至福の時











 夜中にふと目が冷めた。
 珍しいことだと我ながら思う。寝直そうかと思って傍らにあるだろう温もりを求めて、すり寄ろうとしたがあっけなく失敗に終わる。隣にあるはずの温もりはなく、冷たいシーツの感触が離れて長い時間を経っていることを教えてくれた。
 
 思わず溜息が出る。
 何も、そんなに仕事ばかりしなくてもいいのに。 
 そう思っていっても聞いてくれる人じゃないことが、判っているから今更そんな馬鹿なこと言うつもりは、毛頭ないんだけど。
 それでもね…こうして、ふと夜中に目が覚めたときあるはずの温もりがないって事は非常に寂しいと思うわけ。
 彼の習性を知っているから、しょうがないとは思うけれど………
 せめて情を交わした夜ぐらい、朝まで一緒にいて欲しいとは思うけれど、朝目が覚めるときには、私は彼の腕の中で目を覚ますことが多くて、こうして夜中に目を覚ます事なんて希なのだから、一緒にいなくても平気だろうと思っているのだろう。
 実際、ふいに目が覚める事なんてめったにない。
 だから、自分が眠っている時間の彼の行動まで縛ろうとは思わない。
 でも―――睡眠時間ぐらいちゃんととれよな。と言う言葉が口を出るのは、彼の日頃の睡眠の短さを知っているから出るのだ。
 それでも、彼は彼なりに私のことを考えていてくれているって事は判る。
 どんなに仕事を続けていたいと思っても、朝方にはちゃんと戻ってきてくれているんだから。きっと、今夜もこのまま何も気付かない振りをして眠りにつけば、次に目が覚めたとき、あの人の腕が優しく私を抱きしめていてくれるはず。
 吐息が触れるほど近くに顔があって、優しい音がすぐ傍にあって、泣きたくなるほどの至福の時が訪れる。
 判っているけれど―――意識は完全に覚醒してしまったようだ。
 けだるさを訴えてくる身体は休息を欲しているのだろうけれど、すぐに眠りにつく気になれない。
 私は床の上に落ちているガウンを羽織ると、ふらつく足取りで寝室を出る。
 裸足でフローリングを歩いているせいか、ヒタヒタとした音が静まり返った室内に響くが、完全防音の聞いた書斎にいる彼にこの音が聞こえるわけがない。とりあえず、差し入れとして温かい紅茶でも淹れて上げようか。
 私が眠っている間、彼は何も飲むことも食べることもせず、一心不乱に仕事に没頭しているはずだ。「寝ろ」なんていい加減口にタコができるようなことは言わないけれど、せめて休憩ぐらいはさせないとね。
 キッチンに足を向けようとしたけれど、ふと大きく取られているリビングの大きな窓硝子越しに、赤い月が視界に入ってきた。禍々しさえ感じさせるほどの赤い月。昔の人は赤い月を見ると、不吉の予兆だとか言っていたようだけれど、実際はただたんに空気が汚れてその屈折率の関係上そう見えるだけなのだ。実際には何もない。
 判っていても、赤い月を見ていると嫌な気分になる。
 リビングを突き抜けて窓硝子をゆっくりと開ける。からり…と静かな音を立てて窓硝子は開いた。とたんに冷たい夜風が流れてきて思わず身体を震わせる。六月に入ったとはいえまだまだ、夜風は冷たい。この格好では風邪引くかな?と思わず見下ろす。
 素肌の上に直に纏っているのは、ガウン一つだけ。
 平気かな? 冬というわけでもないし。そんなに寒いと言うほど寒いわけでもない。ただ、室内との温度の差に思わず身震いしただけだ。
 バルコニーに置いてあるスリッパに足を滑らせると、空を仰ぎ見る。
 深い闇に浮かぶ月以外、ほとんど何も見えない。
 明るすぎる月と、人工の街明かりが星々の明かりをうち消してしまっているのだろう。それでも、明るい星達は所在なさげに存在を示してはいるが。
「赤い色って―――嫌いだな」
 思わず口を出る言葉。
 友達とかが聞くと、皆意外な顔をする。
 何で赤を嫌うのって?
 私は、何となく嫌いと答えるけれど………
 皆、赤って情熱の色じゃないとか激しい色よとか、燃えさかるような色よって言うけれど、私は違う。
 赤は命の色…そう思う。
 命の源の色。
 それが、体内奥深く流れている限り、大切な人は失われない。暖かな温もりを伝え続け、心地よい音を刻み続けてくれる。優しい安堵感を与えてくれる。
 だけど、ひとたび体内から出てしまうと、全てを禍々しい物に染め変えてしまう。温もりを冷たい物に変え、心地よい音は小さく聞こえなくなり、白いものを無粋なまでに赤く染め変える。
 だから、嫌い。
 赤は、奪う色だから。
 死を象徴する黒よりも、赤は嫌い。
「昔は、すごくイヤだったのにな………」
 手すりに寄りかかりながら呟く。
 赤い月を見るのはすごく嫌いだった。
 ただでさえ嫌いな色なのに、月がその色を纏うと不吉さを増しているように見えて。別に、ただの自然現象の一つだというのに。空気が汚れているだけだって知っているのに、不安を覚えた。
 また何か大切な者が消えていくような気がして。
 誰かの身体からその源が流れゆくような気がして。 
 だけれど、今も嫌いだけど…嫌いは変わらないけれど。
「別に、怖くない」
 赤い月を見て、不安に怯えることがない。
 昔のように、一人震えることはない。
 孤独に苛まれることもなくなったし、ひどく気分が塞がることもない。ただ、あるがままに自然に受け止めることが出来る。
 これも全部、彼のおかげかな?
 一人じゃないから。
 そう言いきれるから、赤を見ても心がざわめくことが無くなったのかな?
 けして、好きにはなれないけれど、前のように嫌悪感も示すこともなくなった。
 全部、あの人のおかげ―――になるのかな。
 優しさと、温もりと、愛しさと……全てを与えてくれた人。与えてくれる人。あの人がいる限り、私は大丈夫。赤に怯えることはもう無い。
「赤い月って事は、そんだけ空気汚れているんだよねぇ〜〜〜〜〜〜」
 大気汚染なんてここ最近の環境問題なんだから、きっと昔は月が赤くなる事なんてめったになかったんだろうな。だから、余計不吉な色として捕らわれたのかもしれない。
 何てたって、昔の人は本気で鬼とか妖怪がいるって信じていたんだし。まぁ、幽霊がいるんだからもしかしたら大昔には本当にいたのかもしれないけれど。
 ぼんやりと空を見上げていると、ふわりとした暖かさを背中に感じたと同時に力強い腕に背後から抱き寄せられる。よろめいた弾みで軽く後ろにぶつかるが、彼は難なく私の身体を抱き留めた。
 見上げると不機嫌そうな顔で私を見下ろしている。
 何でこんなに不機嫌そうなんだろう?
 別に仕事の邪魔何てしていないのになぁ。
「いつからいた」
「判らない。時計見てないもん」
 ナルの腕が暖かくて、思わずすり寄ってしまう。
 今になってきて寒さを感じ始めた。どうやら、自分が思っていたよりも身体は冷え切っているらしく、ナルの体温が非常に心地よい。
「冷たい」
 眉間に皺を深く刻んで、私の頬に触れたナルは一言呟いた。
「あの月が、あの辺にあった頃からかな」

