華が咲き綻ぶように






 

 あっけに取られずにはいられない状態といってよかった。
 「飲むぞ」と宣言した、涼子と滝沢は一体どのぐらい飲んだのか判らない。半ば泥酔状態で潰れるまでカウントがあとわずかと言っていいぐらいだ。百合子など相手にするのもバカらしいといって、早々に自分の屋敷に戻ってしまった。榊も送るという形でこの場から逃げようとしたのだが、あっけなく滝沢と涼子の魔手にかかり脱出を失敗する。
 何で彼らがそんなに飲むのか今一つ理由がわからない麻衣だが、酔っ払いに付き合う気は毛頭なく、気がつかれないように庭に出る。外の風は思いのほか冷たく身震いをしてしまうが、その冷たさが酒気に酔った頬に心地よく感じる。リンと冷え切っている大気は、ことのほか星を綺麗に見せ、闇夜に浮かぶ月の輝きがいっそう増しているように思えた。
 今年もあと残すところ一月ほどになり、寒さが日々強くなっていく。今こうしてほんの少し外にでただけで、骨の芯から冷え込んでゆくようだ。吐く息はあまりの空気の冷たさに凍てつき白く見えるほどで、月は氷のように冷たい光を放ち、それがより冷え込みを増しているように思えるのだが、いつもは冷たく見える月の光が、今日は柔らかく見えるのはなぜだろう?
 月を隠してしまう無粋な雲はほんの僅か空に広がるだけで、その輝きを遮るものは何もない。ゆっくりと時をかけて満ちた月は見事な真円を描き、後は順を追って欠けてゆくだけだ。そして、また満ちてゆく。永劫に変わらない月の営み。だというのになぜ満ちゆく月と欠けゆく月で受ける印象が変わるのだろうか。
 見る季節によって月の光に温かみを、柔らかさを、冷たさを受けるのはなぜだろうか。
 どこまでも広い空を燦然と輝く月に寒さを忘れて見とれていると、背後から声をかけられる。振り向くと闇に溶け込むかのように鳴瀧が立っていた。柔らかな月光を受けて浮かぶ陰影が、彼の美貌をより引き立てているように見え、思わず見とれてしまい返事をするのを忘れてしまう。それをいぶかしく思ったのか鳴瀧はさらに近づきながら声をかけてきた。
「麻衣・・・何をしているんだ? 風邪を引くぞ」
 鳴瀧自身かなり飲まされているというのに、近寄ってくる足取りにはぜんぜん出ていない。ただ、白い頬が僅かに赤く染まり、酒気によって目が潤んでいるというのを見れば、酒が入っているというのがわかるのだが、けだるげな表情が妙に色っぽくて、月明かりに照らされた鳴瀧を見た麻衣は、鼓動が早まるのを止められないでいた。さらに、常に纏っている香りに混じって薫ってくる、酒の香りが色気をより倍増しているような気がしてくる。
「お月様見ているの。今日はね満月ですごい綺麗・・・・雲が僅かに霞がかっていて朧げに月の光を反射させているからなのかなぁ。すごく月の光が柔らかく感じるの」
 鳴瀧から視線を再び月に戻して、ウットリとした声で呟く。
「月って不思議だよね。満ちていくのを見ていると心を浮き立たせるけれど、かけてゆく月を見るとすごく不安になる」
「なぜ?」
「わかんない。どうしてなんだろうね。満ちたってまた欠けるし、欠けたってまた元のように満ちていくのに。判っていることなのに夜毎姿を変える月にどうしてこんなに一喜一憂しちゃうんだろ・・・・・」
 まるで、月を掴み取ろうとするかのようにその細い腕を伸ばすが、麻衣の小さな手のひらは何もない虚空を掴むだけ。
「届きそうで・・・届かない。不安になるのは月が姿を変えることじゃなくて、人の気持ちも月の様に移ろいやすいものだからなのかな?」
 空に手のひらを向けたまま何度も、手のひらを開いたり閉じたりを繰り返しながら、麻衣は呟く。
 古来から月の移ろいゆく姿と、人の移ろいゆく思いを重ね合わせられている。月が姿を変えるように、人の心も常に変わりやすいものだからだろうか。
