京の都から敗走し、江戸へ戻ってきても目まぐるしい日々は変わらない。
 いや、京にいた頃よりも斎藤にとっては遙かに忙しい日々が続き、寝る間もほとんどないのが日常と貸していた。
 机の上にうずたかく積まれた書類に目を通し、筆を走らせ続けなければならない。
 夜間はともかく今の斎藤にとって、たとえ屋内にいようとも昼間は苦痛でしかなかったが、だからといって筆を置き、平助や山南のように寝て過ごすわけにはいかなかった。
 いま、この新選組には自分以外事務処理を行える幹部はいないのだから。
 斎藤は淡々と書類の山を片づけていると、久方ぶりに屯所へ戻ってきた土方が、ふすまによりかかりながら斎藤へと声をかけてきた。
「なぁ、斎藤。一つ聞いてもいいか」
 いつも単刀直入に用件を口にする土方にしては、了承を得るように問うのは珍しい・・・いや、珍しいというより初めてかもしれないと斎藤は思った。
 いったい何を改まって聞きたいのだろうか。
「何をですか」
 斎藤には改めて土方が問うような事は心辺りはない。
 嵐の前の静けさ・・・というべきか、それとも偽りの平和と言うべきか・・・細かな問題は山済みで、何一つ解決することなく増えていくような状況ではあるが、報告すべきことは委細漏れず上梓しており、指示を仰ぐような緊急ごとも今のところ何もない。
「答えたくなければ答えなくて構わない」
 いったいどういった風の吹き回しなのだろうか。
 改めて告げられる前置きに、斎藤は微かに柳眉を潜める。
 そんな僅かな変化も気がついているだろうが、土方はあえて斎藤の無言の問いには答えることなく視線をすいと庭先へと移しながら問いを口にした。




「なぜ、変若水を飲んだんだ?」




 視線の先には鼻歌を歌いながら、洗濯物を干す千鶴の姿があった。
 その彼女をまっすぐ見つめながら、土方は問うが、斎藤は答えない。
 なぜも何もない。
 あの時自分は変若水を飲まなければ息絶え、山中に切り刻まれた骸を晒していただろう。
 今頃は、蛆や無数の虫にたかられ野山に住まう野生の獣に食われ、髑髏をさらしていたかもしれない。
 いや、仮定ではなく、それがあの時進むはずだった道。
 「変若水」という世の理から逆らうものがなければ、確実に迎えただろう「死」
 死ぬことを怖れ逃げたわけではない。
 そんな言い訳じみたことはあえて言わずとも、最初から土方も疑ってはいない。
 斎藤自身死ぬことに恐れを抱いてはいなかった。
 人を斬る道を選んだ時に、覚悟は出来ている。
 いずれ、自分もまた誰かに斬られ血の海に沈み骸を晒すことになる日が来るだろうと。
 殺す者は。殺される。
 それが、定めだ。
 まして、この動乱の世。戦場に赴き死闘を繰り返しているのだ。いつ、その時がきてもおかしくはない。
 だが、あの時は死ぬわけにはいかなかった。
 死ぬことは怖れてはいなかったが、彼女一人残してあの場で死ぬことは出来なかった。


「他に、あの鬼に勝つ手段がありませんでしたので」


 斎藤は淡々と答える。
 なぜ飲んだか? そんなことあえて聞くまでもないだろう。
 変若水を飲むに至った経緯はいつわりなく報告をしている。
 飲まなければ勝つこともできず、千鶴を守り抜くことはできなかった。
 だから、飲んだ。
 迷いはない。後悔もない。
 たとえ羅刹になろうとも、勝てる手段が・・・勝ち残る手段があるのなら、迷わず選ぶ。
 いつだったか、以前に千鶴にも同様のことを聞かれたことがあったことを思い出す。
 山南が変若水を飲んだ後のことだっただろうか。
 そして、同じように「必要ならば飲む」と答えたのだ。
 それ以外に方法はない。
 諦めにも似たような感情だったかもしれない。
 たとえ、羅刹となり、いずれ血に狂う定めが待っていようとも、今を乗り切らなければ、その先すらありえないのだから。


「勝つ手段  ね、だが、お前なら勝てないと判ったら、妙な意地など張らずに退却する手段も選んだだろう。
 退却も手段の一つ・・・お前は、恥とは考えまい」
「退却できる相手でしたら退却することも選びます。
 ですが、あの鬼が相手では退却することは不可能でした」
「千鶴を連れて  はな」


