
「竜夫君がですか? 判りました。すぐに伺い・・・ま、待って下さい。お薬を持っていかないと!!」
「薬箱はこれかい? 千鶴さん、とにかく早く来てくれ!!」
 雷蔵は棚の上から薬が入っている箱を脇に抱えると、千鶴の手を引っ張って走り始めるが、今の千鶴は身軽ではなかった。全力疾走などできない。それでも、可能な限り急いで足を動かし、なんとか転ぶことなく無事に雷蔵の家に駆け込むと、狭い部屋では雷蔵の一人息子が額に大粒の汗を幾つも浮かべて、苦しげに荒い呼吸を繰り返していた。
 額に触れてみれば、熱がかなり高く余談を許す状況ではないのは一目瞭然だった。
 千鶴は思わず眉を顰めて、「すぐにお医師を・・・」と言いかけるが、その言葉はすぐに飲み込む。
 けして豊かではない・・・いや、日々の生活をするのが背一杯で、余裕のない雷蔵の家では医師を呼ぶ事はできなかった。
 そもそもこの小さな村には医師もいなければ薬師もいない。
 二刻ほど離れた市内にまで行かなければ、医師も薬師もいないぐらい小さな小さな村。そこに住まう者達は先祖代々この地に住まい、親族というような小さな村に千鶴は夫となった土方と身を潜めていた。
 地縁の無い者はほとんど出入りの無い村だ。当初は自分達は受け入れて貰えないだろうと思って居たのだが、医師としての知識がなくても千鶴の持つささやかな薬師としての知識が受け入れられ、今では土方も何かと頼りにされる存在になっていた。
 千鶴は薬箱から乾燥した薬草をいくつか取りだして、煎じ薬を作るとそれを雷蔵に渡す。
「部屋を十分に温めて、ありったけのお布団を持ってきて、暑がっても身体を温めてください。そうするとたっぷりと汗をかくと思うので、汗をかいたらその都度着替えをさせてください。汗に濡れた着物のまま寝かせていると、悪化しますので着替えはこまめにお願いしますね。お水もこまめに飲ませてあげて下さい。でないと汗がかけなくなってしまいますので。後、うんと冷たいお水で額と脇と首筋を冷やして下さい。それから、この薬を一日三回飲ませてあげて下さい。風邪なら明日には熱が下がると思うのですが・・・すみません。私は医師ではないので、それ以上のことが判らなくて  」
 どこか痛みを訴えることもなければ、腹は下してないという。嘔吐もない。発疹が出来る事もなければ、傷が膿んでいるわけでもない。一見した限りでは風邪にしか見えず、これ以上の事は千鶴には判りようがなかった。
 千鶴は熱を冷ます煎じ薬を作って飲ませるが、薬を今飲ませたからと言って、速効で効果が現れるわけでもない。
 ただ、これ以上体力の消耗を抑えるためにも、一刻も早く熱を冷まさせる事が大事だった。
「いや、ありがてぇ。おらじゃどうすればいいのかまったく判らんかった。本当にありがてぇ」
「とにかく今は熱を冷まさせる事が大事ですから。後は果実水なども少しずつ口に含ませてあげると良いかもしれません」
 雷蔵は千鶴の一言一言を聞き漏らさないようにするかのように、まじめな顔で耳を傾ける。
 竜夫は変わらず顔を真っ赤にして、大粒の汗を滲ませながら、苦しげに呼吸を繰り返している。これが今日、明日で熱が下がらなければ体力が持たない。
 まだやっと五つの子だ。体力がどれほど持つか・・・・つきる前に熱が下がらなければ、雷蔵はたった一人の身寄りを亡くしてしまう。
 去年の冬に雷蔵は、妻を病で亡くしていた。
 両親も既に無く、雷蔵にとって竜夫がたった一人の身寄りとなっていた。
 掛け替えのない家族をこれ以上なくしたくはないはずだ。
「千鶴さん、・・・・あの・・・でもお代なんだけどよ  」
 雷蔵は小物入れから古びた巾着袋を取り出すと、勢いよくひっくり返す。
