春来は未だ遠く 2 








「一さん・・・すみません」
 半刻ほど型をならい、かいた汗を拭いながら家の中に入るなり、冷たい板の間に正座をして俯く千鶴が、追強ばった声で唐突にぽつりと呟く。
「どうかしたのか?」
 斎藤には謝られるような覚えはない。
 寝過ごして朝餉の支度が調っていないのかと思ったが、すでにいつも通り質素ながらも斎藤の事を考えた朝餉の支度が用意されている。
 朝がゆに、囲炉裏には串に刺さった小魚が火にあぶられ、良い塩梅に焦げ目が付き朝から身体を動かした斎藤の胃袋を刺激するには十分なものだった。
 この時刻で他に彼女が謝るような事があるだろうか。
 斎藤にはこれといって思い当たるような事が何一つ無かったが、千鶴には顔も上げられないような事があるのだろう。
 断罪を待つ罪人のように身じろぎ一つせず、強ばった声で言葉を続けた。
「今月も  来てしまいました」
 その言葉に斎藤は軽く息をつく。
 大仰についたわけではないが、身を硬くした千鶴にはずいぶん大きな音に聞こえたのか、膝の上で硬く握りしめられた拳に力が入る。
 斎藤はぎゅっと握りしめている千鶴の手を大きな掌で包み混むと、立ち上がるように促す。
「いつからここに座っている。板の間などに直に座れば身体が冷える。初日は辛いんだろう」
 何が来たのか。などという事は聞くことは無かった。
 京で初めて会った時から数えれば十年近い年月が経ているのだ。その間幾年月か別々に時を過ごした事があるとはいえ、大半の時を共に過ごしているのだ。いやでも千鶴に月の障りがいつきたか、それがどの程度の物なのか判るようになる。
 まして、夫婦ともなれば、月の障りなど関係ないとは言い切れない。
 斎藤は無言のまま俯く千鶴を囲炉裏の傍に座らせると、茶を入れ千鶴に手渡す。
「身体が冷えたはずだ」
 湯飲みを抱えたままそれを口に運ぼうとしない千鶴に斎藤は、どう言えばいいのか考えあぐねる。
 千鶴が一日も早く子を欲しいと思っていることは判っていた。
 今までに幾度かそのような事を口にしたこともあり、三年という月日を経ても一向に授かる気配のない事に、不安を抱いていることも。
 何時だったか・・・自分は石女(うまずめ)なのではないかと口走った事もあった。
 むろん、そのような事はないだろうと斎藤は否定した。
 千鶴は至って壮健で、風邪すらめったに引かない。
 怪我なども鬼の血故にすぐに治ってしまうため、まさに健康優良そのもの。
 ただ、斗南へ居を移してから、月の障りに狂いが生じている事だけが、問題があるのかもしれないが、それは仕方ないことだった。

