なくてはならないもの

 

 

 生きていく上でなくてはならない物がある。
 それは、空気であり、水であり、食べ物であり、それらは欠かせない物。これに例外はなく動物であろうと植物であろうと、陸生であろうと水生であろうと、全ての物に共通する。
 なら、人が人であるために必要とする物は?
 私が、必要とする物は?
 こたえなど考えなくても判ることなのに、答えを出すことを怯えている。
 それを言葉(カタチ)として認識してしまったら、そこから目をそらせられなくなってしまう。もしも、それを無くしてしまったとき、私は私でいられなくなってしまう。
 だから、怖い。
 たった一つの物を作ってしまうのが。
 それを認めるのが。
 認めてしまうのが――――



☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 雪は嫌い。
 麻衣はぼんやりと窓の外を見ながら心の中で呟く。
 1人で見る雪は嫌いだ。

 幾らそう思っていても、止みそうもない白い淡雪が天から絶え間なく降っている。
 夕べから降り続けていた雪は都会の音を呑み込み、昼間だというのに深閑とした世界を作り上げている。
 寂しいのに。
 麻衣は主のいないマンションのリビングで、膝を抱えながら息を吐く。
 広い部屋にたった一人。
 空調は利いているというのに、寒さを覚える。
 いつもは、例え一人でリビングで時間を過ごしていようと、そんなことはないのに。それなのに――寂しくて、寒さを感じる。
 ナルは二週間前からリンと共にイギリスに帰国していた。
 明日の夕方には日本に戻ってくる。今頃は向こうを出るための準備でもしているか、挨拶回りをしているか、ぎりぎりまで研究所に籠もっているか…おそらく研究所だろうが、没頭していることであろう。
 麻衣は立ち上がって、窓を開ける。
 窓を開ければ、音が聞こえてくるかもしれない。
 音のない部屋はいっそう寂しさを募らせる。
 だが、窓を開けても音らしい音は何も聞こえてこない。
 住宅街のマンションでは車の走る音もなく、外に人の気配も感じさせない。ただ、静かに雪が降り続けるだけだ。
 冷たい風に身を震わせ、麻衣は窓を閉める。
 でも、明日になればこの寂しさからは離れられる。
 ナルが、日本に帰ってきてくれれば、もう思い出さなくてすむ。
 一人だと言うことを―――
 そう思った瞬間麻衣は知らずうちに苦笑を漏らす。いつの間にかナルの側にいることが当たり前になっていた。手の届くところにいるのが当たり前・・・1人でも平気だった時間がひどく遠く感じる。それほど昔のことではないのに、遙か遠い昔の記憶・・・そう思うほどに、ナルの側にいるのが当たり前になっていた。
 僅か二週間、会わないだけなのにひどく寂しく思うほどに、彼の存在を欲している自分が居る。
 ひどく我が儘に貪欲に。片時も離れず側にいて欲しいと望む自分自身がいる。
 それは、認めてしまえば楽になる感情。
 目を背けず受け入れてしまえばいい・・・そうすれば、きっと我が儘に彼の機嫌など気にせず帰ってきたときに甘えることができる。もうじき傍らに帰ってくる温もりに、すがることができる。
 それなのに、今の麻衣はその思いから目をそらしたかった。
 でなければ、確実に邪魔をすることになるだろうか・・・
 気にならないときは気にせずできることが、ひどく躊躇われる。
 側にいて欲しい・・・ずっと。離れないで。
 だけど、嫌われたくはない。
 側にいることを厭われたくはないから、焦る心に蓋をする。
 仕事をたくさん抱ええて帰ってくるであろうことは、簡単に予想できる。きっと長時間の移動の疲れも何のそので仕事をし始めるだろう。
 厭われたくはないから、帰ってきて顔を見たら帰ろう。一目見ればきっと寂しさは消えるはず。いつもの日常が戻るのだから。
 何度目になるか判らない溜息をもらすと、暖かな室内に戻る。

 ナルが帰ってくる前に、もう一度書斎を掃除しておこう。食事も用意しておかなければ。
 麻衣はどことなくだるさを訴えてくる身体を無視して、忙しなく動き出した。
 ナルが帰国した翌日から、入れ替わるように麻衣がバイトを休まざる得なくなるのだから。
「こんなタイミングでぶつかるなら、旅行入れなければ良かったな……」
 楽しみにしていたはずだった、高校時代の友人達との旅行。
 だが、今はナルと再び離れなければいけないと言うことが、ひどく憂鬱とさせていた。
 たった、一週間の旅行だというのに……

