ざわり・・・・・・闇が蠢く。音はない。だが、それでも闇がざわめいたのは判った。
 視界に映るものは何一つない、無明の世界。
 光を閉ざされた世界で、無数の闇が蠢くのだ。
 冷たい感触。
 温もりの絶えた世界。
 重苦しいほどの沈黙。
 闇が蠢き絡まりつく。一つ一つは小さな闇。唯一判るのは恐怖に震える歯のぶつかる音と、微かに漏れる自分の声だけ。
 そして、無数の小さな明かり。
 否、それは暗闇を照らす明かりではない。
 鈍い黄色の光。それは、無数の闇が持つ眸。
 逃げたくても闇が絡みついいて逃げられない。
 恐怖に体がこわばり、言うことを利かない。
 
    イヤ・・・・こないで・・・・・・・

 乾いた唇からは、音にならない悲鳴が漏れる・・・・・・・・・・・・・・・





    燃え尽きぬ恋





 麻衣はがばりと体を起こす。肩で荒い呼吸を繰り返し上掛けの布団をきつく握り締めていた。
 とび色の双眸は見開かれ、見慣れた自室をその瞳に映しているはずだというのに、ひどく遠くを見ているようでさえもあった。
 ゆっくりと瞬く。すうど鳶色の瞳が瞼に隠れると漸く強張ったからだから力を抜く。
「夢・・・か」
 ひどく疲れた声音が唇からもれた。
 彼女には似つかわしくない溜息が唇をくすぐり、深閑とした夜を震わせる。時計に視線を向ければまだ四時前だ。起きるのには早すぎる時間。まだ、床について四時間ほどしかたっていない。まして、横になっても睡魔はすぐに訪れていなかったのだ。実質睡眠時間はおそらく二時間あるかないかと言ったところだろう。
 それでも、寝なおす気にはなれず麻衣は起き上がると電気をつける。
 まるで、闇を恐れるかのように室内を明るくすると、漸く一息つける心地に陥る。
 くしゃり・・・と無造作に前髪をかきあげると、冷たい水で顔を洗う。いまだ震える心を静めるために・・・・・・
 何日目だろう・・・ぼんやりと疲れた頭で考える。
 眠りたいけれど眠れない・・・夢を見るのが怖くて、眠れない夜が続く・・・
 