「前まで全然、そんなこと思わなかったけど・・・最近はちょっとわかるかなぁ・・・・・・」
 麻衣は一歩前に出るとくるりと身を翻して、鳴瀧と正面から向き合い、月を見つめていたようにどこか遠い目で鳴瀧を見つめ、そっと手を伸ばす。月を掴むことが出来なかった手は、簡単に鳴瀧の衣を掴むことが出来る。
「今夜は来てくれるか。明日はどうだろう? いつまで来てくれるのかなぁ・・・って、陽が暮れて月が夜空に昇ってくると思っちゃう。今まではさ、別に夜が来ても待つ人なんていなかったから、お月様は綺麗だなぁ・・・で終わっていたけれど、鳴瀧と夫婦になって、屋敷に来てくれるのかって思うとすっごく不安。月が満ちていくのを見るのはねいいの。なんだか、すごく明るい気持ちで待っていられるから。だけど、欠けて行くのを見るのは憂鬱だな。
 変だよね。すごく変。別に月と人の気持ちなんて何にも繋がらないのに・・・なんで、そんなんでこんなに不安になったりするんだろ。不安に思う必要なんて何もないのに」
 鳴瀧の衣を掴む手がぎゅっと握り締められる。自分の言葉に不安になっているのか、麻衣の双眸は不安そうに揺らめき、口元を飾る笑みはかすかに引きつっていた。
「別に不安に思う必要はないだろう。僕は仕事がない限りお前の屋敷に通っているが?」
「うん。判っている。判っているんだけどねぇ・・・・鳴瀧ってば仕事が忙しいじゃない。今はまだ暇な時期だけど、あと一月で暮れが来るし、これからすごく忙しくなるじゃない。そうしたら、うちに来ている時間なんてないだろうし・・・・うちに来ても鳴瀧の仕事が出来るような環境じゃないって判っているから、来てって言いたいけれど言えないし。
 なにより、鳴瀧本当は嫌でしょ? うちじゃ何も出来ないし、人も鳴瀧の屋敷に比べたら多いし・・・・何よりも、婿扱いされるのがすごく嫌でしょ? それでも鳴瀧はさ時間の都合がつくときは来てくれている・・・なのに、もっと来てって思っちゃう。
 ごめん。わがままだよね。
 皆同じような思いをしているのに。同じように今日は来てくれるのか、来れないのか。なぜ来れないのか、仕事か、それとも他に恋人が出来たのか・・・考え出したらきりがないけれど・・・・・私はさ、これない理由がちゃんと判っているんだから、不安に思う必要もないのに・・・・・・・・・・・・・・・なんでだろ。不安になる」
 うつむいたまま正直呟かれた言葉に鳴瀧は、表情を変えないまま麻衣を見下ろす。
「僕が信じられないか?」
 その問いに麻衣はふるふると首を振る。
 信じられるか、信じられないかという問いなら、信じている。疑ったことなど一度もない。もしも、他に通うところが出来たなら鳴瀧は隠したりしないでちゃんと言ってくれる。そういう人だって判っているから、疑ったりしているわけではない。
「変なの・・・・さっきまで、すごく嬉しかった。鳴瀧が化粧をしてくれたのが、すごく嬉しくて嬉しくて・・・・すごく幸せに思えたのに、月を見ていたらね・・・綺麗だけど、寂しいなぁって思ったの。どんなに綺麗でも、一人で月を見るのは寂しいなって。一人で月を見ることがこんなに寂しいことだって今まで思いにもよらなかった」
「酒によっているんだろ。だから、浮き沈みが激しいんだ。もともとお前は感情の起伏が激しいからな。別に気にするようなことではないと思うが?」
 軽い口調に麻衣はむっと頬を膨らませて鳴瀧を見上げる。
「ちゃかさないでよ。まじめに話しているのに」
「ちゃかしてなんかいないさ」
 鳴瀧は手を伸ばしてすっかりと冷え切っている麻衣の頬を両手のひらで包み込む。
「何を不安に思う必要がある? 僕はこうしてお前の傍にいるし、お前のところ以外に行くところもないからな。仕事がなければお前の屋敷に通っている。それでは不満か? これ以上僕にどうしろと?」