 

 翌日の午後10時頃予定より4時間遅れてナルは帰ってきた。
 疲れたような顔をして帰ってきたナルを麻衣は笑顔で出迎える。

「ご飯どうする?」
 麻衣は一応軽食を作って待っていたのだが、ナルは「リンと軽く食べてきた」と言って、スーツケースから洋書とファイルを取り出すと、着替えることもせず書斎に入っていった。
 麻衣は、ナルの背中を見ながら溜息をつく。
 どうやら、仕事は向こうでは終わらなかったらしい。
 麻衣に見向きもせず、書斎に閉じこもったナルに麻衣はとりあえず紅茶を持っていくことにした。
 お湯を沸かしている間に、夕飯を片づけていく。
 スープは後で、火にかけ直せばいい。サンドイッチはラップをかけて冷蔵庫へ。明日の朝にでも食べて貰おう。ポテトサラダもラップをかけて冷蔵庫にしまう。
 疲れに良いだろうハーブティーを入れて麻衣は、ナルの書斎へと紅茶を運んでいく。
「先に寝ていろ」
 視線は洋書の文字を追ったままだが、それだけでもかけてくれた言葉が嬉しかった。
「うん」
 麻衣はニッコリと笑顔を浮かべて、邪魔をしないようにさっさと書斎を出ていく。
 外に視線を向けると、いつの間にか雪が本格的に降っていた。
 世界を白く染め上げるように、絶え間なく降り続ける雪。
 時には温もりさえも与えてくれると言う雪。だけれど、麻衣にとって雪は温もりではなく氷のような冷たさしか与えてはくれない。
 奪うことはあっても、何も与えてはくれなかった雪…………
 トレイをキッチンに戻すと麻衣はちらりと時計を見る。11時にはまだ時間があった。麻衣は備え付けの紙とペンを手に取ると短い文を書き、リビングのガラステーブルの上に置くと、ハンドバックを手に持ってナルのマンションを後にした。
 ナルは泊まっていくものと思っているようだったが、今日は当初からアパートの方へ帰るつもりでいた。明日から旅行に行くため、今日は本当はもっと早く帰るはずだったが、遅くなったナルの帰りを待っているうちに、こんな時間になってしまったのだ。
 このまま、ナルに会えないで更に一週間を過ごすなんて、考えられなかったから。
 雪が降りしきる中。麻衣はゆっくりと歩いていく。
 一人ではないのに、一人を思わせる世界。寒くないのに寒さを感じさせる身体。あのままナルの部屋にいたら、きっと仕事の邪魔をしていた。
 それだけはしたくなかった。
 側にいることを許されていることが嬉しいから、煙たがられることだけはしたくない。
 もっと、側にいたいけれど。
 拒絶されることは怖いから。
 二週間も離れていたというのに麻衣(ジブン)に見向きもしなかったナル。きっと寂しいと思うのは自分だけで、ナルは研究に没頭して自分のことなど思い出しもしなかったに違いない。
 だからといって、自分より研究の方が大事だというわけではない。全く別の物として分けられているはずだ。比べようもないこととして。
 だから、ナルの気持ちを疑ったことはない。
 相手より自分の方が思っているとか、思っていないとかそういうことも考えたことはない。気持ちに多いとか、少ないとか、重いとか、軽いとかそんなモノがあるとも思ったことはない。
 ただ、違うのだ。
 想いのありようが。
 存在のありようが。
 人の数だけ、相手を思う形があり、己の占める割合があり、比重があるのだ。
 ナルが自分を思ってくれるありようと、麻衣がナルを思うありようが、ただ、違うだけ―――それは、けして同じになるわけがない。
 麻衣は雪が激しさをます中、重い足取りで自分のアパートへ戻っていった。

―― 一人じゃないのに…一人の時より寂しかった……

 

