永遠の傍ら










 常にあったもの。
 傍らにあり。空気のように、水のように存在したもの。
 あまりにも傍らにあるのが当たり前すぎて、気が付かなかった。
 
 それが、どれだけ今の自分に必要だと言うことが。
 自分を構成しているものだということが。
 気が付けなかった。
 それが無ければ生きていけないということに。
 空気がなければ、呼吸をせずには生きていけないということを。
 水がなければ、乾き干からびてしまうということを。
 そんな当たり前のことを   忘れていた。

 忘れてはいけないモノなのに   

        『当たり前』   
 

      その言葉を、人は『傲り』と言うのかもしれない。







序章 すべてはここから始まる




 人目を忍ぶように、彼らは村のはずれに立っていた。十代半ばと思われる少年と、少女の二人。そのうち少年の方は、旅支度を調えていた。誰が見ても彼がここから旅立っていくのが判る。
「四年後に、戻ってきます。
 それまでに、お嬢さんと釣り合う身分になって、旦那様に認められる地位を得て、お嬢さんを迎えに来ます」
 日に焼けた顔に、真剣な表情を浮かべて少年は少女に向かって告げた。少女は、目尻に涙を浮かべながらコクコクと頷いている。
「お待ちしております。四年間、ずっと、ずっとお帰りになられるのをお待ちしております。
 ですから、立派な方となってわたくしを迎えに来て下さいませ」
「約束をします」
 少年は少女の手をぎゅっと握りしめると、彼女の涙を振り切るように背中を向けて、歩き出す。
 年端もゆかぬ二人の恋は真剣なものだった。
 十六歳と、十四歳という若さであっても、将来夫婦になろうと誓い合った。だが、二人の間には深くて長い溝が横たわっていた。身分という、簡単には超えられない溝が。
 だから、少年は溝を埋めるために望んだのだ。
 少女に釣り合う身分という名の地位を。
 少女が未婚でいてもギリギリいられる年頃・・・親に、半ば無理矢理嫁がれなくて済むまで後四年。それまでに、少年は少女を迎えに来ると誓って、生まれ故郷を後にした。
 少女は、ひたすら少年の姿を見つめる。
 涙でにじんだ姿が消えるまでずっと、沼のほとりに立ちつくしていた。
 ひらひらと雪が舞い降り、少女の肩にうっすらと雪化粧が施される頃になっても、その視界から少年の姿が消えてしまっても、動くことを忘れてしまったかのように少女は立ちつくす。
 そして、その日からいかほどの月日が過ぎただろう。
 幼き約束。それを指折り数えて過ごす日々。
 だが、時が経るにつれ記憶はあやふやになってゆく。
 大事な、大事な記憶は、より鮮明に鮮やかなものへと塗り変わってゆく。

 そして、歯車が狂う。

 大切な記憶は、色鮮やかな確かなものへ。
 忘却された記憶は、薄墨のような曖昧なものへ。


「ウソよ!」


 あの時と同じ、雪に覆われた地。人里から離れた場所。移ろいゆく時の中、変わることのない場所。夏ならば緑豊かな葉を茂らせるだろう木々は、冬の寒さに凍てつき枯れ枝を晒すばかり。
 人が歩けばガサリ、ガサリと枯れ果てた葉を踏みしめる音はすれど、それは心地よい音にはならない。
 人の心を不安におとしめるような暗く乾いた音が幾重にも響く。にぎわい・・・というものにはほど遠いものだったが。
 空はどんよりと曇り今にも冷たい粉雪を降らせようとしていた。肌を掠める風は氷のごとく冷たく、人の温もりを奪ってゆく。
 ここは人に優しい場所ではなかった。
 だが、それでもその場には複数の人々が居た。
 普段は誰も近寄ることのない場所。
 村はずれにある野原。
 その中央にある小さな沼。
 冬は誰も訪れない凍てついた土地。
 春ならば春の花や芽吹いたばかりの若芽を摘みに来る者も居よう。柔らかな日差しに誘われ、春の野草を腕にいっぱい抱えて童達が楽しげに歩き回っているだろう。
 夏ならば沼に生息するドジョウや、魚を釣りに来る者も居よう。ぎらつく太陽の日差しを避けるように木陰で涼む者も居よう。
 秋ならばたわわに実った果実や、キノコなどを取りに来る者も居よう。
 すべてが恵みの季節。
 小さな寂れた村に与えられる神の恩恵なのだから。
 しかし、冬には誰も訪れるはずのない地。
 草は枯れ果て、沼は凍てつき、人々に与える物など何もないのだから、誰も近寄ることのない場所だった。
 だが、この日は違った。
 人々が集まる。
 何かを見つめ、ざわめく。
 何を見つめ呟いているのか、彼女は判らなかった。
 ただ、茫然自失と辺りに虚ろな視線を向ける。