 そこには、ほんの僅かのお金しか入っていなかった。
「今はこれしかないんだ。後で絶対に払うから・・・・・・」
「お代の方は気になさらないで下さい。雷蔵さんにはいつも色々とお世話になってますし。それに、お代を頂けるような事は、私は何もしてませんから」
「でも、薬代  」
 ここで辞退したからと言って、雷蔵は納得しない。
 逆に施しを受けて貰ったと思われても、今後の付き合いに支障がでかねない。千鶴はしばらく思案すると視線を庭先に向ける。
「では、代わりに今度新鮮な卵を分けて下さい。それで十分です」
 雷蔵の生活振りは自分達よりも厳しく彼から薬代を貰うことに抵抗があった。なにより自分にお代を支払うぐらいなら、医者に診せてあげて欲しかったし、そもそも薬と言っても野草を摘んできて煎じ薬にしているのだ。元がかかってない分、分けても千鶴には負担はかからない。
 千鶴たちもけして楽な生活をしているわけではないが、少し余裕のあるお宅からは薬代を貰っているし、なにより必要な金子は土方が一家の大黒柱らしく稼いできてくれている。
 村長に頼まれた用事を片づけたり、村の子供たちに字の書き方を教えたり、どう育てれば良い作物が育つか・・・どうすれば、多くの作物が育つか・・・その辺は、生まれが大百姓というだけあって詳しく、寒さの厳しい土地にあった作物の育て方を学び、村人たちに広めていた。
 そのせいか、少しずつ村で取れる作物量が増え、この冬に飢え死にをする者がでなかったほどだ。
 この村に落ち着いてからと言うもの、金が特別入りようなわけではない。自給自足の生活に、日々村長の頼まれ事などをこなしているせいか、生きていくのに必要な物は手に入れることができた。
 二人で生活するのは十分だった。
「明日、産みたての卵を持っていくよ」
 千鶴の気持ちに雷蔵は笑みを浮かべると大きく頷き返す。
 小さな村では持ちつ持たれつだ。
 遠慮をしていたら関係は続けられない。
「また何かありましたら声を掛けてください。とにかく熱がこれ以上上がらないように気をつけてくださいね」
 千鶴の言葉に雷蔵は神妙な顔をして頷き返す。
 本来ならば自分のようなど素人ではなく医師に診断をさせるべきだ。だが、この村で医師に診せられるほど余裕のある家はほとんどなく、その大半が医師どころか薬を買うことすら出来ず、病に倒れた者は死んでゆく。
 千鶴はそんな彼らに自分の知っている限りの薬草の知識を教えていた。
 だが、それとて知識が十分にあるわけではない。
 戦の場を駆け抜けたから怪我の手当はできる。時にはその辺の間に合わせの薬草で怪我の応急処置をしなければならないこともあった。だが、正式に学んだ訳ではない。すべてが独学だ。どこかで勘違いしていたら大変な事になりかねない。
 千鶴は自分に自信が持てず、薬師として動く事に抵抗があったのだが、村の人達にそれでも構わないと請われ、こうして時折薬師として動く事があった。
「身重なのに急がせてわるかったね」
 薬を得て少し落ち着いたのか雷蔵がようやく千鶴の事にまで頭が回るようになる。
 その腹は雷蔵の言葉を示すかのように、大きく膨らんでおり、千鶴がいまどのような状態なのか万人に知らしめた。
「かなり大きくなっているけれど、もう産み月かい?」
 千鶴は愛しげに大きく膨らんだ腹を撫でる。
 ここに土方との間に出来た子が宿り、産まれる時を今か今かと待ちわびてた。
 いったいどんな子が産まれるのかと思うと楽しみで仕方なく、千鶴は穏やかな笑みを無意識に浮かべる。
「産み月は来月です。だいたい半ばから末ぐらいに産まれるんじゃないかと伺ってます」
「初産だっけ? 初産はたいがい遅れるっていうから、末ぐらいになるかもしれないね」
