誰が為に啼く鐘








 安原は報告書を一度メールでナルたちの下に送った後、まどかに見送られてイギリスからドイツへと旅立った。
 ここをでるのはナルたちに遅れること二日だ。イギリスに滞在中出来る限り伯爵の持つ城について調べようとしたのだが、結果は想像よりも芳しくない。
 そもそも、件の城の異名はかろうじて判ったが、その謂れともなると全くのお手上げ状態と言っていい。話を聞いた氏もただ昔からそう言われているということしか知らなかった。いつの時代からそう呼ばれてきたのか、そう呼ばれるような事件があったのか、全くといいほど伝わってないのだ。
 あの城が築城をされたと思うのは、およそ12世紀初頭。
 この時代の城は豪華絢爛な権力の象徴という形ではなく、実益を重視した城だ。
 そのため作りはいたって質素であり、生活に適したものではない。
 中世初期の城とは木造で膨大な数の丸太を積み上げられて作られた塔のみの建物であり、一階部分は食料の倉庫として使用され、二階部分が居城、篭城のための空間に当てはめられ、城主もその家族、従士達すべてが一部屋で生活していたと言う。
 石造りの城が作られ始めたのは10世紀に入ってからだというが、本格的な石造りの城は12世紀に入ってからになるため、件の城は石造りの城としては半ばに位置するのだろう。
 書物をめくりながら当時の生活ぶりを推察すると、到底考えられないほどその環境は劣悪だ。
 外観から見ればどれほど広くても、壁の厚さがメートル単位で築かれた城だ。必然的に内部は狭くなってしまう。
 防護を目的として作られたのだから仕方ないのかもしれないが、そのため窓も恐ろしく小さい。
 気候の変化の激しいヨーロッパでは特に冬の寒さは過酷であり、少しでも寒さをしのぐためにタペストーリーが壁に飾られるようになった。
 床にはわらを敷き詰め絨毯のかわりにしていたと言うが、窓も小さく通気が悪いのだ。湿度は自ずと高くなり、その結果藁は湿り、蚤やダニの温床となっただろう・・・・・・
 現代人が到底住める環境ではない。
 現在は伯爵が人が快適に少しでも住めるように大改築を行ったと言うが、この何百年の間に何度も手が入ったのだろう。各階はかなり昔に区切られ個室スペースが作られてはいたと言うのだから。もしかしたら、過去の城のあまりの劣悪な環境にまるまる潰して改築した城主もいるかもしれない。
 流し読み程度で書物を閉じると、安原はまだ見ぬ城の様子をどうしてもいいほうへとは考えられない。
 どう考えても病人の療養向きの建造物とは思えないのだ。
 いくら改築をしようとも、城をまるまる潰して建て直したわけではない。
 どう考慮をしたところで通気が良くなるものではない・・・・・・一体何を考えて伯爵はこの地を療養先として選んだのか?
 城にまつわる伝説というのも、氏に会った時に聞いて見たのだが心当たりはないと言う。
 名士とは言ってもほんの百年ほど前に商家からなりあがったに過ぎず、家の歴史はそれほど古いものではないため、近年のことならば判っても城にまつわる話は伝え聞いてはいないと言う。そもそも、件の城は長い間空家同然だったというのだ。
 実際どの程度空き家だったのかは知らないが、氏が子供のときからすでにあの城に住むものはなく、滅びるがままにされていたらしい。
 わざわざ幾人もの建築家や工事関係者を大金を使って集め、城を改築し人が住めるような環境を整えたと言うのだから、一時あの地方では話題を呼んだと言う。
 あの城が「シュワルツ・グラープ・フェスタング」・・・・「黒い墓の砦」というとおり名で呼ばれている事は、伯爵とて知っているはずだ。まさか、そんなことも知らないで購入したとはとても思えない。とてもではないが縁起の言い名前と思えない砦を療養地として選ぶとは思えないのだが、伯爵はそういうことを気にしないほうなのだろうか?