 気が付くと月はけっこう傾いていて、東の空が僅かに明るくなってきている。どうやら、もうじき夜が明け始める時間のようだ。
 ナルは私が指を差した方を見ると、深く溜息をつく。
「一時間近くもいたのか」
 そんなにいた気はしないけれど、ナルがそう言うならばきっとそうなんだろう。
「寝てたんじゃないのか?」
「目が覚めたの。そうしたら、ナルいないんだもん。
 仕事していると思ったから、お茶でも淹れて上げようと思ったの。で、キッチンに行く途中で月が赤いなぁ〜〜〜〜ってことに気がついて、お月見でもちょっとしようかなって思って」
「そんな姿でか?」
 ナルの言葉に改めて自分の格好を見下ろす。
 暗い中で見下ろしたときはあまり気にならなかったけれど、夜が僅かに明け始めうっすらと見え始めるとかなり恥ずかしい物があった。太股丈のガウン一枚しか来ていないのである。素足をさらけ出してはいるは、襟元からは先ほどナルにつけられた朱痕が、その存在を主張しているわ、あまり誉められた格好ではない。
 そう思った瞬間、血が一気に頭に上っていくのが判る。
 寒いのに、顔だけが以上に熱い。
 高層マンションの最上階で、同じ高さのマンションもこれより高い建物もないし、隣のバルコニーとはしっかりとしきりがあるから良いけれど、下手をしたらこんな霰もない姿を誰かに見られていたかもしれないと思うと、ますます血が上っていく。
 その様子を見ていたナルがあからさまに溜息を零す。
「別にいいでしょう。誰も見ていないんだもん」
 プンッと横を振り向いた私の顎に、ナルは指を絡めるとぐいっと仰向かせる。至近距離にナルの顔があって、幾ら見慣れているとはいえ心臓が激しく鼓動を刻む。
 美人は三日で慣れるって言うけれど、私はナルの美貌には一生慣れそうもない……初めて会ってからの月日を会わせると、どれほどの時間が経っているのか、もう判らないけれど未だに慣れることはなく、私はドキドキしっぱなし。
 いい加減慣れてもいいとは思うの。

