キスの相手





 世の中予期せぬ出来事というモノはめったに起きないモノである。普通は…だが、時にそれが当てはまらないモノがいた。そう…トラブル体質とも、トラブル製造器とも呼ばれる人種達である。
 なぜか、招いてもいないのに訪れてしまう突発事故。だからこそ、トラブルとも言うのかもしれないが……なぜか、トラブル体質の人間はパニック体質でもあり、その結果被害拡大してしまう。どうせなら、トラブルになれて冷静に対処できるようになればいいのに、何度経験しても慣れると言うことはない。不思議なことだ。











 麻衣はワナワナと握り拳を震わせていた。小さな拳はすっかりと血の気をなくし、真っ白になっている。だが、対照的に顔は真っ赤に染まっていた。両眉が激しくつり上がっているところを見ると、怒りによって血圧が上昇し顔が赤く染まっている模様である。
「ナルの…ナルの……」
 可愛らしい唇が怒りによって震えた声を漏らす。
「ナルの浮気ものぉ〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!あんたなんて呪い殺されちゃえばいいんだ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜おたこなすぅ〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!」
 麻衣は絶叫と言っていいほどの大音声で叫き、握りしめていた拳を開いて思いっきり振り上げその白い頬をひっぱたたくと、一気に身を翻して部屋を飛び出した。ドタドタドタともの凄い足音が響いたかと思うと、ガラン、ゴロンと可愛らしい音とは思えないようなドアベルがすさまじい音で鳴り響く。
 朝方という時間を無視しての大声+それら騒音に、眠りの世界に落ちていた仲間達がワラワラと起き出す。寝ぼけ眼の者や、寝癖に乱れたままの姿で飛び出してきたのは、麻衣の絶叫を聞きつけたと言うことと、その内容が実に当てはまらないからだ。
「ナル坊や…お前さん、浮気したのか?」
 自称麻衣の父親であることを自負している滝川が、頭をガシガシとかきむしりながら娘の恋人を睨み付ける。恋人とするには絶対に素直に手放しで歓迎できない男、オリヴァー・ディヴィス。やっかい極まりないのはその中毒的な仕事に対する取り組み方、及びその性格。ナルシストのナルチャンというあだ名が付くほどに自信家で、さらに実力が伴っているというやっかい極まりない男。もちろん、容姿的にもパーフェクト。天はそれらをあたえるかわりに、気配りとか、優しさという者を彼に与え忘れたようだが、まぁ、必要としない者にとっては不必要なそれらは、彼に不便さは与えてないようだ。
 そんな、恋人にはむかない男を大事な大事なムスメの恋人として認めていた最大の理由は、浮気の心配がないということと、どうやら盲目的に麻衣だけを想っているようだという理由の二点にある。
 だが、しかし、その神話もとうとう崩れたというのだろうか。
 ナルの白い頬には見事なまでの赤い手形。どうやら麻衣が問答無用の力でひっぱたたいたようだ。
「で、所長。浮気相手ってどなたです?」
 例え寝起きで起こされたのであろうと、安原は寝乱れ一つなくいつもの笑顔を浮かべながら、ナルに問いかける。まぁ…さすがの安原もパジャマであったが。
「いったいいつの間に連れ込んだのよ」
 可愛い可愛い妹分の麻衣が、裏切られて平静でいられるわけがない。綾子も両眉をキリリッと釣り上げてナルを睨み付ける。もちろん真砂子も弁解の余地なしですわっとばかりにナルを凝視し、リンも無表情ながら年下の上司を上から威圧する。
 ただ、ジョンだけがオロオロとことの成り行きを見守っていた…これで、おわかりかと思われるが、彼らはいつもの調査に来ておりここは、その現場である。
 そして、彼らが疑問に思うのもどおり。ここには生きた人間は少なくとも彼らのメンバー以外いない。よって、ナルが浮気したとなれば相手をどこからか連れ込んだか、もしくは考えたくはないが、綾子か真砂子ということになる。が、もちろん二人は先ほどまで休んでいたのだから論外だ。
「今回の調査内容は何だ」
 憮然としたナルの言葉に、彼らはしばし沈黙する。
 今回の調査内容は、F士の樹海にほど近いところにあるペンション経営をしていたオーナーからの依頼だ。F士の樹海といっても登山道の近くにあり、またハイキングコースなどもいるため、そこそこに泊まり客がいて繁盛しているとは言い難いが、それなりに満喫していたようだ。
 最近女の幽霊が出ては、恋人達の仲を引き裂くというのだ。
 どうも、その女性霊が男をたぶらかすらしい……おかげで商売は上がったりで、オーナーもその存在に恐怖を抱き、SPRに依頼するとさっさと街の方へ避難しているのである。
「で、たぶらかされたってワケか――」
 漸く合点のいく皆様。
 実は密かに麻衣が気にしていた点でもあった。
 元々その女性霊は、恋人達の仲を引き裂くために出て来るという。あらかた今までの調査でその原因も掴めていた。女性は男と駆け落ちし、自殺するべくこの樹海に来たらしいのだが、いざ自殺しようとしたら男は怖じ気ついてしまった。
 挙げ句の果てに男は女をおいてその場から逃走。一人呆然としていた女性はたまたまその場を通りかかった、ペンションのオーナーに保護されここへ連れてこられたらしいのだが、運悪く階段から転げ落ちて首の骨を折って死亡。
 そのまますんなりと成仏してくれればいいのだが、どうも自分を捨てた恋人が許せないらしい。というか、目の前で幸せそうな恋人達がいるとたいそうむかつくようである。よって、それらの仲を引き裂くべく夜な夜な現れては男を誘惑するのを生き甲斐…ではなく死に甲斐?にしているらしいということが、昨日までの調査で判っており、浄霊もしくは除霊は翌日行うはずだったのだが……どうも、事態は夕べというか、先ほど少し変わってしまったようである。
 このメンバーの中で恋人同士という間柄を持つのは、所長であるナルと調査員の麻衣だけ。となれば、自然とターゲットはナルに絞られる。生きた女性相手なら浮気の心配はなくても、相手が死んでいた場合はどうなるのか?という不安が沸き上がるのも当然だろう。何せ、ナルは研究の鬼。データー収集のためなら何でもやる。きっと、いいデーターが取れるなら身売りの一つや二つ平気でするに違いない。麻衣が密かに仲間達に言っていたことだ。
 もちろん、その時は一笑にふしたのだが…さすが、世界的に名高いオリヴァー・ディヴィス博士お墨付きの能力である野生の感の持ち主・・・もといい、シックスセンスの女谷山麻衣の予感は当たったと言うことか…
「で、いったいどんなことをしたって言うのよ」
 麻衣が浮気者云々で騒ぐのだから、その事実と思わしきモノを彼女は見てしまったのだろう。
「別に」
「で通じると思っているワケじゃないでしょうね!?
 麻衣が力一杯に人を殴る何てね、そうそうないわよ」
 その赤い手形が何よりの証拠といわんばかりに、綾子はその頬を指さす。今だに真っ赤になってその存在を主張する手形は当分消えそうにもない。
「あ、綾子達はナル坊を問いつめておいてくれや。
 俺は麻衣が気になるからその辺見てくる」
 滝川がそう言うとリンとジョンや安原も探しに行くと言い出す。よって、女性陣はナルから詳しく事情を聞くことに決まった。