☆               ☆              ☆




 初冬でありながら麗らかな日差しが心地よく感じるその日、渋谷にあるオフィスには久しぶりにメンバーが勢ぞろいしていた。といっても、安原はまだ来てはいないが。ようはお客とはお世辞にもいえないいつものメンバーたちが、まるで示し合わせたかのようにわずかなタイムラグでSPRのドアを開いたのだ。
 一週間ほど前まで行っていた調査の報告書を纏め上げたところで、麻衣はメンバーの中に加わる。
「でも、良かったな。真砂子の足についていた痕がだいぶ消えてきて」
 先日まで取り掛かっていた事件。○県の山奥にひっそりとたたずむようにあった寺で起きた心霊事件だった。撮影で訪れた真砂子は蛇にかまれそれが、原因で憑依されそれに伴う霊障で足に鱗の様な模様が浮き上がっていたのだ。その原因であった姫君の霊が浄化された後その鱗のような模様は徐々に薄れつつあり、一週間たった今ではわずかにうっすらとある程度である。あと、一週間もたたないうちに消えるだろうというのが、メンバーたちの判断だった。
「そうだよね。女の子の肌にやっぱりそんな痕があったら悲しいもん」
 滝川の隣でカップを抱え持ちながら、真砂子の足に視線を向けて麻衣もつぶやく。視線を向けていてもきっちりとそろえられた足は、臙脂色をした着物によって隠され見えないが。
「皆様のおかげですわ。ありがとうございました」
 真砂子もちらりと足元に視線を向けるとにっこりと微笑を浮かべて、改めて礼を述べたのだ。
 いくら仕事上いつ霊障を負うか判らないが、やはり肌に鱗のような模様ができて歓迎できる人間はいないだろう。消えつつあることに喜びは隠せないようだ。
「ナルやリンは相変わらずおこもりかい?」
 冬でもアイスコーヒーの滝川はグラスをテーブルの上に置きながら、ちらり・・・と資料室と所長室に視線を向ける。メンバーがそろっているからこそ確実にその扉が開かれる可能性は普段よりも低くなっているはずである。そして、彼らはただいま熱烈恋愛中だ。
「そっ、この一週間天岩戸同然だよ」
 蛇に変態する女性霊が面白かったのだろう。また非常に興味深いデータが得られたらしく、ナルもリンも嬉々としてデータから片時も離れる様子がないのだと言うのだ。後、当分こんな状態が続くだろうというのが麻衣言である。
「相変わらずだねぇ・・・ナル坊もリンも」
 苦笑を浮かべる滝川につられるように皆も視線を何気なく二つの扉へと向けた。
「まさか麻衣、あんたもあのワーカーホリックに付き合っているわけじゃないでしょうね?」
 麻衣はきょとん・・・として綾子を見る。
 なぜ、二人がデーターと熱烈恋愛中だからといって、自分がそれに付き合うような事態になるのだろうか。
「まさか、そんなことしてないよ。
 私はせいぜい資料やビデオなんかをまとめるだけで、解析なんてできないもん」
 けらけらと笑う麻衣だが綾子はじっと麻衣を見る。
 まるで、自分を上から下まで観察するような眼差しに、思わずたじろいでしまう。
「あんた、非常に顔色悪いわよ。
 目の下だって隈できているし。肌も荒れているみたいよね。なんだか、やつれちゃっているみたいだし」
 綾子の言葉に促されるようにメンバーの視線が麻衣に向けられる。
「そうですわね。麻衣あなたまるで生活疲れした中年女性のような顔色ですわよ」