「産婆さんにもそう言われました。初めてのことなので色々と不安ですが・・・」
「産んでしまえば、後はどうにかなるってもんだ。特に千鶴さんにはあんな頼りになる旦那がいるんだ。そう言うときは甘えておくのが一番さ。子育てで不安な事があったら、なんでも聞いておくれって、かかぁに任せていたおらが言えるような言葉じゃねえけどよ」
「そんな事はありません。色々と頼りにさせていただきますね。私はこの辺で失礼します。お大事になさって下さい」
 千鶴はよっこらせと大きく膨らんだ腹を片手で支え立ち上がろうとしたが、かすかな違和感を覚えて顔を顰める。
 最近時々、痛みのような違和感を感じる事がある。
 産み月の前の月あたりから、産まれる準備が始まるのか、人によってはかなり早めに陣痛のようなものが生じることもあると聞いていたが、この時千鶴が感じた痛みは今までに感じたことのない類のものだった。
 ジワジワと締め付けるといえばいいのか、それとも腹を下したときの痛みに近いと言えばいいのか、思わず息を呑み襲い来る痛みを耐えるように唇を噛みしめる。
 その千鶴の様子に雷蔵はすぐに気がつく。
「千鶴さん、産気づいたのか!?」
「産み月は・・・・来月の、はずですが  」
 予定では一ヶ月後。初産だから予定より少し遅くなるだろうと言われていたが、どちらにしろ予定よりかなり早い。
 千鶴は不安を隠せない表情で雷蔵を縋るように見る。
 どうしても悪い方向に考えてしまう千鶴を、雷蔵は笑顔で宥める。
「一ヶ月ぐらい早く産まれることも珍しくないんだよ。でも、そのぐらいなら腹の中で子は育っているから、心配する必要もないはずだ。すぐにトシさんを呼んできてやるから、トシさんはどこだい?」
 息を数度大きく繰り返して、呼吸を整える。
 いったい何事が起きたのかと思えた痛みは、不意に消えて跡形もなくなる。
「いえ・・・竜夫君が心配ですから・・・大丈夫です。歳三さんは夕方までには帰ってくるとおしゃっていたので・・・家で、待って  」
「馬鹿なことを言っているんじゃないよ! 陣痛が始まっているのに一人追い出すわけにはいかねえだろ!っていってもココじゃお産には向いてねえから、村長の所まであるけるか?」
「でも・・・今の竜夫君を一人にするわけには  」
 いつ、容態が急変するか判らないのだ。そんな竜夫の傍を今は離れるわけにはいかない。
 だが、雷蔵は千鶴の腕を己の首に回すと、その身体をひょいと抱き上げる。
 土方より頭一つ分背は低いが、横幅と厚みがありがっしりとしているため、千鶴一人を抱き上げても揺らぐことはなかった。
「とにかく、今はあんたを村長の所へ連れて行くのが先だ。竜夫、いいか、少しの間一人にするけどよ、すぐにお父は帰ってくるからな!」
 その声が聞こえたのか、竜夫はうっすらと目を開けると、弱々しくだが頷き返す。
「意識もある、おらの言うことも判っている。だから、心配いらねぇ」
 雷蔵はそのままひょいと千鶴を抱えたまま走り出す。
 といっても、余計な振動を与えるわけにはいかない。出来る限り急ぎつつも、千鶴に振動を与えないように歩くことは至難の業だ。
 目と鼻の先と言っても良いほどの距離しかないというのに、千鶴を村長の家に運んだときには額に汗がびっしりとうかんでいた。
「ぼぼ爺ぃいるか!」
 縁側に千鶴を降ろすと、雷蔵は大きな声を張り上げて村長を呼ぶ。
「ぼぼ爺ぃ!!」
 遠慮無くどかどかと縁側から家の中に入り込もうとすると、杖をついた老人がゆっくりと姿を現す。
「なんじゃい、騒々しい。今はわしはいそが・・・・千鶴さんでないか。どうしたんだ」