 滝川達は、一度パジャマから洋服に着替えるとペンションから外に出る。まだ、朝早いと言うことで当たりは朝靄が立ちこめて非常に視界が悪かった。
「幾ら麻衣でも、一人で森の中に入ってないだろうから、その辺ウロウロしているんだろう」
 とはいえ、近年この辺りは野犬が多く問題になっているのだ。一時期のブームとかした大型犬を飼ったはいいが飼いきれず、こうした場所へ捨てていってしまうというのが未だに後を絶たないという。捨てられた犬たちは当然野生化し、人を襲うようになったという。普段は森の中で人間自ら捨てた朽ちたモノを食べているようだが、時々民家まで出てきては、突然襲いかかるという話をオーナーから聞いている。
 特に明け方は気をつけた方がいいという話を聞いていた。
「犬には気をつけろよ」
 取りあえず、リンと安原。滝川とジョンといった二人組で麻衣を捜すことになった。一人ずつバラバラに捜した方が効率がいいのだが、もしも野犬が襲ってきた場合一人では対処しきれなくなるし、安原以外はその気になれば術を使えるが、安原は身を守る術が内というのも理由の一つだ。
 取りあえず、三十分辺りを捜して見あたらなかったら一度ここへ戻ってくると決めると、二手に分かれて麻衣の行方を探し出した。

