すぃーと たいむ♪




 麻衣はチラリと白い壁に掛かっている時計に視線を向ける。金の針はそろそろ夜の九時を指そうとしていた。もうそろそろ帰ってくる頃だろう。二週間の帰国をしていたナルは今日の午後七時には成田空港に着いているはずだ。定刻通り何の問題もなく到着していたら、そろそろ帰ってくるはずである。
 オフィスによる場合は連絡してくれるはずだから、今日は真っ直ぐマンションに戻って来るつもりなのだろう。
 ソファーから立ち上がりバルコニーへと出る。二月のため空気はキンッと冷え温まっている身体から熱を奪っていく。吐く息は白く闇に浮かびすぐに芯から冷えてしまいそうだ。
 日本でもこれほど寒いというのに、彼が居たイギリスはもっと寒いのだ。どのぐらい寒いのか想像できない。
 空を見上げれば、冷え切った空気に星々が冴え冴えと輝いている。冷え切っている分空気の澄み渡り度が夏よりも良く、星が綺麗に見えるのが唯一冬のいい点か。だが、この寒さ防寒対策をきっちりしなければ、あまり長時間外に出ては居られない。
 ストールでも取りに室内に戻ろうか、どうしようか逡巡している間に、ミニカーみたいに小さなタクシーがマンション前に止まったのが判る。しばらく駐車し、トランクから荷物を下ろしているようだ。
 ふっと柔らかな微笑みを受かべると室内に戻る。暖房に温まっている室内に戻ると思わずホッと息を付いてしまう。どうやら、時間にして五分も経っていないが、身体は充分に冷えてしまっているようだ。軽く身震いしたがそのまま足をキッチンへ向けお湯を沸かす。その間にポットを暖め、どれを入れようかお茶缶の前でしばし悩む。
 一人暮らしのマンションにしては数多くのお茶が用意されている。正当なところでダージリン、アッサム、セイロン、キーモンにアールグレイ。これらは定番中の定番だろう。だが、一言ではすまない。ダージリン一つとってもつみ取った農園によって種類は違うのだ。といってもさすがにそこまでは用意しきれてはいないが。何せ、そんなに買っても飲みきれない。
 さらにメーカー別に数種類用意されているからそれだけでもかなりの数になる。フォーション、マリアージュ・フレール、F&M、MARINA DE BURBON、レピシエにリトル・ティー・ロードやウェッジウッドにゴディバ、ハロッズ等々数え上げたらきりがなく、さらに季節ごとに摘み取られるお茶、他にもハーブを使った物に南国のフルーツをつかったパッション系のフルーツや、定番のアップル、マスカット、ピーチやラ・フランス、ライチ等々を使ったフレーバーティー。キャラメルや蜂蜜などもすでにフレーバーされている物もある。一言でフレーバーティーといってもその種類は恐るべき物がある。
 さらに、一言でお茶といっても中国茶から緑茶、紅茶と種類も味も豊富で、発酵の具合でお茶そのものが変わり、さらに国によってミルクやジャム、蜂蜜やブランデーを入れることによってまた、別の飲み物へと変貌する。お茶ほどバラエティーに富んでいる物はないだろうと思う。
 どれにしようか。
 ナルは基本的に普通のお茶をストレートで飲むことを好む。ハーブティーとかも飲むがあまり、フレーバー系特に甘い香りがするのは好んで飲まない。麻衣の好みでキャラメルの香りとかフルーツ系の香りがするフレーバーティーも幾つかあるがナル自身が消費することは希だ。
 さて、今日はどうしよう。
 半日も飛行機の中。それもほとんど身動きの取れない狭い空間にいたのだから、疲れているだろう。それだけではなく、この帰国の間に研究所や大学に顔を出し、レセプションにも出席し、さらに人の目がないことを良いことに開けてもくれても研究に没頭し、向こうでしか読めないだろう本を読みあさっていたに違いない。
 きっと、いつも以上に疲れているはず。
 少し、身体をリラックスさせる飲み物が良いだろうか。
 ハーブティーにすべきか……ふと、麻衣が手に取ったのは甘い香りがするお茶。ハイビスカスと、桃とストロベリーの香りがする物で、麻衣が先日衝動的に買った物だ。何度か飲んだがお砂糖を入れなくても甘く感じる所と、仄かに酸味が効いている点が気に入っている。
