Ave Maria gratia plena:
Dominus tecum:
Benedicta tu in mulieribus,
Et benedictus fructus ventris tui
Jesus Christus.
Sancta Maria, mater Dei
Ora pro nobs
Peccatoribus nunc,
Et in hora mortis nostrae,
Amen.
鏡越しのキス
「ねぇ、ナル………」
いつもと何ら変わらない一時。
リビングのソファーに座って麻衣の淹れてきてくれた紅茶を飲み、厚くて重量のある洋書を片手に読みながら、傍らにある温もりを感じる。
当たり前の平凡な時間。
ナルは視線を横文字から離すことはなかったが無言で麻衣に話を促す。
「私が、急にいなくなったらナルはどうする?」
相変わらず突拍子もない質問を口にする麻衣。
ナルの肩に寄りかかりながら麻衣は小さな、今にも消えそうな声で問いかけてきた。
見下ろすと視線はナルを見ているわけでもなく、ただ虚空をジッと見つめていた。
「どうした」
「ちょっと…怖くなって………」
「何がだ」
ナルは読みかけていた本を静かに閉ざす。
「うん―――」
麻衣は両手で包み込むように抱えていたカップをもてあそびながら、言葉を言いよどむ。何と言っていいのか判っていないのだろう。その顔には戸惑いが浮かんでいた。
「何が怖い」
麻衣はナルを見上げて小首を傾げる。
「何だろ……ねぇ、幸せになってもいいのかな―――」
麻衣はカップを静かに硝子テーブルの上に置くと、膝を抱え込むように座り直す。
麻衣がなぜ急にそんなことを言いだしたのか、ナルには全く見当が付かない。
「怖いよ――すごく……こわいの…………なんでだろ…」
「何を怖がる必要がある」
「ナルが、こうして傍にいてくれて……そして、それがず−っと続くって約束してくれて…もうじき全てが、叶うって思ったら怖くなったの。
本当にずっと続くのかなって―――――」
「僕が約束を違えるとでも?」
麻衣はゆっくりと頭を左右に振る。
ぱさり、ぱさり、と軽い音を立てて髪の毛が広がる。
「へへへ〜〜〜〜これが、俗に言うマリッジ・ブルーって言うやつかな?」
舌を軽く出して麻衣は何かを誤魔化すように言った。
「今更?」
ナルの言葉に麻衣は、頬を軽く膨らませる。
確かに今更だ。
アパートを引き払う前から、同棲状態と言ってもいい関係だった。恋人関係になってからもそれなりに月日は過ぎ、二人で過ごすようになってからの時間の経過はかなり経っている。今更、麻衣が二人で過ごすことに不安を覚えるとは思えない。
「ナル―――」
麻衣は上目遣いにナルを見上げる。
「いっしょにいてね……ずっと…………ずっと」
どこか不安げな表情で見上げてくる麻衣を身体ごと優しく包み込む。
「優しい音が聞こえる」
ナルの胸に頬を寄せて、麻衣は囁くように小さな声で呟く。
服の布地をとおして、力強く打つ鼓動が聞こえてくる。その広い胸にしがみつくように背に腕を廻す。
ナルは麻衣の抱える不安を拭うように、その頬にそっと手を添え仰向かせると優しく唇を重ねる。
啄むような優しい口づけは、唇だけではなく、額や頬、瞼の上に優しく降り注がれる。強ばっていた麻衣の表情が徐々に柔らかさを取り戻し、うっとりとした表情になるまでナルはキスの雨を降らせる。
くすぐったいのか、笑みがこぼれ始めた頃再び唇を塞ぐ。
しっとりとした柔らかな唇を包み込み、深く重ね合わせる。
呼吸さえも奪うようなキス。
誰が想像するだろう。
ナルがこんな激しいキスをする人間だなんて……
麻衣はうっすらと閉じていた瞼を上げる。
睫が触れそうなほどの至近距離にある、白皙の美貌が言葉通り目の前にある。まぁ、キスをしているのだから当然なのだが。
長い睫が白い肌の上に影を落とし無心に麻衣に口づけるナルをしばらく見続ける。
すごく幸せ……
ナルと一緒に生きていくことを、許されて…
だけど、怖い。
もしも、この腕を失うときが来るのかと考えるだけで怖い………
幸せすぎて――怖い
いつか、来る「別れ」を考えると……