「さて、ナル。いったい何をしたって言うのよ」
 不機嫌そうな表情も何のその。極寒地獄を連想させるブリザードも何のそので、真砂子と綾子は真相を聞き出すべくナルに詰め寄る。もちろんそう簡単にナルが白状するとは思っていないが、二人は一歩も引く気はない。
「ナル、黙りなんて男らしくないですわ。
 してしまったことは仕方在りませんもの。黙ってないでさっさと話してしまった方がこれ以上こじれなくてすみますわよ」
 ナルはそれはそれは、盛大な溜息をもらすと漸く一言告げた。非常に不本意そうに。
「たかが、キス一つで騒がないで下さい」
 憮然とした態度に綾子の片眉が上がる。
「それ以外は?」
「それ以外に何があるというんですか? 僕だって命は惜しいですからね。バカなことはしませんよ」
「命に別状がなければ、交わってもいいというわけ?」
 ナルの言葉の揚げ足を取って、綾子が意地悪げに問いかける。その意味が分かった真砂子は頬を僅かに赤らめたが、今は照れている場合ではないと思い直すと、きっと表情を引き締める。
「どうして、死者と交わると精気を奪われるのか、なぜ死者に遺伝子保存のために生まれる性欲という物が存在するのか、また死者はそのエネルギーをどうしたいのかということには知りたいと思いますが、実際としてはその事を研究したいと思うほどの興味はないですね」
 結局はNOと言っているのかもしれないが、機会があればチャレンジしてみてもいいといっているような気がする。
 死んだ者と交われば精気を全て吸い取られ、死に至る。それは古今東西変わらず信じられていることの一つだ。実際どうかはナルも知らないが。試すために自分の命を使うヤツは居ないため、答えはきっと永遠に判らないだろう。
 いけしゃあしゃあと言い切るナルに綾子は思わず舌打ちが漏れる。やっぱり麻衣は人選を失敗しているんじゃないかってこういう時思うのだ。
「たかだかキス一つって言うけれどね。麻衣が、そのたかだかキス一つをあんた以外の人間としていたら、あんたはどう思うのよ。そーいえば、ユージンといういい存在が居たわね。あんたの目の前で麻衣がジーンとキスしていても、平気で見逃せるの? ジーンでなくてもあんたが見知らない学校の男友達でも良いけれど、気にしないでいられるの? たかがキスの一つで済ませられるっていうの?」
 もしも、これでたかがキス一つぐらいで騒ぐ必要はないといったなら、もう一つの頬を思いっきりひっぱたたいてやると綾子が固く決心していたのだが、一見無表情で何一つ変わったようには見えないが、綾子の言葉にナルが僅かに反応しているのを見逃すような愚かな綾子ではない。
「確かに、イギリス人て元々が挨拶でキスを交わすようなお国柄だから、人に見られても気にしないのかもしれないけどね、あいにくと麻衣は日本人で、そう言うのには慣れてないの。まして、相手が相手だしね。
 ショックは何倍でしょうとも。生きた人間に浮気されたって言うならともかく、いつの時代に死んだのかも判らない幽霊に浮気されるなんてねぇ……あたしでも、ごめんだわ」
 嫌みとばかりにねちねちと言い出す綾子にいい加減うんざりして来たのだろう。ナルは彼女達を振り払うと、ベースへと足を向け夕べ取ったデーターのチェックを無表情でしだす。
「ナル!不謹慎ですわよ」
「僕は、ここに調査に来ているんです。個人的なことで煩わせられてくないのですが?」
 確かに今は仕事中で、プライベートなことでごたごたしていい時期ではないが、それにしてもこの平然とした態度に頭にカッと血が上っても仕方ないだろう。
「―――こんのっっっっ」
 怒りのあまり手を挙げた綾子の動きを遮るかのように、ドアが勢いよく開いた。蹴破らんばかりの勢いでドアを開けたのは、珍しいことに安原だ。いつも飄々とした態度で、
ある意味ナルなみに表情を変えない(とはいえ、彼の場合は笑顔なのだが)安原が、酷く焦っているようだ。肩で荒く息を繰り返し頬がうっすらと上気しているのだが、妙な緊迫感に包まれている。
「安原さん?どうかなさいましたの?」
 苦しげに呼吸を繰り返している安原のために、綾子はすぐに水を取りにキッチンへと足を向ける。グラスに水を淹れて持って来ると、安原は煽るようにそれをし、先ほどよりしっかりとした足取りでナルに近づき、手に握りしめていたモノを渡す。それは、何かの布の切れ端だ。
「――これをどこで?」
 その場にいた全員がそれに見覚えがあった。柔らかなグリーンをした布きれ。それは麻衣が羽織っていたニットのカーディガンと同色だ。
「枝に引っかかっていました。今、滝川さん達が捜しているんですけれど、見つからないんです…もしかしたら、樹海で迷ったのかもしれません」
 安原の言葉にナルは立ち上がりそれを手に取る。



