誰が為に啼く鐘












 イギリスに来て早くも一ヶ月が過ぎようとしていた。
 その間、出席したパーティーと呼ばれるものは、日本でまどかから受け取った招待状のうちの三通。
 だがそれだけであっさりと話は終わらなかった。お茶会と呼ばれるものは果たして何件あったのだろうか? ナルは出席しないものの、自分まで断るのは失礼かとついつい思ってしまい、動物園の珍獣扱い覚悟の上でそれらに顔を出したのだが、考えていたよりもフレンドリーな人たちの招待で、お茶会のほうは気疲れがないとまではいえないがそれなりに充分に楽しめた方だろう。
 特に昨日の夕食会は楽しかった。
 ルエラとマーティンの友人バドック夫妻のお宅に招かれたのだ。
 これには、ナルも溜息一つで出席をしたのだから、おそらく家族ぐるみでの付き合いがあったのかもしれない。バドック夫妻も子供がいなかったため、ナルとユージンを我が子のように可愛がってくれたのだとルエラが懐かしそうに話してくれた。だからだろうか。ナルが溜息一つで出席したのは。
 我が子のように気にかけていたナルが婚約をしたとならば、お祝いをしなければということで、急遽夕食会が開かれたのだ。イギリスの家庭料理はあまり期待出来ないと聴いてはいたのだが、ルエラもバドック夫人も素朴ながら料理の腕は抜群で、とても楽しい食事会となったのだが、楽しめなかったのは渡英目的でもあるパーティーのほうだ。
 最初に連れて行かれたのはナルのスポンサーをしているクレイバー伯爵のもの。日本で話を聞いていた通りクレイバー伯爵自身は、陽気で気さくな性格をしており楽しい人だった。親日家と言われるだけあって、日本人の自分にもなんら含むものを感じさせず、自然に相手をしてくれたのだが、その娘にはものすごい目で睨まれ、彼女の取り巻きは声高々とイロイロ言ってはいたが、気にするような部類ではない。
 というか、気にしていたら切がないといったほうが正直なところだろうか。
 ある意味悪口なんて聞きなれてしまうし、彼女達は嫌味のようにしか言わない。嫌味なんてその気になればいくらでもいい意味で取ろうと思えば取れるのだ。口調さえ気にしなければ・・・・・だから、とりあえず文字通り素直に受け取って、余計なものはトイレに流してしまう気分で聞いていたほうが、いちいち神経に触れなくてすむ。
 聞き流していたため・・・というより、英会話はできるようになったとはいえ、細かなニュアンスまで正確にくみ取れるほど堪能なわけではない。
 直訳はできても意訳はなかなか難しい、ゆえに彼女たちが本当に言いたかった意味は理解できなかった・・・という方が正解かもしれないが、これといった騒動もなく終了したのだから結果オーライと言うべきだろう。
 問題は残り二件・・・・サットン会長とトレッド子爵から招待されたパーティーといってもいい。いや、実際にどうこうされたわけではないのだが、心情を示すのならば針のむしろ・・・・といったところだろうか。
 その場には招待主と懇意にしているものばかり集められたということもあるだろうが、皆が皆、招待主の令嬢達に同情し、麻衣に対しては白い目・・・・中にはあからさまに侮蔑の視線を向け、日本人でさらに孤児である麻衣を伴侶に選んだナルを、嘲笑し下げすさむの者もいた。
 確かに自分がナルにとって何らかの力になれるわけではない。
 こうして、貴族の社交界もどきに出るためのマナーや挨拶も何も知らず、迷惑を駆け足を引っ張ることしか出来ない存在だ。
 だが、それらが実際ナルのしたいことに何が関わるというのだろうか。
 言いたい事はたくさんあった。
 何も知らない自分がバカにされることは予想済みだったから仕方ないと思えるが、ナルがバカにされ嘲笑われることがたまらなくいやだった。
 だが、対するナルは涼しい顔で自分をバカにする人間のほうが、恥ずべき人間だといわんばかりに、悠然とした態度を崩さず、疑いの眼差しをしぶとくみせる彼らに対し、今まで彼が見せたこともないぐらいに、完璧に自分のフィアンセをエスコートし、どれほど彼が自分の婚約者を大切にしているかを印象付けさせ、冷たい空気ではなく甘やかな・・・彼が今までにそんな気配を発しているのを見せたこともないような雰囲気でもって、周囲を黙らせていた。