麻衣は不安をうち消すように、華奢で細い腕を伸ばすとナルの首に絡め、自ら求めるように深く唇を重ね合わせた。
やがてどちらともなく離した時には、息がすっかりと上がり白い肌がほんのりと赤く染まっている。
濡れた唇をナルは白い指で拭う。
「―――明日、教会に打ち合わせに行くんだろ。もう寝ろ」
麻衣はゆっくりと立ち上がる。
「ナルは?」
「これを読み終えてから」
テーブルの上に置いた本に手を伸ばしながらナルは言う。
「お休み」
「ああ―――」
麻衣が離れる間際ナルはその左手を取って口づける。
ルビーとサファイアが埋め込まれたプラチナのリングが輝く指に。
麻衣は驚いたような顔をするが、ナルの仕草に微笑を浮かべる。柔らかな春の日差しのような微笑みを。
それが、ナルが見た最後の微笑みとなった――――
静まり返った廊下を荒々しい足音が響く。
「ナル!?」
血相を抱えて駆け寄ってくる、滝川や綾子やリン、真砂子、ジョン、安原はナルを見て二の句が続けられなくなる。
元々色白だった顔色は、白いを通り過ぎて蒼いと言った方がいいのかもしれない。いつもと同じ無表情なのだが、どこかが違った。壊れた人形のような美しさか、それとも狂気一歩手前の美しさか。
皆が足を止め息を呑む。
「まいは――いない」
抑揚の抑えた声が返ってくる。
「ナ―――」
「ジーンの傍に、麻衣は逝った――――――――――――――――」
機械的な声に、誰も言葉をかけられない。
麻衣ハ 逝ッタ じーんノ 元ヘ
その言葉の意味を理解したのか、真砂子と綾子はその場に崩れるようにしゃがみ込むと声を上げて泣き出した。ナルはぼんやりと見るともなしに、二人を見る。
何を泣く必要があるのだろうか。
麻衣は苦しみから解放されたのに……
教会からの帰り道、麻衣は小さな子供をかばって車に撥ねられた。
全身を強打し、折れた肋骨が肺を突き破り、内臓が破裂した……下手をすれば即死だったはずの怪我。だが、麻衣はナルが駆けつけるまで奇跡的に持ちこたえた。
全身を朱色に染め、血の気の無くした顔で、ナルを見上げて麻衣は囁いた。
手を持ち上げることさえ苦痛のはずなのに、笑みさえ浮かべてナルを求めるように腕を差し伸べて。
ナルはとっさにその腕を取る。
離れていかないように。
――――傍に いるから
麻衣は、唇を微かに動かす。
だが、声を出す力は麻衣には残ってはいない。
思いを込めて麻衣は囁く。
声にならない声で…思いは麻衣の手を通してナルに伝わる。
――――ずっと、傍に いるから 風となって 光になって
ナルの傍に いるから
ナルは血に汚れた麻衣の腕に唇を寄せる。
「ずっと―――一緒にいると約束しただろう」
ナルの言葉に麻衣は悲しそうな、それでいて同時に嬉しそうな笑みを浮かべ…………
―――――愛してる ナル 愛している
ごめんね……………私の方が約束破って
愛している ずっと ずっと 傍にいる
永遠に ナルだけを 愛している
私は 貴方だけのモノ
麻衣は柔らかな笑みを浮かべるとゆっくりと唇を動かす。
渾身の、最後の気力を振り絞って、声で伝える。
「あ――――――――――――――――――――――い、し――――――――――――――――――――――て――――――ま―――――――――――――――――――――――――す―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」
春の日差しのような笑みを浮かべたまま、麻衣はゆっくりと瞼を下ろし………そして、二度とその目が開かれることはなかった。
「麻衣……起きろ……………いつまで眠るつもりだ」
ナルの囁きに麻衣は応えない。
ナルは片方の手で麻衣の頬に触れる。
まだ、暖かい頬。
ナルは軽く頬を叩く。
だが、その瞼が震えることも開くこともない。
「麻衣……いい加減にしないか――――――――――」
ナルの声が麻衣の上を滑り落ちていく。
二度とその声が麻衣に届くこともなく、麻衣がその声に返すこともない。
ナルは唇を強くかみしめ、息をもらすような声で麻衣を呼ぶ。
だが、ナルが握りしめる腕は徐々に温もりを失っていった……………………
