-終-






 
  終章 《花の下で  》



「ナル! 麻衣いる?」
 ノックもせず勢いよく飛び込んできたのは、シックなワインレッドのパーティードレスに身を包んだ、妙齢の女性のはずの松崎綾子。彼女は眉をつり上げて裾が無造作に広がることも気にせず、仁王立ちしていた。
 髪のセットを終えたばかりのナルは、鏡越しに闖入者を見て煩そうに眉をしかめる。
「いませんが?」
 ヘアメイクが離れたのを合図に、ナルは立ち上がって振り返る。その姿を見て眉をつり上げていた綾子は、振り返ったナルを正面からじっくりと見て、さすがね。と、感嘆のため息を漏らす。
「やっぱりいい男は何を着てもいい男に仕上がるわね。花婿(パセリ)の方が花嫁(メイン)を喰っちゃいそうな仕上がりじゃない」
「ドウモ」
 綾子の讃辞にナルは棒読みとしか思えない返事を返す。
 数本後れ毛のように額にかかっているほか、髪は珍しくオールバックにセットされ、ありふれたデザインにしかすぎないはずの黒のテールコートを着たナルは、そこらのモデルよりも確実に着こなしているだろう。
 生半可に着飾っただけでは、隣に立ちたくはない。少なくとも綾子は、このナルの隣に立って並ぶのはごめんである。完全に喰われてしまうのが簡単に想像つく。
 しかし、けして表情は合格とは言えないが。ビジュアル面は文句なしの満点だろう。
「麻衣は控え室にいるのでは?」
 ナルの問いに綾子は軽く肩をすくめる。
「いたら、ここには来ないわよ。
 あの子ったら、ちょっと目を離した隙にどっかいちゃったのよね。まったくどこふらふらしているのかしら。せっかくブーケが届いたって言うのに。
 こっちに来るかもしれないから、その時は控え室に戻ってきなさいと伝えてね」
 綾子はそれだけ言い捨てると、ヒールの音を響かせて部屋を出て行く。入ってきた時も慌ただしかったが、出て行く時もまた慌ただしい。
 教会内ぐらい静かにすればいいものを。とナルでなくても思うだろう。
 ナルはしばし、開けっ放しにされたドアを見ていたが、何気なく視線を窓の外へと向ける。抜けるような青空とはこのことを言うのかもしれない。冬の重たげな空とは違い、澄み切った空がそこには広がり、仄かに色づいた花を身にまとった枝が空を覆わんばかりに広がっている。
 暖かな日差しがさんさんと降り注ぎ、四月とは思えないほどの陽気。散歩日和とはこの日のことを言うのだろう・・・少なくとも、彼女ならそう思ってもおかしくはない。
「時間はまだありましたね?」
 背後にいた安原に視線を向けると唐突に問いかける。彼も綾子同様フォーマルな装いをしている。
「ええ、大丈夫ですよ。所長の支度は終わってますし、三十分ぐらいしたら戻ってきてください」
 ナルが全てを言わなくても、判っているのだろう。怪しげな笑みを浮かべて手を振っている。それにナルは何も答えず、綾子が開けっぱなしにしていったドアから出て行く。