 なんだか、非常に面白くない例え方をする真砂子に、むっと頬を膨らませる麻衣。
「何だ麻衣、お前ナルに付き合って休んでないのか? いいか、それはやめておけ。あんなやつらに付き合ってちゃお前のほうが持たないぞ」
 すっかりと皆麻衣がナルに付き合って不摂生な生活を送っていると思っているようだ。麻衣はあわててそれを否定する。でないと、彼らのことだナルのところに直談判しに行きかねないからだ。
「そんなことないって、ただここの所学校のレポート関係がたまっていたから、睡眠不足なだけだよ」
 けらけらと笑って心配そうに自分を見る彼らに当たり前のように告げる。
 確かに、麻衣は大学生という身分上、就業中に仕事をしていればいいというわけではない。家に帰れば家事をこなし、大学のレポートなど仕上げておかねばならない。また、その仕事上休みがちな麻衣は友人からノートを仮、通学できないでいた間の復讐などもしておかねばならないのだ。普通の学生よりもかなりハードな日々を送っていることは間違いない。まして、つい先週まで調査に借り出されておりその、報告書やら雑務やらをあげていかねばならないのだ。普段以上に忙しくて当然である。
「そういう時はうちに来なさいって言っているでしょ。まさか、さらにナルの面倒まで見ていたんじゃないでしょうね?」
 何だかんだいいながら面倒見のいい綾子は、麻衣が仕事や学校でてんてこ舞いな時は自分のところへ来いと以前から麻衣に言っているのだが、麻衣が実際にその言葉に甘えたことはない。
 今まででしていたことだし、それを特別苦痛には感じてはいないからだ。
「ナルのところも今週は行ってないよ。本当忙しすぎてさすがに私でも、ナルの面倒は見切れてないよ。
 でも、ご飯は一緒に食べているし、睡眠もとりあえず最低三時間はとってくれるように、約束しているし・・・・・・」
 はたしてその約束が本当に守られているかどうかは怪しいところだが、麻衣と一緒に夕食をとっているということは、食事面ではわざわざマンションまで足を運んで面倒を見るということをせねばならないという事態には陥っていないようだ。
「ならいいけどね。
 無理はするんじゃないわよ。女の子の体はデリケートなんだからね。ストレスなんてお肌の大敵よ。二十歳過ぎたら曲がり角なんだからのんきに構えていたら、見るも無残な老化現象を起こすんだからね」
 美容にうるさい綾子は、その後お肌にいい食材の話へと移っていく。
 麻衣は苦笑を浮かべながらその話を聞いていたが、内心気がつかれないように溜息を付く。
 彼らの目をごまかせるとは思ってはいなかったが、やはり鋭い。ナルやリンにも出勤した時顔色が悪いことを指摘されているから、彼らが気がつかないはずないのだが・・・・・・
 だが、すべては本当にただの睡眠不足なのだ。
 その原因が学校には関係ないことだけだが・・・・
 思わず疲れた溜息が漏れる。その瞬間麻衣はやばいと思った。
 こんな溜息をあからさまについては、みんなに心配をかけるし勉強で寝不足という理由だけではないだろうと詮索されてしまう。だが、タイミングがいいことに所長室のドアが開きみなの視線はそちらへと向いていたため、気が疲れなかったようだ。
 そっと安堵の溜息をもらす。