 あえて、言われなくても土方の言いたかった言葉はわかる。
 千鶴をおいて・・・いや、見捨てれば、飲まずに退却にできたのではないかと。
 鬼の副長と言われる土方なら、その選択しも一つとして考えねばならないだろう。
 斎藤は三番隊組長として、新選組には欠かせられない人材だ。
 山南と平助は死んだ人間とされ、表の仕事をさせるわけにはいかない。
 土方や近藤は上とのかけあいなどで、忙しく局の仕事にまで手が回らない。
 左之助や新八も、志が違ってしまっている現状では、斎藤以外まとめあげるものは残されていなかった。
 羅刹になった斎藤一人ばかり負担をかけている・・・判っていても、他に人がいない以上どうしようもないことであり、斎藤自身そのことを判っているため、率先して昼も夜も関係なく業務に励んでいる。
 その中には、日中の千鶴の監視という名の保護もむろん含まれていた。


 もし、変若水を飲んでなければ、斎藤が負う負担も今ほどではなかっただろう。
 睡眠不足による疲労は重なったかもしれないが、人は夜を苦痛とは感じない。
 だが、羅刹の身になった今、昼という存在は毒のようなものでその身を常に蝕んでいる。
 平然としているが、顔色の悪さは如実に見て取れ、無理をし続けていることは容易に想像できることだった。
 無理を重ねれば、幾ら斎藤でもそう遠くないうちに限界を迎えるだろう。
 だが、無理をするなと言えるような状況ではなかった。
 今は京にいた頃のように全員の心が一枚岩のような状況ではない。せめて、新八や左之助と道を違える事がなければ・・・と思わなくもないが、流を止めることは土方でも出来ないことだった。
 だからこそ、せめて斎藤が普通の状態なら・・・と、思わなくもないのだ。
 あの時、千鶴を見捨てれば退却することもできただろうと。
 そうすれば、新選組に及ぼす影響は・・・・・悩ませる原因は一つ・・・・いや、二つ減った。
 斎藤は羅刹にならずにすみ、千鶴がいなければ鬼達の襲撃にそなえる、千鶴を守ることもなかったと。
 ただ、偶然市中で出会った少女。
 本来ならばあの時、殺していたかもしれない少女。
 羅刹の存在を外にもらされたくなかったために、局内預かりとした少女。
 変若水の実験のために新選組を利用したにしか過ぎなかった男の娘。


 そのどこにも、自分達が彼女を守らなければならない理由はない。
 追い出すいわれはあっても、守り保護する理由はどこにもなかった。







 

 


「土方さん、心にもないことはおっしゃらない方がいいかと」



 

 






 変わらず筆を動かしながら、沈黙を破るように斎藤は言葉を口にする。
「たとえ、あの時俺が雪村を見捨て、退却をしようとしても、あの鬼はそれを許す事はなかったでしょう」
 口では、置いていけば追うことはしない。と言いながらも、あの鬼はおもちゃで遊ぶように、剣を振るい背を向けた相手に斬りかかるだろう。
 天霧という鬼は武士の心を持っているようだが、あの風間という鬼にはそういった精神を持ち合わせているようには見えない。


「心にもないことか?」
「あなたが、あの時の俺の立場だとしても、同じ事を迷うことなく選んだのでは?」


 一瞬だけ手を止め斎藤はまっすぐ土方を見上げる。
 感情が伺えない凪いだ双眸。
 迷いの見られないその強い眼差しに、土方は苦笑を浮かべる。


「おれは、新選組副長だぜ?
 一人の女を守ることより組の事を考えなきゃならない人間だ」


 いざとなれば、迷いなく棄てる。
 たとえ、それがどれほど非難を受ける所行であろうとも。
 新選組を守るためなら、どんな非情な選択でも選ぶ覚悟は土方にはあった。
 むろん、斎藤にもある。
 斎藤にとって、新選組は全てであり、己が己でいるために見つけた場所なのだ。
 武士であるために。





「雪村は仲間です。たとえ隊士でなくとも」




 仲間を見捨てることはできない。
 なにより、あの鬼に負けたくはなかった。
 武士として、剣客として、負けたくないと思った。







 ただ、強く・・・・この男にだけは負けたくないと。
 この男に千鶴を渡したくはないと。






「仲間ね・・・・」






 この時土方の唇に苦笑とは違う笑みが浮かんだ事に気がついた斎藤は微かに眉を潜める。
 自分は、何か変な事を言っただろうか?
 疑問に思うが思い返しても特筆するほど変な事は言っていない。


