花に酔う


「あれ……ここ……」
 牛車から降りた麻衣は辺りを見渡して首をひねる。
 始めてくるところのはずなのに、見覚えがある気がした。
 澄んだ涼やかな風。芽吹いたばかりの新緑の葉が色濃く生い茂り、すぐ傍までやってきている夏を教えてくれる。遠くから聞こえる鳥たちのさざめきも、近くを流れる小川の音も、風景を織りなす一つとして麻衣の視野に映る。
「どうかなさいましたの?
 きょろきょろと辺りを見渡していた麻衣の気配を感じたのだろう、現実のものを見る事はできない代わりに人の気配にさとい百合子は牛車の中から麻衣に声をかける。
「あ…ごめん」
 麻衣は慌てて口元を扇で隠すと、牛車から下りて離れる。
「随分都を離れましたのね」
 そろそろと深窓の姫君のように、牛飼い童の手を借りながらゆっくりとした動作で牛車を降りた百合子は辺りを見渡して呟く。たとえ目が見えなくても感じる事はできる。緑の匂いが濃く、冷たい風が吹き抜け、獣たちの声も近く、ここが都から離れた場所だと言うことを教えてくれた。
「じょーちゃんたちこっちだ」
 そう言って手招いたのは今回麻衣達を別荘に招待した、滝沢だった。
 最近手に入れた別荘にそれは見事な藤があると言うことで、滝沢は麻衣達を招いて宴を催すことにしたらしい。今回招待されたメンバーは主に陰陽寮に出入りしているいつものメンバーだ。麻衣、百合子、涼子、榊である。鳴瀧は帝に呼ばれているため、ここへ訪れるのは夕方になる。
「うわぁ…すごい」
 麻衣が感嘆の溜息をもらしたのも頷けるほどの見事な藤棚が、そこにはあった。
 空を薄紫に染め変えるほどの藤の房が、棚だけではなく辺りの木々にも蔓を巻き付け花を咲かせていた。
「百合子すごいよ……ほら、手を貸して」
 麻衣は目の見えない百合子の手を取ると、腕を伸ばして藤の花に触れさせる。少し伸ばせばそよそよと風にたなびく藤に触れることができ、そしてむせ返らんばかりの花のにおいに見えずとも、百合子も息を呑むばかりだ。
 花で圧倒されることは桜が筆頭にあげられる。淡く色づいた桜がそれこそ空を染め変え、一斉に散りゆく様は幽玄とも夢幻とも言われ、一種現実を忘れさせる独特の雰囲気がある。人々は桜に見とれ、禍々しさえ覚えるほどだ。
 藤の花は桜ほどの華やかさはないものの、それでも目を楽しませてくれる。桜にはない香りに心を躍らせてくれる。

「どうだ、圧倒されるだろ」
 二人の反応に満足がいったのか、滝沢は嬉しそうに言う。
「これは人間が手を入れたんじゃない。藤達が勝手に好き勝手に群生していったんだ」
 手入れが行き届いているとは思えないが、かえってそれがよりいっそう藤の美しさを際だたせていた。淡い藤の色と、濃い緑の葉が絶妙なコントラスを作り出しよりいっそう色を引き立たせている。貴族の屋敷ではけして見られない自然美。自然はあるがままに見るのがいいと思わせてくれる、光景だ。
「夜になるともっといいぞぉ〜〜〜。
 篝火を焚けば藤の花が闇に浮かび上がる」
 夜までまだ時間があると言うことで、麻衣達は滝沢に勧められるまま別荘へと足を運ぶ。長い間牛車に揺られてきているので、さすがに疲れが溜まっているので、正直に言えば少し休みたかった。
 案内された部屋に行くとすでに涼子が脇息に寄りかかって白湯を飲んでいた。彼女は昨日の内から来ていたため、既に充分に羽を伸ばしているようだった。
 艶やかな桂衣を来て麻衣達を悠然とした態度で出迎えてくれた。
「これ、珍しい唐のお菓子よ。美味しいから食べてみなさいよ」
 陰陽寮と同じように、涼子からの差し入れと麻衣が用意した飲み物を囲って、階から風に吹かれる藤を眺めるのも風情がある物だ。
 そよそよと流れる風は心地よく眠気を誘う。
 脇息に体重をかけてぼんやりと外を眺めながら、麻衣はやはりこの光景に見覚えがあると思った。
 どこかで似たような景色を確かに見たことがある。
 都とはまたどこか違う澄んだ風を、空気を、知っている……
 だが、どこで見たのだろうか?
 錯覚だろうか……?
 いや、確かに記憶の端に残る風景。
 懐かしさえ感じる―――遠い昔を知っている。
「あら、やだ。麻衣寝てしまいましたようですわね」
 脇息に凭れていた麻衣はいつしか、寝息を立て始めていた。それを耳ざとく聞きつけた百合子が苦笑を浮かべながら、涼子に確認する。
「きっと、馬鹿に付き合ってまた遅くまで陰陽寮で連日仕事でもしていたんでしょう。
 あの、仕事馬鹿に付き合っていたら、その内麻衣の方が身体壊すわよ」
 涼子は呆れながらも、控えていた女房に桂衣を一枚もってこさせると麻衣の肩に掛ける。幾ら初夏とは言え山の中の風は冷えるのだ。
「でも、麻衣の気持ちよく判りますわ。
 風が心地よくて、ついつい眠くなってしまいますもの」
 百合子は姫君らしく口元を扇で隠すと、微かなあくびを漏らす。
「眠っている物がいると、つられるのよね」
 そう言って涼子もあくびを一つかみ殺す。
 二人はクスリと笑みを零すと、静かな動作で立ち上がった。このままでは自分たちも夢の世界の住人になってしまうだろう。
 御簾を自分たちの手で下ろすと、麻衣を一人残して涼子達は滝沢達のいる場所へと向かったのだった。





