誰が為に啼く鐘








 頬を切る風が冷たい。
 身体を支えるものは何もなく、重力にしたがって勢いよく落下するほんの僅かの時間、だがそれは何よりもかけがえのない時間であった。
 彼女にとっては。
 これで、やっと自由になれる・・・・・
 あの暗くじめじめとした狭い世界から、ようやく解き放たれるときが来たのだ。
 ようやく自由を得られる・・・・
 だけど、それは同時にすべての終わりでもあった。
 それでも構わなかった。
 人として生まれながら、人形としての生しか生きられないのならば、自由になれるのならその瞬間終わってもいいと。
 だが、心残りが在る。
 彼の存在が酷く心残りだった。
 とても、大切な人。
 とても愛しい人。
 なぜ、彼のことがこんなにも愛しく感じるのかわからない。
 親族としてしか接する機会がなかったというのに・・・・・けして、艶めいた会話を交わすことも、視線をまじあわせることもなかったというのに。なぜ、彼の事を思い出すだけで、これほどにも胸が高鳴り苦しくなるのだろうか。
 けして、思いを寄せることができなかったが、ただ彼の傍に居られて、彼と同じ空間にいられるだけで幸せを感じたひと時。
 誰にも悟られてはいけない、罪なる心・・・・
 あの、孤独な魂を残していくことは心残りであった。
 なぜこんなにも彼に心惹かれるのかはわからない。ただ、彼が生まれたその瞬間から確かに、表現できない感情が芽生えていたのは事実だ。
 姉のように母のように、娘のように・・・・彼に引かれた。
 なぜなのかは判らない・・・・判らないが、判らないままのほうがいいのだとなぜか、そう思えた。
 だが、この想いからも解き放たれるのだ。
 あの人の想いから自由になれる時、胸の奥に潜むこの想いも空に、大地に融け、消え行くだけなのだ。
 そのことが、酷く残念にならなかったが・・・・ようやく得ることの出来た自由の前に、仕方ないと思ってしまう。
 選んだのは、自分なのだから後悔はしない。







 頬を切り裂くような冷たい風を受けながら、すべてを閉ざすように瞼を下ろす。







 バキバキと枝が折れる音が響く。
 その瞬間全身に声も出ないほどの痛みが生じる。枝が柔らかな皮膚を切り裂き、骨が折れる音が聞こえるような気がした。それでも勢いよく落ちてきた身体を受け止めることは出来ず、華奢な身体は固い地面に叩きつけられる。
 鈍い衝撃が全身を襲う。
 自分の身体がどうなったのかなんてどうでもいい。
 ただ、誰かの慟哭が薄れ行く意識の中聞こえた。
 誰の声だろうか・・・・あの人の声だろうか。それとも・・・・・・・
 すべてからもう解放されたのだ。
 もう何も患うことなどない。
 このまま、深い眠りに意識をゆだねてしまえば、憂うことなど何もないのだ・・・・・
 ようやく得ることの出来た自由に彼女はほっと一息をつく。
 身体の内側から冷え行く中、暖かく感じたのは背中から溢れた血が全身を濡らしていくからだろうか・・・・・・・
 喉の奥から鮮血が溢れ出し、彼女の白い頬と唇を深紅に染め上げる。
 何も考えず、何もかも忘れ、眠りにつこうとした瞬間、かすかに何かが引っかかり、彼女は瞼をかすかに開く。とても瞼は重くて、開くことは困難だったが、それでも彼女は最後の力を振り絞って瞼を上げたのだった。
 掠れゆく視界の中映ったのは、自然が織り成す美しさだった。
 過去何度も見たことのある、宵闇のグラデーション。




 一瞬視界がぶれ、視界が暗闇に染まる。
 身体の感覚がすべて遠くなり、意識が深く暗い闇に沈んでいく。
 だが、次の瞬間全身を駆け抜けた鋭い痛みに、意識が再び浮上し、重い瞼をゆっくりと上げる。
 瞼を開けているのがこれほど辛いことだなんて今まで思ったこともなかった。
 だが、この景色を最後の最後まで見つめていたかった。