「同じ釜の飯を食った仲間だからか?」


 他に何があるというのだろうか?
 力ある者が力弱気者を守るのは当然だ。
 千鶴に自分の身を守るすべがない以上、守り役を任せられた自分が彼女の身を守る責任がある。


「俺が、守り役を任せたからってだけで、鬼になったのか?」


 土方の問いは一つに二つの意味があるように聞こえてならない。
 だが、他に何の理由があるのだろうか。
 数年共に生活を送ってきたのだ。
 斎藤自身、千鶴を仲間と思う程度の感情は抱いている。
 別段そこに他意もなにもない。言われたから最初は常に傍にいたが、長く共にいれば仲間としての情も生まれるというもの。
 それが、それほどまでに不思議に見えるのだろうか。
 いぶかしむような斎藤をみて、土方はますます楽しげに笑みを深くする。


「なぁ、斎藤。お前は気がついているのか?」


 いったい、土方は何をいいたいのかさっぱり斎藤には判らなかった。
 普段ほとんど表情が浮かばない斎藤の顔に、当惑ともいえるような表情が浮かんでいることに、土方はなにやら楽しそうな笑みを浮かべる。
 今までの話の流のなにがそんなに楽しいのだろうか?
 あり得ない話だが、酒にでも酔っているのだろうか?
 そう思い、問いかける為に口を開きかけたが、問う前に土方の方が先に言葉を口にする。













「俺たちの前では、千鶴のことを『雪村』と呼ぶくせに、本人に呼びかける時は『千鶴』になっているんだぜ」










 僅かにその双眸が瞠目したのを視界の隅に納めると、土方は襖から離れ斎藤に背を向け、肩越しに軽く手を振る。


「変なことを聞いて悪かった。 ここで話したことは忘れてくれ。邪魔したな」


 それだけを言いのこして、土方は奥の自分の部屋へと去ってゆこうとするが、不意に脚を止め庭先で猫と戯れる千鶴を見て目を細めながら、独り言のように呟く。


「確かに・・・散らすことはできねぇーな」


 それは、先ほどの斎藤の言葉に対する答なのか。
 斎藤はあえて問うことはしなかった。
 土方もそれ以上何かを言うことはなく、そのまま何事もなかったかのように、今度こそ奥の自室へと向かう。
 斎藤の動きがとまったのはほんの数秒のことだった。
 瞬きする間があるかどうか。
 だが、不自然に止まった筆は和紙の上に取り返しの付かない染みを作り、後は署名をして終わりだったはずの書類は、書き直さなければならない状態になっていた。
 ため息一つで、筆を硯に戻すと染みの付いた和紙を丸めてゴミ箱へ棄て、再び筆を執ろうと手をのばしかけるが、手は筆を握ることなく、視線だけが動いて庭で動き回る千鶴へと向けられる。
 『雪村』と確かに呼んでいる。
 だが、思い返せばいつの間にか「千鶴」と呼ぶようになっていたかもしれない。
 特に意識をしたことはない。使い分けをしている意識もない。
 ただ、何も考えずに名を呼んでいた。
 名字で呼ぶことと、名で呼ぶことの差など考えたことはない。
 千鶴以外にも名で呼んでいる者はおり、千鶴のことも名で呼ぶ者は幾人もいる。
 そもそも、土方自身が彼女のことを名で呼んでいる。
 あらためて、言われるようなことではない。はずだ。







 なのに、なぜ鼓動がその瞬間リズムを狂わせたのか。
 この時の斎藤はまだその理由を、察することはなかった。
















 


☆☆☆ 天華の戯言 ☆☆☆


初めての薄桜鬼創作は、男同士の会話になってしまいました(笑)
ゲームをやっていてふと「雪村」と「千鶴」を使い分けている?と思った瞬間、それを誰かに指摘して欲しかったんですのよ!!(笑)
最初は「雪村」と呼んでいたのに、あれ「千鶴」になっている? あれれれ?「雪村」とも呼んでいる?
は!?本人を呼ぶとき限定!?とか思ったような気がしました。
はい、ただ、もしかしたら「千鶴」と言ってからはすべて「千鶴」になっているかもしれませんが・・・・まだ、一回しかプレイしてないので、そこらへんが非情に曖昧で・・・かつ、土方への言葉遣いもどうも今ひとつまだ把握してないので、変なような気もするのですが・・・・
まぁ、初と言うことで諸々の「あれ?」と言う点はお見逃しいただけるとありがたくっっ!!
ってか、やっぱりゲームだと簡単に読み返せないので色々と難しいわね。
小説や漫画だと、気になったらその時その時簡単に、確認できるのだけれど・・・・なにせ、まだ斎藤ルートのみしかやってないので、???な登場人物もおり、色々と視点が変わると見えてくるストーリーも違うと思うので、コンプめざしていきたいでございますことよ。


その前に、冬コミの原稿だけれど・・・・(笑)



だらだら、やりとりしてますけれど、ただたんに土方さんに指摘してニヤリと笑って貰いたかっただけなんです(笑)








2008/11/3
Sincerely yours,Tenca