誰が為に啼く鐘








 空気が重いように感じられた。
 想像していたよりもはるかに食事は和やかに進んでいると言うのに、表現できない重さがあると感じたのだ。まるで、濃度の濃いジェル状のものを無理矢理飲み込んでしまったかのような圧迫感を喉の奥に感じる。
 厚い壁に囲まれ外の音が一切聞こえてこない室内では、唯一の音はフォークやナイフの使う音、華やかだがけして耳障りに鳴らない程度の大きさの話し声のみ。ときおり部屋中に灯されている蝋燭の炎が揺らめくのは、銃眼から風が流れ込んでいるために空気がつねに対流しているからだろう。
 炎の揺れに伴って、壁に映る影も躍る。
 細く長く伸びた影はまるで、人の皮を被った魔物の姿が映し出されたかのように、奇怪な形でもって壁に映り揺れている。まるで、それが人の本性だと言われているように思えてしまう・・・・






 表面上は穏やかに楽しげに見えても、一皮を剥けば・・・・・・・







 ふと、ナルは何気なく動きを止めて傍らに座る麻衣へと視線を転じる。
 いつもは騒々しいぐらいによくしゃべり、依頼人ともすぐに打ち解ける麻衣が、内心どう思っているかは別として楽しげに会話が弾んでいるのに、一人大人しくしているタイプではない。率先して会話に参加し、場を自然と和ませると言うのに、簡単な挨拶の後は愛想笑いを浮かべる程度で黙している。
 そればかりではなく、麻衣はあまり食欲がないようだというのがすぐに判った。
 初めの前菜、スープは普通に胃に収めていたのだが、肉料理へとなったときからほとんどフォークとナイフが動かなくなり、かすかに溜息を時折漏らしている。
「麻衣?」
 ナルが小声で声をかけると麻衣は軽く首をかしげながらナルを見上げる。
 なぜ、ナルが自分を呼んだのか判っていないのだろう。
 なに?とといたげな視線を寄越してくる。
 『何じゃない』といいかけたが、隣からかけられた声にナルは口を閉ざす。
「レディーのお口には合いませんでしたか?」
 ナルが麻衣を呼んだ声が聞こえたのだろう。
 楽しげにミラーや綾子と会話を交わしていたブラットが、麻衣へと視線を転じて問いかける。
 麻衣は慌てて笑顔を浮かべながら、とても美味しいと言うのだが、一向にフォークは進まない。
 場の雰囲気を壊すのはまずいと思ったのだろう。
 すぐに一口は口に入れるのだが、二口以降は止まってしまったのだ。
「ご気分でも優れませんか?」
 令嬢が遠慮がちに問いかける。
「いえ、そんな事はないんですけれど・・・・・」
 麻衣はなんと言えばいいのか困ってしまい、言葉を詰まらせてしまう。
 まさか、ここの空気が重く感じて、まるで喉に何かが詰まっているような、胃がずっしりと重いような不快感があって食欲が湧かないとは、当人たちを目の前にして言えない。
 ちらり・・・ちらり・・・・と救いを求めるように自分を見る麻衣に、ナルは軽く息をつくと伯爵のほうへと視線を向ける。
「どうやら、長旅で気分が優れないようなので、麻衣を下がらせても構いませんか?」
 言葉は招待主である伯爵に伺うような形を取っているが、口調は断定していた。
 伯爵は一瞬目を細めたが、すぐに麻衣の様子を気遣うような気配を伺わせる。
「こちらこそ気が付かず無理をさせてしまったようだ。
 イギリスからの強行軍でお疲れであろう。
 今宵はゆっくりと休まれるがいい」
 伯爵は壁際に控えていた老執事を呼ぶと何かを話しかける。
「浴場の準備もすでに整っているというから、長旅の疲れをいやすといい。
 入浴好きだといわれる日本人の皆さんにも、気にいってもらえるものと自信を持っていえる浴場だ」
 ヨーロッパの水事情の悪さは、数週間のイギリス滞在でいやと言うほど実感しており、さらにこのような人里離れた城で風呂に対する贅沢さなど期待できるわけがないのだが、伯爵は自信を持って薦めることが出来るといい、思わず綾子と麻衣は顔を合わせてしまう。
「お言葉に甘えて失礼させていただきましょう。
 僕も仕事に戻りたいと思いますので、先に退出させていただきます」
 ナルは立ち上がるとリンに目配せをする。リンは意味がわかったのか軽く頷き返し、再び食事に戻る。
 綾子とジョンは自分たちはどうするべきだろうかと迷うが、リンが席を立たない以上慌ててこの場から離れる必要はないだろう。そもそも、まだ前菜やスープしか完食していないのだ。到底お腹が満足するほど食べたとは言い切れない。
 麻衣は途中で席を立っていいのかどうか迷ったようだが、ブラットが『お気になさらずに』とにこやかに言ってくれたため、ナルの後を追う様にダイニングを出て行く。
 一歩ダイニングから出るとそこにはあのロボットのような男はいなかった。
 誰もいる気配のない廊下に出ると、麻衣は大きく息をすって吐き出す。
「麻衣、気分が悪いなら早く言え」
 まるで、今まで息を止めていたかのように深呼吸をする麻衣にナルは呆れたような視線を向ける。
「いや、本当にそう言うんじゃないって。
 なんていえばいいのかなぁ・・・・・なんか、ずっと息が詰まるような感じが取れなくて。
 こう、喉になんか粘着質のものが絡まっているような不快感と言うのかな? それがなんだかあの部屋濃くって・・・・・食欲なんてないんだもん。ナルとかは気にならなかった?」
「いや、僕は別に何も感じなかったが?」
「う〜〜〜ん、こう人の心に対して繊細な私だからかな?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「ナル・・・・今、野生児がか?とか思わなかった?」
 黙り込んだナルをむっつりとした表情で見上げると、こ憎たらしいほど綺麗な笑みを浮かべる。
「おや、麻衣おめでとう。どうやら読心能力も発芽したようだな」
 いやみったらしい言葉に麻衣は子供のように頬を膨らませるが、ナルは相手にする様子もなくさっさと歩き出してしまう。
「具合が悪くないならちょうどいい、ベースに戻るからお茶を淹れてくれ」
 いつでもどこでも変わらない言葉に麻衣は「はぁ〜い」と気が抜けたような返事を返して、ナルと共にベースへと向かう。

