 だって、恋人同士と言う間柄になって、それこそ数え切れないぐらい一緒に夜を過ごしているんだから。
 だけど、未だに慣れない私は、不意にナルに見つめられたりすると、跳ね上がる鼓動を抑えきれない。今は、元々顔が赤いから良いけれど、でなければきっと今ので真っ赤になっていただろう。
 ナルはそのまま仰向かせている私の唇に、重ね合わせる。
 柔らかな感触に包まれて、私はうっとりと身を任してしまいたくなるが、いったいナルは何を不機嫌そうに私にキスをしているんだろう。
「―――ナル?」
 僅かに離れたときナルを呼んでみる。不機嫌な理由を知りたくて。

「月が、見ている」

「は?」
 思わず聞き返してしまう。
 きっと私でなくても聞き返したと思う。
 だって、ナルは「月が見ている」って言ったんだもの。
 私が誰も見ていないって言ったら「月が」って…月が見ているって…あれは、ただの星じゃんかよ……
 思わず脱力する私の身体をナルは簡単に向きを変えると、向かい合わせにし再び口づけをしてきた。優しいけれど激しいキス。深く唇を覆われ、呼吸さえも奪われるようなキスは、当然息苦しいけれど、すごく幸せな気持ちになれる。
 何度も何度も角度を変えて、重ねられる唇。
 深く口腔内に潜り込んでくる、ナルの暖かな舌にあわせる。
 どちらの口腔内か判らなくなるほど絡み合い、二人を煽るかのようにあまい吐息が僅かに開いた唇の隙間から漏れる。湿った音や、甘い吐息を聴く者も、絡み合う二人の人影を見る者もいないまだ夜明けの時間。
 早暁の時。
 空は徐々に白み始め、二人のシルエットを浮かび上がらせていく。
 雀の鳴く声が遠くから聞こえてくるが、それらを聞く余裕はない。ただ、判るのは自分を強く抱きしめる腕と、全てを奪い去るように深く重ねられている唇だけ。
 呼吸も奪われて、全てを奪われて、ナルになら、この命すら奪われてもいいと思えるほどの至福の時。
 腕を伸ばしてナルの首に絡ませる。よりいっそうナルに近づきたくて。甘い陶酔の時間がゆっくりと全身を包み込む。ナルの片手がウエストを支え、もう片方の手が後頭部に回されて髪の中に潜り込む。
 何も遮る物はない。
 二人を邪魔するものは何もない。
 いつしか、月はその姿を隠し、代わりにゆっくりと昼の王が姿を見せた。 

