Border







 

 




 パリのオペラ座の地下に巣くう怪人・・・・ファントム。
 彼は、醜い顔故に親に捨てられ、オペラ座の地下に住み着いた哀れな男。
 彼はバックダンサーのクリスチーヌに恋をし、彼女を一流の女優にするため、唄を教えたのだった・・・音楽の天使と名乗って。彼女の死んだ父親が語りっていた天使の名をかたり・・・父を慕う少女の思いを利用して。
 少女はやがて才能を開花させ、怪人の望むとおりにトップの座を得ることの出来たが、クリスチーヌはファントムに感謝をしつつも、別の人間に恋をした・・・ラウルという幼なじみの子爵を。
 ファントムはクリスチーヌの心を得ようと画策をするが、けしてクリスチーヌの心を得ることは出来なかった。
 ファントムが画策をすればするほど、クリスチーヌとラウルの心は深く結び合い、その絆は切れない物になってゆく。ファントムはラウルを殺してでも手に入れようとするが、クリスチーヌの深い心によって彼女を諦めるのだった・・・
 



 決意をしたとはいえ、ファントムのようにこの想いを断ち切ることが出来るだろうか・・・・・・



 クリスチーヌのように、自分に向けられる想いに答を返せるだろうか・・・


 二人は、舞台をじっと凝視しながら、思うことは別のことだった。






















 幕がおり、カーテンコールが終わると、夢の世界は一瞬のうちに現実に戻る。
「咽が渇きましたわね。安原さんの時間がよろしかったら、お茶でもいかがでしょうか?」
 真砂子の申し出に、安原に否の答えはなく、喜んでと笑顔で応じると二人は、ビル内にある喫茶店の一つへと足を向ける。
 混んではいたがそれほど待たされることなく案内され、紅茶とコーヒーを各々頼むと、観たばかりのミュージカルの感想に花を咲かせる。笑顔を浮かべ楽しそうに笑い声を漏らしながらの会話は、端から見ていれば仲の良い恋人同士のようにも見えただろう。
 だが、二人の視線が本当の意味で交わることはこの時はまだなかった。
 真砂子は運ばれて来たお茶を口に運びながら、まだ答を探していた。
 もう待たせることは出来ない。
 そう決意をした物の、正直に言えば途方に暮れていた。
 半年間考えて考えて答を見つけ出せなかったことを、たった二〜三日で見つかるわけがない。
 だが、そういって先延ばしにしていたら、一年経とうとも・・・二年経とうとも、答が出るものではなかった。
 思いあまって、昨日の夜真砂子は麻衣に連絡を取ってみた。
 イギリスの・・・ディビス家に真砂子が電話をしたことで、麻衣はとても驚いていたが、真砂子の問いに麻衣は何も言わず答えてくれた。
「ナルに対する想いの答を見つけたきっかけは、なんでしたの?」
『きっかけ? 特にこれって感じはたぶんない。かなぁ。普段感じていたことの積み重ねだったと思うよ・・・』
「積み重ね・・・ですの?」
『うん。小さな・・・塵も積もれじゃないけれど、何気なく普段思うことが知らずウチに積もっていて、何かの時に、たまらなく切なくなってさ。
 ああ・・・私、ナルのことものすごく好きなんだ。ってふと思った時があったの。
 それまでずっと悩んで泣いたりもしたけれど、ふと全部がどうでも良くなって、残ったのが・・・って言い方変だけどさ、はっきりと形になって残ったのが、ナルのことだけだった。他のことはもうどうでも良くなっていて、ナルのことしか考えられなくなって、ナルのことしか見れなくなって、ナルのことでいっぱいになって・・・ああ、好きなんだ。って思ったんだよね。
 一度思ったら、ずっと欲しかった答が見つかったような気がして・・・というか、それが答だったんだけど。
 だから、何でって言われるとすっごく困るかも・・・う〜ん。ああ・・・そうか。ナルが微笑みを向けてくれた時、すっごく嬉しかったな。ずっと見ていたいって思ったし、ずっと自分に向かって微笑んで欲しいって思って、ナルが好きだなって素直に思えたっていうんじゃダメかな?』
 麻衣の照れたような・・・それでいて、幸せそうな笑顔が脳裏に浮かぶ。声だけで簡単に想像できてしまうほど、声が柔らかく響いてくる。
 一歩も、二歩も先に進む彼女。
 それは、ナルとの関係だけではなく、心のありようも一歩も二歩も先を行く。
 置いて行かれるのは寂しいと思った。麻衣だけではなく綾子も自分より何歩も先に行く、大人の女性だったから。自分だけ一人がいつまでも子供のまま、立ち止まっている現実に焦りを抱いたのも事実だ。
 だから、答を早く早く・・・とずっと急いていた。
『ねぇ、真砂子・・・私ね、逃げちゃダメだってあの時思ったの。
 恋ってけして綺麗なものじゃないよね。醜くて目を背けたいことがいっぱいあって・・・綿菓子みたいに甘くて、軽い物じゃないよね・・・だけどね、醜いものを見尽くしたら、きっと綺麗な物がその先にいっぱいあるんだと思うんだ。
 だけど、その綺麗な物を観るためには、どうしても乗り越えなきゃ行けない物があるの。それがどんなに醜くて目を背けたい物でも。きっと、真砂子にとって綺麗な物もその先にあると思うよ?』
 麻衣は詳細を何も知らない。だが、質問から察するところがあったのだろう。込み入ったことは聞いてくることはなかったが、優しく背中を押してくれた。
(安原君が真砂子以外の女の子と一緒にいるのを見た時どう思うかよね。ナルが麻衣を見ているのを傍で見てて真砂子はどう感じた? 同じように感じれば脈有りなんじゃないの)
 綾子の言葉も脳裏に蘇る。
 実際に安原が見知らぬ女性と連れ立っているのを見かけた時、抱いた思いは、息苦しさだった・・・切なさと表現して良い物なのか判らない。
 だが、誰かに心臓を捕まれたかのように、呼吸が困難になった・・・ナルに対して抱いた時のように・・・それ以上に。
 それが、答え  なのだろうか。
 自信はない。
 だが・・・・・・安原の笑顔を見ているととても、心が落ち着く。
 その微笑みを確かにずっと向けて貰いたいと、思っている自分がいる・・・
【もう、逃げるのはやめなさい】
 綾子が言い、麻衣も言う。
 そして、じっと今だに自分を見つめる影も。
「安原さん、少し歩いてみません? 少し離れた所に浜離宮がありますの。
 あたくし行ったことがないので、少し散策してみたいと思うのですけれどいかがですか?」
「いいですね」
 真砂子の唐突な申し出に、安原は微かに目を見開いた後一瞬伏せるが、すぐにいつも通りの笑顔を浮かべて、真砂子の提案に承諾したのだった。









