言葉のない夜








 ただ、私は見ていることしかできなかった。
 なすすべもないまま、テレビを見るかのように見ていることしかできなかった。
 頬を冷たいものが流れるのを止めることも出来ず、伸ばした手を動かすことも出来ず、ただ・・・眺めることしか出来ない。声を上げて助けを呼んであげることも、駆け寄って助けてあげることも出来ない。
 自分にとってそれは、ブラウン管の出来事のように遠いものだけど、彼女にとっては真実で、そしてもうどうしようもない現実・・・過去のもの。
 時の中に埋もれて、人々の記憶から消え去ろうとも、けして消えることのできない彼女の疵・・・・・・・
 泣き叫ぶ声は誰の耳にも聞こえず、救いを求める手は虚空を掴むだけ、そして、見開かれた目は徐々に力をなくし・・・・やがてすべてを映さなくなる。










 慟哭。
 天をも貫くような慟哭が闇に響く。
 憎しみに満ちた声が、憤りの声が、むなしく当たりに響く・・・・・冷たい雨が頬を濡らしているのか、それとも瞳から溢れる悲しみが頬を濡らしているのか。
 自分を呪い、全てを呪う声が雨音に掻き消えてゆく・・・・・








 悲しい声
 切ない声。
 聞くに堪えられないほどの嘆きの声が、闇の中ただ響くのを耳を塞ぐことも出来ず聞いていることしか、出来なかった・・・・・・・・・・・・・・









☆   ☆   ☆   ☆   ☆








 しんと静まり返った夜。音という音はない中、麻衣はぼんやりと時計に視線を向ける。時刻は夜の11時を過ぎたころだった。この部屋の唯一の音の発信地。これ以外に音を立てているものは何一つない。
 住み慣れているはずの部屋はひどく寂しい気がした。なぜだろうか。首をめぐらせば一望できてしまうほどの広さ。八畳ほどのワンルームのアパートは、女の子の部屋としては殺風景なほうだろう。小さなテレビとCDラジカセが載った一メートルほどの高さのラックと、パイプベッド。丸テーブルに本棚。目に付く家具はそのぐらいだ。ベッドの上にいくつか置かれているぬいぐるみと、ラックに飾られている写真が女の子らしいといえばらしいが、二十歳の女の子が住む部屋には殺風景極まりない。
 麻衣はクッションを抱きかかえたまま、時計へと再び視線を戻す。
 9月に入って一度も、ナルのマンションへ行っていないまま、ナルの誕生日を迎えようとしていた。渡そうとしていたプレゼントも渡せる気配がない。
 仕事も漸く山を終え、いつもの日常が戻ってきていながら、彼の部屋に足を運んでない日数がここまで来たのは、付き合い始めてから始めてからかもしれない。
 いつものように仕事を終えると、ナルは何も言わず自分をこのアパートのほうへ送り届けてしまうのだ。無言の拒絶。麻衣は言葉にせずとも、ナルが今自分がマンションへ行くことを拒んでいる。だから、『送る』といっていながらも麻衣と視線を合わせず、義務的に車を出す。