愛してる ナル 愛している
ごめんね……………私の方が約束破って
愛している ずっと ずっと 傍にいる
永遠に ナルだけを 愛している
私は 貴方だけのモノ
麻衣の小さな囁きがナルを縛る。
優しい、言葉が、ナルの脳裏に焼き付く。
甘い、何よりも甘い囁きが。
消えることのない 永遠の呪縛となって
「これは―――――――」
綾子はそれを見たとき思わず息を呑んだ。
赤く腫れた瞼。顔色も悪く、化粧もほとんどしていない綾子は、白い棺の中で柔らかな笑顔を浮かべて眠る麻衣を見下ろして、絶句する。
麻衣が着ている衣装は、本来別の意味でこの教会で着る服だった。
考え抜いて、選び抜いて選んだモノ。
一生に一度だけ着るべき幸せの象徴となるはずのモノ。
このような意味できるべきモノではなかったはずなのに……………………………
「渋谷さんが―――最後だからと、おっしゃいまして―――――――――――」
そう言ったジョンの顔色も悪い。
精細さを欠いた表情。いつも浮かべる誰もが安堵する笑みは浮かんでいない。悲しみの淵に沈む一人の青年だった。
「そう…ナルが……なら、お化粧も施さないと…………麻衣、綺麗よ……………あんたって、本当に馬鹿なんだから。この服はこんな事のために着るモノじゃないんだからね。判っているの――――――――――あんなに待ち望んでいた日じゃない。
漸く、来た日じゃない………あんたって、どうして……………っっっっっ」
綾子は大粒の涙をポロポロ零しながら、呟く。最後は嗚咽混じりになって言葉にすらならない。
だが、唇をかみしめ乱暴に手の甲で涙を拭うと、綾子は立ち上がった。
「麻衣――今日はすごくいい天気ね。
あんたの、あんた達の門出を祝うために、きっとジーンが天気を晴れにしてくれたのよ」
窓の外に視線を向けながら、綾子は掠れる声で語りかける。
高く澄み切った青い空には雲一つない。
柔らかな日差し。緩く流れる風。燦々と降り注がれる日差し。
全てが、祝福をしているようだった…………………
「いつまで寝ているのよ。
いい加減に起きなさいよ。ナルが待っているんだから。
いくら、寝るのがあんたの専売特許でも、寝過ぎよ」
震える声を必死におさえこもうとしても、零れる嗚咽は抑え切れなく、きつく握りしめた拳は微かに震えていた。あまりにもきつく握りしめていたためか、爪が柔らかな皮膚を突き破り血が滲み出る…………………
「馬鹿なんだから―――――――――あんたは、おお馬鹿よ――――――――――――」
頬を流れ伝う涙を止められない。
ジョンは気丈なはずの綾子を見て、かける言葉を見つけられなかった。
ただ、無言でそんな綾子を優しく見守ることしか、出来ない。
だが、何かを振り切るように顔を上げる。
「ナルは?」
「控え室の方です………渋谷さん、大丈夫でっしゃろうか?」
ジョンは深い溜息と共に、言葉を吐く。
表面上ナルはいつもと変わらない。
だからこそ、皆は胸の内に不安を抱えていた。
いつもと変わらないナル。
危うさなど見いだせないほど、しっかりしている。
麻衣を永遠に失ったというのに――――――
双子の片割れさえなくしても、ナルは何一つ変わらなかった。
それが、婚約者になったとしても同じ事……SPRの人間達はそう片づけ、ナルを薄情な人間として問題視していなかった。
だが、ナルを知る滝川達は違う。
いつもと変わらないナルを見て、逆に不安を抱く。
「あの、ナルが唯一手を取った人間だ。麻衣は」
綾子や真砂子と同じように目を赤くして、滝川は呟いた。
「ジーンを亡くしたときの比じゃない――――――」
故に、片時もナルから誰も目を離さなかった。
万が一を恐れて………だが、ナルは変わらない。
変わらないように見える。
「感情を表に出すって事は、認めるって言うことだもの。
ナルは失ったと思っていないんだわ。
だから、麻衣にこれを着せたんだと、あたしは思う」
麻衣を見下ろして、綾子は吐息と共に呟く。
純白の清楚なドレスを身に纏った麻衣を見下ろして………
幸せな花嫁として、皆に祝福され、ナルの元に嫁ぐべく今日着るはずだったドレス。
綾子と、真砂子と三人で悩んだあげく、漸くこれはっと言うモノを選び取ったのに。
