永遠の傍ら

後編 1






 
    第六章





「ナル坊、いい加減に休まねーと身体もたねーぞ」
 不意に耳に届いた声に、ナルは数度瞬きをして視線を紙面からずらす。
 滝川を通り越しその背後の時計を見れば、彼と交代してからすでに三十分が経過していた。
 深夜三時を回り誰もが眠気を覚えてもいい頃だが、意識が冴えきり眠気が忍び寄ってくる気配はない。最近暇だったせいもあり、睡眠不足と言うこともなかったのだ。一日や二日ぐらい徹夜をしてもさほどのことはないが、いつどんな状況になるか判らないのが調査だ。
 休める時に休んでおくのも仕事の一つである。
 義務的に思考を切り替えると、ナルは無言のまま立ち上がる。
 安原の資料を一通り目を通し終えた所でもあったのだから、きりが良いところで上がっておくのがいいだろう。下手に思考を巡らせてしまえば、止めることなど出来なくなるのがよく判っている。
「寝坊すんなよ〜」
 あり得ないと判っていながらも、滝川は欠伸をかみ殺しながら、ナルの背中に向かって言うのだが、当然ナルからは返事が戻ってくるはずもなく、静かに扉が閉められた。
 ベースと化しているリビングは暖房によって暖められていたが、廊下にまでその温もりが浸透しているわけがなく、その温暖差にナルでさえ一瞬身を震わせる。
 ザッと瞬間的に鳥肌が立つが、だからと言って歩みを早めることもなく、いつもと同じ足取りで廊下を進み階段へとさしかかったところで、ナルは不意に足を止めて振り返る。
 廊下の明かりは万が一のことを考えて付けっぱなしにしている。何か有った場合暗い廊下を駆け下りるのは危険だからだ。
 そのため、寝静まった深夜でも廊下は明かりに照らされ隅々まではっきりと見える。周囲に視線を巡らせナルは何が自分の意識に引っかかったのか思考を巡らせる。
 一見しただけでは特別何の変化もない。
 シンと冷え切っている空気に吐き出される白い息だけが、動くものとして視界を掠める。
 気のせいか・・・
 釈然としないものの、これといって変化を見つけることが出来ず、身を翻し階段を上ろうと足を上げたところで、はっと勢いよく振り返り、今度は一カ所だけを見つめる。
 漆黒の双眸が視野に収めたのは玄関ドア。
 チェーンはいざ出る時に邪魔なので使わないが、それでもドアに鍵は掛かっていたはずだ。だが、今ナルの目の前にある玄関ドアには鍵が掛かっていない。
 素直に考えるならば鍵の掛け忘れだろう。特にナルのマンションはオートロックになっているため、麻衣は時折鍵を掛け忘れることがある。
 誰かしらモニターの番をしているのだ。鍵を掛けなくても大丈夫だろうと思い、掛けなかった可能性もある。
 だが、ナルは何かに誘われるかのように階段から離れ、玄関のドアノブをゆっくりと押し開く。
 音もなく振り続ける真っ白い雪は、闇を染めるかのように空から絶え間なく降ってくる。外灯などないため遠方までどうなっているかは見えないが、背後から漏れる光に照らされている限り、足跡一つ見えないほど雪が降り積もっている。
 それなのに、家の中から外に向かって伸びている足跡があった。
 それは出て行ったきりで戻った跡はそこには存在しない。雪の上にくっきりと刻まれている足跡に、雪が積もった形跡がないところを見ると、それほど時間が経過していないのだろう。
 ナルは自分の足下に視線を向ける。そこには、人数分の靴がきっちりとそろえられて置いてあった。
 何一つ欠けたモノはない。
 それなのに、家から外に向かってまっすぐに伸びている足跡・・・・・素直にこの事を考えるならば、眠っているはずの誰か・・・ベースにいる滝川と、ここにいる自分を除く誰かが、靴も履かずにこの零下の雪降る外に出て行ったことになる。
 そんな馬鹿なまねをする人間がいるはずがない。
 切羽詰まった状況が起きた場合ならともかく、正常な判断を下せる状況では考えられない。まして、裸足のまま外に飛び出していくような緊急事態は起きてないのだ。だが、足跡は目の前にあり、正常な状態じゃなければこのぐらいのことをやりかねない人間は確かにいた。
 ナルは玄関脇に置いてある懐中電灯と、廊下にかけてあるコートを手に取ると身を翻し、たった今出てきたばかりのリビングへと戻る。
「ぼーさん」
 出て行ったばかりのナルが戻ってきたのだから、滝川が驚くのも当然だろう。ドアが勢いよく開いた瞬間、彼の肩が大きく震えたが今のナルにはどうでも良いことだ。
「いきなり驚かす・・・何があった?」
 振り返った滝川は文句を言いかけるが、表情をすっと強ばらせる。
 眠るために部屋を出て行ったナルがコートを着ているのだ。何かがあったと考えるのが当然だろう。
「誰かが外に出て行った形跡がある。外に家から出て行った足跡が残っていた。この雪で消えないうちに僕はこれから追ってみる。ぼーさんは、誰が出て行ったのか確認してきてくれ」
「直ぐに確認してくる。ちょいちょい、ナル坊待て。こんな夜中に一人で出るのは危険だ」
 滝川の判断は賢明だ。
 地理に慣れない土地の上、現在の時刻は真夜中でありさらに雪が降っている。せめて、外灯が照らされ周囲がはっきりと見える環境ならともかく、一歩外に出れば深淵の闇に包まれた世界なのだ。
 土地に慣れない人間が迂闊に出て行けば迷いかねない。
 だが、ナルは滝川の注意を綺麗に無視する。
「時間の猶予が有るとは思えない。
 誰がいないか確認できたら、ぼーさんはリンと二人で探しに出てくれ。
 残りはここで待機だ」
 それだけを言い残すとナルは滝川の制止の声も聞かず、リビングを出て行く。
「確認しろと言うが・・・麻衣がいないのか?」
 冷静な指示を飛ばしているようでいて、その実急(せ)いているナルを見て滝川はポツリと漏らす。
 もしも、この報告を受けたのがナルで、麻衣が報告してきたのならばナルは必ずこう言うだろう。「誰が居ないのか確認した上で、二人一組で探しに行く」と。
 けして、単独行動は許さなかったに違いない。
「なんだかんだ言ってうまくいっているようだな」
 などと安心している場合ではなく、滝川は自分の予感が外れていて欲しいと願いながら、リビングを飛び出し足音も荒く階段を駆け上っていく。
 