※   ※   ※


 桜の木立に囲まれた小さな教会。都会の喧騒からかけ離れひっそりとし、まるで現とはへだったかのように独特の空気を纏っていた。
 柔らかな日差しはこの日を祝すように大地を照らし、小鳥達はまるで祝辞を述べるかのように囁きあっている。ほんの僅か・・・一週間ほどしか咲かせない春の王(はな)。四月の第二土曜日ともなれば、とうに散りゆき新緑の葉が花の変わりにその枝を彩っていると思っていた。だが、今年の冬は思っていたよりも寒かったため、桜が開花するのがここ通年より遅く、四月入ってからのことだった。
 大気を渡る風も静かに枝を揺らす程度で、さわさわと緩やかに花びらを振らせる。花嫁の上に。
 音と言う音は一切無い。シン・・・・と痛い補どに静まり返った空間に麻衣は一人立っていた。まるで、何事も焦る必要など無いと全てが語るように、静寂がそこに横たわっている。
 麻衣は深く深呼吸をして心を落ち着かせると、空を仰ぐ。
 暖かな日差しの中穏やかな春風に揺られながら、花びらが静かに宙に舞う。青い空を淡い色に染め上げ、十重、二十重に織り成す枝の隙間から、零れ落ちていくかのように。
 風にたゆたい、柔らかに踊りながら、翻る春の花(さくら)。
 厳かに鳴り響く祝いの鐘の音色を受けて、春の花はよりいっそう華やかさを増したように見えるのは気のせいだろうか?
 きっと、この日を天(そら)にいる皆が祝福してくれているのだろう。
 だからこそ、諦めていた花園が空を覆い、ノースリーブでも寒さを感じない陽気なのだと、自分に都合のいい方へと解釈をすると、麻衣はドレスの裾が汚れないようにたくし上げながら、木々の間を歩いていく。
 無造作に植えられている桜は、吉野桜としだれ桜。どちらも華やかさでは引けを取らず、まるでどこか知らない世界に迷い込んできてしまったような錯覚をする。
 教会の私有地のため、普段は自由に人の出入りが出来るのだが、教会での行事・・・ミサや式などがある場合は立入が制限されており、勝手に入り込む者もなく、お花見と称して宴会がそこらで行われているような悲惨な状態にはなっておらず、幻想的なムードを好きなだけ堪能できる。
 教会の塔が桜の花に隠れて見えなくなるほど歩くと、麻衣はその場に座りこみ、そっとハンカチの包みを開く。
 そこには、いくつもの指輪が包まれていた。
 色々なデザインの指輪。石がついている物もあれば、ついていない物もある。幅が広い物、狭い物、一目見ただけで高価だとわかる物から、出店で買えるような物、古びて変色しいる物から、傷はついている物のまだ比較的新しい物まで統一感のないそれらが大切そうに包まれていた。
「こんなところで何をしている」
 呆れたような声が背後から聞こえ、麻衣が振り返るとそこには予想通り少しばかり呆れたような顔のナルが立っている。
「お散歩?」
 なぜ、疑問系なのだろうか。
「せっかくいいお天気だし。誰もいなかったし。ちょうどいいかなーと思って」
 なにが? とはナルは聞かなかった。麻衣のその手のひらに収まっている物を見れば何のためにここまで来たのか判ったからだ。
 半年度前に関わった事件の遺物(ゆびわ)。
 それをここに埋めに来たのだろう。
「ここ、静かだし。桜綺麗だし。鐘の音も素敵だし。いいところだと思わない?」
 ナルは肩を軽くすくめて答える。
 自分にはそういった類の感傷は判らない。
「六月の花嫁(ジューンブライド)も憧れるけど、桜の下での結婚式も素敵だし。
 やっぱり、日本人は桜が好きだしね! ここなら静かでゆっくり眠れるかな・・・って思って」
 麻衣は枝を見つけるとそれでしだれ桜の下に、穴を掘り始める。手が汚れることも気にせず深さ二〇センチに満たない穴を開けると、その中にハンカチ事指輪を置き、再び土をかぶせる。
 麻衣がそう思うのならそうすればいい。
 ナルは彼女たちが残した指輪がどうなろうとどうでも良かったのだが、半年もの間、麻衣はよくその指輪を手放すことなく持っていたと思う。
 普通あんな目に遭えば、気味悪がって持ちたくないと思うのではないのだろうか?
 だが、きっと麻衣のことだ。早くに命を散らしてしまった彼女達に同情し、式を挙げられなかった彼女達の変わりに、せめて教会の花園に、指輪を埋葬してあげようとでも思ったのだろう。
 お人好しがすぎるから、トラブルに巻き込まれるのかもしれない・・・この様子なら、イギリスでもきっと騒動を起こしてくれるだろう。
 それもこちらが予想だにしていないような事でだ。
 そんな光景が簡単に予想が出来てしまい、ナルは思わずため息を漏らしてしまう。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なにかな、そのため息は」
「別に・・・・・・」
「って感じじゃない!」
 妙なところで聡いが、その敏感さをもう少し別の所で役立ててくれれば良いと思うのだ。そうすれば幾ばくかはトラブルが減るだろうに。
 麻衣はしばしナルをじとっと睨み付けるが、気分を変えたように立ち上がると、くるりと身を翻す。
「ねぇ、ナルこのまま少し散歩しよう。お天気良いし! せっかくドレスアップしているし!」
 ドレスアップしているのならば、逆に大人しくしているべきだろうし、麻衣は全く逆のことを楽しげに言う。
「そろそろ始まる時間じゃないのか?」
 ナルは時計を持っていないから判らない。むろん花嫁姿の麻衣も時計など持っていない。だが、何となくそろそろ戻った方が良い頃合いだろう。なにせ、麻衣は今歩くのに普段より時間がかかるのだから。
 その事を指摘すると、ようやく気が付いたような表情をする。
「あ・・・そうか。さすがに私達が遅刻するわけにはいかないもんねぇ?」
 主役が遅れたらどんな雷が落ちてくる事やら。
 麻衣はクスクスと笑みを漏らしながら、散歩は終わってからにしようと言い切って、ナルと共に来た道を戻り始める。
「なーんか、まるで桜のヴァージンロード歩いているって感じだね」
 桜のアーチの下、花びらが敷き詰められた上を、二人して歩いていると二人だけの結婚式を営んでいるような気がする。
 風に乗って聞こえてくる、祝福の鐘の音。
 微かにオルガンの音まで聞こえてくるような気がしてくる。教会内で流れているバックミュージックなのだろうか。
 シンと静まりかえり、教会内ではないが厳かな気分になってき、麻衣は不意に足を止めた。
 それにつられるようにして、ナルも歩みを止めて振り返ると、麻衣は何かを思いついたように笑みを浮かべる。そして、急に真剣な顔をしてナルの顔を見上げると、ゆっくりと唇を開いた。