「不満じゃないの。ただの我侭なだけだよ。
 手を伸ばしても、どんなに背伸びしても、空の月は捕まえられないけれど、本当にほしいと思った月はこうしてつかめる。それだけで良かったの。初めはこれ以上望んでなかったのに、気がついたらもっと傍にいたい・・・ずっと傍にいたいって思ってる。私はね自分がすごく恵まれていると思うの。
 父君も、母君もなくなって一人ぼっちだけど、涼子ねーさまが居るし、百合子も居るし、法鷹にーさまもいる。皆家族みたいな人たち。けして一人じゃなかった。それに今は鳴瀧も居る。こうして世間に認められるような形になったし・・・・それに、鳴瀧は屋敷にこもっていろって言わないから、昼間も一緒にいられる。
 夫を迎えたどの姫君たちよりもずっと長い間一緒に好きな人といられるんだから、すごく恵まれているの。だけど、私はもっと一緒にいたいって思っている。すごく貪欲だよね・・・我侭ばかり強くなっちゃう。だから、怖いの。
 いつか、鳴瀧がこの思いに嫌気がさす日が来るんじゃないかって・・・・思うとすごく怖い。
 鳴瀧と一緒に陰陽寮の仕事をして思ったの。一番この世に残りやすいのは女の情念かもしれないって。恨みや妬み、恋焦がれる想い・・・それらが、一番形になって残りやすいのかもしれない・・・だから、男の人は一人の思いに耐えられなくて、あっちへふらふら、こっちにふらふらするのかな・・・って思ったら、自分の想いが怖くなった。いつか、鳴瀧もわずらわしく思う日が来るんじゃないかなぁて。
 他に通われるのも嫌だけど、一番嫌なのは、邪魔に思われるのが、疎ましく思われることが怖い・・・・いや・・・だけど、だけど、どんどん強くなっていくの。
 一緒にいたいって。ずっと・・・ずっと、夜も昼も朝も・・・ずっと一緒にいたいって」
「なら、一緒に居ればいいだろ?」
 意を決して麻衣は言ったのだが、あっけないほど簡単に鳴瀧は一番聞きたい言葉を紡いでくれた。たった一言。何のためらいもなくさも当たり前のように鳴瀧は言ってくれた。
「お前の言うとおり僕は自分の周りにむやみやたらと人がいるのは苦手だし、婿扱いも喜べたことじゃない」
 判っていたことだが、改めて鳴瀧本人の口から言われるとやはりショックは大きい。何を言っていいのか判らずただ、黙って鳴瀧の言葉を待つ以外、麻衣には何もできなかったが、鳴瀧は麻衣の見つめる前で笑みを刻む。
「だから、お前が僕の屋敷に来るつもりはないか?」
「え―――――――――――――――――?」
 思いにもよらなかった言葉に麻衣は音が聞こえそうな勢いで瞬きを繰り返す。
「そうすれば何もお前が気に病む必要はないだろう。
 僕は仕事が出来るし、お前もいつ僕が来るのかと待ち続ける必要はない。まぁ、僕の屋敷には人が少ないから、お前のやらなければいけない仕事は多いが、それでも構わないというなら来ればいい」
 聞き間違いか。それとも、これは夢か。
 真のことと思えず麻衣は、言葉もなく立ち尽くす。
「優雅な姫君暮らしがしたいというなら、自分の屋敷のほうがいいだろう」
「したくない!」
 鳴瀧の言葉をかき消すかのように声を上げる。
 貴族の屋敷の割には自分の家には人はいない。それでも、鳴瀧から見れば人口密度は多いだろうが。だが、そんなものにははっきり言って未練はない。鳴瀧の傍にいられるなら家のことぐらいすべてやっても構わない。初めはなれずに迷惑をかけるかもしれないが、がんばって覚えればすむことだ。
 一緒にいたいと言うことがかなうなら、そのぐらいのこと苦労なんて思えない。
「――――いいの? 邪魔にならない?」
「邪魔になるなら最初からこんな事は言わない。どうする? 楽がしたいなら今のままのほうがいい」