 
 
  
 白と黒しかない世界。
 雪は勢いよく降っているわけではないが、横から吹く風に流され、視界が良好とは言い難い。都会のように外灯が道を照らしているわけでもなく、懐中電灯一つでは心許ない明かりにしかならない。
 だが、ナルは躊躇することなくその世界に足を踏み出す。
 この足跡の持ち主が誰かなどナルには判らない。雪に埋もれた足跡では、足の大きさから男か女かを判断しようにも、正確な大きさが把握できなかった。
 能力を持たない安原やキャサリンかもしれない。昼間騒動を起こした一家の誰かが再び、影響を受け抜け出したのかもしれない。
 可能性は誰にでもある。
 だが、麻衣だろうとナルは確信していた。
 何の根拠もない、普段のナルならば否定しているただの勘だ。だが、妙な胸騒ぎがするのだ。落ち着かず一所にいられない妙なざわめき。
 ナルは衝動に突き動かされるかのように、歩みを早めるが、深く降り積もっている雪がなかなか思うとおりに前に進ませない。
 自然と息が上がり始め、吐息が白くたなびく。
 目の前に転々と残っている足跡は酷く心許ない歩みをしていたのだろう。緩やかな蛇行を描き危うげな足取りを連想させるものの、その形跡が迷った様子は見られない。目的を持って歩いているかのように、向かう先は定まっていた。
 ナルは歩みを止めることなく辺りに視線を巡らせる。明かりのないこの場所で認識できる物は殆どなかったが、家を出てきた方向と、頭の中にたたき込んだ村の地形を考えると、この足跡が向かっている先が朧気ながら見えてくる。
 いや、十中八九向かっているのだろう。
 問題となっている沼へ。