「華々しく飾って上げましょう………最後にできることだもの。
なら、こんな服で来るべきじゃなかったかしら?」
綾子は黒いスーツを着た自分を見下ろして、呟く。
「原さんも、同じ事をおっしゃって、慌てて着替えに戻りました」
ジョンの言葉に綾子は苦笑を浮かべる。
「時間はおくらしましたさかい。
どうぞおいでやす」
綾子が次の言葉を言う前に、ジョンは言葉を続けた。
「そうね―――着替えてくるわ」
最後の日。
華々しく見送ろう。
大切な仲間の大切な日だから・・・・・・・
予定より二時間遅れて式は行われた。
何も知らない弔問客は皆驚きざわめきの声を上げる。
それは当然だろう。
聖堂内は、まるで結婚式を行うような雰囲気だった。
ナルの両親は葬儀の場に着ているべき服ではない黒のモーニングと、ラベンダーの華やかなドレスを着ていた。麻衣の仕事仲間である彼らも皆がまるで結婚式に着ていくような華やかな服を身に纏っているのだ。黒のスーツに白のネクタイ。淡いピンクの振り袖に、深紅のワンピースやライトグリーンのパーティードレスを身に纏った女性達。
神父さえも葬儀の衣装ではなく、結婚の儀式の衣装を纏っている。
なによりも、喪主であり麻衣の婚約者でもあるナルが白のテールコートを着、棺の中で眠る麻衣は純白のウエディングドレスに身を包み込み、ブーケを抱え持っているのだから。
神父であるジョンの口から流れる言葉は祈り。
麻衣が安らかに眠ることを祈る言葉が、綴られる。
弔問客の献花が終え、最後にナルの番になったとき、ジョンは結婚式の時に綴る言葉を口にした。一同の驚きはより深いモノになる。
そして、彼らの意図を悟り涙をさらに流す者達がいた。
「オリヴァ−・ディヴィス
汝 病めるときも 健やかなるときも
貧しきときも 富めるときも
谷山麻衣を妻とし 変わらぬ愛を誓いますか?」
静まり返った聖堂内にジョンの朗々とした声が響く。
「――――――誓います」
微かなテノールが風に乗って流れてくる。
普通ならこの後、新婦の宣誓があり指輪の交換と誓いのキスがあるのだが、ジョンは指輪の交換を告げる。片膝を付いたナルは麻衣の腕を取って、指輪をその左手の薬指にはめ直すと、そっと身を屈め麻衣の冷たい唇に重ねたのだった……………
「ここに―――夫婦となったことを―――――――――――――――認めます」
ジョンの声が震え、真砂子や綾子、ルエラやまどかの肩が堪え切らなくなったように小刻みに震え、おえつを漏らす。弔問客達の中からもすすり泣く声が漏れる。麻衣の古い友人達はその場に泣き崩れる者もいた。
悲しみが溢れる中、いつもと変わらない無表情のナルは棺の中に腕を伸ばすと、麻衣を抱き上げる。
純白のドレスの裾が広がり、風に煽られてベールがはためく。
幸せそうな麻衣の笑みが、ベールの隙間から覗く。
待ち望んでた日を晴れて迎えられた、花嫁の幸せな笑みに見える。
だが、誰が、想像するだろうか……この笑みが、永遠に向けられるべき人間を二度と見ないと言うことを。永遠に二度とその瞼が開くことがなく、唇が言葉を口にする日がないと言うことを。幸せな笑顔を浮かべて眠り続ける、彼女を見て誰が信じるだろうか『永遠に失われた存在』だと言うことを。
ナルはその額にそっと口づけると、足を一歩踏み出した。
誰も、声をかけられない。
SPRの重鎮達はナルの行動に目をむいて、呆然と見送る。今だかつて感情というモノを見たことのない彼らにとって、ナルの行動は信じられなかった。
リンがとっさに止めようとするが、まどかが静止の声をかける。
「ナルの好きなように、させて上げなさい」
まどかも目を真っ赤にはらして、溢れる涙を拭おうとせず、ヴァージンロードを歩いていくナルの背を見つめる。
皆は言葉もなくナルを見つめた。
一歩、一歩、ゆっくりと歩んでいくナルは教会の外に出て足を止める。
「麻衣―――――ジーンには会えたか?」
一言呟いたナルは、空を仰ぎ見る。
どこかに、いるのだろう麻衣を捜すように目を細め………………
小さな光がナルの頬を流れ落ちたのを、誰も見ることはなかった………
どのぐらいの月日が流れただろうか?
