春来は未だ遠く 3 








 里から少しだけ離れた粗末な一軒家が二人の斗南のすみかだ。
 里には、余り木で急いで作ったような小屋のような家が点在し、どの家にも襖や障子の類どころか畳一つまともにないく、筵(むしろ)が襖や畳の役目をなしているのが、当たり前の地。
 春はいまだ遠く、吐き出される吐息は白く棚引く。
 夏になっても川や井戸の水は真冬の水のごとく冷たく、家事にいそしむ女子供の手は一年中あかぎれが出来、痛々しい程だ。特に今まで使用人に任せ己の手で水仕事をしてこなかった武家の子女達にとっては辛いの一言ではすませられないだろう。
 だが、千鶴の手は白魚のように綺麗なままだ。
 あかぎれが出来る前に、鬼の強い再生能力が皮膚を治してしまうのか、その手が荒れる事はなかった。
 夏の間に山へ入り、薬草や山菜を摘んで、細かな傷を作ったとしてもすぐに癒えてしまう。
 周囲の女達が無数の傷を作り、治る間もないというのに。
 知人などの援助により暮らし向きに差はあったが、同じ環境下で家事を行っていて、片やあかぎれまみれ、片や白魚のごとく傷一つ無い手というのは目立ちすぎるため、日常的な生活が人目につかないように、斎藤は己の居を里の外れに持ったのだった。
 己が羅刹故に、人と距離を置いた方が過ごしやすいという理由を付けて。
 多少里から離れているが、ろくすっぽ何もないような里だ。
 離れていても不便と感じることもなく、新選組時代に鍛え上げられた身体には、苦でもなんでもなく、さくさくと雪を踏みしめながら慣れた道のりを歩いていく。
 その道中で今日片づけねばならない仕事を思い返しながらも、なぜ千鶴があそこまで己を追いつめているのか、今朝の事をふと思い返す。
 子供が出来ないことを気にし始めたのは何時のころからだったか・・・おそらく2〜3ヶ月ほど前ぐらいからだったか。近所に住まうお節介な人間が、なんやかんやと言ってきたのだろうか?
 確かに斎藤も同僚達に幾度か、子の誕生はまだか?とからかい半分問われたことはある。
 だが、くどいと感じるほど問われた事は無く、せいぜいが「夜を励め」と言われるぐらいだ。
 その程度のやりとりはある意味子がいようといなかろうと繰り広げられる。
 逆に言えば、子が多く産まれる家は「おさかんすぎるんじゃないのか?」とからかわれる程だが、それは男同士のやりとりだからだろうか。
 女同士のやりとりは違うのかも知れないが、千鶴には事細かく五月蠅く後継を望む舅も姑も傍にはいない。
 斎藤の両親はおそらく江戸で健在のはずだが、連絡を絶って久しく、自分の生存すら知らないはずのため、あれこれ言ってくるという事はまずあり得ない。
 世間体を気にしているのか?と思わなくも無いが、その程度で千鶴があそこまで思い悩むだろうか?
 『新撰組』という世間的には『人斬り集団』と怖れられ、煙たがられていた自分達と居て、周囲の白い目や罵詈雑言に振り回されること等なかったというのに。
 それとも一人何時残されるか判らないという不安から、早く欲しがっているのだろうか。
 いずれ自分は千鶴を一人残して消えてしまう。
 可能な限り共に在りたいと願ってはいるが、どうなるかこればかりは一自身まったく判らない。
 今この瞬間にも自分の身体は崩れ、灰と化してしまうかもしれない。
 その事を考えれば、一人残す事になってしまう千鶴に子供を残してやりたいと思う反面、子供と千鶴だけを残せば、千鶴が苦労することが目に見えて判る。
 子供がいなければ幾らでも道は開けるだろう。
 千鶴ほどの器量よしなら、再婚も望めるはずだ。
 斎藤としては、千鶴を自分以外の男の元へいかせるつもりなど毛頭無いが、この地で女だけで生きて行くことはできず、彼女には頼るべき親族の類は一人もいない。
 どちらが彼女にとって真に良いのかは、斎藤には答は出せなかった。
 答など無い悩みに思考を奪われていると、同僚が気遣うように声を掛けてくる。
「斎藤殿、いかがした? 何処ぞ具合でも悪いのか? 早川様が呼んでおるそうだぞ」
 物思いに老け入り過ぎていたのか、小姓が声を掛けていたことに、同僚に声を掛けられるまで気がつかなかった。
 周囲の気配に聡い斎藤が、声を掛けられるまで気がつかないという事が今までになかったため、同僚は心配そうに伺うような視線を向けてくるが、斎藤はそんなことよりも自分を呼び出したという人物に柳眉を寄せる。
「早川様が?」
 何かとよしみのある佐川ではなく、ほとんど顔を合わせたことのない老中がなぜ自分を呼ぶのだろうか。
 訝しむ斎藤に対し、同僚も首を傾げる。
 家老が直属の部下ではない自分達の事を把握しているとは思えない。
「早川様にはすぐに伺うと返答を頼む」
 小姓は返答に頷き返すと、一礼をして身を翻す。
 いったい何の用件があってわざわざ自分を呼びだすのか疑問に抱きながら、手早く書きかけの書類をきりの良いところまで進めてから、席を立ち家老の控えている部屋へと向かう。
「早川様、斎藤です」
 襖越しに声を掛ければ、低く掠れた声がすぐに部屋に入るよう促す。
 座したまま襖を開け一礼をしてから室内に踏み居ると、早川は目の前に座るように促し、小姓に茶を持ってくるよう言いつける。
 老中に頼まれたお茶の用意をするために、小姓は一礼をして下がる。襖を閉め、部屋を離れようとしたとき薄い襖越しに聞こえてきた言葉に、小姓はぴたりと足を止めた。
「・・・・・・・わしの孫娘を嫁に   後妻になるからのぅ   引き受けてくれんか」
 聞いてはいけないとは判っている。
 だが、小姓はその場を離れることができなかった。
 早川に呼ばれた斎藤のことを小姓はほとんど知らないが、斗南へ移住してくるとき苦労をすることを承知で縁を結んだ女人がいることは聞き知っている。
 普段の様子からでは想像できないが、かなりの愛妻家ともいう噂だ。
 確か連れ添って数年は経ているはずだが、斎藤家に赤子が生まれた話は聞いたことはない。
 早川の言葉から推察すると、子供を産めない妻とは離縁して、後妻に孫娘をもらってくれないかと言っているのだろうか?

「私で宜しいので?」

 さらに斎藤は断るそぶりを見せず、引き受けようとさえしている。偉いことを聞いてしまった。
 すでに小姓の頭の中からは、早川に頼まれた茶の事などすでになく、あわあわあわとあわてふためきながら、その場を転がるように勢いよく離れてゆく。








                                             続く


Sincerely yours,Tenca
初出:2011/04/14
再UP:2012/10/01