 各年最初に亡くなられる方は、皆あの沼で発見されているんですよ  

 安原の声が脳裏に蘇る。
 最初の一人目がなぜ沼で発見されるのか、理由は判ってはいない。ただ、過去の統計から考えると一人目は沼に身を投げて自殺をする可能性が高いと言えるだけだ。
 そして、今年の死者はまだ出ていない。
 この村にいる誰もがその「一人目」になる可能性がある。例外はない。自分達も「一人目」になる可能性は充分にあるのだ。
 結界によって守られているベースに居た時は全く感じられなかったが、一歩あの家を出たとたんのし掛かってきた重圧。
 雪の中に足を踏み入れた瞬間、そのまま雪の中に閉じこめられてしまうかのような錯覚に陥った。冷たい庵に永遠に閉ざされたかのように、外界から閉ざされてしまったような錯覚。
 それを振り払い闇の中へ足を踏み出していけば、闇の迷路に迷い込んだような不安。
 それらは全て漠然としたものだ。
 自然という物に意識を向けなければ、さほど気にならないものだが、常に傍らに座している気がする。気の弛みを虎視眈々と狙い、弛んだ好きに一気に引きずり込もうと、窺っているかのように・・・
 ナルでさえもそうなのだから、他の人間ならどうなのだろうか?
 何年にも渡って、この空気を感じてきた村人は? 感受性の強い人間は? ここの空気になれていない人間なら?
 誰がどの程度の影響力を受けるのだろうか? 受ける者と受けない者の差は? 何が原因となりその差を出しているのだろうか?
 ナルは足跡を見失わないように気を付けながら、周囲に注意を払いながらも、影響力についての問題に思考は囚われる。
 今一番誰が影響を受けている?
 この村に居る人間で誰が一番影響を受けているか・・・
 住人の中に居る可能性の方が高い。
 だが、実際にそこまで影響を深く受けていると思えるような人物をナルはまだ見ていない。比較的深く影響を受けていると思われる住居には、滝川達の結界が貼られている。
 結界を引けば百パーセント大丈夫だという保証はなにもない。だが、結界の引かれているベースと外の差を考えれば、結界の影響力を多少なりとも期待できるだろう。
 むろん、ベースとしているあの家の周囲にも結界は貼っているため、仲間の誰かがもしくは一家の誰かが出て行ったとは考えにくいのだが、妙な胸騒ぎは存在を主張していくばかりだ。
 そして、それを裏付けるかのように足跡は、沼へと伸びていた。
 あの足跡が外部の人間のものならば、往復の足跡がなければ不自然なのだ。
 根拠のない理由で動くのは愚の骨頂だが、この予感を決定づけるかのように足跡は次第にはっきりとしてくる。
 そして、丘を登り切ったところでナルは辺りを見渡す。民家の明かりなど全くないこの場所で、見える物など何もない。
 音も雪に吸い込まれて聞こえてくるものは何もない。
 だが、それでも微かに前方から聞こえてくる音がある。
 雪が踏みしめられる音。
 ズシ・・・ズシ・・・と音が聞こえてきた。懐中電灯を前方に向けるが、音の聞こえるところまでは明かりが届かないのだろう。
 白い雪しか照らし出されないが、かき分けるかのように人の通った跡だけが、雪の上に残っていた。その形跡から見るに、まだ出来て間もないもののようだ。
 ナルは、雪をうまく利用して斜面を滑り降りる。
 雪崩のように、斜面を雪が崩れ落ちていく。
 おりきるとナルは勢いをうまく利用してバランスを取り戻すと、雪をかき分けるように進んでいく。
 人によって踏み固められていない雪は歩きにくい。夜になり冷え込んで幾分固まってきているとは言え、大人の体重を支えきれるほど凍り付いてはいない。体重が掛かればずぼっと勢いよく沈む。
 その上にさらに新雪が降り積もり歩きにくさがますのだが、そんなことには構っていられなかった。
 息が完全に上がり、汗が額を流れ始めた頃になって、漸く前をのろのろと進む姿が照らし出される。
「麻衣!」
 懐中電灯に照らされた小柄な後ろ姿に向かってナルは声を荒げるが、麻衣は振り返ることなく、のろのろとまっすぐ沼に向かって進んでいく。
 雪を蹴りさらにかけよる。
 ナルの記憶では、そろそろ岸辺に近付くはずだ。麻衣の先を懐中電灯で照らしその境を見定めようとするが、凍った沼の上にも雪が降り積もっているため、境界は定かではない。
 だが、いくら水が凍っているとはいえ、成人した人間を支えきれるだけの厚さがあるとは思えない。むろん乗ったとたんに直ぐに割れるほど薄くはないだろう。だが、だからと言って安心できる要素はどこにもない。
「麻衣>」
 正常な判断が出来るのならば、ナルの呼びかけに答えただろう。いや、そもそもパジャマ姿でその上素足のままこの極寒の世界に出て行くわけがない。
 冷たい空気を急激に吸いすぎているため、気管支が狭まりうまく酸素の補給が出来ず、息苦しさを感じるが歩みを止めることはせず、腕を伸ばして麻衣の腰に腕を巻き付ける。
 麻衣の身体が一瞬沈みかけたが、次の瞬間腕にかかる重みに安堵したのは事実だ。
 力をなくした身体を腕一本で支えるのはきつかったが、捕らえた勢いを殺さず、反動をうまく利用して片腕でその身体を抱え上げる。