 車中に漂う空気もひどく重いものだ。
 沈黙は今までけして重いものではなかった。だが、ここ数日の空気は息をするのも苦しく感じるほど重い。
 麻衣もナルのマンションへ訪れることが出来ないでいた。ナルがなぜ拒絶してしまうのか、判っているから――痛いほど自分は知っているか。どうして拒絶せざるえないのかを・・・
 だが、このままではどうにもならないことも知っている。
 前にも進めず、後ろにも進めず、留まる事しかできないのでは、何も変わらない。ただ、時間の経過を待っていれば済むという問題ではない。
 動かなければいけないのだ。
 ナルもそれは判っているはずだ。常に理性的で感情よりも理性を重視するナルなら、余計わかっているはずだ。だが、動けないでいる。あのナルが身動きが取れないでいるのだ。動けないなら自分が動くしかない。もう、充分に考える時間はあった。それでも、出た答えは一つである。そして、それ以外あるわけがないこともまた歴然としていた。
 迷いはない。
 それが吉とでるか、凶と出るかなんて今考えることではないのだ。たとえ、結果が最悪の形で終わろうとも、このまま時が流れるままに任せても、同じだ。事態が改善するわけがない。いびつが修正されないまま築かれていくのだ。
 そして、それは些細なことで瓦解する。
 留めようとしても、留められないほどに。
 修正が出来なくなるほどに、粉々に砕け散る。
 それだけは、避けねばならない。
 失いたくないのだから。だから、そうならないように自分が動くのだ。
 愛しくて、誰よりも大切なものを守るために。
 麻衣は勢いをつけておもむろに立ち上がると、作り置きのクローゼットからお気に入りの白い上着を取り出して羽織る。必要なものなど財布ぐらいだ。それとナルに買ったプレゼントを手に持つ。それさえあれば充分である。バックも持たず麻衣は、深夜の街へと飛び出した。
 自分のアパートから、ナルのマンションまで徒歩を入れれば40分強。乗り継ぎが悪くても終電には充分に間に合う。ドアを開けた瞬間冷たい空気に思わず身震いする。いくら昼間はまだ暑い日々が続くとはいえ、夜にもなれば秋の冷たい風が吹くようになった。
 部屋との室温差に思わず鳥肌が立つ。 
 等間隔で灯る電灯だけの人気の皆無な道。
 まるで、先の見えない闇の中へと続いているような錯覚に囚われる。
 無意識のうちに自分の身体を両腕で抱えてしまう。歩き出してもいないのに忙しなくなる吐息。うっすらと汗が滲みあがり、表現しがたい恐怖が身体の奥から沸き起こるが、麻衣は頭を軽く一振りして雑念を捨てる。
 怯える必要は『自分』にはないのだ。
 両目を閉じて深呼吸をし強く言い聞かせると、躊躇することなく人通りのない暗い夜道に出て小走りで駅に向かう。



