「汝 オリヴァー・ディビス。
 病める時も 健やかなる時も
 富める時も 貧しき時も
 死が二人を別つ時まで
 谷山 麻衣を妻とし 愛すことを誓いますか?」

 その言葉にナルは軽く瞠目する。
 なぜ、今麻衣が宣誓の言葉を口にするのか、その真意は掴めない。
 怪訝な顔をするナルに、麻衣は茶目っ気たっぷりの笑顔を浮かべて、ついっと天を指さす。
「せっかく晴れているし。この天気はきっと皆からのお祝いだよ。きっとね、だから・・・ね?」
 空には麻衣の父と母が居る。
 そして、ナルの兄がいる。
 彼らがこの日を祝して、桜を咲かせ、晴れやかな陽気を用意してくれたのだろうか?
 一介の死人にそのようなまねが出来るわけがないことは、むろん二人とも別っている。本気でそんなことは信じてはいない。
 だが、そう思ってしまうほど、この日はとても気持ちの良い日だったのだ。それになによりも、神が祝してくれていると思うより、よほど彼らが祝してくれていると思った方が、嬉しかった。
 麻衣の言いたいことが判ると、ナルは僅かに口元に笑みを浮かべる。 ジーンですら見ることの無かった、柔らかな微笑み。
 麻衣だけが見ることの叶う、ナルの優しさ。
 ナルは麻衣と向かい合うように立つと、その左手を取り彼女の今は何の指輪もはめられていない、薬指へと口づけを落とす。

「・・・・・・・・・・‥‥誓おう  永久(とわ)に」

 ナルの言葉に麻衣は一瞬息をのむと、ふわりと笑みを浮かべる。
 死などは関係ない。
 己という意志が存在する限り、誓おう・・・・・・
 ナルの言葉にしなかった想いが伝わってき、麻衣の涙腺がゆるみ始める。
 式前に泣くのは御法度! と、綾子に厳命されていたにもかかわらず、視界が滲んでくる。
「不意打ちだぁ・・・」
 ナルからしてみれば、どちらが不意打ちだと言いたいところだ。
 顔を真っ赤にして泣くのを堪えている様子は、はっきりと言ってせっかくの衣装が台無しだ。だが、その方が麻衣らしいと思う。
 ずっしりと重いこの日だけ着ることの許された神と人々の祝福を受ける純白のドレス。トレーンの先に繊細なレースがあしらわれているほか、豪奢なレースはほとんど使われていないが、ファーと大振りのリボンが胸元を華やかに飾っている。
 その姿で桜の下に立っているのを見た時は、そのままその風景に解けて消えてしまうような錯覚さえ陥った。
 だが、こうして彼女らしい表情をしていると、先ほど感じた物が嘘のように霧散していくのをナルは感じる。
 半年ほど前に抱いた、喪失の恐怖。
 これからも、ありとあらゆる形でつきまとうだろう。それは生きている限り、逃れられない業の定めなのだ。
 ナルだけではない。誰の上にもつきまとう業。
 それが、唐突にやってくることをナルも麻衣も知っている。だからこそ、約束は無意味だということも、知っている。
 己の力ではどうしようもないことを、イヤと言うほど知っているからだ。
 だが、それでも誓う。
 そうならないように。
 けしてなくすことなどないように。
 ナルは指先から唇を離すことなく、視線だけを麻衣にずらす。
 漆黒の双眸がまっすぐ自分を見ていることに気が付いた麻衣は、頬を一瞬赤らめるがゆっくりと唇を開いた。

「・・・・・・・・・・永遠に、誓います」

 お父さん、お母さん。
 だから、安心してください。
 死が二人を別つ時まで・・・たとえ、別ったとしても、愛する人を得たから。
 もう、一人じゃないから・・・・・・・・・・
 だから、どうか安心してください。

 麻衣の心の声を聞き届けたかのように、一陣の強い風が吹き抜ける。
 枝は音を立ててしなり、その身に纏わせていた花びらを一気に散らせ、二人の姿を花霞の中に包み込んでしまう。
 布地に強く皺が寄るほど互いを、抱き寄せられ、抱きしめる。
 



 麻衣は桜の花びらが降り注ぐ、真っ赤なヴァージンロードを皆が見守る中、一人歩いていく。
 桜の大木の下にたたずむ、花婿(ナル)を目指して・・・
 風がたなびき、桜の花びらが雪のように降り注ぐ下を。
 一歩一歩を踏みしめ、ナルの元にたどり着くと、ナルはその手を差し出し麻衣の手を握る。










                                   終わり



                    2005年に合同紙、2009年に再販
                    2015/08/22 UP