 踏ん張りきれなかったため、抱え上げた勢いを殺せず、背後に倒れ込むが構わなかった。
 降り積もった雪が、二人分の身体を受け止める。雪の冷たさが火照った身体には心地よく感じるほどだったが、ナルは麻衣を抱きかかえたまま上体を起こすと、腕の中にいる麻衣に視線を落とす。
「麻衣」
 虚ろな眼差しは未だに沼に固定されたまま、ナルを見ることはない。
 それどころか、ナルの腕の中から逃れようとするかのように、力の入っていない身体で藻掻く。簡単に取り押さえられる程度のものだったが、ナルは舌打ちをする。
 感応しているのか、憑依されているのか、ナルには判らないが麻衣はまだ影響下から逃れていないことだけは、見て判る。
 ジョンが居れば直ぐにこの状態から脱せられただろうが、今この場には自分以外いないのだ。担いで戻るには深い雪が邪魔である。せめて、麻衣が正気に戻っていればやれないこともないが、抵抗する人間を担いで、雪の中を戻るのは至難の業であり、自分にはそれができるほどの体力も腕力もな無いことぐらい判っている。
 どうするべきか。
 思考は勢いよく回るが、妙案が浮かばない。
 このままここで、滝川達が来るのを待っているのがベストか。
「麻衣」
 名を呼んで頬を軽く叩く。
 皆が来るのを待っている間に、汗に濡れた身体は急速に冷え初め、このままでは風邪を引きかねない。まして麻衣は薄手のパジャマ一枚であり、その上素足である。
 いくら抱きしめていてもその身体が温まる気配はなく、氷のように冷たくなっていく。
 出来るだけ早くベースに戻らなければ、二人とも無事に戻れたとは言えないだろう。まして、自分が風邪など引けば麻衣がどれほど気に病むか。
 その時の麻衣の様子が簡単に想像でき、舌打ちを漏らす。
 この村で負の感情に囚われることは、勧められる事ではない。
「・・・・・・・・・・きゃ」
 微かに聞こえた声にナルは耳を澄ます。
 虚ろな眼差しは変わらず沼を見つめたまま、唇が微かに動く。
「いか・・・・・・・・・・・・・なきゃ」
 起きあがろうとする麻衣を力で拘束し、先ほどよりも勢いよく頬を叩く。
 無理矢理にでも起こさなければいけない。
 そう思った瞬間、幾分強い音が空気を震わせた。それに合わせるかのように、木の枝の降り積もった雪が音を立てて落ちる。
 砕けた氷の上に落ちたのだろうか、水の弾く音が響き渡り、一瞬の間静かな空間に音が満ちる。それが引き金になったのだろうか。麻衣の身体がびくりと震えたかと思うと、数度瞬きを繰り返し彷徨っていた視線が、ナルへと向けられる。
「僕が判るか?」
 ナルの問いに麻衣はしばらくぼんやりと見つめ、ゆっくりと手を伸ばす。
 そっと、ナルの輪郭に触れなぞる。
 ナルを見ているようで、どこか遠くを見るような眼差し。
「麻衣、僕が判るか?」
 ナルはゆっくりと言葉を紡ぐ。
 均衡を壊さないようにそっと名を呼ぶ。
 完全に意識が戻ったのか、戻っていないのか判断できないが、麻衣はしっかりとナルを見つめながら唇を動かした。
 悴んでいるからなのか、まだ完全に意識が戻っていないからなのか、声がすぐに聞こえなかったが、掠れた声がしばらくして空気を震わす。
「独りは・・・い、や         」
 麻衣は、それだけを呟きながら、ぽろぽろと鳶色の双眸から涙を零し頬をぬらしていく。
 普段の麻衣からは想像できないほど、頼りなげな弱い声にナルは無言のまま麻衣を抱きしめる。
 そうせずにはいられなかった。
 まるで、このまま空気にかき消えてしまいそうで。
 腕の中にいる麻衣の気配が酷薄で、失ってしまいそうで。
 ロッジを出た瞬間、理由もなく闇に飲み込まれる錯覚に陥った。あの闇の中に飲み込まれてしまいそうな気がし、ナルは無意識のうちに腕に力を込めてしまうが、それによって麻衣が腕の中で漸く身動きをする。
「・・・・・・く、くるしいよ、ナル」
 その声に驚いたかのように腕の中を見下ろすと、麻衣が腕の中でもがいている。
「僕が判るか?」
 ナルの言葉に麻衣はきょとんとする。
「は? 私はまだ、呆けてないゾ」
 先ほどまでのうつろな眼差しはいったい何だったのか、今の麻衣はごく普通のいつも通りの麻衣だった。
 先ほどまで見せていた頼りなげな様子も、寂しげな様子もどこにも潜ませていない。
 まるで、先ほどまで夢や幻を見ていたかのように、見慣れたいつもの麻衣に戻っている。
 そう、いつも通りなのだ。ここに訪れる前、いや、キャサリンが来る前の・・・何も含むところも秘めているものもない、自然な状態の麻衣。
 いったい何がスイッチになったのか?
 今の状態では何も判らない。
 人の心など些細なきっかけで沈み壊れもすれば、浮上し元に戻ることもあるのだ。こればかりはいくら心理学を学んだとしても、解明できるものではない。
 心理学で判るのはしょせん、一部を理論的に解明にしたに過ぎない。新しいパターンが有ればその都度解明していかなければ成らないのだから。
 ナルはため息を付くと、腕から力を抜き、その額を指で弾くと無情な一言を告げる。
「呆けてた」