 しかめっ面をしながら雷蔵の頭を持っていた杖でどつこうとしたが、その脇で額に小粒の汗を浮かべながら苦悶の表情を浮かべている女が千鶴であることに気がつく。
「竜夫の熱が酷いから千鶴さんに診て貰ったんだけどよ、千鶴さんがおらの家で産気づいちまったらしいんだ。おらん所は産所にはむいておらんから、ここへ運んできた。ぼぼ爺ぃ悪いけど千鶴さんの面倒はまかせた。俺はこれからトシさんを探しに行ってくる!」
「土方殿は山の方に行っている。すぐに呼んでこい。それから、竜坊には女衆(おんなし)の一人に面倒を診させるから心配するな」
 老人の指示に雷蔵は家中に響くような大きな声で頷き返すと、勢いよくきびすを返して庭を突き抜けて、山へと向かう。


 春といっても北の大地の山にはまだ冬の気配の方が濃く、春が訪れていることを実感しにくい。だが、それでも本州におくれてやってきた春の芽吹きをそこかしこに見つけることはできた。
 とりわけ、この季節は冬眠していた熊たちが目覚め、腹を空かせて山をさまよい歩き、僅かに芽吹き始めた春の息吹を堪能するかのように、エゾシカなども活発に動き始める。
 だが、その多くが子育ての時期に当たるため、狩りは禁じられている。
 子供が育ち親の庇護を必要としなくなる頃まで、待たなければ次世代が育たなくなってしまう。
 土方は村の男衆を数人つれて、山の様子をみて回っていた。
 生態系を気にすることなく、異国人が暇つぶしを兼ねて鹿や熊を狩るのを防ぐ事と、山の様子を確認するためだ。
 糞の状態や草木を食した後などをみれば、どの程度動物たちがこの山を今徘徊しているかが判る。
 猟銃や弓を肩にかつぎ、土方は腰に刀を差して慣れた山の中を慎重に足を進めていたが、背後から誰かに名を呼ばれたような気がし足を止める。
 初めは気のせいかと思ったが、確かに自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
「ばかが、雷蔵め! 何大声をだしていやがる!」
 土方のすぐ脇を歩いていた男が毒づく。
 春先になれば雪崩が起きやすい状態になっていた。大声などを出すとそれが原因で雪崩が起こることもある。
 なにより、子育ての最中の獣たちを刺激しかねない。
 そんなことは言われずとも雷蔵も知っているはずだというのに、なぜ頓着せず土方を呼び続けるのか。
 土方達は村で何かあったのかと顔を見合わせると、声が聞こえて来た方へと足早に移動する。
 雷蔵はどのぐらい走り続けていたのか。
 他の男達同様持久力に優れ、一日中雪山を歩いていてもここまで疲れ切ることはないというのに、身体から湯気が出るほど汗みずくになっており、肩で大きく呼吸を繰り返して、よやく見つけた土方の元へと近寄ってくる。
「ト・・・トシさん、やっと見つけた・・・・」
 土方達が近づくと雷蔵は力尽きたようにその場に座り込み、ぜぇぜぇと喘ぐように呼吸を繰り返す。
「雷蔵、おめぇなに大声出しやがる! 雪崩でも起きたらどうするんだ!!」
 男の一人が小声で怒鳴るが、息を整えるのに背一杯の雷蔵にはまったく耳に入らない。
 別の男が脇につるしていた竹筒を雷蔵に渡すと、雷蔵は詮を抜いて煽るように中に入っていた水を飲み干す。
「で、いったい何があったんだ?」
 水を飲んだことによって一息がやっとついたのか、呼吸が少し落ち着いた頃を見計らって、土方が問いかけると、雷蔵は土方の両腕を掴んで、切れ切れに告げる。
「ち、千鶴さんが・・・」
「千鶴がどうかしたのか?」
 千鶴の名が出てきた事で土方の表情がとたんに険しくなる。
 この地には特に危険はなにもない。一人家において来ている千鶴がいかに身重とはいえ、問題が起こるようなことは何もないはずだった。
 足でも滑らせて身体でも打ち付けたか?