 一人イギリスに残った安原は、まどかの協力を得てアッシュクラフト伯爵の情報、城の概要や歴史、付近にある村についてや、あの地にまつわる伝説や伝承を初めとし、なぜあの城の鐘がならなくなったのか、過去に事件などがあったのかなど日本でしていることと変わらないことを捜索していく。
 安原は最初にSPRの資料室で情報を検索し始めた。
 伯爵は大手スポンサーとして名を連ねているのだ。伯爵に対する情報が掲載されていてもおかしくはない。めぼしいものは見つからなくても、新たにキーワードや、疑問点などが浮き上がってくるかもしれない.
 資料室内には謁見自由なものから上部の許可が必要なものまで、重要度に分かれておいてあるが、サー・ドリーの協力もあって本来ならば安原では読めない資料も出してもらい、必要なものをまとめていく。
 だが、特にこれといって安原の目を引くような情報は今の所入ってこない。
 伯爵に対する情報は他のスポンサーの情報に比べて恐ろしいほど少ないということはわかった。
 ファイルの厚みが違うのだ。
 ファイルには伯爵がいつ入会し、毎年いくらの資金を提供しているのかといったものから、略歴、プロフィールといったぐらいしか書かれていなかった。
 19**年に産まれ現在は57歳。20年ほど前に妻を出産で亡くし妻の忘れ形見でもあるたった一人娘が唯一の血縁者となるが、妻の弟の甥もともにドイツとオーストリアの国境にある《黒城》と呼ばれる城に1年近く前に移り住んだということが書かれている。
 《黒城》についてはほとんど記載されていない。ただ、12世紀に建てられた城を病んでいる娘と甥のために改築したということしか書かれていなかった。どんな外装をしているのか、謂れなどはまったくない。
「12世紀初頭と言うと、砦目的の城かな? 確かそのぐらいの時代から本格的な築城が始まったはずだったな。現代人が住むには不便極まりない城だと思うんだけど、なんで伯爵はそんな不便な城をわざわざ改築してまで手に入れたんだ?」
 病んでいる娘と甥の為とはコメントとして書かれているが、どのような病を患っているのかまでは書かれていない。病人には静かで空気のいいところは必要不可欠だが、イギリス国内にも充分に静養地となりえる場所はあるし、外国がいいのならばもちろんドイツにも静養地として滞在するにはいい場所もある。だが、なぜドイツとオーストリアの国境付近の険しい山脈にある、朽ち果てた城を選んだのか謎だ。
 もしも様態が急変したとしても設備の整った病院へ運び込むのが困難だ。
 そういった点は考慮されていないのだろうか?
 安原はメモに次々と疑問点を書いて行く。
 資料としてたいして役に立たないものでも、今後の調査方針には充分に役立つ。
 伯爵家としての歴史は恐ろしいほど短い。おそらく他の爵位を持つ歴史ある貴族から見ればごく最近といっても言いぐらいだ。およそ90年ほど前…20世紀初頭に当時のイギリス王から授かったという。
 爵位を授かった理由は商いに成功し長年にわたってイギリスに利益をもたらせた功績を認めてとのことだ。単純に言ってしまえば爵位を金で買ったと言うことだろう。家自体は今から350年ほど前から続き、代々商いをして成功を収めていたと言う。
 財は莫大なものに上り、貴族とは名ばかりとなったものから、城を借金のかたに譲り受け、城持ちとなるぐらいである。
 貴族としての歴史は短いが家自体の歴史は長い。
 気になる点すらほとんど見つからないと言ってもいい。SPRの資料ではこれ以上のことは判らなかった。もともと期待しているわけではなかったので充分である。そもそもスポンサーの不利になるような情報が記載されているわけが無い。
 まして、ここはただの学術研究所だ。スポンサーになるのに念入りに身上調査をするわけがないのだから。
 安原はこの中からいくつか気になる点を見つけ出すと、図書館へと調査の場所を広げた。


