 もともと、そう言う事は気にしないたちなのだろうか?代々引き継いできた城でなければ、詳しく謂れを調べようとしないかぎり、古い城の舞台背景などわかるものではない。
 これが有名な城ならば簡単に調べられるだろう。それぞれの時代に歴史的価値が見出され、人々の権力の象徴と言う形で歴史の表舞台に出ていたであろうから。
 だが、この城が歴史上舞台に出た事はほとんどないようだ。地方都市の地方領主の守りの砦・・・・・といった、ある意味ヨーロッパでははいて捨てるほどある古い城の一つである。当然怪談話の一つや二つあってもおかしくはないというのが、自分だけではなくヨーロッパ人の見解になるだろうと、笑いながら語ってくれた。
 ただ、氏が言うには事件と言う事件ではないがあの近辺・・・・・というか森付近では、時折人間の死体が見つかることがあるというが、そこに事件性はないだろうと言うのが当局が出した見解だと言う話だ。
 いくつか新聞をコピーしたのを眺める。
 ドイツ語のため読解に時間が掛かったが、辞書を片手に何とか翻訳する。
 記事として乗っていたのはここ50年ほどの間のことだ。
 数年に数人の割合で森で確かに死体が発見されている。
 50年の間に発見された死体の数は、およそ16体。そのうち12体が女性で4体が男性。身元は不明人が5名で11名が近隣の村や街の住人だと言う。
 死因は多数の野犬に襲われた模様と書かれていた。
 緑深い森に囲まれたあの地域には、把握しきれないほどの野犬が群れをなしてたむろしていると言う。時には人家まででて人を襲うと言うのだから、村や町からはずれ森の中に入れば遭遇率は非常に高くなるのだろう。
 この数が果たして異常なのか、それとも問題視する必要のない数なのか、判断基準がないため安原には決められない。
 だが、今回の記述で目を引いたのはその数ではなく、襲った野犬たちにあった。
 死体を解剖した結果わかったことだが、過半数が「狂犬病」に感染した犬達に襲われていると言うのだ。
 安原はこの記述を見たとき、思わず眉をしかめてしまった。
 問題となっている城は人里はなれた森の奥深くに孤立するように立てられた城だ。辺りは野犬などたむろしていると言う。
「あの辺りは野犬など多く非常に危険です。
 特に狂犬病に犯された野犬やそのほかの動物達がいると思います。
 危険ですからむやみに野生の動物には近づかない方がいいですよ」
 氏は別れ際親切にそう忠告してくれたのだ。
 彼らにとっては身近な危険だが、狂犬病が絶えて久しい日本人である自分たちと、同じく狂犬病が絶滅しているイギリス人であるナルやリンもその危険性を失念していた・・・・・
 調査で森に入るときには充分注意するよう促さないと、危険な人がいるなぁ・・・・・・・・・
 あえて、誰とは言わないが・・・・・・・・・・・

















「狂犬病?」
 聴きなれない言葉に麻衣は思わず聞き返したあと、綾子とジョンを見て「知っている?」と聞き返してしまう。
 安原から送られてきた資料と共に、《狂犬病》にはくれぐれも注意が必要だと言うコメントが書かれていたと言う。麻衣は狂犬病と言う単語は聞いた事があるのだが、それがどんな病気なのか全くと言っていいほど知らない。
 確か、昔日本でもその病気に感染した犬がたくさんいたらしいが、数十年前に撲滅されていこう発祥例がないんだから、毎年犬の予防接種をする必要なんてないのになぁ・・・・と犬を飼っている友達が零していたのを聞いた事がある。
 確か、それだけはぜったいに予防接種をしないといけないんだとか何とか・・・・・言っていたがはっきりとは覚えていない。
「名前だけは知っているわよ。
 犬を飼ったら狂犬病の予防接種を受ける事は、法律で義務付けられているわね。
 あたしは犬とか動物を飼ってないから詳しくは知らないけど、ぼーずなら多少は知っているんじゃない? ネコ飼ってるんだから」
 犬が掛かる病気の話をしているのに、なぜネコを飼っているからと言って滝川がその病気のことを知っていると言うことになるのかが、判らない。
 それを言ってしまえば、なぜ自分たちまでもがその病気に掛かった犬のことを気をつけなければいけないのかも謎だ。
 見境なく動くものでも襲ってしまうようになるのだろうか?
「狂犬病ってネコもかかるの?・・・・っていうか、何で人が危険なの?」
 きょとんとした表情で誰ともなく聞き返すとナルが、あからさまに溜息をつく。
「なんだよう・・・・・」
「あまりの無知さに言葉が出ないんだ」
「無知って言うけどね! 狂犬病って犬がなる病気なんでしょ!? だから狂った犬の病気って書くんじゃないの!?」
「大声で喚かなくても聞こえる」
「麻衣さん、狂犬病ゆーのは犬がもっとも感受性が強いさかい、だからそう呼ばれるんちゃうでしょうか?