 店を出た後も、二人はたわいない話をしながら歩いていく。
 風景はビル街から、都会の中に残されたオアシスへと変わり喧噪が少しだけ遠くなる。
 風がかなり冷たさを帯びているせいか、かなり人の姿はまばらだが、こういった場所は人の喧噪ににぎわっているよりも、気配が遠く静かな方が落ち着けるものがあった。
 二人は浜離宮内に入ってから、特に会話を交わすことなく静かに歩いていくが、真砂子が不意に足を止めた。
 それにつられるように二歩ほど進んで安原も足を止める。
「安原さん・・・」
 感情をむりやり押し込めた声に呼ばれ、安原はゆっくりと振り返る。
「あたくし、麻衣のように素直になることは出来ませんわ。
 松崎さんのように、悠然と構えることも出来ません・・・意地っ張りで、素直になれない人間です。人との付き合い方もこの年になって判ってません」
「原さん?」
 緊張に顔を強ばらせているのか、寒さによって顔が強ばっているのか、判らないが硬い表情の真砂子が必死になって、言葉を紡ぐ。
「あたくしは・・・あたくしは・・・なにも、出来ません」
 ぎゅっと両手を握りしめ、弱々しい声に安原は真砂子前まで戻るとそっと、冷え切った両手を上から握りしめる。
「あたくしは、本当はまだ何も判っていない子供のままなんです・・・それでも、それでも・・・・・・・・・・・・」
 言葉が詰まり、乾いた唇を湿らせるように、舌先で唇を軽く舐めると、俯いていた真砂子は顔を上げて、自分をまっすぐに見下ろす安原を見上げる。
「それでも、安原さんはあたくしを選んでくださるの・・・?」
 自信のない声に、安原は柔らかな・・・彼らしい微笑みを。
 だが、一切の裏のない暖かな笑みを浮かべた。
「僕が選ぶ女性は原さんだけです。他の女性は考えられません」
 浮かぶ微笑みは暖かく優しい物だったが、言い切られた言葉は疑う余地がないほど力強いものだった。
「貴方はご自分を卑下なさっていますがとても素直な女性です。
 いつも凜と構えられていてとても素敵な方です。
 自分にとても厳しく、妥協を許さないその姿に、ずっと目を心を奪われていました。
 僕にとって心を奪う女性はただ一人貴方です。他はあり得ません。
 ずっと、僕への答を迷っていられたのは、自分に素直で他人を思いやる心があるからでしょう?
 楽な方へ逃げることをよしとせず、真実を求めようとしたからずっと迷っていた・・・知ってましたよ。
 原さんが迷っていたことは」
 素直な方ですから。
 と、続けられた時には顔が熱くなり、顔を上げていることが出来なかったが、掌を優しく包んでいた安原の手が離れ、そっと頬を包み込むと、優しくだが拒否することを許さない力で顔をあげさせられた。
 そこには、優しく微笑む安原の顔があった。
「僕は、いつまでも待ちます。
 貴方が本当に、納得できる答を見つけることが出来るまで」
 そっと顔が近づいてきて、額に優しい温もりを持った感触がそっと触れる。
「今のままでも、僕はけっこう幸せですよ? 貴方が真剣に僕とのことを考えてくれる。それだけで幸せなんです。それだけ、貴方の心を僕が占めているってことになりますから」
 いけしゃあしゃあと恥ずかしがることもなく言いのける安原だが、逆に真砂子の方があまりの言葉に頬を赤く染める。
「ですからゆっくりと、僕たちは僕たちなりに進んで行けばいいんじゃないですか?」
 触れるだけで離れると、安原は身をかがめ視線を真砂子に合わせる。
「僕は貴方のことが好きです。それはこれからも変わりません」
 はっきりと言い切られた言葉に、真砂子は唇を開く。
 安原のようにはっきりと、好きだと言い切ることはできない。
 麻衣のようにはっきりと愛していると・・・自覚は出来ていない。
 だが、この手を放すことは出来なかった。
 真砂子は自分の頬を包み込む掌に、そっと掌を重ねて目を閉じる。
 浮かぶ言葉は何もない。
 どんな言葉で表せばいいのか、言葉がまったく浮かんでこない。
 だから、素直に今言える言葉を告げたのだった。
 あの時・・・半年前に好きだと言われた時は、返事は待って欲しいと言った。
 あの時も何を言えば良いのかが判らず、言葉が思い浮かばなかったから。
 だが、今は違う。
 あの時と同じようでいて違う。
「あたくしは・・・安原さんと一緒にいると、とても落ち着きますわ・・・
 穏やかで、素直な自分でいられるんですの・・・
 ナルの時には出来なかった、素直な自分でいられますの。
 これからも、そうさせて下さいます?」
 なんて卑怯なんだろうと思う。
 好きだと想いに答えるわけでもない。
 友達のままでいて欲しいと言うわけでもない。
 だが、真砂子の答えに安原は憤ることなく、逆に嬉しそうに笑みを深くした。
「不肖安原、誠心誠意を込めてその願い叶えさせていただきたいと思います」
 安原にとってはもう十分な言葉を聞けたのだ。
 それ以上の言葉は今はいらないと素直にそう思えた。
 あのナルの時に出来なかったことが、自分に出来たのだ。
 それで十分だと・・・それ以上望むことはないと、安堵の想いが今体中に広がる。
 