 おそらくナルが苦手とする飲み物……
 疲れたときに良さそうだけれど、何もわざわざ苦手な物を淹れるのも趣味が悪いか……では、何にしよう。
 そう考えている内にお湯が沸騰しそうな気配を見せる。
 う〜〜〜〜む。しばらく考えたあげく手に取ったのは結局ナルが好んでいるお茶の一つ、濃いめのアッサムにブランデーでも垂らせば、少しは疲れがいやされるだろうか。決まると麻衣は手近にあったアッサムの缶を手に取り、暖めて置いたポットにお茶葉を入れる。そして、お湯をポットに注ぎティーコーゼを被せ砂時計をひっくり返す。その間にカップを暖めておく。もう一つ別のポットを取り出して自分用に甘い香りのするお茶を用意する。
 砂が充分に落ちきりお茶をポットに注いでいると、玄関口からガタガタとした音が聞こえる。どうやらタイミングはぴったりのようだ。
「お帰り〜〜、お茶飲むでしょう?
 ふふふふvいいタイミングでしょう? 淹れ立てほやほやだよ〜ん」
 香気が立ち上るカップをリビングに運ぶと、やはり想像通り少し疲労の色の濃い顔をしてナルは帰ってきた。
 いつもより一段と白さが際だっている気がする。けして、蛍光灯のせいではないはずだ。しかし、疲れていて疲労の濃い顔をしていようとナルの美貌に衰えはない。それどころか、ますます鋭さに磨きが掛かり美貌に拍車が掛かっている気がするのは、惚れている欲目と言うことはないはずだ。
 その顔を見る限り、誰にも文句を言われないことを良いことに、好きかってしていたという想像は外れていない模様だ。
「―――甘ったるい匂いがする」
 どうやら、ナル用に淹れたお茶より自分用に入れたお茶の方が香りが強く、室内にその匂いが漂っているため、ナルはあまり飲む気がないと言いたげな表情だ。
 どうせ文句を言うならちゃんと見てから言って欲しい物だ。
「私の分だけ。ナルのは普通のアッサム。ちょっとブランデー垂らしてあるけれどね」
 テーブルの上に置いてあるのを見て納得したようだ。
 確かに自分のは綺麗な琥珀色。麻衣のは、ハイビスカスが入っているのか、目にも鮮やかな赤い色をしている。
 トランクを隅に置くとナルは取りあえずソファーに腰を下ろし、麻衣の淹れたばかりのお茶を飲む。ふわりと漂う香気にかすかにブランデーの香りが交じる程度垂らされているようだ。それでも微かなアルコールが身体をジンワリと暖めてくれる。
 どちらも何も言わないまま、しばらくゆったりとした時間が流れる。
「今日は早く休むの? それともすぐお籠もり?」
 カップを両手で抱え持ちながら麻衣はナルに問いかける。どうせ、向こうからたんまりと仕事を持って帰ってきているのだろうから、聞くだけ無駄だとは思うがそれでも一応聞いてみる。
 すると、ナルは麻衣が思いにもよらない言葉を返した。
「いや、今日はしない」
「へっ?」
 あまりにも意外すぎる言葉に麻衣は大きな目で、ぱちくりと瞬きを繰り返す。
 ナルが「仕事をしない」なんて青天の霹靂…もしかしたら、明日は三十度の真夏日になったりして…何て失礼なことを本気で考える。
「必要な物は後日オフィスの方へ送られてくるから、今はする事が何もない」
 どこか憮然とした表情で言うナルに、漸く合点がいく麻衣。
 おそらくまどかかリンの策略だろう。
 向こうで狂ったように仕事に励んでいたナルを見て、帰国した日ぐらいはゆっくり休ませよう…そう言う思惑が働いて、ナルが帰国後すぐに仕事に取りかかれないように、必要な書類や資料等は宅急便で送るように手回しをされてしまったらしい。
 でなければ、幾ら麻衣が口を挟もうと帰国早々書斎に引っ込んで、あれやこれやで遅くまで取りかかっているのが誰の目から見ても一目瞭然だからだろう。
 まどか達の機転に内心喜びを隠せない麻衣。
 めったに表情に出さないナルが、僅かに顔に疲れが出ていたのだ。それを見て、心配をしないはずはない。
 しかし、それでもやはりナルと言うべきか帰宅早々、新聞を手にとって目を通している辺り、恐るべし活字中毒者。と思ってしまう。
「んじゃ、今日はゆっくり休めば?