 といっても、世間一般的な範囲で考えれば、ごくごく当たり前の行動をしただけなのだが『あの』ナルがそのごくごく当たり前の行動をしたからこそ、驚きを隠せなかったというのだから、いったいいままでナルはどんな態度でこういう席に出ていたのかと思ってしまう。
 まどかに聞くと、エスコートをナルがした事があるのは、義母であるルエラぐらいで、女性同伴のパーティーにはでなかったといい、そのほかのパーティーも10分ぐらい顔を出すと、後は気が付いたらいないといった状態だといっていた。
 だからこそ、下手に毒舌を吐くよりも、彼らの舌の根を凍らすにはそのほうが効果覿面だったようだ。と、囁いたりもしたのだった。
 とにかく、表面的には静かに、二人の婚約を祝すものだったが、自分に正直に感想を言うとなれば狸と狐の化かし合いだ。
 ここに、安原がいたらさぞかし見ものな化かしあいになっただろうが、生憎とその手に如才な彼はおらず、麻衣とナルは必要最低限の挨拶と顔見せをすませ義理を果たすと、引き止めるのも構わず退出する・・・といったような状態だった。
 そして、メインのパーティーは今日のサー・ドリーの主催で開かれる園遊会で終わりだ。
 後は、ナルの所用が済み次第日本に帰ることになっている。
 慣れない国、使い慣れない言葉、日本とは違いすぎる環境に戸惑いや疲れを感じさせるはずもなく、思わず溜息をついてしまう。
 実際に、自分で思っているよりも疲れは溜まっているのだろう。ココのところ毎朝寝坊してはナルにたたき起こされている。
 思わず今朝のことを思い足して、僅かに頬を染めた麻衣は誰もみていないというのに照れ隠しのように、頬をポリポリとかいて、視線をあたりに彷徨わせてしまう。すると、まるでタイミングを計っていたかのように、老紳士が声をかけてきた。
「ミズ・タニヤマ、お疲れのようですが大丈夫ですか?」
 一人庭の片隅で息を抜いていると、今回の主催者であるサー・ドリーが杖を着いてゆっくりと近づいてくる。麻衣は慌てて立ち上がり、彼にベンチを勧めると、サー・ドリーはにこやかな笑顔で麻衣が座っていた隣に腰を下ろした。
「楽しんでいただけてますか?」
「はい。とても素敵なお庭ですよね」
 進められたワイングラスを受け取って、軽く一口だけ口に含むと麻衣は質問に答える。
 お世辞でもなんでもなく、確かに見事だとしか言いようがない。イギリス様式の庭園は完璧なまでにシンメトリーであり、一つ一つの花や木々が見事なバランスで配置されている。夜の遅いイギリスだが、すっかりと日は沈み、庭を照らすのは暖かな暖色の電灯が間接的に庭を照らして、闇の中照らし出している。
 緩やかに流れる音楽。綺麗着飾った人たちの談笑・・・・ざわめき。
 まるで、映画のワンシーンのように思える。
 その中に、自分がいるということが、異質に感じてしまうほどに。
 まどかに、コーディネートしてもらい、四組買った中でこの日選んできたのは、深緑のチャイナドレスだ。
 ほとんど無地に近いが裾の方には銀糸で大輪の花が刺繍されており、その花々が緑の中に浮き上がっているように見える。チャイナドレスだけあって身体のラインを強調するかのようなデザインだが、イブニングドレスのように肌の露出はそれほどない。その代わり太ももまで入ったスリットからは白い足がすらりと伸びているのが見え、深緑とその白い肌のコントラストは目にもまぶしく映る。
「オリヴァーが結婚すると聞いて正直驚きました・・・・・
 貴方には失礼だが、オリヴァーがそういった意味合いで人を・・・女性を愛する事はないと、無意識のうちに思っていたのですよ。彼は常に独りでいた・・・傍らに双子の兄がいても、彼は独りで居るように見えることがあった・・・その兄が亡くなった以上、これからもそうだと誰もが思っていました。
 もしも彼が結婚をするときは、きっと義務的なものだろうと」
