望むなら唯一つ
江戸であろうと、京の都であろうと、空はどこまでも広く青い。その広さも色も何も変わらない。でも、千鶴の運命は京の都へ来て大きく変わってしまった。 江戸にいた頃から佐幕派とか尊皇攘夷だの、耳にすることはあっても自分には縁もゆかりもない遠い世界の話のようにしか思えなかった。 日々、父の仕事を手伝い、家事をこなし、患者の世話をして・・・昨日と同じ今日があり、今日と同じ明日が続く。例え、毎日の生活の中で少しずつ何かが変化をしていたとしても、その時には見落としてしまいそうなほど些細な変化で、しばらくしなければ気がつかないような変化。 それが自分にとっての日常。 その日々の僅かな変化を繰り返しいずれ、誰かの元に嫁ぎ、子を成し、老いて死ぬ。どこにも波瀾万丈な要素など無く、平凡で穏やかな一生を送るのだろうとずっと思っていた。 ただ一人の家族、父が行方知らずになるまで。 父が京でどんな仕事に就いているのか知らない。蘭方医だった事を考えれば医者としての務めに励んでいるのだろうが、父から連絡が途絶えて一ヶ月。無事なのか・・・何か事件に巻き込まれたりしたのか、詳細は用として知れず不安が募るだけの毎日。 自分一人で、京へ行ったからと言って無事に父に会える保証もない。 行くだけで会えるのならば、自分を心配させないために封書が短くとも届いて居るはずだ。 この時世一人で京へ行く事は無謀だ。道中何があるか判らない。治安があれ賊が横行し、商人達が被害にあっているという話は否応なく耳に入ってくる。旅人だけではない。小さな村も被害に遭い、多くの婦女子が拐かされたり、彼らに寄って無残な目にあっているという話も一度や二度ではなく耳にしている。 だが、それでもじっと江戸の自宅でじっと父の帰りを待つことはできなかった。 意を決し、男の身なりを取って江戸を発ち、京へたどり着いたのは文久三年十二月。 良く晴れた日の事だった。 空だけを仰ぎ見れば、江戸にいるのか京にいるのか判らなくなりそうなほど、空は同じだった。だが、耳に入ってくる言葉が、鼻先を擽る空気が、慣れ親しんだ全てと違う。 一人で東海道を進んで居たときよりも心細さが募ったのは、気が緩んだからなのか・・・それとも、京へ来れば父に会えるはずだという期待に胸が膨らんでいたからなのか、今となっては判らない。会えずとも父が今どうしているのか何らかの情報を得ることができるはずだと信じて、京へ着くなりその足で松本良順の屋敷を訪ねたが、運が悪いとしか言い様がないだろう。 入れ違いになるかのように、松本良順は江戸へ発ち、父の所在を知ることは出来なかった。 一月程度は滞在できるだけの路銀はあったとはいえ、頼るすべも無く、土地勘の無い京の都でどうやって父を捜せば良いのかわからず、途方に暮れていたあの夜。 まさか、自分の人生を大きく変える出会いが・・・生きるか、死ぬか、その覚悟を迫られるような事が起きるなど、思いにもよらなかった。 そう。 私は、見てはいけない物を見てしまった。 京へやっとの思いでたどり着いたその夜に。 今まで無縁だった、血と死という言葉が急激に現実を帯びて目の前に忍び寄ってきた。 いや、眼前に・・・手を伸ばせば届くという距離に押し迫っていた。 足下には未だかつて見たことのない程の血だまりと、切り刻まれて無惨な姿とかした骸が横たわり、陰鬱な・・・いや、狂気を孕んだ笑みを浮かべた男達が自分を次の獲物として狙い定めていた。 彼らは殺すことを楽しんでいた。 異常な気配を漂わせ、骸と化した死体を幾度も哄笑を響かせながら。 逃げなければ・・・そう思っても、身体は言うことを聞いてはくれない。 恐怖に身体は竦み、己の手足だというのに自分の思い通りに動いてくれず、当たり前のように出来たことが出来ない。 狂った殺意は狂気を孕んだ笑みを浮かべながら近づいてくる。 殺される。と思った。 死にたくは無かった。 だけれど、どんなに逃げなければと思ってもその場から一寸も逃れる事ができず、声すら上げることもままならないまま、月光を反射する刃を凝視していた。 死が目の前まで迫っていた。 