 と、しっかりしているようでそそっかしい妻の顔を思いだし、柳眉を潜めるが、雷蔵の次の言葉で思わず目を見開く。
「千鶴さんが、急に産気づいた!」
「産気・・・・?ってまだ、産み月にはなってねぇはずだ」
 確かに腹はいつ産まれてもおかしくないほど大きく膨らんではいたが、まだ十月十日はたってない。医師の見立てでは来月の半ばから末にかけて産まれるはずだと聞いていた。
 まだ、一ヶ月はある。
「すまねぇ、おらんとこの倅がひでぇ熱だしたから、千鶴さんに診て貰ったんだ。家にけえるって時になって、千鶴さん急に産気づいちまった。今は、村長の所で準備して貰って、お産の支度をしている」
「トシさん、すぐにけえってやんな!」
「一ヶ月たんねえ程度じゃ、大丈夫だろうけどよ、万が一って事があら!」
 話を聞いていた誰もが色めきたつ。
 一ヶ月早く産まれてくるとどうしても赤ん坊の身体が小さく、乳幼児の死亡率は月が満ちてから産まれるより高かった。ただでさえ貧しい村で、乳幼児の死亡率は高い村だ。よりいっそう上がってしまう。
 なにより予定外の出産は母子共に危険率が跳ね上がる。
 ただでさえお産で命を落とす女も数えられないほどいるぐらいなのだから、用心に用心を重ねてもしすぎるということはない。
「千鶴さん、初めてのお産だろ!? 俺らのことはいいから、早く村長の家へ急げ!」
 土方は皆に背を押され、数歩歩き出すとそのまま勢いよく、雪の上を滑るように走り出す。
 溶け始め崩れやすくなった雪は、時に氷のように表面が固くなりすべりやすい。足を幾度も雪に取られながら、土方は山を駆け下りる。
 どんなに急いでも村長の家まで二刻はかかる所まで山の中に入っていた。
 お産は時には一日や一日半を費やすこともある。一刻や二刻で産まれたりするわけがないのだが、足を止めることなく土方はかけてゆく。
 一ヶ月の月足らずはどんな影響を腹の子や千鶴に影響を与えるのだろうか。
 お産に関しては土方もほとんど知識がない。
 幾度も、子を持つ女達や男達に当時の話を聞いて、頭の中で対策を練っていたとはいえ、それは順調に月が満ちてからの話だ。
 むろん、緊急事態も考えたことがないとはいわないが、この数ヶ月間特に酷いつわりもなく、体調が崩れることもなかったせいか、順調にお産を迎えるだろう・・・と妙に安心しきっていた。
 お産は女が命をかけてするものだ。
 いくら経過が順調だからと言って、お産そのものが安全とは限らない。
「ったく、冗談じゃねえぞ、近藤さん、山南さん、平助・・・総司・・・千鶴を連れていったら、地獄の果てまで追いかけるからな」
 もし、死後の世界というものがあって、そこに今は居ない仲間達が居るのならば、千鶴をけして連れて行くなと柄にも無いことを祈る。
 千鶴がそんな柔な女ではないと判ってはいるが、先日一人の女がお産が原因で命を落としていた。
 その事は千鶴にはあえて伝えていない。
 折を見て話をしようと思ってはいるが、今の千鶴には聞かせない方がいいだろうと良い、産後の肥立ちが悪くて寝付いていると説明していた。
 だが、察しの良い千鶴は言葉にはしないがきっと気がついているに違いない。
 薬の依頼を受けるだけで、本人の家に連れて行かれないという事で。
   私は大丈夫ですから、何も心配しないでくださいね。
 その言葉で千鶴が察していることをしり、土方はただ何も言わず不安そうに瞳を彷徨わせる千鶴を抱きしめる事しかできなかった。
 あの時ほど己が無力だと思ったことはない。
 どんな危険からも守ってやりたいと思っても、こればかりは身代わりになることが出来ない。
 あの細い・・・強く抱きしめたら簡単に折れてしまいそうな程細い身体をした千鶴を信じて、全てを任せることしか・・・・
「何を弱気になっているんだか  」