 むっつりとした顔で挨拶を受けているナルに視線を向けて、サー・ドリーは一人言のように呟く。
 麻衣は一言も口を挟まなかった。
 サー・ドリーが話しかけているというよりも、独白に近いものに感じたからだ。
 麻衣はただ黙って彼の言葉を聞く。同じようにナルを見ながら。
「貴方もご存じだと思いますが、オリヴァーは幸せとは言い切れない人生を今まで歩んで来ました。
 ディビス家に引き取られるまで、彼は双子の兄であるユージン以外の愛情を受けた事はなかった。
 世界を探せばそのような人間は山のように居るでしょう・・・イギリスでも孤児は数えきれません。我々の想像も出来ないような世界で生きている子供もたくさんいるでしょう。
 そんな彼らと比べてしまえば、双子は幸運だといえるかもしれません。
 開けるはずの無かった未来が、開けたのですから。
 だが、養い親に恵まれ、才能を開花させ目指す道を見つけようとも、彼はそれまでと同様に何も変わらなかった。能力ゆえに心を閉ざし、兄の存在ですら時折疎ましく思っていた節がありました。常に一人を望み、研究に明け暮れる日々。とても、十代の遊びたい盛りの少年の行動とは思えなかった・・・」
 サー・ドリーは懐かしむように目を細めながら、ゆっくりと英語を紡いでいく。
「私は、彼の才能に夢を見ている人間の一人です。
 この、確立が難しいといわれる学問を、彼なら確立できるのではないだろうか。
 皆が彼に夢を視ている・・・・孫のように・・・それ以上に若い幼い・・・子供ともまだ言える年頃の少年にかけ、彼はまたそれを何の苦もなく斬新なまでに取り掛かってきました。
 まだ十代半ばにしか過ぎないというのに、たぐいまれな才能を秘めた少年は、我々の期待に応えてくれた。そして、我々はますます夢を視ていく。
 もしかしたら・・・・というはてなき思い。
 私が息果てる前に、科学的な解明がされる日が来るのではないかという、終わることのない研究者としての甘美な夢です。
 年若き少年研究者と、希有なる能力を持った双子の兄弟に視た夢です。
 その夢は、彼の片割れがこの世を去るまで覚める日は来ませんでした。
 私は、ユージンの葬儀の後にふと思ったのですよ。
 自分がしたことは間違いだったかもしれないと・・・・彼に研究というものをさせるのはまだ早かったのではないだろうかと。
 人として当たり前のように持っている、心の機敏というものが欠けた、まるでロボットのような少年をみて、私は後悔する時がありました。
 果たして彼に、人としての幸せがくるのだろうかと不安になったこともあります。
 彼が唯一心を開いたといえる片割れを日本で亡くした後は、オリヴァーは人としての幸せからますます遠のいたと思えました。ますます、研究にのめりこみそれだけの一生になるのではないかと。
 もちろん、それが悪いわけではない。
 研究者には多々して世捨て人同然のような生活をするものが大勢いる。
 だが、私は彼にはそのような人生は歩んで欲しくなかった。
 人として豊かに生きてこそ、見えてくることもあるであろう・・・・・人として欠けているものがある者は成功を収めたとしても何かが欠けている物だと、私は思うのですよ。
 オリヴァーにはそれがずっとかけていると思っていましたが、日本で変わった。
 彼は幸せを掴むことが出来たと思ってよいのでしょう? ミズ・タニヤマ」
 穏やかな笑顔を浮かべてサー・ドリーはナルに向けていた視線を麻衣に移す。
 孫の結婚を喜ぶ祖父のように、彼は顔を笑顔で崩していた。
「皆さん・・・・変わったとおっしゃいますけれど、私にはナルは何も変わっていないと思います」
 口々に、ナルは変わったとイギリス時代しか知らない人間は言った。
 いや、まどかやルエラですらナルはすごい変貌をしたといっていたが、麻衣はナルは何も変わっていないように思う。
 もちろん、麻衣が知っているナルは日本での姿だけだ。
 ジーンがその傍らにいたころのナルを麻衣は知らない・・・・だが、例え知っていたとしてもはっきりとナルは変わっていないだろうと言えるだろう。