 幼い麻衣は一人山の中を歩いていた。
 まだ、父も母も健在の頃の自分だ。
 たった一人で人気のない山の中を歩いている。
 誰もいない。
 父も母も家人達も誰もいない。
 ――どうしよう
 麻衣は辺りを見渡しながら、ひたすら歩く。
 父達と物見遊山に来たのだがどうやらはぐれてしまったようだ。
 辺りは徐々に薄闇に覆われ始め、視界が悪くなっていく。
 梟の鳴き声が山の中から漏れ聞こえ、先ほどまで優しく流れていた風の音が強く聞こえ、小川の音が猛々しく響いている気がする。
 ――怖い…
 このまま、両親に会えなかったらどうしよう。
 聞こえる音は、草を踏み歩く自分の足音と草を揺らす風の音だけ。
 ――怖い
 麻衣は震え今にも止まってしまいそうになる足に力を入れて、歩き続ける。
 きっと、歩いていれば会えるはず。
 そう信じて。
 ――わぁ…………
 自分の背丈ほどある雑草をかき分けて進んでいた麻衣は、突然開け現れたそれに目を奪われる。
 木々に絡まって群生している藤。
 今まで都の屋敷にある人工的な藤棚しか見たことのなかった、麻衣にはそれは荘厳な物に見えた。作られた美しさではなくあるがままの美しさだ。都のように一つ一つの花は形も揃っていなければ、色もくすんでいるかもしれないし、全体的に小振りだ。だが、それは、今まで麻衣が見たことのある藤の中で一番綺麗な気がした。
 ――すごい……
 麻衣は一人だという心細さを忘れて、心を奪われたかのように見とれていた。
 頭上を覆うような半円形を描いた形に蔓を張りめぐらし、藤の花をいっぱいに垂らさせたアーケイドをくぐりながら麻衣はいつしか、再び歩き出す。
 それは長かったかもしれないし、短かったかもしれない。
 やがて、すぐにそこが古い別荘の裏だということを知った麻衣は、別荘にいた管理の者に迷子になってしまったと言うことと、両親の名を告げた。麻衣が無事に両親と再会を果たしたのは、それから間もなくのことである。





「―――いまの、ゆめ………」
 麻衣はぼんやりと目を開け手当たりを見渡す。
 うっすらと夕闇に暮れ始めた室内は、見覚えのない部屋で一瞬自分がどこにいるのか麻衣には分からなかったが、すぐに滝沢が最近手に入れた別荘だと言うことを思い出す。