 しみじみと言われ麻衣は「なにぉ〜〜」と、眉をつり上げたのは言うまでもないが、次の言葉を言う前にくしゃみをする。
「・・・・・・・・って、ここ・・・・・・・・どこぉぉぉぉぉぉぉ?」
 愕然とした悲鳴が辺りに響き渡り、ナルは思いっきり眉をしかめる。至近距離での絶叫に迷惑を被らない人間が居ないわけがない。
 ナルは麻衣を抱きかかえたまま数歩歩くとふたたび止まる。その足下には靴が雪に埋もれるようにしてあった。
 麻衣の腕をとっさに掴む前に、放り出した彼女の靴だ。
 冷え切った足にとりあえず靴を履かせると、ナルは漸く麻衣を降ろす。
「歩けるか?」
「平気だよ。だけど、それよりもどうして私こんな所に・・・?」
 辺りを見渡し自分の居る状況が漸く把握できたのだろう、身体を両腕でぎゅっと抱きしめながら、寒さに震える麻衣を抱き寄せる。
 急いでロッジを飛び出して来たために、上着になる物を持ってくるのを忘れていたのだ。とっさに靴を持って来ただけでも上出来だろう。
 この深い雪の中を麻衣を抱えて歩いていくのは、至難の物があった。
 コートを広げ麻衣を内に抱き寄せる形で歩き始める。
 互いに密着しているため歩きにくいが、こうする以外今現在は手がない。また、互いの体温によって身体を冷やすことを多少は抑えられるだろう。
「全く覚えてないのか?」
 状況を考えれば麻衣が何も覚えてない可能性も考えられるのだ。案の定、麻衣は記憶を思い出すかのように視線を宙に向ける。
「私、ミーティング中にすごく眠くなって、そのまま寝ちゃった・・・よね?」
 安原の報告を皆で聞いていたはずだ。この土地に語り継がれている伝説の類をいくつか聞いた後、広田に調べて貰ったことの報告。
 それを夢うつつに聞いていたような気がする。
 起きていようと思っても、瞼が酷く重くて、意識に紗が掛かり、身体が末端から冷えていき、酷く眠くなっていった・・・抗おうとしても抗えず、そのまま眠ってしまったのだろうか?
 途中から意識がブラック・アウトする。
 何処までも暗い世界。
 永遠に広がる闇。
 音がなく、気配のない世界・・・
 何も、存在しない世界に・・・いた。
 麻衣は間近に居るナルの身体にそっと近寄る。すでにこれ以上ないぐらいに近付いているのに、さらに近付けば歩けなくなり、自然と二人の足が止まる。
 ナルは何も言わずに、麻衣に付き合い歩みを止めた。
 いつの頃か、降り続いていた雪は止み、雲が流れその隙間から冬の夜空を覗かせ始める。
 冷え切った冬の空は星を綺麗に見せた。まして、都会から離れ人工的な光から隔絶された地。今は雲に隠れ殆ど見えなくとも、落ちてきそうな程の星々を空は纏っているのだろう。
 麻衣は、ナルの身体にしがみつきながら夜空を眺めている。
 ここには確かに音はない。
 聞こえるのは耳朶の下から聞こえる、一定のリズムを刻む鼓動だけだ。だが、それが何よりも暖かな音に聞こえる。
 視界に入る色は殆ど黒だけと言ってもいい。空が纏う色も、愛しい男が纏う色も黒だ。
 だが、冷たい色ではない。
 暖かく今、自分を包み込んでくれる。
 あそこの世界のように無機質で、冷たい色ではない。
 知らず内に長い吐息が漏れる。
「たぶん・・・夢を、見たよ」
 ここが自分の居るべき場所だ。
 息が付けたことにより、胸の奥深くに巣くっている何かを麻衣は吐き出す。
「あそこで、昔処刑された人がいる・・・・・藤さんという名前の女の人」
 安原が聞かせてくれたどの話とも違う。だが、あそこで女の人が処刑された。
 泳げないように身体を縛られ、浮き上がらないよう重石をくくりつけられ、冷たい・・・凍える真冬の沼に突き落とされた女がいた。
 この村独自の処刑方法・・・女は埋葬されることもなく、永遠にあの沼の底に沈んでいる・・・・・
 そう、沈んでいるのだ。
 今も・・・・・・・・なお。
 たった一人で・・・・・・・・あの、冷たい沼に   
 今   も?
 麻衣は一瞬息を呑み、怖々と背後を振り返る。
 そこにはなにもない。
 凍り付いた水面に刻まれて歪なオブジェを覆い隠すように降り積もった雪・・・今は、静寂に満ちたその下は・・・誰にも届くことのない叫びが満ちているのだろうか?
 麻衣は軽く頭を振ると、沼から視線をそらし自分を見下ろしているナルを見上げる。 
「独りはイヤだと・・・叫んでいた。
 誰もいない部屋で・・・牢屋かな? そこで独りぽつんとしながら、指折りに数えていた・・・何を数えていたんだろう。
 よく判らないけれど・・・ああ・・・待っていたのかな? その日が来るのを・・・数えていた。
 自分の状況がよく判っていなかった感じ。ただ、頭の中にはその日のことしかなかった・・・だけど、それは潰えたの」
「なぜだ?」
「その日を迎えることなく、処刑されたから・・・だけど、諦めきれず彼女は喚んでいる。
 沼の中から。
 独りは寂しいって、いやだって・・・ずっと、独りで彷徨っている・・・・・」
 麻衣は、唇をかむ。
 彼女の孤独は人ごとではないから。
 彼女の抱える物は、馴染みのある物だから。
「彼女を作っているのは、寂しさと恋しさ」
 彼女は言っていた。

