微睡みの始まり
蝦夷という海を隔てた先にある地に足を踏み入れたとき、春を迎えることは無いと信じていた。
京の都や江戸よりも遅い春を迎えたその時、日本を二つに分けた戦は幕を閉じ、血にまみれた骸を晒すことなく、己は灰となり消えてゆく。
そう確信していた。
それまでこの、身体が保てば十分だと。
そう思っていた。
だが、今は、このいつ朽ちてもおかしくない身が惜しい。
一日でも、一刻でも長く・・・留まりたいと強く想わずにはいられない。
たとえ、それが無様な生き方になろうとも。
大勢の人間を・・・仲間を、友を死に追いやっていながら、自分一人だけ先を求める事が、最大の裏切りになろうとも。
それでも、この腕に得た温もりを手放す事はもう出来ない。
しなやかで、柔らかく、暖かな温もりを。
例え、ほんの一時しか共にいられなくても。
それによって、彼女がどれほど深い哀しみに苛まれると判っていても。
共に、老いることが出来ずとも。
ただ、共にありたいと願い、願われ・・・・・・・・
腕に掻き抱いた。
土方はゆっくりと瞼を開く。
視界に映り混むのは最近見慣れてきた新しいすみかの高い天井。
黒光した太い柱がぼんやりと漏れる明かりに照らされ、煌めいているように見える。
空気がキンと冷え込んでいるのは、囲炉裏の火が弱くなったのか、それとも落ちてしまったのか。
真冬でそれをやっていれば、間違いなく永遠に目覚めぬ眠りに落ちていたところだが、容赦なく生きとし生けるもの全ての命を凍てつかせる冬は遠くに過ぎ去り、この蝦夷の地にも訪れていた春も終わりを迎え、初夏を迎えていた。
初夏・・・江戸や京にいた頃ならば、火など部屋を暖めることに必要などなかったが、この北の大地では話は変わってくる。
日中は暖かく過ごしやすくなってきたが、陽が暮れると気温は冷え込み、明け方ともなればかなり冷え込む。
時には霜が降りることもあるほどだ。
凍え死ぬことはまずないだろうが、油断はできない。
そのため、初夏と呼ばれる季節になろうとも、火を絶やすことはなかったはずだ。
そんな事をツラツラと止めどなく考えていたが、ふと、腕の中がもの寂しい気がし、土方は目を瞬く。
昨夜、腕の中に抱いて眠ったはずの・・・妻となったばかりの娘がいないことに気がつく。
辺りは既に薄明るく、夜が明けていることは分かったが、まだ起き出すにはいささか早い時間帯だ。いくら千鶴の朝が早いとはいえ早すぎる。なによりさすがに今日は無理をさせるわけにはいかない。土方は、倦怠感の残る身体を起こすと、障子の音を立てず開けて、朝靄に包まれた庭先を見渡す。
広い庭先ではない。
ぐるりと視線を巡らせることなく、探し求めていた姿がすぐに視界に入り込む。
霜は降りた様子はないが、江戸の冬を彷彿とさせる程度には空気はまだ冷えていた。
陽が姿を見せてまださほど時間は経過してないのだろう。
夜の間に冷えた空気はまだ温もりを宿してはおらず、吐き出す呼気は白く棚引き、朝靄と同化し消えてゆく。
その中で千鶴は手を赤くして洗濯をしていた。
いったい、何を朝っぱらから洗濯をしているんだ?
土方は微かに眉を顰めて、怪訝そうにその後ろ姿を凝視していたが、くん・・・と鼻が臭いをかぎ取るかのように微かに動く。
羅刹となって敏感になった嗅覚は、どれほど水に薄まろうとも逃すことはなかった。
「怪我でもしてんのか?」
あまりにも一心不乱に洗濯に励んでいたため、千鶴は背後に土方が近づいてきたことに気がつかなかったのだろう。声をかけると「きゃっ」と小さな悲鳴を上げて、洗濯物を盥の中に落とす。
それほどまでに驚くほどだろうか?