 ナルが麻衣の不在に気がついたのは、翌朝のことである。
 テーブルの上に置いてある紙に気が付き、視線を走らせると舌打ちを漏らす。

 ――邪魔をしたくないから、帰ります。

 
 短い文。たった一言だ。

 何を今更気を使っているのか。
 ナルが麻衣を邪魔に思ったことなど無いというのに。
 麻衣がナルを邪魔したことなど無いというのに。
 ナルは紙を丸めてゴミ箱へ捨ててしまう。外に視線を向ければ、かなり雪が降り積もっている。ナルがマンションに帰ってきたときはすでに雪は本格的に降っていた。麻衣はこの雪の中を深夜一人で帰ったことになる。
「あの馬鹿が――」
 苦虫を噛みつぶしたような渋面でナルが呟くが、すぐに空気にかき消える。
 とりあえず、オフィスに行けば麻衣と会えるだろうから、そこで一言言えばいい。そう思っていたナルは安原の一言で、深い溜息のみとなる。
「谷山さんでしたら、今日から一週間高校時代のお友達と旅行と言うことで、お休みですよ?」
 イギリスに行く前に麻衣がそんなことを言っていたことを、ナルは漸く思い出す。そして、夕べの麻衣がなんだか寂しそうな表情をしていたことも。
 だが、どうしても昨日のうちに目を通しておきたい文献があって、そんな麻衣を放って置いてしまったのだが…今更なコトだった。


 いつもと何ら変わらない一週間がゆっくりと過ぎた。
 日本にいながら、麻衣と会わないと言うコトが、いつもより時間の経過を遅くさせたが、仕事に取り組んでいる限りナルには時間の経過があまり感じられない。
 そればかりか、ここぞとばかりにイギリスから持って帰ってきた仕事に没頭していた。ナルとしては誰にも邪魔されず唯意義な時間だといえよう。これからも、密かに帰国後麻衣が友人達と旅行に行ってれば、邪魔されずに集中できるかもしれない・・・と思ったかどうかはナゾだが。

「麻衣は?」
 いつもなら来ている時間だというのに、麻衣は姿を現さなかった。
「おかしいですね? 疲れて寝坊でもしているんですかね」
 安原の言葉に、ナルは最もありえそうなことだと思う。
「電話でもかけてみますね」
 安原は受話器を取ると、短縮番号を押して麻衣の家にかける。
 だが、いつまで立っても電話には誰も出ず、延々と呼び出し音が鳴り響いていた。
「こちらに向かっているのでしょう。安原さんお茶、お願いします」
 ナルは席を立つと、そのまま所長室へと戻っていった。
 安原も受話器を戻すと、席を立ってお茶を淹れるべく給湯室へと向かう。
 希少価値の文献に目を通し終わった頃、事務室の方から微かに人の声が聞こえてきた。また、いつものメンバーが麻衣のお茶を目当てに集まっているのだろうと思ったナルは、時計に視線を向ける。先ほど安原が淹れたお茶を飲んでから二時間が経過していた。微かに渇きを覚えたナルは、もう来ているであろうと思われる少女にお茶を淹れさせるべく立ち上がる。
「まい、おちゃ―――」
 ナルは事務室を見渡して眉をひそめる。
 そこには、いつもの通り滝川と綾子が居たが、肝心の麻衣の姿はない。
「麻衣のやつまだ来てねーぞ」
「少年は、備品が切れたからって今買いに行っているわよ。あたし達は留守番」
 言われてみれば安原もいない。
 だが、ナルにはそんなことはどうでも良かった。
「麻衣は、まだ来ていないんですか?」
 おかしい。
 二時間前に電話をかけたときには、アパートには誰も出なかった。
 その時はもうアパートを出ているんだろうと思ったが、いくらなんでも麻衣のアパートからオフィスまで二時間かかるわけがない。電車を使えば30分以内。徒歩のみできたとしても45分以内で来れるはずなのだから。
 ナルは近くの受話器を取って、番号を押す。
 20コールならしても誰も出ない。留守電にすらなっていなかった。
 携帯の方にかけても同じだ。誰も出ない。
「すみませんが僕も出かけますから、後はお願いいます」
 ナルはコートと車のキーを手に持つと滝川と綾子の返事を待たずに、オフィスを出ていく。
「なんだ?」
「さぁ? 喧嘩でもしてんじゃないの?」
 綾子と滝川はわけが分からないといって、肩をすくめたのだった。