「だから、狂わないのね  」

「麻衣?」
 最後の言葉だけが、意味が分からずナルは問いかけるように名前を呼ぶが、麻衣は、ナルを見上げて何でもないといって、微苦笑を浮かべる。
 言えなかった。
 夢を視た先のことを。
 そして、朧気ながらなぜこの村の人々が鬱状態になるのか、自殺者が多く出てしまうのか判った気がする・・・いや、肌で知った気がする。
 あの、闇を見たときに。闇に触れられたときに。その底が見えないほどの昏い闇の孤独さに、引きずられてしまうのだ。
 否応もなく。
 抵抗する術もなく・・・それどころか、何もない世界を見て逆に安堵感を覚えてしまうのだ。
 もう、何も感じなくて済むのだという、無気力感に逃げてしまう。
 そして、自分も逃げかけた・・・そう、あの闇に向かいかけた自分は確かに逃げ出したのだ。
 奥に巣くう物から。
 その事をナルに言えるわけがなく、何でもないと言うかのように首を軽く振って、ナルを見上げる。
 闇色の双眸。漆黒の髪。黒衣に包まれた青年を。
 あの闇に包まれるのならいいと確かに思った。
 ナルの瞳と同じ色の闇だったから。けして澱んではいない色だから。
 純粋な闇だったから。
 同じ孤独を抱き続けるのならば、その闇に包まれていたかった。
 永遠に目覚めることはなかったかもしれないけど。
 あのままだったら、きっといつの日か来るであろう未来に怯えなくて済んだから  
 こんな事はけして言えないが。
 誰にも言うことは出来ない望みだけど。
 自ら望んでしまったものだから、麻衣は今も自分を保っていられる。
 闇の中に甘美な物を見つけてしまったから。
 この腕の温もりを感じることは出来なくなるけど、甘い夢を見続けられるような気がしたから。
 孤独で、寂しいけれど、何よりも甘美な夢を   
 過去の自殺した人間も、自分と同じ幻をあの闇に見たのだろうか・・・?
 当事者ではない麻衣には判らないが、その可能性は高いと思えた。本来ならばその事も報告するべきなのだろう。だが、麻衣にはそれをどうやって伝えればいいのかが判らなかった。
 下手に話せば、自分もその闇を選ぼうとしたことを言わなければならなくなってしまう。
 それに、まだ曖昧な物に過ぎない。もう少し確信が持ててから、報告しても遅くないだろう。
 麻衣はそう結論づけると、報告の終了を伝えた。だが、ナルは麻衣を見下ろしたまま僅かに眉をひそめる。
 何かがあった。と、直感的に思う。今、麻衣が語ったこと以外の何かが。
 だが、麻衣はそれを語ろうとしない。内へと秘めたまま明かそうとはしなかった。
 なぜ、隠そうとするのか。
 隠さなければいけないものなのか。
 それほど、自分は頼りないように見えるのかとナルは苛立ちを覚える。
 問いただそうと、まだ話していないことがあるのだろうと問いつめようとするが、ナルはなぜかこの時それが出来なかった。
 下手に問いつめれば、追いつめる原因になりかねない。
 むろん、だからと言ってこのまま聞かないままにしていいべきものなのか、現状では何も判断できない。判断材料が少ない現在、僅かな些細なことでも情報は必要だった。
 だが、ナルにしがみつく麻衣の腕に力が入り、ナルは開きかけた口を吐息と共に閉ざす。まるで、離れることを嫌うかのようにしがみついてくる今の麻衣に、問いかけても意固地になって口を割らないだろう。
 そう思えたからだ。
 ナルがため息を漏らすと、一瞬麻衣は不安そうな眼差しをナルに向けてくる。その眼差しに、まだ、完全に元に戻ったわけではないと言うことを悟り、安心させるかのようにその身体を抱きしめ返す。
 麻衣は一瞬驚いて顔を上げるが、すぐに笑みを浮かべるがその肩に頭を傾ける。
「私は、幸せ者だよね」
 闇に浮かぶナルを見つめながら、麻衣はぽつりと呟く。
 街明かりから離れた場所。ひっそりと静まり返った空間に浮かぶ青白い月がいつの間にか姿を現し、明かりのない沼地を静かに照らし出す。
 降り積もった雪が、青白く輝き、ここが一瞬どこかを忘れさせる。
 反射する明かりを受けて、はっきりと見えるナルを見つめながら、何かを吹っ切ろうとするかのうように、一語一語はっきりと言葉を紡ぐ。
 ギュッとナルの背に回した腕に力を入れて、その存在を確かめながら。
「独りじゃないもん。皆が居る。
 ぼーさんや、綾子は本当のオトウサンとオカアサンみたいだし・・・綾子はオネエサンって言わないと怒るかな? リンさんと安原さんやジョンは、お兄ちゃん。ジーンもそうかな? 真砂子はお姉さんであって妹」
 そこで言葉を区切って、ナルを見上げる。
 柔らかな笑みが浮かんでいた。
 麻衣は、ナルから腕を離すと背伸びをしてその首に腕を回して引き寄せる。
 抵抗することなく引き寄せられるまま、顔を近づけると耳元で囁くように告げた。

「大好きな人  ナルがいる」

 ナルも麻衣の背に腕を回して、そのほっそりとした身体を抱きしめる。
 存在を確かめるように。離れていかないように。
 どこか、手の届かない所へ行こうとしていたように見える麻衣を、この腕の中に繋ぎ止めるように。漠然とした不安をかき消すように。
「お前は、独りじゃない」
 それは、麻衣に言い聞かせるための言葉であったが、自分に言い聞かせている言葉のようにも感じた。
 ナルの言葉に、麻衣は花が咲き開くように笑みを深くしていく。
 笑みにつられるように、ナルの顔にも笑みが広がる。
 麻衣だけが見れる笑み。
 ナルの首が傾ぎ、そっと麻衣に重なる。
 冷たい唇が触れる。柔らかな感触が、幾度となく離れては触れあう。互いの唇が熱を持つにつれ、深く深く密度をまして重なっていく。
 淡い月が光を放ち、スポットライトのように二人を優しく包み込み、闇の中に照らしだす。