「また、居眠りしちゃったんだ」
 肩にかけられた衣からは涼子が愛用する薫りが漂ってきた。
 麻衣は苦笑を漏らしながら、衣を畳むとゆっくりと立ち上がる。
「あら、起きたの?
 そろそろ宴始めるから起こそうと思ったところなのよ」
 涼子が御簾をめくり上げながら姿を現した。
 艶やかな桂衣を着ているが、さすがに十二単ではなかった。もともと改まった石でもない気心の知れた者たちでの宴である。正装をしているはずがなかった。
 麻衣は涼子の後について藤が一番綺麗に見える部屋へと向かう。
 庭には篝火が焚かれ、闇に藤の花を浮き上がらせていた。山の幸が御膳の上に並び、既にお酒を飲んでいるせいか滝沢や榊の顔が赤く染まりつつある。
 鳴瀧も先ほど着いたと言ってすでにその場に座っていた。どうやら、居眠りをしていた自分が一番最後だったらしい。
「また、居眠りしていたらしいな」
 麻衣は当たり前のように鳴瀧の隣に腰を下ろすと、空になった杯にお酒を注ぎ足す。
「しょうがないでしょ、風が気持ちよかったんだもん」
 ぷぅっと頬を膨らませて呟く麻衣の顔が、心なしか赤い気がする。鳴瀧はそれを見てふっと口元に笑みを浮かべたが、そのことに気が付いた者は、あいにくと誰もいなかった。
 顔見知りしかいないという事で、涼子や百合子も扇をそっちのけで素顔をさらし、美味しい料理に箸を伸ばし、今宵は無礼講と言わんばかりに酒をあおるのは涼子だ。百合子はお上品にたしなむ程度である。が、涼子は豪快に飲んではいるが酒に飲まれるような飲み方だけはしていなかった。
 麻衣も、味見程度と言って鳴瀧から杯を借りて二口三口飲むが、味覚が合わないのかしかめっ面をするとまだ酒が入っている杯を鳴瀧に返す。皆が美味しそうに飲んでいるから興味がわいたのだが、どうしてこれを好んで皆が飲むのか麻衣にはわからない。
「味覚が子供なんだろ」
 とは、返された杯に入っていた残りの酒を飲み干した鳴瀧の言葉である。その言葉に不満そうに頬を膨らませた麻衣は、鳴瀧の背中を叩くが痛くも痒くもない鳴瀧は、馬鹿にしたような笑みを刻みながら継ぎ足された酒を飲む。そんな見るのも馬鹿らしい二人のやり取りにあきれつつ、涼子は滝沢のほうに話を振る。

「ちょっと、法鷹。あんた琵琶でも弾きなさいよ。帝に下賜された琵琶があるんでしょ」
 仄かに顔を赤く染めた涼子のご要望に応えて、滝沢は琵琶を用意させる。その音を聞かせるのも今回の宴の目的の一つであったのだ。先日帝の前で御前演奏した滝沢はその腕のよさを褒められ、帝から直々に琵琶を下賜されたのである。
 雅楽寮(うたりょう)に属するだけあってその腕前は宮中でも評判であり、色々な楽器に精通しているのだが、特に琵琶は当第一と評判である。
「それが玄奘ですか?」
 帝から下賜されたという唐製の琵琶でも最上級と言われている琵琶を見た榊が興味深げに見ている。滝沢は調律をしたあとに悠然とした自然体に構えると琵琶をばちででかき鳴らす。調音の為にかき鳴らしただけだがそれだけでも、弦が弾く音の深みが違う。
「さすが…いい音だわ」
 試し引きをしていた滝沢は、更に和琴も用意させると、榊に声をかけて曲を織りなしていく。
「滝沢さんに比べたら僕なんて、子供の練習みたいな者ですけれど」
 といいつつも、さすが何事に関してもそつなくこなす榊だけあって、和琴を見事にかき鳴らしていく。

「いい腕しているじゃない」
 流れるような音色。絡み合い混ざり合い解け合いながら、和音を響かせていく。
 他に聞こえる音は何もない。
 静かな大気をわたる音は、澄んだ音色だけ。
 風の音も、水の音も趣を深くさせ、溶け込みあう。
 口を開くなんて野暮なことをする者などいない。
 この時ばかりは、涼子や百合子も黙って彼らの奏でる演奏に耳を心を傾ける。
 うっとりと聞き惚れている中、麻衣はふいに立ち上がる。
「どうした?」
「――ん。ちょっとのぼせたみたい。外の空気に当たってくる」
 先ほど飲んだ酒のせいか、白い頬は赤く火照り鳶色の瞳が熱を帯びているように潤んでいる。たいして飲んではいなかったのだから酒に酔ったというよりも、この場の雰囲気に酔ったのだろう。
 麻衣は扇をもって皆の背後から回って階に出ると、そのまま表の庭へと歩いていく。もちろんその後を鳴瀧が追ったのは言うまでもないことだ。
「やっぱり…私、知っている?」
 麻衣はポツリと庭を歩きながら呟く。
 どこか昔、見た光景に似ている。
 麻衣は誘われるように庭を背にして、山の方へ歩いていく。
 少し歩けばすぐに深い草に囲まれてしまうが、すぐにここが遠い昔に迷子になったあの山だと言うことを思い出す。あの時と何ら変わることのない藤の花が群生していたのだ。
 変わったとすれば、自分の背丈が伸びたと言うことと、迷子になっても自分を迎えに着てくれる、優しい両親はいないという事ぐらいだ。
「ここは―――全然変わっていないや」
 背が伸びた分近くなっている藤。手を伸ばせば花の房に指先が届く。
 あの時は、風の音と草木を踏みしめる自分の足音しか聞こえなかったが、今は別荘の方から華麗な音曲と軽やかな笑い声が聞こえてくる。
 ただ、そこから少し離れたと言うだけでひどく寂しく思えた。
 あの時のように一人迷子になり、闇の中に取り残されてしまったように思う。
 遠い昔、父も母もいた。
 迷子にはなったが迎えに来てくれた優しい両親。はぐれた一人娘の麻衣を心配して、涙を流して駆け寄ってきた母。無事な姿を見て安堵した父が優しく頭をなでてくれた。家人達も麻衣の姿を見て涙を流して無事を喜んでいた。