「――――――ふ・・・ぅっ」

 ナルが唇を離してくれたときには、すっかりと息が上がっていて、自分の足で立つことが出来なくてナルの腕の中に身を任す。
「月って―――ただの星でしょ。星に嫉妬しないでよ」
 微かなぼやきに、ナルは答えない。
 力の入らない私の身体を難なく抱き上げて、暖かな室内に入っていく。
「それに月って、女神に例えられるんだよ?
 女の私を見るわけないでしょ?」
 ナルは優しくベッドの上に下ろしてくれる。私はナルを見上げながら憮然とした表情で言っているのだが、ナルは頭から無視してくれている。
「ナルの方が、女神のお眼鏡にかなうんじゃないの?
 エンディミオンだっけ?ギリシャ神話の中で出てくる美青年が、月の女神に見初められて、永遠の眠りにつくの…違った。不老不死を願ったエンディミオンが、その願いを神に叶えて貰うけれど、ずっと眠りについてしまうの。
 それを見た月の女神がエンディミオンに心を奪われてしま―――――」
 うる覚えの記憶をなぞるようにして呟き続ける私を、ナルは再び口づけで封じた。
 ナルは微かに唇を離すと、触れるほどの距離で囁く。
「女神などという老婦人には興味はない」
 老婦人って―――確かに、大昔から言い伝えられる女神はおばーさんだろうけれど…だからって…一応は、女神と言われるものを、無碍に老婦人と言わなくてもいいのに……………
「眠るなら、お前の傍だけでいい―――――」
 ナルは耳元でそう囁いて再び口づけをしてくる。

 幸せな呪文だね。

 ひんやりとした指先が肌の上を彷徨い始める。

 一度は消えたはずの焔が、身体の奥深くに生まれる。
 消すことの出来ない、この人だけがつけることの出来る焔。
「私も、ナルの傍だけがいい――――――――」
 囁いた呟きが、言葉となってナルに届いたかは判らないけれど、きっと想いだけは届いている。
 綺麗に微笑んだナルの笑顔を見上げながら、私は呑み込まれそうになる陶酔の時間に身を沈め混む。 

 

 

 

 

 

 次に目が覚めるときは、きっとナルの暖かな腕の中。
 そう確信できる。
 情の色に覆われたナルの漆黒の双眸を見上げながら、自然と笑みが浮かんでくる。
 白い肌を鮮やかに染めるのは、嫌いなはずの「赤い」血で。
 欲をかき立ててくれるのも「赤い」血で。
 何よりも、ナルを生かしていてくれている物は「赤い」血潮。
 うん――こうして、ナルが私を抱いていてくれている限り、傍にずっといてくれる限り好きになれるかもしれない。
 人を生かしてくれる「赤」を。

  

 

 

 

 緩やかな至福の時が私達を包み込んでゆく………

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、予想通り次に目冷めたとき、私は大好きな人の腕に抱かれて目が覚めた。
 顔を上げると、涙が出そうなぐらい綺麗な顔が目の前にあって、めったに見ることのできない柔らかな光を浮かべた眼差しで私を見下ろしていてくれた。
 私が目を覚ましたことに気が付いたナルは、綺麗な指で優しく髪を梳いてくれる。ゆっくりと髪を絡めるように滑ってゆく感覚に、再び眠気がゆっくりと意識を覆うとするけれど、私は目を細めて私を見下ろしているナルを見上げる。そして、ゆっくりと言葉を紡ぐの。
 とびっきりの笑顔を浮かべながら。

 

 

 

 

 

「おはよう―――ナル」

 

 

 

 

 

 

 

 私は貴方にもっと近づきたくてすり寄るの。
 貴方を誰よりも感じたくて。
 暖かな温もりを。優しい音を。静かな吐息を。

 

 

 

 

 







☆☆☆ 天華の戯言 ☆☆☆
 ちょっと、セコイ真似(笑)
 って、最近セコイ真似しかしてないかしら?(爆)
 えっと、ただいま平安執筆中につき更新はなかなか進みませぬ・・・ある程度話が書き終わった時点でUPしていく予定。でないと、また途中で止まって停止〜なんてことなりかねないし(笑)でも、しばらく更新出来るものないし・・・さて、どうしようかなぁ。と思いながら過去のブツを漁っていたら、コレが出てきました。
 以前「赤い至福」というタイトルでUPしていた話です。実は、マンスリーにUPしていなかったのでした(笑)
いや、もう私はマンスリーでUPしていたと思っていたんだけど、どうやら思い違いだったみたい。初めは、9月度のマンスリーにしようかなぁと思ったんだけど、珍しい一人称だし(笑)何となくお題で一致するのないかなーと見ていたら、「二人なら」というのならいいかなーと。と言うワケなので、マンスリーではなくお題として再UPとなりましたv

 







2004/09/01 再UP






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