 どうせ、向こうでも仕事三昧な生活していたんでしょう? あまり顔色良くないよ。鑞みたいに真っ白。
 お風呂も沸いているしゆっくりと入ってきたら?
 イギリスっていうか、ヨーロッパの方ってお風呂事情良くないんでしょう? のんびりと浸かって疲れ取ったらいいんじゃないの?」
 以前まどかから聞いた話だ。イギリスの生活も冬の寒さはちょっと厳しいが、基本的にそう不便を感じないと言っていたが、どうしてもお風呂だけは我慢できないと言っていた。イギリスに限らずヨーロッパの方はお風呂というか、湯沸かし器が一般的にあまりいいものが普及していないと言う。そのせいか、お風呂事情は限りなく悪い。
 まどかは一人暮らしをしているから、シャワーも浴びれるし、その気になれば湯船にお湯を張ることもできるらしいが、お湯が水に変わってしまうこともしばしばあるらしいし、お湯の出も限りなく悪いという話である。
 向こうではお風呂に入るではなく、汚れを落とすためにシャワーを浴びる、それだけの目的のためにある物らしい。
 その話を聞いたとき麻衣は驚きを隠せなかった。
 そう言えば生水を安心して飲める国と言えば日本ぐらいしか思い浮かばないし、どうやら外国はあまり水回りが良くないらしい…
 どうりで、ナルは鴉の行水タイプなわけだ。
 元々長湯をしそうには見えないが、今までの習慣が習慣だから、よりいっそう早いのだろう…それでも、最近はだいぶ長くはいるようになったが……
「その前にお茶」
 いつの間にかナルのカップは空だ。
 すぐに淹れて上げたいが、まだ自分のカップには半分近く残っている。ナルのお茶を準備している間に、自分のが冷たくなってしまう…さて、どうしようか。
 しばらくカップを眺めていた麻衣。
「ナル」
 麻衣はナルの名前を呼ぶと液体を口に含む。
 声に反応していたかのように新聞から顔を上げて、麻衣を見る。
 麻衣はそのままカップをテーブルの上に置くと、ソファーに片膝を着いて身を乗り出すとゆっくりとナルに顔を近づけ、そのまま唇を重ねる。
 ナルは瞬きもしないまま、至近距離にある麻衣を見る。
 優しく重なった唇は、徐々に深く重なり合い、やがて仄かな温もりを持った液体が口腔内に流れ込んでくる。
 微かな酸味とそれを凌駕しそうなほどの甘みに、ナルは思わず眉をひそめる。
「――何のつもりだ?」
 微かに離れるとナルが囁くように問いかける。
 まだ、互いが至近距離にいるため呟きに乗った吐息さえも触れそうな距離だ。
「お茶、飲みたかったんでしょ?」
 ほんのりと頬を赤く染めているが、どこか悪戯が成功してような顔つきだ。
「甘すぎる」
「だって、ピーチとストロベリーが入っているお茶だモン。
 甘いけれど、甘いのは疲れがとれるからいいんだよ。でも、砂糖とかは一切入ってないよ? 人工甘味料とは違う甘さだモン。ナルはこういう甘さも駄目?」
 果物は食べれても、こういう甘さは駄目だというのだろうか。
 同じような物ではないかと思うのだが、どうも甘い物が駄目という人から見るとそれとこれは別物らしい。それはナルも同じらしく、ハッキリと駄目とは言わないが眉間の間にはしっかりと皺が刻まれている。