 辺りを一通り滝川達は捜したのだが麻衣を見つけることが出来なかった。もしかして、樹海のハイキングコースの方へ行ったのではないか?ということになり、彼らは合流した後樹海のハイキングコースへと足を向けた。
 ハイキングコースとはいえきちんと整備されたわけではない。雑草や木々の枝を切り、一応形式的に道をならしてはいるモノの、山道と何ら変わらず時々辺りの雑草が生い茂り、道が細くなっていたりしている。鬱蒼と木々が葉を生い茂らせているせいもあって、太陽が空にあってもなお薄暗い。
 20分ほど歩いていくとふと道が二つに分かれた。ハイキングコースの地図上では確か一本道のはずなのにだ。同じ太さの同じような状態の道がYの字状になって伸びている。どっちの道へ行けばよいのかとっさに判断が出来ない。だが、そこでジョンがめざとく木の枝についている物を見つけた。右側の道を少し先に進んだ所で見つけたのだ。もちろん、彼ら四人もそれが誰のかすぐに気が付いた。
「こっちだな」
 取りあえず道がある限り迷うことがないだろう。そう言うことで右側の道を選んで真っ直ぐに進んでいく。
 麻衣の名を呼べど返ってくるのは自分達の声の木霊だけで、返事らしい返事が聞こえてくることもなかった。辺りに視線を向けながら、麻衣の名前を呼び続け歩くことが、ふと段々道の幅が狭くなって言っている気がする。そればかりか、周囲の葉が道をふさぐように段々枝を伸ばし、それらを払いのけながらじゃないと進めなくなってきた。
 今はまだ細いながらも先に道はあるし、後ろには自分達が進んできた道がハッキリと判る。この先もこのまま進んでいった方がいいのか、それとも一度引き返した方がいいのかと、逡巡しはじめたとき滝川が微かなうめき声を上げる。
 不思議に思った残り三人が、滝川の視線を追いそれに気が付く。
「なぁ……嬢ちゃん、これ見たと思うか?」
 チラリとそれに視線を向けて問いかける。
「途中で引き返してなければ、見ているかもしれないですね」
 さすがリンと言うべきか、それを見ても表情一つ変えていない。
「見ていたら、パニック起こしているんじゃないんですか?」
「だとしたら、危険どす」
 四人はそこをなるべく見ないようにして、話を進めていく。
 見るのを避けている場所には、程良い具合に喰い散らかされている物が転がっていた。食い散らかした犯人は、人間が捨て去った野犬様達の用に思われる。そして、彼らの胃袋におさまってしまった物体は、四人の同族の成れの果てだった…近くには丸いわっかが着いているロープがぶら下がっている枝が、途中からばっきりと折れて、同族の傍から少しばかり離れた場所に落ちていた所を見ると、自殺した御仁のようである。
「少年はこれを持ってナル坊の所に戻ってくれ。俺達はもう少しこの先を行ってみる。道が途中でなくなったらそこで戻る。で、もしかしたら麻衣はもっと手前で引き返して、もう一本の道を進んでいるかもしれないから、そっちも見てみる」
「判りました。道のないところには行かないようにして下さいね」
 安原はそこで一人来た道を引き返したのだった。


 事情を聞いたナルは険しい顔で話を聞き終えると、壁に背もたれ床に座る。それが、何をする動作かすぐに判ったが、誰も止めない。この場合、ナルの力に頼らなければ麻衣を見つけだすと言うことが難しいと言うことが判っているからだ。


 ナルの意識はすぐに、麻衣の意識を追い出す。
 深い…深い…失墜感の後、すぐに感覚が戻る。
 はじめに思ったのは噎せ返るほどの濃い緑の匂いと、湿った土の匂い。
 それから、どこを見ても…緑…緑…緑…だった。