 なにより、拒絶されたなかっただけでも、今の安原にとっては救いだった・・・


「原さん、僕達は僕たちなりの関係を一緒に築いていきましょう。
 所長と谷山さんがうらやむような関係を・・・どんなに、時間がかかっても」
 安原の言葉に、真砂子はほんのりと頬を朱に染めると、こくりと頷き返す。
 その、初々しさに安原は引き寄せられるように、赤く色づいた唇に優しく触れる。
 それは、恋人同士の口づけというにはあまりにも優しすぎて、実感を伴わない物だったが、それでも胸の奥に広がるのは、これ以上ないほどの充足感と、滲み出てくる幸福感だった。
 真砂子はますます頬を朱に染め俯いてしまったが、オフィスで真砂子に触れた時のように、安原を拒絶することはもうなかった。
「日も暮れて冷えてきましたね。 お茶でも飲んでいきませんか? かなり待つ可能性がありますけれど、シオサイトの中に京都の老舗茶寮が入っているんです」
「いいですわね。あたくし、あそこのお店のパフェが好きですの」
 二人は微笑みを浮かべながら、仲良く並んで歩いていく。
 来る時には離れていた、手を握って。






 互いに一歩ずつ歩み寄ったにすぎない。
 二人の間にある境界線は、ほんの僅か重なり合ったに過ぎないが、これから徐々に彼らなりの時間の経過と共に重なって行くのだろう  








                                 
☆☆☆ 天華の戯言 ☆☆☆
終わりました。
三話で終わる予定でしたけれど、なんだかやけに長くなったような気が・・・するので、三話を二つに分けて終了です。
いや、ページ配分を考えると他の一と二もそうするべきだったか・・・?
まぁ、もう終わったことは良いとしましょう(笑)


初々しい二人のお話でしたん。


い、いちおう、初々しいつもりだったのよーっっっっっっ←たぶん。


少なくとも、私の書くナルと麻衣では見られない展開なのは確かだ(大笑)


2008/10/20 UP
Sincerely yours,Tenca