覚悟をする間もなく、刃が微かに動いた時、風が吹き抜ける 「運の無いヤツだ」 そうかもしれない。 運があれば、こんな事にけして巻き込まれなかったはずだ。 いや、運があったからこそ、彼らと出会うことが出来たと言うべきだろうか・・・この時の自分には判ることではなく、ただ、この一夜の出会いがこれから先の私の人生を決めることとなった。 凍える月夜の出会い。 それが、全ての始まり。 確かに傍目には運が無いようにしか見えないだろう。 これから数年の間に何が起こるかまだ何も判らなかった頃の自分なら、確かに「これ以上ないほど運がない」と思っていた。 だが、今なら・・・彼らと共に過ごすようになって、幾年月も経た今なら思う。 けして、運がないわけではなかったと。 それどころか、この出会いが自分の人生全てをかけても悔いが無い程になるのだから、最良の運と言っても過言ではないはずだ。 そう言えばあの人は苦笑いを浮かべるかもしれないけれど。 確かに穏やかで平凡な人生は消えてしまった。 ありきたりで、誰もがおそらく描いていた未来は。 その代わり、何よりも得難い物を得ることが出来たのだから、そんなありきたりな人生捨てても惜しくはない。 それが何なのかまだはっきりと形になってはいない。 もしかしたら、得られると思うのは浅慮な思いこみで、全てを それでも、後悔していない。 あの時に京の都へ行った事を 後悔だけはしたくない。 あの人と出会う事が出来た奇跡を。 この人共に何処までもあろうと願う想いを。 例え、彼はそれを望んでいなかったとしても。 自分の願いはただ、傍にいられればそれで良いのだから。 平凡な幸せなど望んではいない。 穏やかな生活も望んではいない。 女としての幸せな人生など無くても構わない。 欲しい物はただ一つ。 それだけは例え、誰であろうとも譲る事は出来ないのだから。 揺るぎない視線を真っ直ぐ前に向ける。 白い波を弾く暗い海の先に微かに見える島影。 冷たい風が肌を切り裂くように吹いていく。 こんなに凍てついた風は、京の都でも江戸でも経験したことはない。 鼻先を擽るのは、汐の香り。 耳に届くのは荒々しい波が割れる音。 身体は上下激しく揺れ動く。 いつの間にかずいぶん遠くへ来てしまった。 あの人にただ必死で着いて来ただけなのに。 江戸を離れ京へ向かい、そして再び江戸に戻り・・・・とうとう、最果ての地。蝦夷へと自分は向かおうとしている。 空を見上げる。 江戸であろうとも、京の都であろうとも空は蒼く澄み渡り何処までも続く。 果てることなく。 日本という地を覆い、広大な海をも包み込み、その先にある異国までも続く・・・ そうして、やがて一巡りし、この地へと戻ってくるのだろうか・・・ 手を伸ばしても届かない空へ、手を伸ばす。 届かないからと諦めて手を伸ばす事を止めてしまったら、永遠に届く事はない。 だから、諦めない。 例え望まれなくても、疎まれても、離れる事はもうしない。 最後のその時まで、傍に有りたい。 それが、自分のただ一つの願いだから。 ☆☆☆ 天華の戯言 ☆☆☆ モノローグのみの話を書くのは久しぶりだ。というか書いてUPした事あったけ?? えーと一応土方×千鶴前提です。 まぁ蝦夷に向かっているという時点でそうなんですが(笑) 風間いませんしー 函館で合流する直前のロシアの商船の中でのモノローグつーことで。 いや元々の文章は阿香に散る緋に入れようと思って序章に書いていた文章なんですけど この辺(前半分ぐらい)は結局阿香にはいれなかったので(そもそもあれは斎藤×千鶴前提の話なのだけれど)没にしたまま闇に葬るのもなんだかもったいない・・・いや、ただたんにUPする物がないから、そのうち何かに使おうと思って残していた物を、一年以上経ってようやく持ってきた次第という・・・さすがにシュチュエーションが全然違うので、阿香〜に載せようと思った文のままではないですけれど(笑) 阿香で没ったシーンはまだあるので(池田屋辺り)それも、またいずれ、綺麗さっぱり見事に忘れた頃にでもUP出来たらいいなぁ・・・ |