 怒りのあまりペンションを飛び出した麻衣は何も考えず、ペンションの脇にあるハイキングコースへの道を選んで脇目も触れず走り続ける。
 悔しくて、悔しくて、悔しくて涙すら出ない。
 人間あまりにも悔しすぎると、本当に涙すら出ないと言うことがよぉ〜〜〜〜くわかった。
「信じられない!! まさか、幽霊相手に浮気されるなんて!きぃ〜〜〜〜悔しい!!!」
 その場で地団駄を踏んで叫ぶ麻衣。どうやら、まだまだ頭に血が上っているようで醒める様子はない。そのままずんずん歩いていく。枝をかき分け、草を踏みちらし鼻息も荒く歩んでいく姿は、まさしくイノシシのようだ。
 ふと目の前で道が二つに別れたが、麻衣は深く考えず右側を選ぶ。その際カーディガンの一部が枝に引っかかったのだが、気が付かず力一杯足を進めていく。が、ツンと引っ張られ足を止め首を後ろへと向ける。上着が枝に引っかかっていることに気が付き、外そうと身をひねったのがいけなかった。それによって、上着の一部が見事に切り裂かれてしまったのだ。
「あ〜〜〜〜〜!!!!気に入っていた上着なのにぃぃぃぃ〜〜〜!!!」
 麻衣はカーディガンの裾を掴んでワナワナ震える。
 お気に入りの一枚が、無惨な姿になり果ててしまっている。5センチ四方に破れてしまった、カーディガン。ここまで見事に破れてしまっては、もう着ることは出来ない。
「最悪っっっ!!! これもこれもあれもそれも、みぃ〜〜〜〜んなナルのせいだ!!」
 うきぃ〜〜〜〜!!!と、地団駄を踏むとそのまま麻衣はまた突っ走る。道が狭かろうと、草木が伸びていようと、枝が道を阻もうと足を進めていた。
 だが、ふと足を止める。
 幾ら何でもこれはおかしいんじゃないか?と漸く気が付く。もしかして、どこかで道を間違ったのだろうか?
 確か、あまりにも腹立たしくて何も考えないで歩いてきた。
 ふと怖くなって振り返ると。そこにはまだ来た道が残っている。大丈夫、来た道を戻ればペンションに引き返せる。
 麻衣はこれ以上変なところへ行かないうちにペンションに戻ろうと、身を捩ったときそれを見てしまった。
 死後どのぐらい立っているのだろうか? 顔の肉は見事にそげ落ち、眼窩が黒く空いている。所々白い骨が見えるがほとんどが黒い腐ったデロデロのケロイド状のモノに覆われ、一応、人らしく服を身に纏っていたが、何か獣に襲われたのか、片腕がもげていてない。腹部は空っぽで地面がその向こうに見える。足の肉も大半がなく白い骨が見える。
「あ………ひ………」
 口をパクパクしてとにかく多量の空気を吸い込む。何でこんな物がこんな所に!?腰が抜けないだけましだった。麻衣はガクガク震えつつもそこから目を離したいのに、離せず凝視し続けている。
 ふと思い出すのはここが、かの有名な樹海。何で有名かと言えば……思い出すのは、調査地に初めて訪れたときに見た「命は親から頂いた大切なもの もう一度静かに両親や兄弟、子供のことを考えてみましょう。一人で悩まずまず相談してください。防犯団体連絡協議会・自殺防止連絡会 富士××警察署」という看板があった。
 それだけ、ここには自殺者が多いのだろう。半年に一度捜索が行われるという話を聞いたことがある…その時見つかるのはごく一部しかないのだ。捜索隊も迷いかねないからと、街道沿いに反って捜すだけだという。奥深くに入り込んでしまった場合誰の目にも留まることなく、風化して行くだけだ。下手をすればここらを徘徊する野犬などに喰われてしまうらしい。そんな物は一生見たくはないが……見たくなかったのに………
「う…あ…あ……」
 麻衣はもう、それ以上一秒たりともその場にいられなかった。
「うぎゃぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!」
 可愛らしい可憐な悲鳴とお世辞でも言えないような声が辺りに響き渡る。その声に驚いたのか、枝に止まっていた鳥達もいっせいに飛び立ち、静まり返っていた樹海内が瞬間的に騒然とする。
 結果、走る。
 もう、何も考えていられない。とにかく走って走って走りまくった。枝で頬を引っ掻こうとも、鋭い刃のような葉で足を切ろうとも、無我夢中で走る。けして走りやすい所ではない。辺りの木の根が所々盛り上がり、麻衣の行く手を邪魔するように障害物とかしている。それをまたぎ飛び越え、ひたすら走り続ける。途中腐りかけた葉っぱに足を取られ、バランスを崩すが地面いてを着いて、何とか転倒を免れると再び走り出す。一刻も早くこんな森からは出たかった。
 景色は見る見るうちに変わり、やがて麻衣は一際太い木の枝に足を取られて、ベシャリと転ぶ。
「っっっったぁ〜〜〜〜〜〜何でこんな所に気の根っこがあるのよ!!」
 怒り心頭の麻衣は森にあって当たり前の気の根っこを睨み付けて叫ぶ。誰が何と言おうとそれは八つ当たりに他ならないが、この場には麻衣以外居ないため、誰も突っ込むような人間はいなかった。
 手をすんでの所で突いたから、顔面からという何とも間抜けな事態は免れたが、幼児のように膝をすりむいてしまった。泥まみれの膝小僧から赤い血が滲み出ている。取りあえず汚れを払い落とすべく、ポケットからハンカチを取り出すと、軽く擦って泥を落とす。染みたがこのまま化膿したりするよりはましだ。
 とにかく立って泥を落とそう。
 よいせっと立ち上がろうとしたのだが、足首に走った痛みに思わず呻き声を漏らす。どうやら、木の根に引っかけた方の足首が捻挫してしまったようだ。歩けないほどの痛みではないが、ズクン…ズクン…と痛みを訴えてくる。
 だが、こんな所に座っていても誰かが迎えに来てくれるわけでもない。
 とにかく戻らないと………
 辺りを見渡して自分が来た方を捜す。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 しかし、右を見ても樹と雑草と根っこ。左を見ても同文。前を見ても同文。後ろを見ても同文。下を見たら土だけで、上を見たら生い茂る葉だけだ。

