ぎこちないキス
 
 




 
 夏の暑さが厳しい季節はとうに過ぎ去り、秋へと季節は移り変わってゆく。
 温暖化の影響か日中はまだ気温が高く、汗ばむ陽気の時もあるが、肌を撫でてゆく風はひんやりと心地よい。
 確実に時は移ろっている。
 夏よりも空気が澄んでいるせいか、青く澄み切った空を見上げるだけでも、夏から秋へと移り変わっているのが判る。
 夏の雲から秋の雲へ。
 あの日から・・・・嵐の中駆け抜けたあの日から、既に三ヶ月が経っているのだ。
 夏から秋に移り変わるのに十分な時間は、堂上に死の気配を漂わせた怪我を十分に癒し、衰えた筋肉を復活させるだけの時間を経過させていた。
 
退院まであとどれぐらいだろう。
 
 今では松葉杖を使う事もなく、日々リハビリに励んでおり、パッと見には怪我を負う前に戻ったようにしか見えなくなっている。
 一ヶ月ほど前まで僅かに足を庇うような仕草を見せていたが、今ではもうそんな様子はどこにも見えず、トレーニングウェアを着ていなければ、入院患者にも見えないほどだ。
 今ではサポーターも取れているはずだ。
 あと、そう長くかからないうちに退院出来るだろう。と、つい先日堂上も言っていた。
「確か、三週間ぐらい前から復帰に向けたプログラムが始まったって言ってたし、あとどのぐらいで退院できるんだろ・・・」
 退院したら今までのように気軽に二人っきりになれる場所はなくなってしまうが、早く退院して今までのように一緒に働きたくてたまらなかった。
 こんなに長い間堂上と離れていたことはない。
 恋人同士の関係よりも、上官部下の関係の方が遙かに長く、勤務中は同班のため一緒にいる事の方が多かった。
 当然、課業中なのだから常にべったりというわけではない。
 だが、ふとした瞬間に違和感を感じ、その違和感はとうとう消えることはなかった。
 いつも傍に有った声が聞こえない。
 その事がこんなにも違和感を生むと言う事を初めて知った。
 恋人同士だったわけじゃないというのに。
 その存在が自分が思って居たよりも遙かに大きく、自分の中にあったということを。
 
   笠原、行け!
 
 図書損害犯が逃げるのを追う時、背後から背を押し出す声が聞こえないことが。
 
   アホか! 何度言えば判る!
 
 失敗したときに容赦のない拳骨と共に下りてくる怒声がないことが。
 
   よし、良くやった!
 
 犯人を捕縛した時、撫でてくれる手と褒めてくれる声が無い事が。
  
 こんなに違和感を覚える事とは思いにもよらなかった。
 それだけ、常に傍にいたことに。
 それだけ、いつも、いつも、傍にいた声が無い事が寂しくて、時に心細く感じるだなんて思いにもよらなかった。
 