ナルはぼんやりと思う。
その左手の薬指には、プラチナのリングが輝いている。適度にくつろげられた首には細いチェーンにぶら下がるルビーとサファイアの指輪。婚約したときナルが麻衣に贈った指輪だ。
ナルは、あの日から一口も紅茶を口にはしていない。
どの紅茶を飲んでも、味が判らないのだ。
味が判らないモノを飲んでもしょうがない。あれ以来ナルは紅茶からコーヒーへと変えている。すんでいたマンションも移り変えた。オフィスも渋谷から新宿へと変えた。
皆は、ナルは近いうちにイギリスに戻るのであろうと考えたようだが、ナルはイギリスに戻ることはなく日本に滞在し続けている。SPRの本部からの帰還命令にも頑なに拒み、日本に腰を落ち着けるつもりのようだ。
麻衣を思い出す全てを排除しているくせに、麻衣のいる日本を離れることは出来ないようだった。
いつもと変わらず、本と資料に囲まれた日々。
時折訪れるイレギュラー達。
何も変わらない日々が過ぎている。
ただ、「麻衣」という名を聞くことが無くなったことを抜かせば。
変わらない日常が繰り返される。淡々と。
「皆は、僕がおかしくなるとでも思ったらしいな」
ナルは鏡に向かって囁きかける。
――しょうがないよ…皆には私の声が聞こえないんだもん。
苦笑に似た声が戻ってくるのに、そう時間はかからなかった。
「僕だけの、お前だ。別に誰にも聞こえなくても構わない……僕だけが聞こえればいいだけだ」
クスクスとした笑みがこぼれる。
ジーンがいた空間にいる麻衣。
そのことに気が付いたのは、麻衣を失って一月たった頃だった。
ふいに聞こえてきた懐かしい声に、ナルは笑みを漏らした。
とうとう、麻衣恋しさに発狂でもしかとおもってだ。
――ちょっと、人を無視しないでくれる?
憮然とした声に、ナルは正直言って驚きを隠せなかった。
鏡を凝視して言葉をなくしているナルを見て、麻衣は溜飲が落ちたのか、ニッコリと微笑みさえ浮かべてナルを見ている。
錯覚でも、幻覚でも幻聴でもなく、ナルが映るべき鏡に、麻衣は立っていた。
――ナルの傍を離れたくないって思ったら、ここにいたの……
ずっと、ナルの傍にいるよ。
麻衣は腕を伸ばす。
けして触れられないけれど、腕を伸ばす。
「お前達はつくづく似ているな。死に方にしろ迷うことにしろ」
――ひどいなぁ
ぷんっと頬を膨らませる麻衣は、何一つ変わらない。
ただ、時折ひどく寂しげな笑みを浮かべる意外は、何も変わらない。
それでも、傍にいる。そのことが、ひどく心を和ませる。
一度は失ったモノを、再び得られたのだ。
けして触れることは叶わない存在としてだが、それでも麻衣の声を聞け笑顔を見れればこれ以上を求める必要はない。
「ジーンは?」
――判らない。たぶん似たような所にいるとは思うけれど、会えないから……
でも、ナルの傍にいられればそれでいい…それ以上望むことは、私にはない。
ナルには迷惑かな?