 人格が確立されすでに十代の半ばに達していた人間が、ちょっとやそっとで変わるはずがない。
 まして、ナルのようにプライドが高く誰よりも己をはっきりと持った人間が、そう簡単に周りから影響を受けるとは思えない。
「私達・・・・日本にいる皆もそうですが、ナルの正体を知ったのは出会って一年半後・・・・ジーンの遺体が見つかった時なんです。それまで、誰もナルのことを知りませんでした。
 だけど、私達ずっとナルって呼んでいたんですよ。オリヴァーの愛称ではなくて、私がつけたあだ名から来た言葉だったんですけど」
「あだ名?」
「はい。ナルシストのナルちゃんから来ているんです。実は」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 一瞬の沈黙の後、サー・ドリーは爆笑をした。
 その声は思いのほか響いたのだろう。
 周囲にいた人たちが驚いたようにこちらに視線を向け、興味深げに眺めているが、麻衣とサー・ドリーの傍には近寄らず遠くから興味深げに視線をよこしているままだった。
「なるほど・・・・ナルシストか、すばらさいいネーミングだ」
 涙を浮かべながら笑っているところを見ると、サー・ドリーもナルのナルシスト振りを知っているのだろう。
「ずっと、そう呼んでました。
 だから、実はこの世界で有名なオリヴァー・ディビス博士でした。と聞いてもぴんとこなくて、彼はナルシストのナルちゃんのままなんです。
 どんなに、偉そうでも、自信家でも、自尊心が高くて、マッドサイエンティストで、唯我独尊でわが道をひたすら走っていっちゃうような性格でも、有名な博士だからじゃなくて、ナルシストだからなんです。
 それだけで、皆納得しちゃうんです。
 彼の言うことを信用するのもその指示に従うのも、ナルが有名な博士だからではなくて、それまで調査を共にしてきて、信用できるからなんです。ものすごく厳しいし辛辣だし容赦ないし妥協をいっさい許さない人だけど、だからこそ危険なことも信用して一緒に潜り抜けてきました。
 自分達が実際に見て、経験したことだけが信用できる唯一の秤だったんです。
 それには彼の正体なんて関係なかったんです。誰も、ナルのことを有名な博士だから・・・将来有望な人間だからって言うだけで信用していたわけじゃないんです。
 年長の皆なんて、ナルのことを子供扱いですよ? 一回りも違うリンさんから見れば、ナルは世話と手がかかる上司らしいです。
 ある程度なれちゃえば、行動パターンは読めるし、無表情だけど機嫌がいいか悪いかはすぐに判るし。ある意味ナルって隠し事が下手なのかもしれないって言う人もいるぐらいです。
 出会って一年半、私達はただの渋谷和也・・・・バックグラウンドを何も持たない、オリヴァー・ディビスを見てきました。
 その後も、ずっと彼と一緒に仕事を共にしてきました。だけど、今と何も変わらないと私は思うんです・・・・・・私の言いたいこと、判りますか?」
 自分で何を言いたいのか、しゃべっているうちに判らなくなり、困ったような顔で麻衣はサー・ドリーを見るが彼はなにか考え深げな表情で、麻衣の話を聞いていた。
「我々は、曇ったレンズ越しにしか彼を見ていなかったということかな・・・・確かにそうかもしれない。我々は、誰も素の彼を見ようとはしなかった」
「だから、ナルも仕事として割り切った態度しか取らなかったんだと思います。もともと、積極的に自分から人と関わろうとはしない人ですから。だけどもう少し、深く入れば今の彼を見ても変わっていないと私は思います・・・・すみません、何かすごく偉そうなこと言っちゃってますよね」
「そんな事はないよ。
 ミス・タニヤマのような女性がいて、オリヴァーは幸せだ。
 きっと、貴女となら彼も平凡で当たり前と言えるような家庭をもてるだろうと、私も思います。
 不肖な弟子ですが、どうか彼と共に幸せになってください」
 サー・ドリーは本心からナルのことを心配していたのだろう。