「別に楽なんてしなくていいよ。私はずっと鳴瀧と一緒にいたい。いれるならそれでいい」
「なら、決まりだな」
 麻衣は嬉しさのあまりに破顔し鳴瀧の胸に飛び込むように抱きつく。先ほどまで香りに混ざっていた酒の匂いは、この冷気に浄化されたのだろうか。いつもの清々しい香りだけが鼻腔をつく。
 背中に回された腕が温かくて、今までくすぶっていた暗い影りが一気にかき消されていく。
 鳴瀧の言葉ではないが本当に自分は感情の起伏が激しいのだということが判る。些細な言葉で簡単に沈み、浮上する。宴の前の言葉もそうだ。「遊び女みたいだな」と言われた時は目の前が真っ暗になるかと思ったが、その後の言葉を聞いてすぐに浮上できた。今もそうだ。自分の言葉で勝手に不安に陥ったのを、鳴瀧はただ一言で浮上させてくれた。
「すごく嬉しい・・・・今日はすごく嬉しいことばかりで夢を見ているみたい」
 興奮しているのか麻衣の頬が赤く染まるのが、月明かりに照らされてはっきりと判る。自分で施した化粧が無粋に見えるほど今の麻衣はきっと色鮮やかに染まっているのだろう。嬉しさのあまりに浮かぶ微笑も、喜びに染まる柔らかな双眸も、どんな化粧でも繕えないほど綺麗に輝いているに違いない。
 もっとも、麻衣が綺麗に見えるときだと、鳴瀧は言葉にせず思う。
「お前は綺麗になりたいんだろ? ならなればいい・・・・」
 麻衣の頬に手をそえ顔を仰向かせると、柔らかな微笑を浮かぶ麻衣を見つめながら、鳴瀧は誘われるようにその唇にそっと口付ける。冷気によって冷たく冷え切った唇が、少しだけ体温を取り戻す。初めはただ触れるだけ。舞い降りてくる雪が肌に触れれば溶けて消えてしまうかのように、柔らかな口付けを繰り返す。それは、徐々に深みを増していき、互いが互いを求め合うように深く交じり合う。
 冷え切ってしまった唇が温もりを取り戻す時には、麻衣の唇は紅を刷くよりもなお鮮やかに色づいている。
「やはり、お前は紅を刷くよりもこっちのほうがいいな」
 呟かれた言葉に半ば意識を飛ばしていた麻衣ははっきりと聞き取れず、目で問いかけるが鳴瀧は笑みを浮かべるだけで教えてはくれなかった。
「綺麗にしてやるって言っただけだ。なりたいんだろ? 僕のために」
 あっさりといいのける鳴瀧に麻衣は面食らう。うぬぼれるのも大概にしろと言いたかったが、口から出た言葉は違う言葉。
「してくれる?」
 小首をかしげての問いに、答える声は自信に満ち溢れたもの。
「お前が望むならいくらでも」
 その声に重なるように柔らかな笑い声が重なる。寒さが厳しくなる季節でありながら、一足も、二足もさきに春が訪れたように朗らかなそれでいて、艶やかな笑い声が。



 今、まさに一輪の華がただ一人のために、咲き誇ろうとしていた。







終幕



☆☆☆ 天華の戯言 ☆☆☆
 なんだか、思いにもよらないぐらいに話が長引いたなぁ・・・・なんで、これが一話で収まると思ったのだろう。不思議なことだ。
 っていうか、一話で収まると思ったものがなぜここまで伸びたのかが不思議だ(笑)
 今回の目的は、三つ。一つは、鳴瀧に「遊び女」発言をさせる。二つ目は鳴瀧に化粧をさせる。三、鳴瀧が麻衣を屋敷に連れて行くように持っていく・・・だったんですよ。
 まぁ、三つ目は実は後から思いついてそこまでこじつけただけなんですがねぇ・・・・なんてここで暴露していいものだろうか(笑)
 相変わらず、主役二人だけで脇が全然出てきませんが・・・・このとき、彼らは部屋で泥酔状態だったんで、しゃしゃり出てこれんのですよ。ということにしておいてくださいませv




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