伺うような上目遣い。
ナルは苦笑を浮かべる。
迷惑のワケがない……触れられない孤独感は付いてくるが、永遠に失ったはずのモノを側に置けるのだ、これほどの喜びがあるわけがない。
「神など信じてはいないが、今回ばかりは祈りを捧げてもいいかな」
ナルの漏らした言葉に、麻衣は目を見開くが嬉しそうに微笑む。
喜んではいけないことぐらい二人とも重々承知していた。
自然の理に反することなのだから。
それでも、想いを止めるすべはない。
「麻衣…傍にいろ。どんな形でも」
けして触れることの出来ない、愛しい女に向かってナルは囁く。
今までナルは麻衣に向かって「傍にいる」とは言っても、麻衣自身を束縛する言葉を口にすることはなかった。
生きているうちに聞きたかったな…と、麻衣はぼんやりと想いながらも幸せそうな顔で頷き返す。
――ナルがこっちに来るまで ここにずっといるね
そんな日は遠ければ遠いほどいいに決まっているが、早く来ることを願ってしまう。早く行けることを祈ってしまう。
二人は冷たい口づけを交わしあう。
鏡越しの…温もりを感じない、冷たい口づけを。
月日は無情に過ぎていく。
鏡越しの逢瀬は、ナルと麻衣の二人しか知らないこと。
滝川達は、そのことを知らないまま腫れ物に触れるようにナルに接する。
そんな日々が過ぎ行く中、再び訪れた。
麻衣を失った日が。
ナルは一人歩いていた。
いつも通る道だ。
目の前をボールが転がってゆく。それを追いかける少年。何気なくそれを見ていたナルは次の瞬間手に持っていた本を放り投げて、駆けだしていた。
ボールを持って立ちすくむ少年を突き飛ばし、ナルはぼんやりと眼前に迫ったモノを視る。PKを使えば―――
そんな考えが一瞬浮かぶが、ナルはふっと笑みを浮かばせると目を閉じる。
次の瞬間激しい衝撃が身体を駆け抜け、宙に舞い上がるのを感じた。
結局――僕も馬鹿だったんだな。
片割れをドジと罵った。
愛しき女を馬鹿と言った。
結局は、自分も馬鹿でドジなのだろう……………………………
ナルは白い美貌にふわりと笑みを浮かべる。
霞む視界に見えるのは、愛しき人。
あれほど会いたく思い、触れたいと思った人が目の前にいるのだ。
彼女は、困ったような顔で自分を見下ろしている。
「ねぇ、いくらなんでもちょっと早すぎない?」
「――――――――――――― …年も離れていてか?」
ナルは立ち上がると、腕を伸ばし彼女を腕の中に抱き寄せる。
柔らかで華奢な身体。
何一つ変わらない愛しい存在。
鏡越しの冷たい感触ではなく、あれほど望んだ暖かな存在。
「ナルも馬鹿だね」
クスクスと笑みを漏らしながら、麻衣は呟く。
ナルは肩を軽くすくめ、そしていつまでも笑みを零しつづける麻衣の唇を塞いだのだった。
柔らかく、暖かい唇をむさぼるようにナルは重ねる。
腕の中の温もりを二度と離さないように、強く抱きしめながら。
「大丈夫――もう、二度と離れないよ」
「ああ――二度と離さない」
二人は微かに唇を離して囁きあうと、再び離れるのを惜しむように唇を重ね合う。
「何て顔をしているのよ……」
「麻衣に、会えたのですわよ―――――――」
「何もこんなに早く逝くことはないのにな」
「あちらには、ユージンさんもおりますから気が気でないのでしょう」
「幸せになっておくれやす」
「喧嘩をして、谷山さんを困らせないように」
☆☆☆ 作者の戯言 ☆☆☆
何か、「THE SEASON」と似たような話になってしまったでしょうか?
リクエスト内容と大きくかけ離れてしまったような感じもしますが……申し訳ないです。このリクエストで浮かんだ話が、葬式だけど結婚式というモノでして……
リクエストだと、「貴方・貴女は愛しい人が自分の傍から居なくなったらどうしますか?相手が死んでしまった場合、自分はどうしますか?死んだ者は残った者をどうしますか?」と言うものでしたが、一応私が出した答えは、どんな形であろうと傍にいる。と言うことでした。残された方も残した方も、出した答えは同じ・・・と言うことでしょうか?
見事なまでに暗い話になってしまいましたが、感想お待ちしております。
基本的に私の中での物語の終焉は「THE SEASON」の方です。これはまぁ…こんな終わり方もあってもいいかな?と思いましたので、イレギュラー的なお話です。ので、今まで書いていた話のラストがここへたどり着くというわけではありません(^^ゞ