 





 キャサリンはなかなか寝付けない日が続いていた。
 だから、眠っていた麻衣が静かに起き出し、部屋を出て行ったことには当然気が付いた。
 時計にちらりと視線を向けると、まだベースにナルがいる時間帯だ。おそらくナルの元へと行ったのだろう。
 何をしに行ったのか気にならないわけでもないが、だからと言ってこそこそと後を付いて行く気にもなれない。
 軽くため息をつくと寝返りを打つ。日本に来てからと言うものの、寝付きがものすごく悪くなったと思う。
 慣れない環境に来たからかもしれないが、一番の原因はそう言った類のものではないことぐらい、判っていた。
 自分はあの年下の従弟を特別な目で見てきたつもりは今まで一度もなかった。
 元々血縁が有るわけでもなく、自分が十二歳の時に突然現れた従弟達。あの時はまだ彼らも七歳か八歳ぐらいで、自分よりも背が低く、顔の綺麗な・・・だけど、妙にやせ細った瀕そうな少年というイメージが強かった。
 ジーンは人当たりは良かったが、ナルは兄以外の人間を認めては居ないような感じがし、どことなく近寄りがたくあまり接する機会はなかった。
 それが、いつの頃からか・・・ささいなきっかけでもあったのだろう。時折会話を交わすようになり、研究のことで論じることもあった。
 というよりも、ナルが研究をする上で必要なプログラミング関係の相談を持ちかけられるようになったというべきだろうか。
 対等といえた関係かどうか判らないが、ナルのテリトリー内に入ることの出来た数少ない人間の一人であったことは間違いないだろう。
 少なくとも、ジーンが日本で客死しナルがオフィスを構えるようになるまでは。
 この遠い東の島国での再会を果たした時には、正直に言えば度肝を抜かした。
 ナルの傍に当たり前のように居る彼らに。
 気負うものなく、気軽に声をかけ、ちょっかいを出す彼ら。中には年下の少年を相手にするかのように扱う者、同年代の青年として接する者、同じ意識を持つ仕事仲間として接する者。極めつけは恋人という存在だ。
 イギリスにいるルエラから恋人がいると言うことは聞いていたが、どうせ口先からの出任せだろうと思っていた。最近イギリスでナルを娘婿にと狙っている出資者が出始めており、それを適当に断るための言い逃れだろうと。
 まさか本当に特別な人間がいるとは思わなかったが、なぜナルが彼女を選んだのかが不思議だ。
 ナルならばもっと魅力的な女性を選べただろう。
 確かに彼女は、明るく元気で気配りの出来る女性だとは思う。無条件で人に好かれるタイプだ。
 だが、果たしてそんな女性がナルに相応しいかどうかとなると疑問が残る。
 妙な苛立ちが沸き立つ。
 今に始まったものではない。
 ナルと麻衣が一緒にいるところを見ると、苛立ちが募り落ち着かない。
 嫉妬でもしているのだろうか?
 年下の自慢の従弟を、横から奪っていこうとする彼女に。いや、その表現も適切なものではない。ナルにとって自分はあくまでもマーティンの姪であって、それ以上でも以下でもない。
 戸籍上の縁戚者といった程度の認識しかないと言うことも判っている。
 それでも、自惚れていたのかもしれない・・・どういう認識でも、ナルは自分が傍に来ることをそれほど毛嫌いしているわけでもない。テリトリーに入ることを拒んではいないと。
 近しい者の一人だと。
 知らず内に自惚れていたのだろう・・・皆が自分に向ける羨望の眼差しに、知らずうちに酔っていたのかもしれない・・・
 それが、とんでもない思い違いだったと言うことは、日本に来て痛いほど判ったのだ。
 それとも、ナルが日本に来て変わったのだろうか? 周りに居る人間の態度ゆえなのか、それともナルが変わったのか判断は付かないが、イギリスに居た時ほどとげとげしさがなくなったような気がする。
 それはナルだけではなくリンにも言える事だった。
 イギリス人も日本人も嫌いだと言って憚らなかったリンが、今では彼らとうち解けあっているようにさえ見える。
 何があの二人を変えたのだろうか・・・・・・・・?
 その時浮かんだのは麻衣という一人の女性。
 だが、彼女のいったい何が人を変えられるというのだろうか?
 特筆するような魅力が有るとも思えない、普通の女性が・・・・・・・・
 思考が堂々巡りを初めたころ、階下が騒がしくなったように感じた。勢いよくドアが開閉する音が立て続けに響いてすぐに、勢いよく階段を駆け上ってくる音。
 何か反応でもあったのだろうか?
 キャサリンはパジャマの上に上着を羽織ると、寝室を出て行く。
「お嬢さん、ちょいと聞きたいんだが部屋には全員揃っているか?」
 タイミング良く上ってきたのは滝川だ。部屋から出てきたキャサリンに気が付いて声をかける。
 キャサリンは閉じたドアを開けると、ザッと室内に視線を向ける。
 戻ってきた気配がないからいるとは思えなかったが、やはり右端のベッドが今だに空だ。左端のベッドには真砂子が眠っているため、立体的に盛り上がっている。
「マサコは居るけれド、マイはいないワ。
 ちょっと前ニ出て行ったきり戻ってきてないケド、ベースにいるんじゃなイ?」
 麻衣が部屋を出て行ったきり、時計を見ていないから判らないが、何時間も経ったようには思えず、キャサリンは麻衣が戻ってきていないことになんの疑問を抱かなかったが、滝川が舌打ちをしたため眉を潜める。
 普段のおちゃらけた様子はどこに消えたのか、滝川は真剣そのものだ。
「何かあったノ?」
「ちょい待ってくれ。男部屋も覗いてからだ。
 まだ麻衣とはかぎらねーしなぁ」
 麻衣だと確信しながらも、憶測だけで物事を進めない滝川に、キャサリンは無言のまま頷き返す。
 だが、彼のその態度にキャサリンはすでに確信していた。
 何かが起こり、それに麻衣が関わっていることを。 