「笠原は、すっかり堂上教官に洗脳されているみたいですよーって・・・っったっっっっ」
 
 ぼそり。と呟いた言葉の直後に、脳天にゴツンと容赦のない一撃が下りてくる。
 いきなりなんなんだ!?
 と、背後を勢いよく振り返ると、眉間にがっつりと皺を入れた堂上がギンと睨み付けていた。
 パジャマ変わりに着ているスエット姿でないところを見ると、トレーニングでもしてきた帰りなのだろう。
「きょ、」
「何、人聞きの悪いことを往来で口にしているんだ!」
「なにするんですかっっって・・・・・・・・・・・・・・あ、あたし口に出してましたか!?」
 なみだ目のままいきなり酷い!と訴えようとしたが、その前に同上の言葉で自分が心の中だけで思っていたことをいつの間にか声に出して呟いて居たことに気がつき、今さら遅いと判っていても両手で口を塞ぐ。
「だだ漏れだ」
「え・・・っと、ど、どこからですか?」
 郁は五センチの身長差があるのに器用に上目使いをしながら、堂上にえへらと問いかける。
 聞かない方が身のためのような気がするのだが、どこから聞かれたのか気になるのが人情というものだ。
「いつも傍にあった声が・・・っぐ」
「って、それって最初からってことじゃないですか!」
 拳骨が下りてくる直前に聞かれたと思ったというのに、最初からだって事がその一言で判り、郁は慌てて堂上の口を掌で塞ぐ。
 いきなり口を塞がれた堂上は、一瞬驚くが直ぐにその状況を利用して、自分の口を塞ぐ郁の手のひらをぺろりと遠慮無く舐める。
 一瞬何が何だか判らなかった。
 だが、自分掌で堂上のどこを押さえつけているのか気がつくと、掌に感じた感触が舌であることに気がつき、「ぴぎゃっ!」と訳のわからない悲鳴と共に、郁はよりいっそう顔を真っ赤にして、まるで火傷したみたいに手を堂上から離す。
「な、な、な、な」
 いきなりの事に頭が回らず、舌も回らない。
 こんな時はどんなリアクションをすればいいのか判らない。
 なにせ、男と今まで付き合った事など自慢でもないがない。
 恋人同士だったらこんな時どんなリアクションをすればいいのか。
 かわいらしい女の子だったらどんなリアクションをするのか判らない。
 常の自分なら「いきなり何するんですか!」と噛みつくか、これが見も知らぬ男なら大外刈りを決めるところだ。
 だが、堂上相手にそんな事できるはずがない。
 
 過去のあれこれには目を瞑るとして。
 
 手首をもったままあたふたしていると、堂上はふっと苦笑を浮かべて郁を落ち着かせるようにポンポンとその頭を優しく撫でる。
「驚かせて悪かったな」
 その優しい声音に、ワタワタしていた郁も少し落ち着きを取り戻す。
 反面、自分のあり得ない態度に気分がますます沈み込む。
 
 なんで、コントのようにしか出来ないんだろう。
 
 女子力がないことなど判っていたことだ。
 堂上も今までの部下としての自分を見ていたのだから、女子らしくないことなど判っているはずだ。
 期待などされていなに違いない。
 それでも、あまりの己の女子力の低さに情けなさが込み上げて来る。
 リンゴの皮むきにチャレンジしてみれば、芯のみという状態になり、さらにはお約束通り指を切る始末。
 差し入れを持って来ても食器の事など考慮せず、身の回りの事で気の利いた事など何一つできなかった。
 
 
 こんなんじゃ、いつか愛想つかされちゃう・・・・
 
 
「あほ、そんなのはとうに織り込み済みだ。今さらそんなんで愛想なんかつかすか」
 今度は軽い拳骨が額に当たるが、痛みは全く無い。
「あたし、また?」
 
 だだ漏れでしたか?
 
 目で問うと堂上は苦笑で答える。
「まったく、お前は十分に女の子だ。むしろ  」
「むしろ?」
 堂上は何かを言い掛けたが、言葉にする前に郁の頭に手をまわして犬でも撫でくり回すかの勢いで髪をぐちゃぐちゃにされる。
 容赦ないその力に首ごと見事に左右に振られて、脳が軽くミックスされる。
「ちょ、なにするんですか!」
 柴崎みたいにびしっとブローをしてスタイルを気を付けているわけではないが、一応それなりに髪をとかして整えて来ているのだから、ぐちゃぐちゃにされたくはない。
 もう、酷すぎる!と叫べば堂上は楽しげに笑うばかりだ。
「寂しんぼのお前に朗報だ」
「ちょ、それってどういう意味ですか!」
 聞き捨てならない言葉に思わず噛みつくと、堂上はさらりと間違ってないだろう?と続けた。
「まんまだろう? 違うのか?」
 たった今さっき寂しいと思っていたばかりだったこともあり、そこで「教官ぐらいいなくても立派に業務はできます!」と見栄を張りきることが出来ず、ううううう。と唸ることしか出来ない。
「唸るな唸るな」
 楽しげな堂上にすっかりと負けた気がする。
 だが、それでも、生来の負けず嫌いが顔を出す。
「そ、その寂しんぼの笠原に朗報ってなんですか!」
 開き直ったもんの勝ちだ。
 と言わんばかりに鼻息荒く問いかけると、堂上は対照的に穏やかな笑みを浮かべて告げた。
 