 土方はいったん足を止め、己を鎮めるように瞼を閉じて深呼吸を繰り返す。
 千鶴はそんな柔な女ではない。
 腹の子を無事に産んで、その腕に抱きながら嬉しそうに無事に務めを終えたことを土方に報告する。
 そんな姿が脳裏に浮かぶ。
 その背後には、まるで己の娘が子を産んだかのように相好を崩して喜ぶ近藤の顔や、千鶴が母親になることが不安だと嫌味を言いながらも、穏やかな笑みを浮かべる山南の顔、赤ん坊で遊ぼうとする沖田や、純粋に子供の誕生を喜ぶ平助、赤ん坊の存在に戸惑う斎藤や、今はもう居ない、彼らが脳裏に浮かんでは消えてゆく。
   やつらなら、おもちゃにして遊んじまうだろうな。
 そして、出産祝いだとかっこつけて酒盛りをそのまま始めるに違いない。
 現実には起こりえない未来。
 だが、不意に千鶴は自分だけではなく、彼らの想いにも守られているだろうと強く思う。
 彼らは、別れ間際いつも言っていた。
   土方さんを頼む。と。
 千鶴は彼らの言葉を全て受け止め、女の身には耐えられそうもないはずの行軍にも弱音一つ吐かず、それどころか土方の支えとなり、共に有り続けてくれた。
 そんな彼女が、そう簡単に負けるわけがない。
 土方は呼吸を整えると、再び走り出す。
 勢いは先より増していたかもしれない。だが、しっかりと大地を踏みしめる足には揺らぎ無く、雪の上を上手く滑り落ちながら、一気に山を駆け下り、村長の家へ駆け寄る。
 うすぼんやりと雲越しに見える太陽は沖天を過ぎ、午後へとさしかかろうとしていた。
 風は微風と言って良いほどで、いつもよりも気温は高めだろう。
 日に日に冬が終わり春が訪れるのを肌で感じるが、それでもまだ江戸に比べれば極寒と言って良いほどだ。だが、二刻も山を駆け下りれば全身汗みずくになり、熱が服の中に籠もる。
 すぐに着替えなければ汗が冷えて風邪を引くだろう。
 だが、土方はそんな事など構うことなく、村長の敷地内に入ると家の中に駆け込む。
 手前の部屋には男や村長が奥の部屋の様子を神妙な顔で伺っていた。
 その奥からは、女達の声と、今まで聞いたことが無いほど千鶴の苦しそうなうめき声が聞こえてくる。
 襖はしっかりと閉められ中の様子を伺うことは出来ない。
 今すぐにでも中に駆け込んで、千鶴を励ましたかったが、土方はぐっと奥歯を噛みしめて堪える。
 奥は女にとっての戦場だ。
 男がずかずかと立ち入っていい領域ではない。
「トシさん、万が一に備えて医師は呼んである」
 村長の言葉に土方は、詰めていた息を吐くと頭を下げる。
「長には世話をかけました」
「なに、お産ともなれば皆の衆で手伝うのがこの村の習わし。気遣う事はない」
 皺がたくさん刻まれた顔を綻ばせて村長は、土方の肩をとんとんと叩く。
「大丈夫だ。順調に進んでいる。きっと、元気な赤ん坊が生まれるさ」
 それは、なんの根拠もない言葉にしか過ぎない。
 だが、不思議と目の前の好々爺に言われるとそんな気がし、土方はふっと顔を綻ばせるが、それでも奥から苦しげな呼吸と、悲痛な声が聞こえてくると、抑えようもない不安がどうしても沸き起こる。
 ただ、祈るしか出来ないというこの時間が、土方にとって苦痛以外何ものでもなかったが、自分よりも今は千鶴が苦痛と闘っているのだ。
 この程度で狼狽えていたら、それこそかつての仲間達が指をさして笑い転げるだろうが、惚れぬいた女が苦しんでいるんだ。平然としていられるわけがない。
 聞こえもしない揶揄に胸の中で反論し、じっと襖を凝視し続ける。
 どれほどの時間が流れただろうか。
 一刻が一日にも一週間にも感じそうなほど、じれったく過ぎていく。
 それでも徐々に陽は暮れ、夜の闇が辺りを覆い尽くし、じわじわと老けてゆく。
 産気を迎えてそろそろ半日が経過するが、未だに産まれる気配は無かった。