大げさにも見えた千鶴の驚きっぷりに逆に土方の方が驚くが、千鶴は土方のそんな様子に気がつかず土方の問いに、千鶴は顔だけではなく首も耳も真っ赤にして俯いていた。
「いえ・・・その」
そんな千鶴を背後から抱きすくめると、水の中に浸されたままの手を取り出す。
冷たい水の中にどれだけつけ込んでいたのか。芯まで冷えて切っているのが手に触れたとたんすぐに判る。
ここまで冷たくなっていれば悴み感覚が鈍くなっていたりもするだろう。
土方が掌で包み込むように触れると、千鶴はその温もりが心地よいのか、安堵のため息にも似たようにゆっくりと息を吐き出す。
洗濯をするのが何よりも辛い作業だろう。
井戸水は一年中温度がほとんど変わらないが、それでも夏と冬では水の温度は違う。
冬ほどではないがまだ触れれば切れてしまう刀のように痛みを発するほど冷え切っている。
その水で洗濯をすれば瞬く間に感覚は無くなり、皹が無数に出来て治る暇もない。
普通の娘ならば。
鬼であり回復力が非常に優れた千鶴はその能力のおかげで皹など何一つ無い滑らかな肌をしているが、それでも温もりは無くなり、悴み指の動きはぎこちないものとなる。。
そればかりは、鬼の回復力でもどうしようもないことだった。
だが、村の娘達のように肌をボロボロにさせずに済んでいる事だけでも土方にはありがたいことだった。
土方は氷のように凍てついた掌を傷つけないように触れながら、丹念に調べるが、予想通り皹はおろか傷一つない。
だが、水の中からは確かに千鶴の血が混ざっている臭いが鼻先をくすぐる。
以前ほど強い吸血衝動に囚われなくなったが、それでも甘く、魅惑的な臭いに未だに感じる血の香りがする以上、千鶴は確かに血を流した。
気にする必要のないていどの些細な怪我なのだろうか?
羅刹以上に快復力が優れているため、ささやかな傷や痣は瞬く間に消えてしまう。
そう、確かに刻んだ痕すら、今はその肌に残っては居ない。
じっと怖いほど指先を凝視していた土方に、千鶴は言いにくそうに口を開く。
「あの・・・怪我とかでは、ありませんので・・・」
「怪我じゃない・・・?」
怪我じゃないならなぜ血を?と思ったのはほんの一瞬。
土方はすぐに野暮な事を聞いて悪かったな。と謝罪を口にすると、千鶴はますます赤くなって俯く。
そんな彼女の様子を土方は喉の奥で笑みを零しながら見下ろし、赤く染まる首筋にそっと唇をよせて触れる。
指先は冷たく凍てついているが、唇に触れる肌はこれ以上ないほど熱を孕んでいるような気がするのは気のせいではないだろう。
喉の奥で笑みをかみ殺すと、その体勢に耐えきれなくなったかのように千鶴が、掠れた声を漏らす。
「ひ・・・ひじかた・・・さん」
「なんだ?」
「あ、あのまだ朝が早いのでお休みになっていたほうが・・・」
「いいのは、俺よりお前だろうよ。休んでなくていいのか?」
含んだ笑みを浮かべながら問いかける土方に、千鶴は赤く染まった顔を俯かせながら、もごもごと口の中で呟く。
「お、お洗濯がありますので・・・」
「そんなもんいつでもできるだろうよ。それに、もう染みは落ちてんじゃねえのか?」
千鶴が丁寧に洗っていた湯文字にはもう、血の染みはどこにも残っていない。
後は干して乾かすだけの状態になっているが、この時間に干せば下手したら乾くどころか凍ってしまうかもしれない。
いや、さすがにもうそこまで冷えては居ないだろうか?