「あいかわらず時間をもてあましているようで、うらやましい限りですね。そんなに時間が余っているようならば譲り受けたいぐらいですよ」
 扉を開けた瞬間空気を振るわせた毒舌だが、皆はのほほんとしているもので、
「陣中見舞いよ」
「いやぁ、麻衣のコーヒーが飲みたくなってなぁ」
「改めて御礼に参りましたの」
「近くまで来ましたさかい、ご挨拶でもと思うて」
 いかにも彼らしい言葉に、ナルはそれ以上文句を言う気にもなれず麻衣へと視線を向ける。
 メンバーが自分を見る中で唯一いまだ視線を下に向けて、疲れたような表情をしている麻衣に気がつき微かに眉をひそめるが、ナルが麻衣に声をかけるよりも麻衣は自分を見上げる。
「お茶?」
 そう問いかける声はいつもと同じように聞こえるが、覇気が感じられない。
 今朝から顔色が悪いがそれが、さらに悪くなっているように思えるのは気のせいだろうか? たまたまレポートと重なって忙しいといっていたが、本当にそれが理由だろうか?気にはなりつつもナルは疑問を口にすることはなかった。
「そう」
 短く告げると麻衣はすぐに用意するといって立ち上がる。
 そのとたん、まるで膝から力が抜けるようにがくり・・・と体が沈み込む。
「麻衣!?」
 異口同音にみなが麻衣の名を呼ぶ。
 麻衣はソファーに手をついて何とか倒れ掛かる体を支えると、もう片方の手で額を押さえ込む。
 大またにナルが近づき麻衣の体に腕を回して支える。
「大丈夫・・・・ちょっと、立ちくらみしただけだから・・・すぐに良くなるよ」
 億劫そうに漏れる声に誰が信じられるだろう。
「何が大丈夫よ! あんた、今の顔色紙みたいに真っ白よ。ただの立ちくらみの分けないでしょ!!」
「そうですわ。麻衣すぐに休んだほうがいいですわよ。平気には見えませんわ」
 いち早く女性陣が騒ぎ出し、ジョンは遠慮がちに麻衣の体調を気遣い、滝川は部屋まで送っていくといって立ち上がる。
 周りが騒ぐ中でナルは何も言わず麻衣の体を抱き上げた。
「ナル?」
 急に抱き上げられたために驚いたように瞬く麻衣を、さらりと無視して視線を滝川に向ける。
「ぼーさん、車を出してもらえるか?」
 ナルの言いたいことが判った滝川は、ナルから鍵を受け取ると一足先に駐車場へと向かう。
「あたしも行くわよ」
 さっさと荷物をまとめて立ち上がろうとする綾子にナルはかすかに眉をひそめる。だが、来なくてもいいといってもこの派手巫女は絶対に押しかけてくるだろう。なら、最初からとめるだけ無駄である。
「マンションには今食材がないので、適当に買ってきてください」
 その言葉でナルが麻衣をアパートではなく自分のマンションへと連れて行くことが判った。ナルはこのまま仕事を中断して麻衣の面倒を見るつもりなのであろう。もしかしたら、仕事はすでに区切りのいい段階まで終わっているのかもしれない。
「ブラウンさん、申し訳ありませんが後は任せるとリンに伝えて置いてください」
「わかりました。リンさんには僕から伝えておきますさかい、気にせんといてください」
 ナルは軽く頭を下げるときびすを帰して、ドアに向かう。
 ナルのBMWにはすでに滝川が座っており、後部座席にナルは麻衣を抱えたまま乗り込む。
「僕のマンションへ」
 短く行き先を告げると滝川の眉がひそめられるが、バックミラー越しに二人を見ると何も言わず車を発進させた。