 だから、こうしてナルが選んだ人間がどんな人間かを探るために、高齢のため隠居生活をしているというのに、わざわざこんな大規模な園遊会を開き、自分達を招いたのだと麻衣は思った。
 ナルを幸せにしてくれという一方的な言葉ではなく、二人で幸せになって欲しいといってくれた、サー・ドリーに麻衣は満面な笑顔で応えたのだった。
「おや・・・・珍しい客が、珍しいことをしているな」
 その後しばらくの間、麻衣に日本でのナルのことを聞いていたサー・ドリーはふと眉をひそめる。
 それにつられて麻衣も視線をずらすと、ナルの元にひとりの壮年の紳士が声をかけていた。
 その瞬間、周りのざわめきが一気になくなり、静まり返る。
 なぜ、周りがこれほどまでに静まり返り・・・・息を呑んで行方を見守っているのか、麻衣にはわからなかった。
「ご婚約、おめでとう。ディビス博士」
 にこやかな笑顔を浮かべて壮年の紳士はナルにそう告げたが、ナルは無表情のまま彼を見下ろし軽く頭を下げる。それは、今まで繰り返してきた挨拶と何一つ変わらないというのに、辺りを覆う空気が痛いくらいにピンと張り詰めているように感じる。
「我が家でも博士のご婚約を祝したく思い、パーティーを開こうかと思っているのですが、招待に応じていただけますかな?」
 今までに何度も聞いてきた招待の言葉に過ぎないというのに、このときばかりはどよめきが生まれる。
「ご婚約者のレディーもぜひ我が城に滞在していただきたいと思っているのですよ」
 ナルを見ていた視線がゆっくりと自分自身を視た瞬間、思わず麻衣は息を呑む。
 にこやかな笑顔を浮かべ、優しげな声を出しているというのに、そこから感じるのはあからさまなまでに自分に向けられる嫌悪の感情だ。
 笑顔の表情は仮面にしか過ぎない。
 ナルの作り笑いを見慣れている麻衣から見れば、その壮年の紳士が浮かべた笑顔は出来の悪い仮面のようにしか映らなかった。
 麻衣が引きつった笑顔を浮かべ、何か言おうと口を開くよりも先に、ナルが口を開く。
「ありがたいお申し出ですが、日本に戻るまでもう日もありませんし、連日の慣れないパーティーで、彼女の体調が思わしくありませんので、申し訳ありませんが辞退させていただきたいと思っています」
 当たり障りのないようにナルが断りの言葉を口にするが、壮年の紳士は「そういわずに」といって中々引こうとしない。
 この園遊会でも何人かに誘われたようだが、ナルは皆その言葉でこれ以上の申し出は受け入れる気はないと、一切遮断をしていたのだが、相手の紳士は構う様子がなかった。
「今までの禍根を忘れるつもりで、ぜひ受け入れて欲しいのですよ」
 二人の間で何かいさかいでもあったのだろうか? 事情を聞きたくても今の様子では聞ける様子ではない。
 それに、壮年の紳士は禍根というが、果たしてナルはそれを禍根と思っているのだろうか? 煩わしそうな様子のナルに、麻衣は最後の最後で忍耐が切れるのだろうかと、冷や汗を浮かべながら二人の様子を眺めることしか出来なかった。
「ぜひ、いらしてください。貴方のお力をぜひとも借りたいことが起きましてね」
 相変わらずの能面笑顔に対し、ナルの眉がひそめられる。
 よほど、壮年の紳士が言った言葉がカンに触ったのか、それとも意外すぎたのか。
 どちらなのかは今の麻衣には判断つかない。
 ただ、その言葉に今まで以上に周囲がどよめいたのがわかっただけだ。
「一体同意風の吹き回しかしら? あの伯爵が、博士に声をかけるなんて・・・・・」
「あの、大の有色人種嫌いが珍しいこともあったものだ」
 潜められた言葉に麻衣は思わず聞き耳を立てる。
 イギリスに来て知った事はたくさんあったが、その中でもある意味驚きを隠せなかったのが、ナルに対する態度の反応だ。
 SPR全ての人間が、ナルに対して友好的だとは思った事はない。味方も多いだろうがそれに比例して・・・いや、それ以上に敵も多いのだろうという事は予想できたが、それは、ナルの性格から出来てしまう敵や、有能すぎる人間に対するやっかみなどから来るものだろうと思っていたのだが、それだけではなかった。