 この地は貧しい。

 日々の食するものにも事欠き、多くの者が飢え、餓死し、その日その日の日銭を稼ぐために、武家の妻や娘ですら身売りせざるえない状況の土地だ。
 自分達がひとえに飢えず、千鶴が身売りをするような状況にならずに済んでいるのは、かつての友や仲間が何かと気に掛け、貴重な食材や日用品を時折送ってくれているからだ。
 自力だけでどうにか過ごせるものではなかった。
 そのように何かと事欠く生活を数年しているのだ。
 身体に必要な栄養が足りているわけがなく、今まで狂うことなく正確に来ていた月の障りに、狂いが生じてもなんらおかしくはない。
 おそらく千鶴が身籠もらないのは、貧しい生活故に栄養不足なのだろう。
 そう斎藤は言ったことがあったのだが、千鶴はそれでは納得しなかった。
 自分達より食べる物に事欠いている家の女が、幾人も子を孕んでは産み落としているからだ。
 そのため、栄養不足が原因ということだけでは納得出来ないでいた。
 千鶴は身じろぎ一つせず、湯飲みを握りしめていたが、斎藤はそっとその手からお椀を手に取り傍らに置くと、じんわりとお椀の熱が移った千鶴の腕を引き寄せ、細すぎる身体を抱きしめる。
 改めて実感するのもおかしなものだが細かった。
 昨夜も何度もこの腕に抱きしめた。昨晩だけではない。
 今までの間に何度も抱いているというのに、時折その細さに斎藤は驚かされる。
 元々華奢な身体をしていたが、日増しに細くなっているような気がし、この地へ千鶴を連れてきたのは、間違いだったか・・・と後悔することもあった。
 特に、今のように気落ちしていると、その細さがさらに増したような気がし、今にも目の前から消えてなくなってしまいそうな不安に陥る。
 消えるとしたら、自分の方だというのに。
「気に病むな。と言ってもお前は気に病むのだろう」
 斎藤には正直にいえば、なぜ千鶴がそこまで子を欲しがるのか判らない。
 出来れば出来たで嬉しいが、今の生活には子を育てるような余裕は正直にいえば無い。
 何より、子を孕んだとして、今の生活で正直幾ら壮健であろうとも、千鶴の身が十月十日耐えられるか・・・その方が斎藤にとっては不安だった。
 この貧しい地へと移住した後も、子は幾人も生まれているが、育たず死んでいく事のほうが多く、生まれても口減らしの為に、山野に捨てられてしまうこともさえあった。
 逆に、流れずとも、母体すら懐妊状態に耐えきれず、命を終えてしまった者もいる。
 どんなに平和で実り豊かな地にあろうとも、出産とは女にとって命を掛けたは大仕事だ。
 医者どころか産婆すらまともにいないこの地では、子を孕むということ自体がそれだけで危険がより増し、斎藤としては出来ないならそれに超したことがないとすら思うこともあるのだが、女の身として生まれた千鶴はそうは思えないのだろう。
「十年共に連れ添って初めて子を成す夫婦もいる。まだ俺達は共になって三年しか経ていない。そう焦らずとも良いのではないか」
 結い上げられていない髪を斎藤は落ち着かせるようにゆっくりと梳く。
「ですが、私ももう24になります」
 若くないと言いたいのだろうか?
 確かに千鶴ほどの年にもなれば、一人や二人子供を産んでいてもおかしくはないが、遅すぎるというほど遅いこともないだろう。
「俺などもう29になる」
 男の場合いくつになっても子を作れるが、女の場合はどうしても年齢が限られてしまう。中には40を超えても子を無事に産み落とす者もいるが、けして数は多くはない。
「千鶴、今はまだ焦るときではない。俺は子は出来ないのなら出来なくてもいいと思っている。だから、お前が気に病むような事はない」
「でも、そうしたら一さんの  」
「俺の血など別に残らなくても構わない」
 斎藤は微苦笑を浮かべながら千鶴を見下ろすと、気配を感じたのか、ずっと伏せていた千鶴も顔をあげ自分を見下ろす斎藤を見つめる。
「俺の血は変若水(おちみず)の毒に穢されている。いくらこの陸奥の清らかなる水によって毒が薄められたとしても、消えることはない」
 今は昼日中に動く事に苦痛を感じることもなく、血を欲する衝動も起きなくなり、愛しい女の柔肌を傷つけ、その血を貪ることもなくなった今、時折羅刹になった時のことなど忘れてしまいそうになる。
 だが、それでもけして無かったことにはならない。
 いつの日かこの身体は、残された命の灯火が潰えたその時、骸一つ残すことなく、灰とかし消えてゆく。
「お前は自分の身体に問題があるのかと気を病んでいるようだが、お前は至って壮健。原因は俺にあるのかもしれない」
「一さん・・・にですか?」
 千鶴は小さく首を傾げる。壮健というならば自分だけではなく斎藤もそうだ。
 今も居合いの稽古は欠かすことはなく、30を目前にしていてもその身体付きは昔と何も変わらない。
 いや、年月が経ている分よりいっそう鍛え上げられ、余分な脂肪どころか動きの邪魔になるような隆々とした筋肉なども無く、見事なまでに均衡の取れた綺麗な肢体をしていると、千鶴は抱かれる度に思う。
「いくら変若水の毒が薄まったとはいえ、羅刹であるこの身だ。種がすでに正常でないということも考えられるだろう。だからお前の腹に根付かないのかもしれない」
「そ・・・・そんなことっっっ」
 思いにもよらない言葉に千鶴は顔を真っ青にして否定する。
 女が子を孕めないのは、男の方に問題があるなど、この時代まず考えられないことだった。
 子を産めない原因は女と見なされていたからだ。
 斎藤も、自分に思い当たる事がなければ、【千鶴は子が出来にくい体質】と思ったかもしれない。
 だが、思い当たることがありどちらかと言えば、それが理由としてはもっとも大きなものと斎藤には思えていた。
「俺に残された寿命がいかほどかは判らない。だが、次代へ継ぐ程の力が残されていないと考える事はできるだろう」
 一生かけて使う分の力を、ほんの一時の間に燃焼して費やす力が羅刹としての驚異的な力。幕末の激しい戦いの中で幾たびもその力を使っているうちに、次代へと繋げる力も使いきってしまったというのだろうか。
 それとも、変若水の毒がその血を後世に残す事を拒んでいるというのだろうか。
 千鶴はその事を否定するように何度も何度も首を振る。
 そんなことを斎藤に言わせたかったわけではなかった。
 千鶴が必死になって否定するのを、斎藤は微笑を浮かべながら見続ける。
 斎藤自身はその事に男としての沽券に関わるとか思うことはなかった。
 もし病などにより不能になったというのなら、話は変わるかもしれないが、例え変若水を煽ったことが原因だったとしても、今もなお変若水を煽ったことも、羅刹の力を使い続けた事も後悔はない。
 その結果が今に繋がるのなら、幾度同じ選択を迫られたとしても、この未来へと続く道を選ぶ。
「お前が俺に不調が在ることを否定するように、俺もお前が石女などとは思ってもいない。栄養豊富な飯を食っていても子が生まれるのに10年15年と費やす夫婦もごまんと居る。なら、まだ3年しか経ていない俺たちが焦ることも無い。30を目前に控えた俺はともかくお前はまだ十分に若い」
「一さんも、まだまだお若いです」
「なら、まだ焦る事もないだろう」
 千鶴はそれでも少し迷うそぶりを見せたが、ようやく少しだけ笑みを浮かべると頷き返した。
「朝から困らせて済みません」
 斎藤をずいぶんと困らせてしまったことにようやく思い至り、千鶴はしょぼんと肩を落として先ほどよりも身を小さくする。
「これは俺たち夫婦の話だ。お前一人が抱え込んで悩む事ではない。だから、謝る必要など何もない」
 その言葉が嬉しかったのか千鶴は頬を少しだけ染めて、顔を綻ばせる。
「では、朝餉にしても構わないな?」
「はい。お待たせしてしまいました」
 粥を椀に盛り手渡すと朝から旺盛に食し、斎藤は何時も通り刀を腰にさして仕事へとでかける。
「気をつけていってらっしゃいませ」
 いつも通りかけられる出かけ間際の言葉に、斎藤は鷹揚に頷き返すと「では言ってくる」とだけ言いのこして、家を後にする。






                                             続く


Sincerely yours,Tenca
初出:2011/03/14