 微かに揺れる車中、振動が心地よくまどろみが訪れる。自分を抱えたままのナルの体温が心地よく、麻衣は微かに息を漏らしながら下唇をわずかにかむ。
 不覚だ・・・まさか、立ち上がった瞬間めまいを起こすとは思わなかった。
 ナルにお茶を入れようと思った瞬間、血が音を立てて下がっていく感じがした。視界が一瞬だけブラックアウトし膝から力が抜け倒れ掛かるのを、とっさにソファーの背をつかむことによって何とか体を支えた。ただの立ちくらみだと思いすぐに視界は元に戻ると思ったのだが、体にはなかなか力が戻らなかった。
 このままでは、皆が心配する・・・そう思ったときはすでにナルに抱きかかえられていた。
 力強い腕に抱えられ、思わずほっとしてしまう。
 だが、いくら大丈夫だといってもナルは聞いてくれず、そのまま抱えられて強制退去となった。
「唇をかむな。傷つく」
 目を閉じて思考の海に陥りかけていると、抑揚の欠けた静かな声が現実へと意識を戻す。
 目を開けてナルを見上げようとわずかに首をかしげると、冷たい手のひらが視界をさえぎるように目を覆った。
「な、る?」
「つらいなら眠っていろ」
 冷たい手のひらが心地よく、麻衣はその腕を振り払う気にはなれない。そのままナルの肩に頭を預けると開きかけた瞼を再び閉じる。確かにめまいがいまだにひどくて目を開けていることは、予想以上につらい。
 自分の肩に寄りかかり体重を預けてくる麻衣を抱えなおすと、ナルはそのまま麻衣の両目を冷たい手のひらで覆っていた。言葉など交わしていない。静寂がその場を支配していた。特別特筆するようなことを何もしていないというのに、運転席にいた滝川は居心地の悪さを覚えずに入られなかった。
 恋人同士を乗せることもあるだろうタクシーの運転手は、そのたびにこの居心地の悪さを経験しているのであろうか。
 ハンドルを器用に片手でさばきながら、思わずそう思ってしまった滝川には何の罪もないだろう。
 ちらり・・・と、バックミラーで二人を見ると、言葉も交わさず特別いちゃついているわけでもないというのに、二人だけの世界を見事に築いてしまっている。おそらく麻衣は運転が誰がしているという認識を持つこともせず、ナルに甘えきり、ナルはナルで滝川の存在など最初から視野に入っていないのだろう。その、闇色の双眸は麻衣だけに向けられている。
 お邪魔虫・・・だわなぁ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 したくて、しているわけではないのだが・・・運転手を買って出るんじゃなかった・・・と思わずにはいられない滝川である。
 滝川にとって妙に居心地の悪い時間はそれからしばらく続き、マンションの地下駐車場へと車を静かに止める。
 これ以上出刃亀はしたくないのだが、麻衣の様子が気になるのも事実であり、煙たがれるのは承知でナルの後に続いてエレベーターに乗り込む。もしかしなくても、ナルのマンションに足を踏み入れるのはこれが初めてではないだろうか? エレベーターに乗り込んだとき難解を押せばいいのか逡巡したときに、そのことに思い当たる。
 ナルはプライベートエリアーに他人が入り込むことを許さない。それが、許されているのはナルの懐深く抱かれている麻衣だけである。滝川は、不謹慎だがナルの部屋がいったいどうなっているのか興味が隠せない。もしも、麻衣が具合が悪くなければナルに頼み込んで書斎の本棚をぜひ拝見させてもらいたいのだが・・・今は、麻衣の具合のほうが第一優先であるし、いくら頼み込んでもさすがにプライベートの仕事部屋には入室できるわけがない。
 そんなことを考えていると、チン・・・っと軽やかな音を立ててエレベーターは止まった。扉が開きひっそりと静まり返っている廊下へと出る。
「突き当たりだ」
 ナルの指示に従い一番奥の角部屋の前で止まると、ナルからカードキーを受け取ってドアを開ける。
「ぼーさん、水を持ってきてくれ」
 ナルは短く指示を出すと寝室へと入っていく。
 廊下で一人置いてけぼりを食った滝川は、ぽりぽりとこめかみをかきながら「さて、キッチンは・・・」と呟く。始めてくるマンションだがキッチンなどすぐに見つけられる。これが、お屋敷とかなればまた話は別だが、いくら広いといってもマンション。広さなど知れている・・・とはいえ、一人暮らしにはもったいない広さだよなぁ・・・と思わず呟いてしまう滝川。
 棚からグラスを取り出すと、冷蔵庫から氷を取り出し水を注ぐ。
「さて・・・今すぐに寝室へと足を向けてもいいものだろうか?」
 その場で逡巡してしまった滝川である。