 ダイニングから綾子達が戻ってきたのは麻衣とナルが席を離れて一時間近くがたったころだ。ナルは一人用のソファーに座って書類のようなものに目を通しており、麻衣は長椅子に横になって眠っている。
 胎児の様に身体を丸めて眠っている彼女には、黒い上着がかけられていた。いくら暖炉が灯り暖かくなっているとはいえ、眠るとなるとやはり冷えるため、自分が着ていた上着を麻衣にかけたのだろう。
「何か?」
 麻衣を見ている綾子に対し、ナルは書類に没頭していたのだが気配を察したのだろう。ちらり…と綾子に視線を向けて問い掛ける。
「べ〜つに」
 からかうような笑みを浮かべながらも、綾子は何も言わず麻衣に近づくと気持ちよさそうに眠っている麻衣を起こす。
「麻衣、寝るなら部屋で寝ないと風邪ひくわよ…麻衣」
 気持ち良さげに寝ていたが熟睡はしていなかったのだろう。すぐに目を覚ましゆっくりと身体を起こして重たげな瞼をこする。そのしぐさはほとんど子供の様で、思わずあんたとしいくつよ?と綾子でさえも言いたくなるほどだった。
「寝るなら部屋で寝なさい」
「う〜〜〜ん、お風呂入ってから寝る〜〜〜」
 んーと伸びをして頬をパチパチと叩くと麻衣は肩にかかっていた上着を持ってナルに返す。
「ありがとう。私お風呂入ってくるね」
「今日はそのまま休んでも構わない。調査は明日から始める。起きたらベースに来るように。
 ジョン悪いが各部屋を念の為清めていておいて欲しい」
「はいです」
「お札はどーする?」
 いつもは滝川とリンの結界に綾子がお札を書き何重にも結界を引くのだが、このキリスト教圏の土地でどれだけ神道や密教、道教などといった異教の結界が役に立つのかわからないため、綾子はナルに意見を仰ぐ。
「通用するかどうかはわかりませんが、松崎さんのほうもお願いいたします。用心しておくにこしたことはないでしょう」
「オッケイ。お風呂入る前にあたしのほうはやっておくわ。ジョンはあたし達がお風呂に入っている間に部屋の結界頼んでいい?」
「僕はええのですが、お二人がお留守中、部屋入ってもかまへんでしょーか?」
 やはり、女性の部屋に主不在中入るのは大変気が引けるのだ。
「構わないわよ」
「気にしなくていいよ」
「判りもうした。お部屋のほう入らせていただきます」
「お願いね、麻衣さっさとしたくしていこう」
「うん、じゃぁそのまま寝るから、お休みなさーい」
 移動時間が長かったから動いていない割に疲れているのだろう。麻衣は再びあくびを漏らしながら綾子と共に出て行く。
