 濃紺と橙のグラデーションが空に広がるのを見上げながら、彼女は涙を一筋だけ零す。





 この光景を見たことがある。
 薄れ行く意識の中、遥か昔にも同じ景色を見たのだ。
 愛しい人の腕の抱かれて・・・・


 なぜ、やっと逢うことが出来たのに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・










 神よ・・・・・・・・・・・・・なぜ、今になって・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


















 誰かを求めるかのように伸ばされた腕は、ほんの僅かだけ動いたにしか過ぎず、彼女の双眸からは光がなくなり、永遠に動くことはなかった。



















 厳かに鐘が鳴り響く。
 空は暗鬱とした雲が太陽を隠し、冷たい霧雨を降らす。
 傘を刺そうとも、空気に含まれた湿気が、衣服を重く濡らし、不快感を助長させる。
 息をするのも重苦しく感じる中、鐘が重い音を立てる。


 旅立つ魂を見送るかのように?





 それとも・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・























 ディーン・・・ゴーン・・・・ディーン・・・・ゴーン







 厚い壁を通してかすかに聞こえる、低い音にナル達は顔を上げる。
 はっきりとは聞こえないが、確かに鐘の音が聞こえた。空耳ではないだろう、ベースに居たほかのメンバーたち、リン、ジョン、綾子も同時にハッとしたような表情になった。
「リン、城塔の映像は?」
 キーを操作し、モニターのすべてを鐘の下に設置したカメラの映像に切り変える。城内に設置されたカメラはまだ少ないが、鐘の下には一番最初にカメラを三台ほど設置した。ノーマルカメラ、暗視カメラ、サーモグラフィーの三台だ。だが、モニタには荒い粒子が映るだけで何も映らない。
 心霊現象が起きた場合、この程度の現象はしょっちゅう起こるため、想像内のことだが、あの鐘が本当に心霊現象によって起きたのかはこれだけでははっきりとはしない。コードが無駄に長く伸び接触にやや問題があり、メンテナンスをしたもののやはり、調子は普段に比べて悪かったため、機械的な故障ということもありえる。だが、あの鐘は確かに鳴らないように処置をされていたにも関わらず、確かにいま低い音を奏でた。
 誰か一人だけが聞いたのならば空耳という可能性もあるが、ベースに居た四人が反応したのである。録音したものが流されたというのでなければ、確かにあの鐘自身が鳴り響いたことになる。そして、あの鐘が自然の力で鳴ったということはないだろうことも、すでに確認はしたのだから。
 人為的なものか、心霊的なものかはまだ、判断できないが。
「サーモグラフィーは?」
「あいにくと、外の気温が下がり始めていたので判断基準にはなりません」
 夕暮れから宵の口にかけての時刻だ。気温がグングン下がっても異常なことではない。また、たとえあの周囲の温度が下がっていたとしても、その程度の温度しかないということだ・・・・
「マイクは今の音を拾えたか?」
「拾えています。詳しくはこれから調べなければ判りませんが、城内に設置したマイクの針がほとんど動いたので、設置したマイクはほとんど、先ほどの音を拾ったと思えます」
「その音を分析すれば、鐘の生音か、録音テープの音ぐらいかはわかるな?」
「多少時間があれば」
 もちろん、ナルとて今すぐに判るとは思っていないため、分析はリンに任せる。
 鐘の音はもう聞こえない。どのぐらい音を鳴り響かせたのか判らないが、それほど長い時間ではないだろう。とにかく、一度現場に行って見なければ話にならない。ナル達は立ち上がりかけたとき、青い顔で立ち尽くしている綾子にようやく気がつく。