「このお茶飲んでみる?」
 何も言わないナルに麻衣が意地悪げに問いかける。
「飲ませてくれるならな」
 間をおかず応えるナルに麻衣は軽く目を見開くが、カップに手を伸ばし先ほどと同じように赤い液体を口に含むと、ゆっくりとナルに重ねる。冷え切った液体はそのぶん酸味と甘さを増しているように感じられた。
 零さないようにナルに移す。やがて離れようとするがしっかりと後頭部をナルに押さえられていて離すことが出来ない。
 くぐもった声が唇の端から漏れ、どこか甘さを含んだ音になって消えていく。
 ほんのりと甘さを宿した舌が逃げることを許さない強さでもって絡められる。ナルのワイシャツを握りしめていた手はいつの間にかナルの首に周り、二人を煽るように微かな吐息が漏れる。
 空気を求めて喘ぐように麻衣は唇を離そうとするが、ナルは逃さないようにさらに追いつめていく。
 直に伝わる温もり。
 執拗なまでに求めて来る相手に、翻弄され頭がぼうっとしてくる。
 久しぶりに交わされるキスに、何も考えられなくなって意識が遠のき始めた頃、漸く麻衣は空気を肺いっぱいに吸い込むことが出来た。
 ずるずると力無くナルの胸にもたれ掛かる。
 ワイシャツ越しに聞こえてくる胸の鼓動…ジッと耳を澄ませば、微かに早くなっているだろうか?それともいつもと変わらないのだろうか。
 出来れば、少しでも早く打っていてくれれば嬉しい。
 ナルの行動に、キス一つに高鳴らせているのが自分一人ではちょっと悲しい。
 近くにある温もりに思わず頬をすり寄せる。
「甘い飲み物はこれだけでいい――他はいらないな」
 ポツリと呟かれた言葉に麻衣は「え?」っと呟いて顔を上げる。今のはどういう意味だろう?たった二口の紅茶で満足という意味だろうか?
 分かっている様子のない麻衣にナルは、再びキスをする。
 再び惑うようなキスに麻衣の意識は半ば奪われていく。
「――――これ以上甘いのはないからな…他はいらない」
 微かに離れた際に呟かれた言葉に麻衣は、真っ赤になる。
 どうやら、ナルが言っている甘い飲み物は紅茶という具体的な物ではなくて……
 真っ赤になってナルを凝視する麻衣を余所にナルは、いつもと何ら変わらない様子で立ち上がる。来ていた上着をポンッと麻衣の頭に掛けると、
「僕が風呂からでる前に勝手に寝るなよ」
 それだけ言い残してナルはバスルームへと足を向けた。
「どういう意味だ?」
 ナルが言った言葉の意味が分からなくて、首を傾げる麻衣。幾ら麻衣でも寝るにはまだ早すぎる時間。
 疑問に頭を悩ませるが、コロン…とソファーに横になってしばらく答えを考えようとするが、ナルの上着の温もりが心地よくてつい微睡んでしまう。

 麻衣の疑問が解消されるのは、ほんの僅か数十分後のことだった。






☆☆☆ 作者の戯言 ☆☆☆
 20000番切番リクエストなるる様より頂いたリク、「紅茶と題材にした話」を漸くアップできました。
 お待たせしてしまって申し訳ありません(^^ゞ
 しかし、「紅茶を題材にした話」のはずなんだけれど…紅茶、あまり出てきていません(笑)
 おかしぃ…もうすこし、紅茶が主役の座に輝くはずだったのに…