 もう…遠い昔の、記憶。

 今は、誰も、いない――――――

「こんな所で何をしている」
 背後から聞こえた、聞き慣れた声に麻衣は驚いて振り返ると、そこには闇にとけ込みそうな黒衣に身を纏った青年が立っていた。
「鳴瀧―――ここね、私がまだ子供の頃…父君も母君もまだ生きていた頃に物見遊山に来て、はぐれて迷い込んだ場所だったの――――――」
 麻衣は指先で藤の花びらをいじる。
 どこか寂しげな表情で、それらを見る麻衣。
「ここは、何も変わってないね。あの時と……
 変わったのは私だけ。今は父君も母君もあの時のように迎えに来てはくれない」
 鳴瀧は麻衣を背後から抱きしめる。
 まるで、そのまま藤の花に引き込まれ消えてしまいそうに見えた。それとも、ただ単に藤の重ねを着ているから同化して見えただけだろうか。

 ふわり……氷のように冷たい薫りが鳴瀧の衣から漂い、麻衣の鼻腔をくすぐった。
「だが、今は僕がいるだろ?」
 麻衣は鳴瀧を見上げ、笑みを零す。
 あの時は一人ぼっちでこうして包み込んでくれるぬくもりも、心地よく感じる香りもなかった…
「そうだね―――今は、鳴瀧がいるから一人じゃないね」
 あの時は父も母もいた。
 だけれど、この藤を見たときはたった一人で心細かった。
 今は、父も母もいない。
 だけれど、自分を優しく抱きしめてくれる大切な人が共にいてくれる。
 大切な者を亡くしたから、何よりも大切な者が出来たのかもしれない。
 麻衣は鳴瀧に抱きしめられたまま藤の花を見上げる。
 今も昔も変わらずあり続ける藤の花。むせ返るほどの匂いにめまいを起こしそうになる。そのせいだろうか、いつもよりこの腕が優しく自分を包み込んでいてくれると思うのは気のせいだろうか?
「ねぇ、鳴瀧…藤の花の花言葉知っている?」
 唐突に問いかけてきた麻衣に鳴瀧は視線を落とす。
「藤の花言葉はね…「花に酔う」だよ。本当酔っちゃいそうなほど壮観な眺めだよね…香りにも酔っちゃいそう」
 鳴瀧に寄りかかりながらウットリと藤の花を見上げる麻衣は、確かに酔っているように見えた。先ほどまでの寂しげな風情は消え、頬を高潮させて藤の花を眺めている様はまさしく『花に酔う』といった感じだ。そんな麻衣を見下ろしていた鳴瀧の口元に笑みがふと刻まれる。
 確かに花に酔いたくなるだろう・・・・・・だが、鳴瀧にとっての花は・・・・・・・・・・・・・・
 藤の襲を纏った麻衣を抱きしめる腕を強くする。
「鳴瀧?」
 自分を抱きしめる腕が強くなったような気がして麻衣は顔を上げると、笑みを刻んだ鳴瀧が自分を見下ろしていることに気がつき、なぜか頬を赤くしてしまう。
 闇に浮かび上がる藤の花を背景に見た鳴瀧の笑みは、冗談にならないぐらいに綺麗だった。
 鼓動が一気に跳ね上がったような気がして、思わずうつむいてしまうが、鳴瀧は麻衣の顎を掴んで顔をあげさせる。視線を合わせるとさらに顔を赤くする麻衣に、鳴瀧は笑みを深くする。顔は赤いままだが麻衣もつられるように笑みを深くする。







 そよそよと藤が揺れる中、二人の影が静かに重なる・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 ☆☆☆ 作者の戯言 ☆☆☆
 花闇の宴改めて花に酔うを、再UPいたしました。
 今回は、ほとんど書き直しなし。一部加筆修正しただけです。