 綾子のお札をドアと四方の壁に貼ると、入浴の支度をして綾子と共に地下1階にある浴室へと移動をする。
 伯爵は自慢だと言っていたが、浴室に入るなり確かに自慢したい気持ちが良くわかった。
 ゆったりとした広いスペースの洗い場、5人ぐらい手足を伸ばして悠々と入れるほどの広さを持った浴槽にはなみなみと湯が注がれバラの花びらまでが浮かんでいる。匂いをきつく感じさせないほどの甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「素敵じゃない」
 大理石の床と浴槽はピカピカに磨き上げられており、まるで鏡の様だ。そして、ここにも電力は通っていないのだろう。壁中に燭台がかけられ蝋燭の炎が揺らめいている。橙色の明かりが壁や床に反射し、浴室全体がぽうぅ〜と光り輝いている様に見える。
「素敵じゃない。地下にあるというから期待なんてぜんぜんしていなかったけれど、下手なホテルなんかよりよっぽどいいわ」
 綾子は浮かれたような口調が反響し響き渡り、最初に身体を洗うとさっさとお風呂に使ってしまう。
 その後をやや重い足取りで続きお湯にゆっくりと浸かる。
 綾子が上機嫌に対し麻衣は疲れた様子だ。暖かな湯に身体を浸した瞬間、手足を伸ばして深く息を吐き浴槽のふちに頭をもたれさせすぐに目を閉じてしまう。
「なーに、麻衣あんた眠いだけじゃなくてもう疲れているの? 今日なんて何もしてないじゃない」
 麻衣とは向かい合う形で使っている綾子は麻衣の様子に呆れた様に言う。
 ほんの数時間前まではやれ、長旅で疲れただの、少しはゆっくりさせろだの、ブツブツと小言を言っていた人間が言っているとは思えない。
 頬が赤く上気しているのはお湯に浸かっているだけではないだろう。
「綾子だって疲れたって言っていたでしょ」
「あら、あたしそんなこといった?」
 やたらと上機嫌になったのは、伯爵の甥であるブラット・アインリッヒ・エルンスタインが現れてからだ。
 ナルとはまた違った類の美貌を持った青年に、綾子はすっかりと機嫌を取り戻しているのだ。現金極まりない性格だが、初めてナルと会った時のことを思い出すと充分に納得できる態度の変化だが。
「なによ、文句ある?」
「私は無いけどさ……でも……・」
「でも?」
 何か言いたげな様子だが麻衣は軽く首を振って何でもないとつげる。
「何よ、気になるわね」
「本当なんでもないよ…私先上がるね…本当眠いや」
 麻衣は綾子の質問攻撃から逃れる様に立ちあがると、さっさと浴室を出ていってしまう。ゆっくり浸かるも何もまだ入ってから5分やそこらしか経っていない。調査中になればゆっくりと入ってなどいられなくなるのだ。せめて今夜ぐらい堪能したいというのに、麻衣は振り返りもせず出て行く。
「変な子ね」
 いつもとちょっと様子の違う麻衣に綾子は首を傾げるが、慣れない生活の後の異国の調査なのだ。いくら体力に自信ある麻衣でも疲れているのだろうと納得すると、のんびりと手足を伸ばして、広い浴室を一人占めで切る贅沢を満喫していたのだった。
 
















 一人先に出てきた麻衣はジーパンとセーターに着替えると部屋に戻ろうかと思ったが、ナル達にお茶ぐらい淹れてから戻ろうと思い、一度ベースへと戻るべく薄暗い廊下を歩いて行く。
 運動靴の為ヒールの音が響き渡ると言うことは無いが、ヒタヒタと冷たい音がこだます。
 厚い壁のため外の音、上下の音が一切聞こえない。
 等間隔に並ぶ蝋燭がゆらゆらとゆれ、長く伸びた影を奇怪な形に歪めてゆく………
 まるで、あざ笑うかのように、歪んだ影が動く。
 自分の動きに合わせて………




 どこまでも、どこまでも付きまとう。




 その影の背後にはまるで影に付き従うかのように闇がひっそりと佇んでいる。
 重く地の底に凝るような闇。
 深く濃く蠢く音さえも聞こえてきそうな気がしてしまうほど、ここの闇は濃いと思った。
 電灯の明かりになれた生活をし、本当の暗闇というものを知らないから思うのだろうか?
 ここには闇を払拭し、不安を拭い去ってくれる明かりはない。
 そのことに知らずうちに萎縮しているのだろうか?


 ただ、初めはあいまいだったものが徐々に形作ってきているような気が、漠然とだがしたのだ。










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