まだ、この地に居を落ち着けて間もないため土方もはっきりとは判断できなかったが、それでもまだ干すにはいささか早い刻限のように思えた。いや、そもそも洗濯をするのもまだ早すぎる刻限だ。江戸の夏ならばいざ知らずまだ、自分達にとっては冬も同然の寒さなのだから。
「それに、寝直すにしても朝は冷えてさみいんだよ。温石になれ」
「は・・・? え? ひ、土方さん!?」
土方はそのまま千鶴を抱えて立ち上がる。
いきなりのことに千鶴はとっさに身体を支えるために、土方の首に抱きついてしまうが、思わぬほど近くにある土方の顔に千鶴は慌てて手を離してしまい、身体がぐらり・・・と揺らぐが、抱えている土方は微動だにしない。
「暴れるな。落ちてもしらねえぞ」
「いえ・・・あの、お、おろしてくださいっっっ」
手を無意味にわたわたと振り回してしまうのは、腕の置き場所に困ってしまうからだ、この手をどうしよう・・・・迷って迷って迷っている内に体勢がまた崩れ、千鶴は慌てて、土方の首にしがみついて体勢を整えると、ようやく土方は満足したように笑みを口許に浮かべて身を翻す。
「もう一眠りするぞ。俺は眠い」
そう言いながら土方はさっさと部屋へと戻ろうとするが、千鶴としては洗った物を干してしまいたかったし、朝餉の支度にもとりかかりたかった。だが、土方はそんな千鶴の言い分に耳を貸そうとはせず、抱えた千鶴を連れて部屋へと戻ると布団の上に静かに降ろす。
千鶴は戸惑ったように顔を赤くして俯いたまま、土方を見ることはできなかった。
布団はまだ寝起きのままの状態で、乱れていた。
正視に耐えられず、そっと、そこから視線を外すように視線をずらすが、捲れた掛け布団の端から覗いた赤い染みに、かぁっとさらに顔に血が上るのが否応なく判るがこのまま気がつかないふりはできなかった。
「あ・・・あの、敷布の・・・その、お洗濯を」
ボソボソと小声で告げられた言葉に、土方は何を言っていると言わんばかりに眉を寄せるが、ちらちらと千鶴が気にする方へ視線を向けてようやく千鶴が何を気にしているのか気がつく。
土方は気にしないが、千鶴は気にしない。という訳にもいかないだろう。
土方は無言で敷布を覆っていた布をひっぺかえすと、そのまま無造作に丸めて庭先に放置されたままの盥の中につけ込む。
「洗うのは後で構わねえだろう、ほら、まだ朝は早い寝るぞ」
「あ・・・・あの、でもその・・・・」
問答無用とばかりに布団の中に引きずり込まれると、土方の腕の中に囲まれて身動きができなくなる。それでも、洗濯物や朝餉の支度などの事が頭をよぎって、このまま土方と共に朝寝を貪ることを良しとすることは出来なかった。
「あのでもそのでもねえよ。今日ぐらいゆっく休め。身体辛くねえわけねえだろ」
含みを持たされた言葉に、千鶴はとうとう身を小さく丸めて、「う」だの「あ」だの言葉にならないうめき声を漏らす。
もうまともな単語一つ紡ぐことは出来なかった。
恥ずかしすぎてどんな顔をすればいいのか、千鶴にはもう皆目検討が付かなかった。
「朝飯なんざいつでも構わねえ。とにかく休んでいろ」
その言葉に千鶴は俯いたまま瞬く。
「・・・・ありがとう、ございます・・・・・・」
土方自身が朝寝をしたいのではなく、千鶴の為を思って向けられた言葉に千鶴はこれ以上、我を張ることはできなかった。
「礼を言われるこっちゃねえよ。俺もだるいしな。朝は苦手だ。このままもう一眠りさせろ」
そう言うと土方は千鶴をさらに抱き寄せ、強く抱きしめたまま瞼を閉ざす。
熾烈な光を宿す瞳が瞼に閉ざされると、雰囲気がぐっと柔らかくなり、千鶴も引きずられるように柔らかな笑みを浮かべて、土方を見続ける。