 静かにベッドの上に下ろすが麻衣はいまだにめまいが治まらないのだろう。腕で顔を覆うようにしている。
「具合が悪いならわざわざ出社してくる必要はない」
 冷たい声だがそのしぐさはひどく優しかった。冷や汗で額に張り付いている髪を優しく梳く。
「・・・体調が悪いってわけじゃ・・・ない。本当に・・・・寝不足な、だけ」
 そう呟く麻衣はひどくしんどそうである。たかだか寝不足でここまでへばるだろうか?
 麻衣はどちらかといえば、体力があるほうである。時々風邪なども引くがそれでも、活力や生命力にあふれちょっとやそっとの睡眠不足で体調を崩すとは思えない。確かにこの十日間ばかりせわしなかったのは確かだが、それは調査へ行けば毎度のことだ。まして、今大学は試験中ではない。いくら、レポートが溜まっているとはいえ一週間毎日徹夜していたわけでもないだろうし、ここまで具合が悪くなる要素がナルには思い当たらなかった。
 それに、いくら睡眠不足とはいえ麻衣は確実に自分たちより寝ているはずである。確かに寝汚いことでは彼女の右に出るものはいないが、それでも最低でも五時間は寝ているはずだ。
「寝不足というが、いつからだ」
 寝不足というのだから五時間は確実にきっているのだろう。
「ちょうど一週間・・・になるかな。忙しくて・・・」
 一週間前といえばちょうど調査が終わって東京に戻ってきた日からだ。そのことにナルはおかしいことに気がつく。調査から戻ってきた日は金曜の夕方だ。麻衣はアパートへと戻り翌日の土曜日は休養日として、一日休み。日曜日から出勤し大学へは月曜日に言っているのだ。一週間前から忙しいというのは当てはまらない。
 学校が急がしというのは言い訳か。
「睡眠時間は?」
 そのことに気がつかないふりをしたままナルは淡々と問いかけていく。
「二・・・三時間・・・かな?」
 少ない。
 ナルの眉間にはくっきりとしわが刻み込まれる。最低五時間寝ていれば大丈夫と言っている麻衣だ。五時間ぐらいなら特別ナルは短いとは思わないし、自分にとってはそのぐらい寝れば十分である。下手をすれば仮眠程度で徹夜を続ける自分に、二〜三時間でいいから仮眠は取ってと叫ぶのは麻衣だ。その麻衣が睡眠時間を二〜三時間しか取らないのは異常としかナルには思えない。
「何が忙しいんだ?」
「何がって・・・レポー・・・・・」
「嘘をつくな」
 最後まで言い終わらないうちにナルの声が言葉を封じる。
「嘘じゃ・・・」
「お前がレポートで毎日そんな睡眠時間で過ごすわけないだろう。まして、今はレポートの提出が立て込む時期じゃない。せいぜい、一つか二つ。それも、昨日今日言われてすぐに提出するものじゃない。十分に下準備する時間はあったはずだ。
 いくらのんきなお前でも、いつ調査が入るかわからないんだ。のんびりあとでいいと言って、先延ばしするタイプじゃない」
 ナルは淡々と麻衣の逃げ道をふさいでいく。
 あわててレポートに取り掛かる学生も多いだろうが、麻衣はいつ調査が入って学業がおろそかになるのかわからないのだ。できるときにやっておく。そのことはナルが一番知っている。
「なぜ、眠らない」
 眠らないのか・・・眠れないのか・・・ナルには判らない。だが、どちらかだ。
 確信はないがそう思えた。
 麻衣は唇をかみ締める。ためらう必要があるのだろうか。
「眠っているよ・・・・・・」
 それでも、なお言い募ろうとする麻衣に対しナルは苛立ちを隠しきれない。
「眠れないのか」
 なぜ眠らない?と聞けば眠っていると答える。なら、眠っているけれど寝れないのだろうか。
 麻衣は答えない。
「なぜ、眠れない」
 なお、問いを続ける。
 麻衣でなければ放って置く。たとえ、これがジーンであったとしても健康管理は自分自身の意識の元で行うものだ。できると思うならば不健康と人から言われる生活を送ればいいし、できないと思うならばそれなりの生活をすればいい。ナルはそう思っている。
 だが、目の前でぐったりと横になる麻衣を見て、そう思い切れない。
 体力があるとはいってもそれは女性の中での話し。男としての体力を持つ自分とは比べるべきものではない。
 華奢な体はまだ見た目的には痩せた印象は与えないが、目は落ち窪み頬の肉が若干落ちている。確実に影響は体に出ている。
「なぜ、眠れない」
 ナルは彼にしては珍しく辛抱強く、同じ問いを続ける。
 答えが聞けるまで続けるつもりだろうか。
「麻衣、眠れないんだろう? なぜ、眠れない」
 麻衣はそろり・・・と顔を覆っていた腕を放して自分を見下ろしているナルを見上げる。
 深い闇色の双眸には、自分の顔が映っている・・・。
 闇・・・あの闇と同じ色とは思えないほど、静かで優しい色・・・・・・
「麻衣・・・・・・?」
 ナルはどこか戸惑いを宿した声を漏らす。
 自分をじっと見つめていたかと思うと、白い頬を涙が流れ伝ったからだ。
 まるで、滲み出ている涙をぬぐうようにナルは指を伸ばし、落ち着かせるように髪を優しくなでる。
「夢・・・見るの・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 あふれ出る涙に促されたのか、麻衣は漸く一言だけを漏らした。