 そっと二人が離れるとどちらともなく、肩を寄せ合い歩き始める。
 そんな、二人を滝川達が見つけたのはそれから数分後のことだった。
「麻衣!」
 息を切らせた滝川とリンが駆け寄ってくる。
「おまっ・・・そんな格好で!」
 ナルのコートにくるまれている麻衣の姿を見て、滝川は目を剥く。
 当然だろう。この凍てつく寒さの中パジャマ一枚しか身に纏ってないのだから。正気の沙汰ではない。
「ちょっと、私って夢遊病の気があったのかも」
 血相を変えて駆け寄ってくる滝川に対し、麻衣は実に軽いのりで返す。
「お前さんねぇ・・・・・・・・・・」
 にゃははははは、と笑いながら言われた内容に思わず脱力してしまうが、ロッジを出てくる前に持ってきた、麻衣のコートと毛布でその華奢な身体を包み込み、雪によってしめっている髪の毛をタオルで拭く。
 その間、リンはナルにも毛布を差し出すが、ナルはそれを麻衣の肩へと回す。
「ちょっ、私は大丈夫だよ? ナルが使ってよ」
 自分の肩にかけられた分をナルに押し返そうとするが、ナルがあっさりと引っ込めるわけがない。
「そんな真っ青な顔をして言う言葉か。人のことを気にする前に自分をどうにかしろ」
「だけど、ナルだって風邪引いちゃうよ? 汗が冷えてきているでしょ?」
「たいした距離はない。
 それより、その冷えた身体を温めるのが先だろう」
「だけど」
「ちょい待て!」
 延々と続きかねない毛布の押し合いに、滝川がストップの声をかける。リンは呆れた様子で二人を見下ろしていたが、止める気配はなかった。
「互いを気使うってのは実に美し。んだがな、状況を考えろ。今はんな悠長に毛布を押しつけあっている場合じゃないだろうが。
 それは、とりあえずナル坊が羽織っておけ。これ以上麻衣にかけても、重さで身動きが取れなくなるだけだ」
 毛布一枚と言っても重みはなかなかある。何枚も羽織って雪の中を歩くのは、少々しんどいものがある。
 だが、ここで素直に出ないのがナルのナルたるゆえんだろうか。それ以上その毛布を麻衣に押しつけようとしなかったが、羽織ることもなく手に引っかけたまま、ため息をつく。
 それが、ナルが引いたということになり、意味のない押し問答は終了する形となる。
 滝川は心底疲れたようなため息を一つ着くと、視線を再び麻衣に向ける。
「んで、夢遊病って事はお前さん何か見たのか?」
「う・・・まぁ、見た・・・・・・・・かな?」
「頼りないなー嬢ちゃん」
「まぁ、イロイロと」
 何とも言えない麻衣の態度に、滝川とリンは思わず顔を合わせてしまうが、ナルがふっとため息をつく。
「詳しい話はロッジに戻ってからでも充分だろう」
 確かにナルの言う通りであった。麻衣がどんな夢を視てこんな所まで来る羽目になったのか、今すぐ知りたかったが、確かに氷点下の環境下にいながらする話ではない。
 まして、今まで薄着だった麻衣である。早くロッジに戻り身体を芯から温めなければ、風邪を引きかねない状況だ。
「んじゃまぁ、とりあえずロッジに戻って身体を温めてからの話だ。
 いや、先に身体を休めた方がいいか。ナル坊はもう聞いているんだろ? 急を要する内容だったか?」
 ロッジに向かって歩き始めながら滝川はナルに問いかける。
「明日でも大丈夫だろう。今聞いたからと言って何かできるものでもない」
 麻衣からいくつか聞いた話は確かに、思案材料の一つとなるだろう。だが、あくまでも現状では麻衣の見た夢にしか過ぎず、裏付けるものが何もない。
 それでは資料にならず、正式な報告書は作れない。今後は麻衣の見た内容を裏付ける資料を、安原が探し出し確証を得たものにしていかねばならないのだが、むろんそれは朝が来て人が活動する時間になってからの話だ。
 こんな夜更けに動いても、まともに調べられるわけがない。ならば、無駄な時間は省き、身体を休める時に休めておくのがベストである。
 ナルの判断に、滝川とリンは麻衣に質問するのは止め、足早にロッジに戻ることに決めたのだった。
 



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