 確かこの病気は犬だけやなくて、狐や狼、ネコ、牛、蝙蝠、ハムスター、ウサギや馬、羊、山羊、人にも感染する恐ろしい病気やと聞いた事があります」
 麻衣を宥めるようにふんわりと柔らかな微笑を浮かべながら言うジョンに、麻衣はナルから視線をそちらに向けて今言われた動物の名前を指折りに数えていく。
 なんだか、とっても多くの動物の種類があげられたような気がするのだが・・・・・・・・
「って、そんなにいるの!?」
 哺乳類全てが感染するって言われた方が早いし、ぴんと来るような気がするのは気のせいだろうか。
 思わず叫び声をあげた麻衣を、ナルは睨みつけるが今の麻衣はまったく気が付かない。
「狂犬病は別名恐水病とも言われ、疾患した獣の唾液から咬傷によって感染する伝染病だ。ラブドウィルス科リッサウィルス属狂犬病ウィルス(RNA)による人畜共通伝染病の一つだ。
 麻衣のためにあえて言うが、人畜共通伝染病とは人間と動物が両方かかる病気のことを言う。
 最近有名なのが狂牛病だな。(※1)
 ニュースを見ない麻衣でも狂牛病ぐらいは聞いた事があるだろう」
「そこまで、バカにしないでくれる?ニュースですっごく騒いでいたし、一時期牛肉を食べるのが危険だからって、焼肉やさんとかいくと張り紙してあったりしたのみたもん。当店の牛肉は安全ですよって太鼓判押しているやつ。
 それにかかると脳みそがスポンジみたいにスカスカになっちゃうやつでしょ? 確か日本でもその病気にかかった牛が何頭か発見されて処分されたって聞いたよ」
 ニュースで知ったと言う感じはしないが、いかにも麻衣らしい。だが、興味のない人間から見ればそのような認識しかないだろう。
「牛海綿状脳症だ。そのぐらい覚えておけ。
 狂牛病も昔からあったが世界的に騒がれるようになったのは1996年の「狂牛病パニック」以降だが、狂犬病は4000年以上前にはすでに発症が確認されている。
 狂犬病は咬傷部から侵入したウィルスが、末梢局部の筋肉細胞で限局性に増殖し、付近の知覚神経末端に侵入、神経軸策内部を上行し、脊髄交感神経節に達する。
 発病したら最後、致死率はいまだに100パーセントだ。
 日本では1957年以降発祥例がないらしいな。唯一の例外は1970年にネパールで犬に噛まれた青年が帰国後発症し病死していると報告があるぐらいだ」

 なんでナルがそんなことに畑違いのことを詳しく知っているんだ?と思ったが、恐らくこのレポートに安原が調べて書いたのを覚えたのだろう。
 でなければ、自分に興味がないことには一ミクロンたりとも思考をや労力を避けるつもりはまったくないと、日ごろから物語っているナルが人畜共通伝染病たることを知っているわけがなく、また、安原が注意を促しておきながら、それがどんなものなのか全く調べないはずがなかった。
 が、そんな事ははっきり言ってしまえばどうでもいいことだった。
「ちょ・・・ちょっと、ナル何呑気に構えてんのよ! そんな怖い病気があるんだったら何か対策しないと危険じゃない!」
 すっかりとパニックを起こしてワタワタする麻衣を見、ナルは再度深く・・・・・まるで胸の奥から吐き出すかのように深く溜息をつく。
「僕達が調査をしているのは城であって、森じゃない。
 安原さんは森に出る時は充分に気をつけるように、注意を促してくれただけだ。特にお前のためだろう」
 確かに城の中にいれば野犬がそうそう入ってくる事はないだろう。免疫力が正常の人間より劣る、子供たちの為に伯爵は敷地内に動物の類をいっさい入れていないと言うのだから、城内にいる限り襲われる心配はほとんどないだろう。
 胸をなでおろし安堵の溜息をついたのだが、ふと麻衣は今の言葉に引っかかりを覚える。
「なんで、私のため?」
 きょとんとした顔で聞き返す麻衣に、ナルは軽く肩をすくめ、ジョンとリンはどこか困ったような表情をし、綾子一人だけが笑っている。
「知らぬが仏って言っておきたいところだけど、あんたの場合は言った方がこっちのためよね。言っても無駄かもしれないけど言わないともっと最悪な事態になりかねないし。
 あんた、何かあると見境なく飛び出すでしょ? それこそ自分の身の危険も省みずどこでもね。だから、安原君はわざわざ野犬には注意することを教えてくれたのよ。