 夢を見る。闇が蠢いて自分を捕らえようとする。
 逃げたいけれど体は鉛のように重くて逃げられない。
 足がその場に縫い詰められたように身動きできない麻衣を、闇は蠢いて飲み込もうとする。
 冷たい感触。ざわめき蠢くそれらに、麻衣の恐怖心は煽られ・・・・・

 ぽつり・・・ぽつり・・・ともらされていく内容にナルの眉間にできた皺はこれ以上ないほど深いものへと変じていく。
「眠るのが・・・怖いの。闇が怖くて・・・眠れない・・・の・・・ただの、夢なんだから・・・って思って寝ようと思っていても・・・眠れないの・・・・・」
 腕で顔を隠そうとする麻衣の腕を取って顔をあらわにすると、ナルは身をかがめその目元に口付ける。
 わなわなと震えるのは、言葉をつむぐ唇だけではなく、華奢な体全身にまで及んでいた。それだけ、その夢は麻衣の精神をさいなんでいた。眠ることを体が拒絶する程に。
 小刻みに震える体を抱き寄せると、安心させるかのように背中をたたき、涙にぬれる頬に、わななく唇に触れていく。
 ぎゅっとしがみついてくる麻衣の体を深く抱き返すと、その耳元にささやいた。
「麻衣、夢は見ない」
 静かに響くテノールが優しく耳朶をくすぐる。
 ナルの指は優しく麻衣の背中を髪をなでていく。
「闇はお前を苦しめない。静かで優しくお前の眠りを守る存在だ」
 強張っていた身体から、ゆっくりと少しずつ力が抜けていくのがわかる。
 まっすぐに麻衣の双眸を見つめ、ついばむようなキスを何度か繰り返すことで、さらに身体からは力が抜けていく。
「眠りの世界にお前を苛むものは、何もない」
 ナルの手のひらが視界を覆い、ゆっくりと麻衣の瞼を下ろしていく。
 ひんやりとした感触が気持ちよく、ささやかれる声音に誘導されるように、拒み続けてきた睡魔が優しく包み込んでくる。
 やがて、すっかりと力の抜けた麻衣は静かな寝息を漏らし始めた。
 ナルは麻衣の身体をベッドへと横たえると同時に、遠慮がちにドアがノックされ滝川が恐る恐る寝室を覗き込む。
「麻衣はもう眠っています」
 手に持っているコップに一瞥をむけながら淡々と告げるナルが、非常に不機嫌だということにすぐに気がついた滝川は、まずいタイミングできたかな?と思わずに入られなかった。が、それでも麻衣を心配する気持ちのほうが上回った。
「麻衣は?」
 麻衣の様子を覗き込もうとする滝川を追い出すように、ナルは寝室を出て行く。扉を閉める前にベッドへと視線を向ければ、静かな表情で眠り続けている。夢に苛まれる事はないだろう。
 確信を得ると静かに扉を閉めた。
「夢?」
 ナルから説明を聞いた滝川は、しばらく言葉が続けられなかった。
 夢如きで身体が睡眠を拒絶するだろうか?
「軽いPTSDだ。おそらく、前回の調査で蛇に襲われたのが恐怖として残っているんだ。
 だから、夢を見る」
「あ・・・あれか。確かにあんな目にあったら仕方ないか」
 調査中、麻衣は蛇に襲われた。
 それも、一匹や二匹ではない。何百匹という蛇に襲われそ全身をその蛇に覆い尽くされてしまったのだ。そのときの恐怖は想像を絶するものがあるだろう。心に恐怖心が焼き付いてしまっても当然だろう。
「夢を見るから身体が眠ることを拒絶する・・・か。今はどうなんだ?」
「夢もみることなく、眠っている」
 おそらく催眠誘導で静かな眠りに導いたのだろう。
 だが、しばらくは心のケアが必要である。
「失念していたよ。麻衣やお前さんの持つ能力は、一歩間違えば精神を病む危険性が非常に高いってことを」
 ナルのことは皆が気をつけていた。それは、それほど強い力だからだ。しかし、それは精神を病むというよりも、そのままトレースしてしまう可能性が高いからだ。
 だが、麻衣の能力は主に夢を通じて見るもの。時として深く感応しナルの持つ能力同様にトレースしてしまい麻衣に危険をもたらすが、それでもそれが原因で麻衣の心が病む可能性を失念してしまったことには変わりない。
「自分をガードし切れていない。未熟なだけだ」
 薄情にもそう告げるナルに滝川は怒りを覚えたが、その表情を見て怒りを飲み込む。
 ナルが苛立ちを感じているのは間違いない。
 それは、自分に何も告げようとせず一人で耐えようとしていた麻衣に対する苛立ちであり、そんな麻衣の様子にここまで気がつかなかった自分に対する苛立ちのようでもある。おそらくは両方の苛立ちが今のナルを支配しているのだろう。
 なんともいえない沈黙がリビングを包み込んでいると、それを破るようにインターホンが鳴り響く。ナルが出る様子がないので変わりに滝川が出ると、にぎやかな声がインターホン越しに聞こえてきた。
『食材買いこんできたわよ!あけて』
 に始まり、にぎやかな面々がどっとナルのプライベートエリアに押しかけてきたのはそれから数分と立たないうちのことだった。
 ナルは彼らがたどり着く前に、立ち上がると寝室へと向かう。
 扉に手をかけながら「麻衣は眠っているので、こちらには来ないように」それだけ言い残すと、ナルはさっさと寝室へと身を滑り込ませた。
「俺に説明してあいつらの相手を務めろってことかね?」
 苦笑を浮かべながら滝川は呟くと、勢いよくやってきた彼らの相手をするべく玄関を開ける。