 麻衣のアパートの前にナルはBMWを止めると、体重を感じさせない足さばきで階段を上っていく。ドアノブに手をかけるが、鍵がかかっている。
 やはり留守か?
 と思ったナルだが、中から微かな音が聞こえてきた。
 むせるような…咳?
 ナルはキーを取り出すと、ドアを開け室内に入る。
 部屋はひんやりとしていて、人がいるとは思えないがドアを開けたとたん、ハッキリと聞こえてきた音。
「麻衣」
 部屋の隅に置いてあるパイプベッドの上で、身体を丸めて麻衣は眠っていた。時折苦しそうに咳をしている。
 白い顔が赤く紅潮しており、眉は苦しげに寄せられ、額には大粒の汗が浮かんでいる。額に触れてみるとかなりの熱を発しているのが判る。
「麻衣、僕が判るか?」
 ナルの声に麻衣がうっすらと目を開け、微かな微笑を浮かべるがすぐに、咳がのどを突いてで苦しげに顔が歪められる。
 とりあえず冷え切っている部屋を暖め、麻衣に薬を飲ませなければと思ったナルだが、クスリが目に付くところに置いてある様子がなかった。とりあえず、暖房をつけ、額の上に濡らしたタオルを置くと、ナルは薬局へ向かう。
 麻衣は朦朧とする意識の中、電話の音を聞いたような気がした。
 出なければ、と思ったのだが身体が思うとおり動かない。そうこうしているうちに電話は切れ、意識が再び闇の中に沈む。
 遠くから一番聞きたい声が聞こえたような気がした。
 きっと、熱で意識が朦朧としているから、一番聞きたい声が聞こえたのだろう。だけれど、幻聴かも知れないけれど、声に向かって微笑みを浮かべる。
 そんな、心配そうな声で呼ばなくても、大丈夫だから―――
 迷惑は、かけないから―――
 そういおうとして、だけれど口を出たのは咳だけ。
 一瞬額がひんやりしたけれど、なぜ、額がひんやりとしたのか確認する力はなくて、何度目か判らない闇の中へ、意識が沈んでいく。
 電話をしないと…いけないのに……
 ぼんやりとそう思いながら。
 でも、きっと仕事に夢中で、気が付いていないだろうから―――大丈夫かな?
 身体が、だるくて…電話をかける気力さえ、おきない。
「麻衣――クスリ」
 クスリ?
 耳に心地よく感じるテノールが耳元で聞こえたと思った次には、唇を優しく包み込む柔らかな感触。そして口腔内に流しまれて来た冷たい水に、小さな固形物。反射的にそれらを喉に流し込むと、痛んだ喉がぴりぴりと痛みを訴えてきた。
 いま、のは――?
 重い瞼を明けると、不機嫌そうな美貌が至近距離にあった。
「――――――――――――――――――――――ナ、ル?」
 ひどく掠れた声が喉を突いて出る。
 喉の奥に引っかかっているような感じがして、上手く発音が出来ない。それでも、彼の名を呼んだことが伝わったのだろう。ナルが白い手を伸ばしてきて、麻衣の両眼を覆うように乗せられる。
「まだ、眠ってろ」
 声に誘われるがまま眠りに落ちていきそうになる。だけれど、麻衣は気力を振り絞って重い腕を上げると目を覆うナルの手を掴む。
「―――は?」
「麻衣?」
「仕事――は?」
「いいから、寝ていろ」
 麻衣はゆっくりと頭を振る。
 ここにいたら、ナルは仕事が出来ない。
 ナルのマンションなら、仕事の合間に看病ということが出来るが、麻衣のアパートにはナルの仕事など何もない。
「わ、たし――なら大丈夫……だから、戻っ――――て」
 麻衣の呟きにナルは盛大な溜息をつく。
 オフィスに休みの電話を入れることすらままならず、起きあがることさえ出来ない状態で何が大丈夫だというのだろうか。
「僕のことはいいから、お前は寝ろ」
 だが、麻衣は頑なに頭を振る。
「邪魔…したくないから――ナルは、仕事―――――――しっっっ」
 最後まで言い切れず言葉は、激しい咳に阻まれる。背を丸めてせき込む麻衣の背中に腕を回し、ナルは優しく背をさする。
「邪魔をしたくないって言うなら、早く風邪を治せ」
 ナルの言葉に麻衣は涙を浮かべる。
 けして頬を伝って流れることのない涙。
 それは、激しい咳のために浮かんだ物なのか、それとも精神的な物から来るのか。
「いつからだ」
 体温計の熱を見ると40度ジャストあった。昨日今日出したとも思えない。先ほどゴミを捨てたときに気が付いたのだが、風邪薬の空き箱が捨ててあった。と言うことはかなり前から風邪を引いていたのだろう。そして飲みきってもまだ熱は下がってないと言うことだ。
「一昨日、旅行先―――で」
 熱が出たため、みんなに迷惑をかけたくないから途中で帰ってきたという。
「なぜ、すぐに連絡をよこさない」
 麻衣はナルから目をそらすと「邪魔、したくなかったから」と小さな声で応えた。
 邪魔をしたくないと言っていながら、風邪を悪化させてれば意味はないのだが、今の麻衣に言っても仕方のないことだ。
 何を頑なにそう思っているのか。
「この前から、邪魔をしたくない邪魔をしたくないと言ってばかりいるが、いつ僕の邪魔をお前がしたんだ?」
「しそうだから――ナルの、邪魔をしそうだったから―――だから―――――――」
 側にいたら寂しくて、寂しくて、ナルの側にいたくて、確実に邪魔をしただろう。
 今もそう。
 心配をかけたくはなかった。
 仕事を中断させたくはなかった。
 だから、連絡を入れなかった。
「ごめん…なさい――――――」
 麻衣は大粒の涙をこぼしながら呟く。
「邪魔、して――――――ごめん……………なさい――――」
 ナルは微かに目を見開く。
 麻衣の中で何かが不安定になっている。
 人間熱を出せば確かに、気が弱くなる。
 それは麻衣に限ったことではない。身体が弱まれば気力も弱くなる。当然の摂理みたいの様なものだが、今まで麻衣が熱を出してここまで気が弱くなったことはあったか?
 記憶にある限り、ここまで気弱になったことはない。
「気にしなくていい。仕事はあらかた終わっている」
 とりあえず、目を通しておきたい文献にはこの一週間で目を通し終わっていた。実際に麻衣が気にするほど急ぎの物はもう無い。
 ナルは汗で額に張り付いている髪をそっと掻き上げる。
「邪魔などしていない。気にするな」 
 ナルにしては精一杯の優しい声音で、麻衣に語りかける。
 汗の浮かぶ額に口づけを落とし、涙を浮かべる目尻に、震える唇にそっとキスをする。不安定になっている麻衣を落ち着かせるように、優しいキスを降らせる。
 ナルからのキスに気が緩んだのか、麻衣は涙をこぼす。
「――寂しいの――――――――――――」
 ポツリと漏れた言葉。
 沈んでいたはずの想いがゆっくりと感情を支配していく。抑えようとしていた蓋はどこかへ消え、咳が切ったように抑えていた言葉を紡いでいく。
 重たい腕を上げてナルの腕にしがみつきながら。