「―――どっちから来たっけ?」

 思わず漏れた言葉に、さぁ〜〜〜と青ざめる麻衣。
 麻衣とて日本人。ここがどんなところか知っている。って言うか知りたくないけれど知っているのが常識……そう、ここはF山の麓にあるかの有名すぎる青Kヶ原の樹海。一度迷ったら二度と出て来れないと言うことで有名な樹海。この地では磁石は全くの役に立たず、方向をしろうにも太陽すらまともに見えない場所では、方角を知ることは不可能。さらに…周りの風景はどれも似たようなもので、自分がどこから来たのかも不明。取りあえず道らしきモノは全く見えない。歩いていけば外に出れる…といえるほど狭い森でもなく、楽観的にもなれない。何せ気が付いたら同じ所をぐるぐるぅ〜〜〜ということもあり得るのだ。
「迷子の〜〜迷子の〜〜子猫ちゃん♪ あなたのお家はどこですかぁ〜〜〜♪
 何て歌っている場合じゃないでしょ〜〜〜〜私ぃ〜〜〜〜!!!」
 思わず現実逃避をしかけた頭を、ぼかすか殴ってしまう。
 そりゃ、こんな所で迷ったら現実逃避の一つや二つしたくなるだろう。何せ帰り道が判らないのだから。この年になっての迷子。その上、樹海での迷子。誰がどう考えなくてもお手上げだ。考える必要などないぐらいに結果なんぞ目に見えて判る。
「ど…………どうしよう……………」
 急に現実が目に入ってき麻衣は一歩もその場から動けなくなる。
 何の準備もしていない。着の身着のまま…その上、さっきまで走っていたせいかうっすらと汗を掻いていたのだが、それが急激に冷えてきて寒気すら感じる。
 まだ10月とはいえさすがこの辺りはけっこう冷える。少なくとも今はまだ午前中だから太陽が出ている昼間の何時間かは我慢が出来るが、日が暮れたら凍えてしまう。それに……微かに聞こえる声は、犬の遠吠えだ。もしも、野犬に襲われたら一巻の終わりだ。一匹や二匹なら九字を切れば、助かるかもしれないが集団で襲ってきたら逃げ切れない。
「やだ……」
 急に「死」という文字が間近なモノに感じられ、恐怖に身体が震える。
 調査中だってここまで『死』という者を意識したことはない。
 今まで一度も体験したことのない事態に、頭がこんがらがりパニックを起こしそうになる。心臓が痛いほど早鐘を打ち、まるで全力疾走したかのように、呼吸が速くなってくる。
 怖い。どうすればいいのか判らない。
「駄目…慌てたって、パニックになったって…助からない。
 大丈夫…大丈夫…大丈夫………」
 マインドコントロールをかけるように、大木の下に腰を下ろして深呼吸を繰り返し、自分に言い聞かせる。
 ナルに常に言われていた言葉をこの時になって漸く思い出す。
「お前はとっさの事態に弱いから、パニック状態に陥りやすいんだ。何か起こったら慌てる前に深呼吸をして、気を落ち着かせろ。それから良く周りを見るんだ。頭に血が上ったのを冷ますんだ。
 慌てふためいて行動しても何一ついい結果を生まない。余計な混乱を招いて事態を悪化させるだけだ」
 そう言っていたナルの言葉は実に正しい。悲しいことだが実に事実をついてくれている。
 血が頭に上ったあげくの行動の果てがこれである……これ以上のパニックはさらに事態を悪化させるだけだ。
「もしかしたら、そんなに道から離れていないかもしれないし…皆が心配して助けに来てくれるかもしれないし……リンさんの式神とか、ナルのサイコメトリーとか……」
 使って欲しくないけれど…きっと、自分が見つからなかったら探し出してくれるはず。っというか、先ほど派手に殴って腹を立てていた相手の能力を、期待するというのもちょっと虫が良すぎるかもしれないけれど……
「あ、殴っちゃったから…無理かな?」
 勢いに任せて思いっきりその頬を殴ってしまったことを漸く思い出す。右手……痛くなかったはずなのに、ジンジンと今頃になって痛み出してくる。
「バカだなぁ……私って」
 ぎゅっと右手を握りしめると、大木に寄りかかる。今はとにかく無駄に動いて体力を消耗させないことだ。
 少しでも長く、可能性を信じていたい………