 お産は一日やそれ以上かかると聞いていても、ふと千鶴の体力が最後まで保つのかと時間が経過すればするほど不安が増してゆく。
 この間飲まず食わずで、ひたすら力んで産み落とそうとするのだ。
 幾ら壮健な身体をしていても、耐えられないのではないか。
 だが、だからといって途中でやめることは出来ない。
 産み落とさずに終わるときは、千鶴の鼓動が止まったときだ。何が何でも無事に・・・二人とも無事に終えてくれなければ、土方一人生き残った意味が無くなってしまう。
 土方はひたすら祈るような思いで、身じろぎ一つせず待っていると、一際高い声が奥の部屋から響いてくる。それと同時に女達の励ます声。聞いているこちらの方の身にも思わず力が入って、息を詰めてしまいそうな程、甲高い声が響いたその次の瞬間・・・




「ふぎゃぁぁぁぁ」





 と、元気な・・・・元気の良すぎる赤ん坊の泣き声が響くと同時に、土方は長い間閉ざされていた襖を勢いよく開ける。
 白い着物を着て、力尽きたように女の腕に横たわる千鶴は虚ろな眼差しをしていたが、土方の姿を見ると、達成感に満ちた笑みを浮かべていた。
 土方は千鶴の元へ駆け寄り、女から千鶴の身体を受け取ると、小さな汗の粒がびっしりとうかんでいる額にそっと口づけを落とし囁く。
「よく頑張ったな  
 千鶴が疲れ切った顔をしつつも、既に母親の眼差しで娘を見つめる。自分も同じように父親の顔になっているのだろうか。判らないが、産まれたばかりの小さな命がくすぐったくも暖かく、優しい熱を伝えてくれる。















 明け方に産まれた娘は、土方によって「千暁(ちあき)」と名付けられた。
 羅刹の血を引き、鬼の血を引いた娘の人生は穏やかなものではないだろう。
 その時、土方は助けたくても助けることができない。
 どれほど長く生きながらえる事ができたとしても、娘が成人する姿はけして見ることはできないだろう。
 まして、父親は死した事になっている・・・この世には存在しない人間だ。それもまた、娘の未来にどう影響を与えるか判らない。
 ただ、判るのはその道は平坦ではなく、自らの力で切り開いて行かなければならなくなることも多々あるだろう。
 女の身には辛い闇夜かもしれない。
 だが、それでも・・・・

「お前の母親は、闇夜でも迷うことなく生き抜いてきた。お前も、自ら切り開いて闇の道を切り開く暁になれ  千暁」

 土方が娘を抱いて、そう囁くのを千鶴は微笑を浮かべて見守る。
 その名が娘を守ってくれると信じて。











 ☆☆☆ 天華の戯言 ☆☆☆
 この話はH21/12/29に発行した薄桜鬼 土方×千鶴アンソロジー「華艶の宴」のおまけとして掲載していただいた話になります。
 当初は本誌用のネタだったのだけれど、本誌で課せられたページには満たなかった(半分)・・・だったため、さっくりとおまけ用にきりかえました(笑)
 なので、本誌より先に書き上がった話だったりします(笑)
 薄桜鬼はGHほど書き込んでないので、どのキャラを書くにしても手こずったけれど、特に土方さんは難しい・・・
 だって司令塔ゆえに動かないんですもん!
 まぁ、この話は全てが過去の出来事になってからのシュチュエーションですが・・・・
 アンソロの原稿を書くことになった時は、一度も書いたことなかったので(笑)けっこう四苦八苦しました・・・時間だけは半年という単位であったのに、かなりギリちょんスケジュールという・・・・(笑)
 今はもう楽しい想い出です(笑)


 次は、本誌に掲載した話をUPしたいと思いますので、引き続きお楽しみいただけたら幸いですv



Sincerely yours,Tenca
2012/02/28