「退院が決まった」
 
 これで、下らないことだったらお見舞いのケーキ一人で食べて、カミツレのお茶だって淹れてあげないんだから!と、子供のような事を思っていた郁だったが、堂上のその一言で、そんな子供じみた考えは全て吹っ飛ぶ。
 
「え・・・?」
 
 この流れで言われるとは思わなかった言葉に、頭が白くなる。
 そろそろだろうとは思っていた。
 怪我を負ってから既に三ヶ月経っており、リハビリの内容も復帰に向けてのプログラムになっている。
 松葉杖はとうに使っておらず、こうして共に院内の庭を歩いていても、怪我を負って入院している患者のようには見えない。
 
 だから、もう時期だと・・・・
 もうすぐ、堂上は特殊部隊に復帰できると・・・・
 
「おいおい、喜んでくれないのか?」
 郁のことだから満面の笑みで喜ぶと思っていたのだろう。
 郁の反応に堂上の顔から少し余裕がなくなってくるが、そんな堂上の様子も今の郁には気がつく余裕はない。
「ほ、ほんとうですか・・・・?」
 からかわれているんじゃないのか、確認したいのに堂上の顔がなぜかまるで水越しに見る見たいに滲んでくる。
「んなことで嘘ついてどうする・・・って、お前何泣いて居るんだ!?」
「な、ないてなんか・・・・」
「ああ、もう泣くようなことじゃないだろう。なんだ、俺と仕事はしたくないのか? 鬼の居ぬ間の洗濯は十分にしただろう?まだたりんか?」
 その一言に郁は思いっきり勢いよく首を左右に振る。
 それこそ首がもげるんじゃないかというような勢いで首を左右に振って、その勢いでそのまま堂上に抱きつく。
 
 もう、いきなり抱きついても鍛えられた身体は揺らぐ事なく、抱き留めてくれる。
 
 その事に嬉しさがますます込み上げ、声にならない。
 それでも、その一言は忘れずに口にする。
 
「一緒にまた仕事が出来て嬉しいです」

 涙声。というより鼻声だ。
 思わず鼻水が出そうになって啜ってしまう。
 
 どこまでもいっても女子度が上がらない・・・・
 
 気分は落ちそうになるが、宥めるように背中を撫でる手が優しくて、暖かくて今はそんな事に落ち込んでいられなかった。
 続けられた堂上の言葉によって。
 
「なぁ、郁。退院祝いが欲しい」
「退院祝いですか・・・?」

  絶対にブスになっている。
 だから、顔をあげる勇気がなくて堂上の肩に顔を伏せたまま問い返したため、くぐもった声になる。
 もちろん、退院祝いを送る事は異存はない。
 むしろ、いらないと言われても用意するつもりでいた。
 できれば、本人の欲しい物をプレゼントしたいと思っていたのだから、堂上からリクエストがあるのは助かるのだが・・・
 
 士長の手取りで賄えるものだといいな。
 
 と、こっそりと胸の内で呟く。
 むろん堂上の事だから、手が出せないような事は言わないと思うのだが。
 でも、遠慮されすぎるのも残念だ。
  
 いったい何をリクエストされるのだろう。
 
「何が欲しいんですか?」
 
 堂上の望みを出来るだけ叶えたい。
 だから、郁は何が欲しいのかと堂上に尋ねる。
 すると、堂上は肩に伏せていた郁の顔をあげさせると、甘い笑みを浮かべたまま一言告げた。
 