                                             続く


☆ ☆☆ 作者の戯言 ☆☆☆
梅子様リクエスト、幽霊相手に嫉妬する麻衣というリクだったのに…全然、嫉妬してないし……あうぅ、全然駄目ですねぇ〜〜〜。
でも、個人的には楽しんで書いていたりしますが(^^ゞ
今回のテーマは猪突猛進の麻衣チン迷子になる(笑)でした。ちなみに、天華もパニック体質のため、良く漫画みたいな失敗しています(笑) 友達はそれを見てなぜか愉快そうに笑っています・・・本人にとって笑い事じゃないんだけどね・・・まぁ、私だって他人が同じコトしていたらきっと笑うだろうけどさ・・・・・
いや、パニック起こしたあげく電話線に足引っかけて、電話ひっくり返すとか……したこと在りました(遠い目)…それも以前勤めていた会社で…………目撃者約一名…恥ずかしかった……………
それと実体験として、中学一年の時、学校の自然教室内で行われたオリエンテーリングでグループに分かれて、樹海ハイキングコースを散策というのがありました。その途中道が二つになぜか別れている。どっちへ行けばいいのか判らない。なぜか地図は一本道だったから。
取りあえず適当に選んだ道を進んでいったら…道はドンドン細くなるわ、やたらと枝が伸びているは、草は生えているは、そのうち道がわかりにくくなるわ…で、元に戻りました。
怖くなってさすがに元に戻りましたとも。
もう一本の道を進んだらそっちが正解でした。
これは実は私の実体験です。いや、あんときはマジで怖かったぞ(笑)
だって、途中から変だねぇ〜と誰ともなく言い始めて、こっちでいいの?というような状態になると不安が募ってくるし…やがて、はずれvといわんばかりに道細くなるしさぁ〜〜〜皆でこれはヤバイゾ〜〜〜!!と叫びながら分岐点まで慌てて駆け戻りましたとも。道に迷わなかったから、今ここにいるんだけどね(笑)
パニック状態の人間て端から見ていると面白いらしいんだけれど、パニック状態に陥っている本人はマジで慌てているんだけどねぇ〜〜〜(遠い目)







ごー・とぅー・ばっく            ごー・とぅ・ねくすと