 一気に扉の向こう側が騒々しくなったことにナルは、眉をひそめながらも麻衣の眠りがそれによって妨げられていないことを確認し、軽く息を吐く。
 静かにゆっくりと繰り返される呼吸。
 ナルが柔らかな頬を包み込むように片手で触れると、ふっと表情が和らぐ。


「眠りは麻衣を苛むものではなく、優しく包み込むものだ  
 
 ナルの囁きが麻衣の中に浸透していく。
 静かな、闇に包まれて安らかな眠りについていた麻衣は、愛しい腕の中にいるような気がしてしばらくぶりの睡眠をむさぼっていた。





 目が覚めたときにはすっかりと顔色も良くなった麻衣を見て、安心したのか綾子と滝川のW小言を聞いた後、綾子が腕によりをかけて振るったディナーをなんと、ナルのマンションで味わう貴重な体験を味わうことができたのだった。











 それ以後、麻衣は夢に苛まれる事はない。

 優しい闇が彼女を深い眠りの世界で守ってくれるから。

 この世で一番、優しく愛しい闇が。
 
 


















☆☆☆ 天華の戯言 ☆☆☆
 終わりました・・・・でも、できたものは連載していた事件ものとはまったく関係のない話に・・・・
 ナルと麻衣のいちゃいちゃを期待してくださった方には、申し訳ありません・・・・特別いちゃこらは、していないです(>_<)
 やっぱり、今回の話でそれを入れるのは無理でした・・・・
 今回、蛇に襲われた麻衣チン。普通、ただかまれただけでも怖くなりそうなのに、あんな目にあったら絶対にトラウマになる!と思ったので、ラストにそのことに触れてみました。困ったときの催眠術?
 でも、おそらく催眠的なことはほとんどないかと思うんだよね。
 心の問題ってある意味、本人の気の持ちようによって、良くも悪くもなると思うし・・・
 病は気からっていう言葉はあながち嘘じゃないと思うし。
 喘息出てくれると便利なのになぁ・・・と思っていると、本当に喘息でたことあるし。
 本当、思い込みってかなり、影響してくると思う。
 だから、おそらく闇=優しく守るもの=ナルという定義が麻衣の中でしっかりと根付けば、怖いものじゃなくなるだろうなぁ・・・と、ここで説明してどうする!私!!ってな感じですねぇ・・・・・

 ではでは、また次回のお話にてv










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