 ウソ・・・・・

 ウソよ・・・何かのマチガイよ

 彼女の呟きは誰の耳にも届かない。
 聞く者もいなければ、耳を傾けようとする者もいなかった。
 彼女の叫びも、訴えも誰の耳にも届かず、心に届くこともなく、ただ風に流れて消えてゆく。
 無力だった。
 彼女は何も力を持っていなかった。
 彼女は独りだった。
 昔は自分の言葉に耳を傾けていた者も、その場に跪き頭(こうべ)を垂れていた者も今は彼女と視線を合わせようとはしない。
 認めたくなかったが、何もできなかったのだ。
 出来ないまま、その瞬間が訪れる。
 身体をねっとりと包みこむ、冷たい感覚しか彼女にはない。
 音も聞こえず、
 何かを見ることもかなわず、
 声を発することも出来なかった。

 ゴポリ・・・・・

 不気味な音が暗闇に響く。
 泡が何かに押しつぶされるように、目の前で弾ける。
 指先が救いを求めるように伸ばされるが、身体を押し包む何かに邪魔をされて、先へと延ばすことは出来ない。
 白い指先が黒く汚れている。
 救いを求めて開いた口には、空気ではない何かが大量に潜り込む。それは、気管を圧迫し空気が通るのを塞いでしまう。

 なぜ・・・どうして・・・・・!

 彼女の慟哭は誰の耳にも届くことはなかった。
 ただ、愛しい人を待っていただけだった。
 もうじき・・・もうじきだった。
 別れたあの時から四年。漸く待ち望んだ日まで後僅か。願いに願った日まで後少しだったのだ。

 なのになぜ?

 四年前、再会を約束して行ってしまった人をただ待っていただけだというのに。
 このまま死ぬのはイヤ。
 このまま独りになるのはイヤ。
 独りはイヤ
 ここは暗くて冷たくツライ

 やっと、会えるのに。
 やっと やっと 待っていた日が来たのに

 約束は目の前まで来ているのに
 行かなければ あの人の所へ
 待っているあの人の所へ
 行かなければ
 行かせて お願い
 ジャマしないで
 行かせて

※           ※           ※

 少女はふらり・・・となにかに、誘われるかのようにその場所へ訪れていた。
 虚ろな眼差しは目の前にあるものを何一つ映さない、ガラス玉みたいな空虚そのもの。真冬だというのに、白いノースリーブのワンピースだけを身に纏い、スカートの裾が風に攫われ白い素足を火の元に晒す。
 沼は凍り付き、確実に気温は氷点下を割っているだろう。だが、少女は身震いをすることもなく、素足で雪を踏みしめる。

「約束をしたのに・・・・・・・・」

 ぽつりと、カサカサに乾いた唇から言葉が漏れる。
 掠れた声は直ぐに風に攫われてかき消えてしまったが。

「独りは・・・・・・・・いや・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 少女はふらふらと危なげな歩みで雪の上をまっすぐに進んでゆく。
 からだ、ふら〜り、ふら〜り、と揺らぎながら。
 口の中で何かを呟く。

 独りはイヤ
 約束したの あの人と約束・・・・・・・・したの
 大学を卒業したら、共に生きていこうって・・・・・・・


 なのに、どうして?
 なぜ?
 置いていくの?
行くの あの人の元に

 行きたい 約束をしたから

 白い足が雪の上を踏みしめる。体重が右足から左足に移った瞬間、素足の下で何かがひび割れる音が聞こえたが、雪の厚みに隠され少女は気が着かないまま、空に上げた右足を再び雪の上に載せる。
 ソレと同時に広がる、ひび割れる音。
 少女が認識する前に、それは大きく広がり、亀裂が生じすべてを飲み込む。

 全身を突き刺すような冷たさに包み込まれるが、すでに少女はその感覚を持たなかった。
 藻掻いたのはほんの一瞬。
 すぐに、手足を動かすことが出来なくなる。
 滲んだ視界から見えるのは、灰色の雲から落ちてくる、雪のみ。
 少女はソレを掴むように手を伸ばす。

  イきたい
行くの あの人の元に

 行きたい 約束をしたから

 薬指のリングがキラリと輝きを放つ。
 そのきらめきを掴むように、その先に少女の望むものがあるかのように、手を伸ばす。だが、それは何も掴むことは出来ない。それでも、少女は諦めずに伸ばす。

  イきたい


 あの人に 会いたい



     そのために今まで生きてきたのだから



 
 イクノ  いきたい・・・・・



             生きたい






              ワタシはイキタイ!!
 



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