「寂しくて、一人でいたくなくて、ナルに側にいて欲しかったの―――だけど、邪魔、したくなかった―――――――――――――邪魔に思われるのが、怖かった……ナルは、鬱陶しいの嫌いなの・・・知っているから・・・・・・・だか、ら・・・傍に寄られるのを嫌がられるのが、怖かった―――――――――」
 麻衣は痛む喉を叱咤するように、顔をしかめながら吐露する。
 ナルは優しく髪を梳きながら、それでも呆れたように溜息をつく。
「何を、気にしているかと思えば―――――」
 くだらないことを。
 口にして言わなかったが、ナルはその言葉を溜息に混ぜる。
 帰国した日読みたい本が山ほどあって、さっさと書斎に籠もったことは覚えている。確か、麻衣の様子がおかしかったことも。だが、あれは帰国した時はだいたいいつもあんな感じだ。それが、今更こうも情緒不安定になるはずがない。
 大抵、いつもは「帰国してきてすぐ仕事〜?向こうでもさんざん好きかってやってたんでしょ!?今日ぐらいゆっくり休んでよ!!」とか言いながら、半ば無理矢理ナルから仕事を奪って、寝室へ追いやるのにこの前はそれがなかった。
 今までそのことに疑問さえ思わなかったが、あの時そのことに疑問を覚えるべきだったのか。
 いつものこととして簡単に流してしまうべきではなかったのか。
 だが、何故今更こうも不安定になっているのか。
 何かが、あったはずだ…何か。
 一週間前のことを思い出していくうちに、あの日雪が降っていたことを思い出す。
「一人にして、悪かった」
 漸く、麻衣の情緒が不安定になった理由を思い出す。
 『雪』だ。
 麻衣は雪が降ると人肌を恋しがり、一人で時間を過ごすことを嫌がる。最近は以前ほどそれが顕著に出ていなかったためすっかりと失念していたが……
 母を雪が降った日に亡くしたせいか、麻衣は雪が降ると情緒が不安定になると言うのに―――
 以前言っていたではないか。雪が降ると音が全て雪に吸収されて、たった一人で世界に取り残されたような気がして、寂しいから嫌いと。
 あの日、麻衣は雪が降りしきる中、一人でマンションで待っていた。
 何を思って待っていたのかは、簡単に想像できる。
 早く一人でなくなるように、帰ってくるのをひたすら待っていたのだろう。
 だが、帰ってきても書斎に籠もって、結局は一人だった。
 誰もいない部屋で一人待つより、孤独感は募ったのかもしれない。一人でないはずなのに一人と言うことが。
 だが、自分の我が儘で邪魔をしたくはないからと言って、雪が降りしきる中帰り、そのまま旅行に行き身体を壊したのだろう。
 麻衣の考え過ぎなのだ。
 自分が、麻衣を邪魔に思うはずがないというのに。言葉でなんと言おうと、その存在を厭うはずはない。
 麻衣が思っているよりも雁字搦めに捕らわれているのだから。
「傍にいるから、休め」
「でも――――」
 まだ、気にしているのか。
「傍にいて欲しいんだろ?」
 麻衣はまだ、何かを躊躇っているようだった。
 ナルは深々と溜息をつくと、その耳元に囁く。
「僕が、傍にいたいんだ。いいから休め」
 ナルの言葉に麻衣は目を見開く。
 今自分が聞いた言葉が信じられないようだ。
「傍にいるから、ゆっくり休め―――――」
 ナルの優しい声に誘われるかのように、麻衣は漸く安心したような笑みを浮かべると、ゆっくりと眠りに落ちていった。
 その夜には麻衣の熱は、微熱程度まで下がっていた。
 それでも、まだ頬は赤く上気し、万全の体調ではない。