土方が気に掛けてくれていた通り、自分の身体とは思えないほどかなりだるかった。だが、そのだるさも、愛しい人から与えられた物と思えば、苦でも何でもなく、逆に心配をかけたくはなかったのだが、人生経験の差により、お見通しだったということになる。
自分を欺すのが上手くなった。と以前土方にぼやかれた事があったが・・・・まだまだだとこんな時思うのだ。
だが、もう彼の目を誤魔化す必要などないのだから・・・・
千鶴は、身体を包み込む優しい温もりに促されるように、小さくあくびを一つ漏らすと、身体から力を抜きそっと身を預け、ゆっくりと瞼を閉ざす。
やはり相当無理をして起きていたのだろう。瞬く間に緩やかな呼気に変わり、身体からくったりと力が抜けてゆく。
「ったく、本調子じゃねえときぐらいゆっくり休んでいればいいものを 」
呼気が寝息に変わった瞬間、土方は閉じていた目を開けて、腕の中で穏やかな眠りにつく娘を見下ろす。
一度は手放す事を決意し、仙台の地に置いてこの蝦夷の地へ一人来た。
だが、娘は土方の思惑を外れ、女の幸せなど求めることなく、幸せにすることなどとうてい出来ない男の元へ、身一つで飛び込んできた。
彼女と離れたほんの僅かな時間を経て得た存在を、その温もりを手放すことなど二度も出来ない。
幸せにしたい。
だが、出来ないかもしれない。
己の残された時間では、伴侶として共に在ることをそう長くは彼女に与えることはできないだろう。
それでも、もう別つことは出来ない。
「覚悟してろよ。俺はお前も知っているとおりしつこい男だからな」
喉の奥で笑みを零しながら、土方は呟く。
負けると判っていても、新選組たることを止めることはできなかった。
時代にを読むことが出来なかった愚か者だと嘲笑われたとしても、新選組を手放すことは最後の最後までできなかった・・・・
「もう、手放してはやれねえからな」
土方の呟きを聞く者はいない。
ただ、まるでその呟きに応じるかのように、腕の中の娘は身じろぎ、身を土方に預ける。
どこまでも翳りのない幸せそうな微笑を浮かべる娘の額に、そっと土方は口づけを振らせ、自分も目を閉じる。
つかの間の眠りを共に得るために・・・・
☆☆☆ 天華の戯言 ☆☆☆
天華初の土方×千鶴です。
一応アンソロ原稿書く前に練習がてら・・・といってもこの程度じゃ課せられたノルマには足りませんでしたが(笑)
初めてまともに書いた土千話でしたが、UPするのが今の今になってしまいました(笑)
書き終えたのは10月の半ばぐらいだと思うのですがね・・・うん。UPには手が回りませんでしたよ。
あの頃は。
ごらんの通りありとあらゆる意味を込めての事後です(大笑)
土方さんにも是非ラブラブになってほしい!
この人の終わりはたぶん、一番儚すぎる!!
沖田さんはなんだかんだいって数年は生きてくれそう。
でも、土方さんは一年も厳しすぎるんじゃね!?と思わせるようなEDでしたが、なんのその。
なんだかんだ言っても地味に長く生きて欲しいと切に願わずにはいられませんっっっ
まぁ、悲恋的なEDは後味がわるいので、ラブラブな時をチョイスしていきたいです。
と、思っても土方さん難しいので、これがもう最初で最後になるかもしれませんが(笑)
アンソロで力尽きた感じがします・・・・・土方さん難しいよ・・・ありとあらゆる意味で。
そーいや、十中八九この時代の日本にはまだシーツの概念なんざ無いと思うのですが<BR>
便宜上シーツらしきものを登場させてますので、突っ込みは無しの方向でよろしくお願いします(笑)
少しでも楽しんで頂けたら幸いです♪
Sincerely yours,Tenca
2010/01/12