「郁からのキス」
 
「キスですか? それならあたしでぇっっぐ」
「頼むから耳元で叫ぶのだけはカンベンしてくれ・・・」
 郁が叫ぶことを見越していたのだろう。
 今度は逆に郁の口を堂上は押さえ込む。
 むろん、先ほど堂上がした悪戯のように、郁が堂上の掌を舐め返す。なんて芸当出来るはずがなく、ただ目を白黒させて堂上を見下ろす。
 士長の手取りなどなんの影響もないリクエスト。
 むしろ「キス。プライスレス」なんて某CMのような言葉が頭に浮かび上がる。
 だが、そのハードルは手取りを心配する以上に高い。
 
 あたし、高飛びの選手じゃないんだけど・・・
 
 と、明後日の方向に思考が飛びそうになるが、堂上がそれを許してくれるわけがない。
 
「あの時、せっかくお前から初めてしてくれたキスだったが、貧血を起こしていたから記憶が霞んでいるんだ。だから、もう一度お前からキスしてほしい」
 
 キスは何度もしている。
 それこそ、郁が見舞いに来てしなかった時など一度もないぐらいに、キスをする。
 だが、それは全部堂上からで、郁からというのはあの本屋のバックヤードで交わした・・・というより、強引に押しつけたキス一度きりだ。

「で、でも・・・・」

 いきなりそんな事を言われても心の準備が出来ていない。
 自分からキスをするだなんて考えただけでも、頭の血管が切れそうだ。
 でも、堂上からのリクエストを無理です!の一言でなかった事にしたくはない。
 だが、自分からだなんて・・・・
 いやいや、やはりせっかく堂上が・・・・でも、自分からキスなど改めて・・・・・・・・
 
「すまん、無理言った。今のは聞かなかった事にしてくれ」
 
 どう答えを出せばいいのかわからず、ワタワタしていると宥めるように頭をポンポンと叩きながら、堂上は自分の言葉を撤回する。
 おそらく本人は苦笑を浮かべているつもりだったのだろう。
 だけれど、少しだけ残念そうな・・・というより、苦笑というよりも何かを誤魔化すようにも見え、郁は思わず俯いてしまう。
 そんな、顔をさせたいわけじゃにのに。
 させてしまった事が悔しい。
 ただ、恥ずかしいだけで、堂上とキスをするのが嫌なわけではない。
  
「郁、いい。気にするな。もう少しお前が慣れたら改めて  」
 
 堂上が最後まで言い切らないうちに、郁はおもむろに堂上の襟首を掴むと引き寄せる。
 女は度胸。
 思わす呟いてしまったようなきがする。
 
「お・・・おまえなぁ・・・・」
 
 微かに触れた所で、堂上は呆れたように呟いた。
 囁きに乗せて吐かれた息が唇に触れる。
 それだけで、身体に血がかっと巡り、ますます身体が強ばる。
 堂上がしてくれるキスはとろけそうな程甘くて、身体から力が抜けて行くというのに、なぜ自分からとなるとこんなに身体がガチガチになるのだろう。
 判って居ても、身体から力をどう抜いていいのか判らず、ただ押しつけるだけのキスをする。
 
「もう少し、力抜け」
「む、むり・・・」
 
 これ以上ないほど顔が真っ赤になっている自覚があった。
 目をぎゅっとつぶりすぎて、眉間に皺がよっているのも判る。
 とても、キスをする雰囲気でないことも。
 
 でも、それでも、堂上の願いを叶えたかった。
 
 だから、キスをする。
 
 あの時と違って、温もりを感じる唇に。
 想いが少しでも届くように。
 
 
 
 
 
 
          好きだっていいますから!
 
 
 
 
  
 
 冷たい唇に乗せた想いは、温もりに解かされて、互いの中に染み渡る。
 そう、願いながら。
 
 ぎこちないキスを貴方に送る。
 
 
 
 FIN




                             Pixiv UP:2013年8月29日
                             サイト掲載:2014年3月23日