 本当、親切よね・・・・あんたの性格をさすがに見抜いているわ」
 といってまたゲラゲラと笑い出す様子はとてもではないが、心配だから言っているものとは思えない。
 思わず頬を膨らませて憮然とする麻衣だが、誰も助け手を出さないところを見ると以下同文なのだろう。
「猿でも判るように言っておくが」
「猿は余計だい」
「その猿以下のことを常日頃からしだすのはどちらさまで?」
 こういうときナルに勝てる事は絶対にない。確かに過去色々と向こう見ずな行動をして、皆に迷惑をかけたり心配をかけたりしてきた。思い当たることは山ほどありすぎる。胸に手を当てて考える暇もないぐらいに、あの調査のときは・・・とか、この調査のときは・・・とか、そういえばアレもとかこれも・・・とか、嫌味の十や二重言われても反論が出来ないぐらいには、思い当たるふしがありすぎる。
 思わず追走してみると良くいつも無傷・・・とまでいかなくても大事にならず・・・・なっている時もあるけど、すんでいるよなぁ・・・としみじみ思ってしまう。
 どうやら、悪運だけは人一倍強いようだ。
 なんて、どうでもいいことに関心をしている場合ではない。
 ナルや安原ならいけしゃあしゃあとさも自分には非がないように言葉巧みに誘導していくだろうが、感情と理性が直結しすぐに表情に出てしまう麻衣では、くやしそうながらも惨敗のはたをすでにあげているのがわかる。
「症状は前期段階で沈うつ、不安、挙動不審、異嗜状態になり、中期で流涎、嚥下不能、攻撃的になり水を恐れる。もしも、狂犬病にかかった犬に対面したら余計な刺激は与えないことだ。
 一回や二回噛まれた程度では死なないし、すぐに発病もしない。これは潜伏期間が長いからな。
 末期症状は全身麻痺、衰弱して死に至る」
「致死率が100パーセントって噛まれたらもう助からないの?」
「いや、発病するまでに予防薬を摂取すれば助かる。が、あくまでも潜伏期間中にだ。発病してしまえば助かる可能性はない。
 潜伏期間は30日から60日ほどの間。
 日本やイギリスといった撲滅が確認されている国ならともかく、この地帯には狂犬病を発祥している犬がいるのが判っている。たとえ、どんな犬であろうとも噛まれた時はすぐに検査を受ける必要がある。
 あえて犬には近づくな。
 特に麻衣、可愛いからと言って無邪気に近づくなよ。ここまで言ってのこのこと近寄った挙句噛まれたりしたら、お前はまさに猿以下だ」
「だから、さっきから猿猿猿言うな!」
「なら、普段から信用に足りる思慮深い行動をとっていただけますか?」
 むきぃぃぃ〜〜〜と地団太を踏む麻衣を、バカにしたような目つきで見るナルに、綾子たちは呆れたように溜息をつく。
「本当、この二人って婚約をしようと結婚しようと変わらないわね」
「自然体でええと思うです」
 呆れたような表情の綾子に対し、ジョンはほのぼのとしていてええでおますなぁと呑気・・・もしくは豪胆にも言い放つ。
「二人っきりの時にしてくれるんならね。
 あたしには痴話げんかどころか、二人がいちゃこらしているようにしか見えないわ」
 サルとバカにしそれに反論するさまをいちゃこらしていると世間一般で言うのかどうか、ジョンにはわかりかねたが・・・・・・確かに、今の二人のやり取りを見ていると《犬も食わない》と言う言葉を思い出してしまう・・・・のは、仕方ないのかもしれない。
「ナル、データーの入力は終わりましたが、結果はばらばらですね」
 麻衣とナルの痴話げんかもどきは、リンの我関せずと言った言葉に中断される。麻衣はまだ言い足りないようだがナルはさすがに切り替えが早い。一言他の何を忘れても動物には近づくな。と強く言い放つとモニターへと身体の向きを変える。
 













(※1:この話を書いていた頃は、日本でも狂牛病が発生して大騒ぎだった頃だと思います)
(※2:確か2006年か2007年に一人、海外で噛まれて日本で発病した方がおりましたので、また年代が変わるはずですが、この話を書いた頃は1970年が最後でした)



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