 ナルが有色人種の血を持っているからという理由だけで、毛嫌いしている人間もいるということを始めて知ったのだ。
 日本にいて肌の白さが際立つとか、顔の造作が整いすぎるとか日本人にしてはスタイルがよすぎるとかイロイロな面で浮いていたとしても、誰もナルが白人の血を引いているとは簡単には想像つかないだろう。
 麻衣自身ナルが日本人であることを、最後まで疑わなかった。
 見方を変えれば白人の中にいると、日本人の血が目立つということである。
 黄色人種として色は薄くても、純粋に白人の中で見れば、確かに東洋人としての色合いがナルは濃すぎるのだ
 SPRの上部組織となれば、そのほとんどが白人種で占められる。
 中には有色人種を毛嫌いし、たとえハーフだろうとも有色人種の血を引く人間がいるグループには出資をしないと言い張る人間もいるという話を聞いた。そういう人間から見ればナルも有色人種になり、嫌悪の対象となるというのだ。
 たまたま、パーティーに出席する人間にはほとんどそこまで露骨な人間はいないが、生粋の日本人である麻衣に対しては、態度が冷たく露骨な人間も多くいた。
 だが、それはあくまでも自分が日本人だからだと思っていたのだが、どうやら、ナルの目の前にいる人物は、有色人種排他的主義者の筆頭のようだ。
 だが、なぜ有色人種を毛嫌いしているのに、わざわざナルに声をかけているのだろうか?
「我がSPRの期待の星として誉れ高い、博士にぜひとも我が城を調査して欲しいのですよ。
 博士の調査内容によって、私は博士の調査チームにも出資しても構わないと思っているんですよ」
 どこまでも高飛車な態度。
 自分の依頼をけして相手が断るとは思ってもいないということが、その高圧的な態度で充分にわかる。
「調べて欲しいと伯爵はおっしゃいますが、どのようなことが起きているか何も判らず、受ける事は出来ません。
 それに、生憎ですが僕のチームのメンバーは日本におり、人手が足りない上に、日本に戻る予定もすでにたっています。
 調査をご希望でしたら、イギリスにいるほかのチームに依頼されたほうがよろしいでしょう」
 ナルにしては温和な断り文句だが、断られると思ってもいなかった壮年の紳士から見れば、言語道断の態度なのだろう。一瞬怒りに我をなくしたのか、表情を変えたがさすが、現代まで続いている伯爵家だけあってとっさに、元の能面笑顔で一瞬のどきを覆い隠す。
「日本に戻るのは伸ばせば済むだけでしょう。メンバーが足りないというならばイギリスで補充すればいいことだ。でなければ、日本から貴方の手足となって働く人間でも呼び寄せればいい。
 その費用はむろん私が負担しよう。
 私は貴方に依頼をしているんだ。否というならば致し方ない。私はSPRから全面撤退をしよう」
 それでは依頼という名の命令になっている。
 さらに追い討ちを掛けるような言葉に、ナルは微かに表情を厳しくし、周りがざわめき始める。
 この人物は、どうやらSPRとしても無視できない人物のようだ。一体どのぐらい影響力のある人間なのか知らないが、それは周りの様子を見ていれば判る。
「アッシュクラフト伯爵。何もそう返事を急いで聞く事はないだろう」
 このままナルに任せていたら、アッシュクラフト伯爵と呼ばれた紳士の怒りを煽るだけ煽って、最悪の事態を招きかねない。それを悟っているサー・ドリーが仲介をするかのようにここで漸く口を開いた。
「オリヴァーもどのような事件が起きているのか判らなければ、調査に行こうにも準備にとまどるだろう。
 どれ、場所を変えて落ち着いて話をしないか?」
 SPRの重鎮であるサー・ドリーの言葉をそう簡単に無視するわけにもいかず、しぶしぶといった感じではあるが、アッシュクラフト伯爵は了承の意味をかねてうなずき返す。
「オリヴァーも話を聞くぐらいはいいだろ? それで、興味を覚えたのなら引き受ければいい」
 けして調査を強制してはいないが、頭ごなしに断るなと言っているサー・ドリーにこれまた渋々と言った感じで、溜息を一つ漏らすナルだった。


 


 
 
 




 
 
 Go to next→