 麻衣がナルのマンションにたどり着いたのはすでに12時を過ぎようとしている時刻だった。マンションを見上げると目的の部屋には明かりが灯っている。マンション全体で見れば八割がたの部屋の電気が消えているのが伺えた。
 人によってはまだ起きているだろうし、寝ているものもいる。どちらにしろ、他人の家を訪れるような時刻ではない事は確かだが、麻衣は躊躇なくエントランスに足を向けると、タッチパネルの前で立ち止まる。もちろん暗証番号も知っているし、カードキーもナルから渡されているのだが、あえて麻衣はそれらを使わずナルの部屋の番号を押す。
 もしかしたら、ナルは出ないかも知れない。
 部屋を訪れる可能性のある自分は、わざわざ呼び出す必要はないのだから。
 どのぐらい待っただろうか。長いのか短いのか判らない。
 シンと静まり返った音のない空間で待っていると、漸く聞きなれた声がスピーカーから漏れる。そして、モニターに映った自分を見て呆れた声が続いた。
「・・・・中に入れてくれる?」
 麻衣の問いに答える声はないが、その代わり自動ドアが開いた。
 エレベーターに乗り込み目的の怪で降りると、もう一度ドアの前でインターフォンを鳴らす。今度はそう待つこともなくナル本人が姿を現した。眉間に深く皺を寄せて不機嫌さを隠そうともせず。だが、麻衣は躊躇することもなくにっこりと笑顔を浮かべる。どんな時も強気で笑顔を浮かべれば、負ける事はない。
 彼の上司であり笑顔の素敵な彼女の教えを守り、さらに麻衣独特の柔らかな笑顔を浮かべてナルを見上げた。
 ナルは僅かに身を引くとドアを大きく開けて麻衣を室内へと招き入れた。
 中は予想通り一定の空調が聞いているのだが、ナルの体感温度で設定されているため、今の麻衣にはやはり少し肌寒く感じた。いつもならそのことに文句を言う麻衣だが、あえてその件には触れず明るい声でくるりと振り返ってナルを仰ぎ見る。
「あ〜〜寒かった。けっこう、もう風は冷たくなっているよ。あ、お茶入れていいよね?」
 麻衣はナルに口を開く隙を見せず、軽い足音を立ててキッチンへと向かう。背後でナルが重い溜息をついたが、気にする事はなかった。
 三週間弱しかたっていないのにひどく懐かしく感じるキッチンに立ち、慣れたしぐさで紅茶の用意をする。食器一つ、調味料一つ場所が変わっていないところを見ると、ナルは全くキッチンに立っていないようだった。きっとろくに食事もしていないに違いない。だが、あえてそのことには触れず淡い香りのするダージリンを淹れて、リビングに戻るとナルがコートを片手に立っていた。
「送るから、それを飲んだら帰れ」
「い・や」
 ソファーにどっかりと腰を下ろして麻衣は、ツーんと横を向く。
「人の家を訪れるような時間だと思わないが?」
「どうせ、ナルて寝てないんだから何時だって構わないでしょ? それよりナルもお茶のもうよ。せっかく淹れたんだからさ。冷めちゃうよ?」
 カップを両手で囲うように持ちながら麻衣はナルを仰ぎ見るが、ナルは座る様子もなければ麻衣の淹れた紅茶を呑む気配もない。ただ、険しい目で自分を見下ろしていた。
 深い闇色の双眸がまるで睨みつけるかのように自分を見ているが、麻衣は怖いとは思わなかった。おそらく、他の誰が見ても今のナルを見て怯えないものはいないだろう。リンですらその気迫に呑まれたかも知れない。だが、麻衣にはその目はひどく傷ついているようにも見えた。
 いや、傷ついているのだ。
 出来たばかりの傷口はいまだにぱっくりと口を開き、閉じることもないまま鮮血を滴らせている。ナルはその疵に気が付くこともなく、治療するすべもなく、ただ抱えているのだ。血を滴らせながら・・・・
 麻衣がじっと自分のことを見ていることに気が付いているだろうに、ナルはそのことに触れず麻衣に帰るよう促し続ける。
「麻衣、僕は帰れといっているんだが?」
 気持ち語調がきつくなるが、麻衣はにっこりと笑顔を浮かべて帰らないと言い張る。
「麻衣」
 苛立ちも隠そうともしないナルを不思議そうに麻衣は見上げる。
「何で、帰そうとするの? 私邪魔?」
「ああ。邪魔だ。僕はお前ほど暇人じゃない。だから帰れ」
 全く飾られることのない言葉。いつもより冷たく響いているはずの声だと言うのに、麻衣にはそれが虚勢から生まれる声のような気がした。おそらく誰が聞いても、冷え冷えとする凍てついた声に聞こえるだろうが、いつもとは明らかに違う。自分の直感はそう告げていたが、麻衣はあえてそのことに反論せずカップの紅茶を一気に飲み干すと、手のつけられなかったナルのカップも共に持って片付ける。