 身体を起こせるようになった麻衣の身体を支えて、ナルは麻衣の食事をとらせる。
 ナルの広い胸に背中を預けて、麻衣は幸せそうに微笑みながら、ナルが作ってくれたお粥をゆっくりと食べていく。味など出汁と梅干しぐらいのはずなのに、どんな食事よりも美味しく思える。
「ごめんね―――」
 呟かれた言葉にナルは、頭を軽く小付く。
「言う言葉が違うだろ」
 麻衣は首を傾げてああ…と呟くと、「ありがとう。ナル」と言ったのだった。
「邪魔だと思ったことはないから、安心しろ」
「うん―――――――――」
 麻衣はナルの腕の中で、幸せそうな笑みを零す。


 甘えることを許してくれる人。
 その腕の中にいることを許してくれる。
 それだけで、ひどく幸せに思える。
 現金なほどに、寂しさが消えていく。


 ナルは綺麗な微笑を浮かべる麻衣の唇に、優しく重ね合わせる。
 麻衣の想いを肯定するかのように―――










 生きていく上で、大切な物。

 空気、水、食べ物。

 これは万物に共通する物。

 人が人であるために必要な物。

 自分以外の人との関わり合い。

 私が私でいるために必要な物は―――――






 麻衣は自分を支える手を取ると、その掌にそっと口づけを落とした。

 

 

 

 ☆☆☆ 作者の戯言 ☆☆☆
真夏なのに真冬の話し。天華の願望・・・早く雪の降る季節になぁれぇ〜〜〜。でも、今年は大雪が多かった。

雪が降る季節にはなって欲しいけれど、雪は降らなくていいです。不便だから(笑)

甘い・・・相変わらず甘いです(爆)ナル坊甘過ぎ(>_<) 今回魔王様は休眠中です(笑) 従って甘い(笑)

しかし、何だか、変な話になってしまいました(汗っ)

意味不明な話…麻衣が情緒不安定になるという話なんだけれど………淡々としすぎていてよく分からない
(>_<)
とりあえずは、シリアスモードはクリアーしてくれたかしら?
はぁ〜〜〜ドキドキ。
おまけ、掌にするキスは手の甲にするキスよりも親密らしいです。
思いを誓うという意味があるらしい…とある本に書いてあったので。

 

拝――天華