 そして、ソファーにかけてあるコートを手に取ると、何も言わずに玄関へと向かう。その行動にナルの方があっけに取られてしまう。おそらく駄々をこねるとでも思ったのだろう。意地を張ってすぐに帰るとは思ってもいなかったはずだ。だが、麻衣は予想外にもあっさりと引き下がてしまった。
 彼女が一体こんな夜中に何をしに来たのか、ナルには判らないが、車のキーを持って彼女のあとを追う。
「忙しいんでしょ? 別にいいよ送らなくても」
 きょとんとした目で告げる彼女に対し、ナルはさらに重い溜息を漏らす。
「今何時だと思っている。終電は終わっているぞ」
「駅まで出ればタクシー拾えるもん。ちょっとお金かかっちゃうけど、たまにはそんな贅沢も許しちゃおう。だからかまわないよ。駅まですぐだしさ」
 あっさりとナルの申し出を断る麻衣に、ナルはイラツキを隠せない。
 なぜ、終電もなくなろうという時間に独りでマンションまで来たのか。帰れなくなると判っているだろうに。
 それでいながら、自分が帰れといえばなぜあっさりと引き下がるのか。
 わざわざ、紅茶だけを飲みにこの寒い夜に出てきたというのだろうか。
 さらに、送るという申し出さえも断るのか。
 相変わらず笑顔を浮かべたまま告げる麻衣が、何を考えているのかナルには判らない。いつもは考えなくても判るというのに、麻衣が何を考えて行動に出たのか、その綺麗な笑顔に隠されて読めない。
 そのことが、またナルの苛立ちを募らせる。
 誰よりも彼女のことを判っていると言う自負が、ひどく傷つけられる。
 そして、同時に他人のことなど判るはずがないのだから、当然だと納得する自分もいる。普段なら、確かに納得して終わるはずだった。こんなに苛立ちを覚えることもない。だが、苛立ちは収まるどころかますます荒れ狂い、理性を押し流そうとする。
「こんな、時間に一人で帰せるわけがない。ぼーさん辺りが知ったらまた煩いだけだ」
 送る理由としては至極当然だ。すでに時間は0時を過ぎており、若い女性を一人で歩かせるべき時間ではない。いくら、駅でタクシーを拾うといってもこのマンションから最寄の駅まで、10分ちょっと。その間すべて住宅街であり、人気はすでに皆無な夜道である。
 さらに、住宅街とはいえ歩いて繁華街にも出れる場所であるため、時折酔っ払いやチンピラが迷い込んでくることもあるのだ。なおさら、一人で帰せるわけがない。それは麻衣とてわかっているはずだ。
「ぼーさんが、煩いからわざわざ仕事を中断してまで送ってくれるの?
 別にさ、忙しい仕事中断してまで送ってくれなくても平気だよ? ぼーさんだってすべてを見通す千里眼の持ち主じゃないんだから、私やナルがわざわざ言わなければ知ることもないだろうし、私も言うつもりないしさ、だからナルは気にしなくて忙しい仕事に励んでいていいよ。
 ごめんね、こんな時間に押しかけちゃって。
 んじゃ、帰るね」
 麻衣はくるりと身体の向きを変えて出て行こうとするが、ナルは背後からドアに伸びた手を掴んで止める。
「バカかといっているんだ。こんな時間に一人で帰せるわけがないだろう」
「平気だってば。遅いっていったってまだ12時だよ。多少は人通りもあるし、それに、痴漢や酔っ払いが出たって平気だよ。あまり使いたくないけど、いざとなれば九字を切って逃げるし。だから、心配無用だってば。
 それに、私を襲うような物好きだっていないだろうし」
 麻衣はケラケラと明るい声で言うが、ナルはその視線を緩める様子もなく、掴んでいる麻衣の腕をさらに強く握り締める。
「そう言って、彼女も真夜中一人で帰ったな・・・その結果が、アレだ。忘れたわけじゃなりだろう?」
 唐突にナルはポツリと口を開いた。前後の脈略もない言葉。だが、何のことをさして言っているのか麻衣にはわかる。今まで浮かべていた笑みを消して、ただナルを見上げて続く言葉を待つ。
 その言葉が、ナルに深く突き刺さり今立ちを滴らせる疵になっているのだから。
「お前も視たんだろ?」
 その問いに麻衣はコクリ・・・・・・と小さく頷く。
「視るな、といったはずだが?」
「・・・・見たけど、私はテレビを見るように遠くから視ただけ・・・いつものように、追体験はしてないから大丈夫。
 ナルみたいに・・・・視た訳じゃないから」
 麻衣の言葉にナルの身体が微かに硬直する。



「ねぇ・・・・ナル、何に怯えているの?」



 麻衣はゆっくりと口を開いて問いかける。
 凍りついたナルを見上げて。
 まっすぐにその闇色の双眸を見上げた。










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