 イスを背後に倒し、今にも卒倒せんばかりに顔からは血の気が引き真っ青だ。
 今にも身を翻して走り出そうとする彼女に、ナルが声をかけるとかなきり声で綾子が叫ぶ。
「麻衣、外の空気が吸いたくなったからって、さっき城塔に登っていったのよ! すぐに戻るって言ってたのに、まだ戻ってこないし・・・・・」
 外の空気が吸いたいといって一人、城塔に登っていった麻衣の事をナルには、まだ令嬢と話しているといってごまかしていたのだ。
 一人で外に出たと、ましては問題視されている鐘の元に上ったと、言えば当然すぐに連れ戻すよう言われるのが判っていたからだ。
「一人でですね?」
 誰かと一緒とは考えられない。
 彼女が気を許すような人間は、この城には自分たち以外には居ない。
 そして、ここに全員が揃っているのだ。
 考えられるとすれば、比較的好意的な態度を見せている、令嬢と伯爵の甥の二人ならばありえるが、その二人は外に出ることが出来ない身体だ。
 それ以外の人間と、空気が吸いたくなったからって一緒に外に出るとは思えなかった
 。だが、ナルは確認の為に綾子に尋ねる。
「一人でよ! あたしが一緒に行こうかって言ったけど、一人になりたいって・・・・・ちょっと、令嬢の話を聞いて落ち込んでたから、一人になりたいこともあるだろうと思って・・・・・・・・・」
 誰の目にも見て判るほど綾子はうろたえていた。
 当然だろう。
 麻衣も軽率だが、それを許した綾子も同じほど軽率だとしかいえないことだ。
 だが、今はそんな事を言っている場合ではない。何事も起きていなければいいが、何か起きた場合麻衣一人で対処できるとはこの場にいる誰一人とも思えなかった。
 ナルを先頭にし、ベースを飛び出す。
 たまたま、廊下にいたメイドの一人がいきなりドアが開き、中から人が飛び出してきたために驚いたようにこちらを向いたが、その顔色は驚き以外の理由で白かった。
 わき目も振らずに階段へと向かったナル達の背中に、不安そうな声で呼びかける。
「今・・・今鐘が!」
 廊下に居た彼女にも鐘の音が聞こえたのだろう。
 手を胸の前で組み、かすかに震えながら、答えを求めるかのようにナル達に聞くが、ナルは歩みを止めることなく階段を上っていく。綾子もそれに続いてわき目も触れない。
「安心してください。僕達が今、上に上って確かめてきますから。心を落ち着けて、主に祈りを捧げてください」
 ジョンの柔らかな言葉に、メイドはどこかほっとしたような表情になる。
 日本語では妙ななまりがあるが、英語のイントネーションはさすがに綺麗だ。
 日本語の発音だけでも人をほっと和ませるが、やはりキリスト教圏の人間だ。神父のジョンの言葉には、国境を越えて安らぎを覚えるのだろう。
 それにさらに元来持つジョンの柔らかな笑顔と、同じ『白人』というのがプラスされれば条件は必然的に揃うというものだ。
 急勾配な階段をナル達は足早に上っていく。途中すれ違う人間もいず、階段を上り詰めたときには額にはうっすらと汗をかき、かすかに肩が上下する。
 重い扉を開けると、すでに日は沈みきり夜の帳が空を覆っていた。
 冷たい風が吹きぬけ、火照った身体を急速に冷やしていく。
 鐘は風に煽られ、ゆらり・・・・ゆらり・・・・とかすかに揺れていたが、振り子がないため今は音を立てることなく沈黙を守っている。
 夜の闇の中浮かび上がるシルエットを見る限りでは、鐘を鳴らしたとは思えなかった。
 ナルは鐘に近寄る。触れることはさすがにしなかったが間近まで近寄り、大きな鐘を見上げある。音を鳴らしたにしては鐘は静か過ぎるような気がする。大きく揺れて音を奏でるタイプだというのに、この鐘はずっと静かにたたずんでいるようにしか見えない。もっと詳しく鐘を調べたいが、とりあえずその前に麻衣の姿を探す。この場にその姿がなければ、鐘が鳴る前にはこの場所を離れていたのだろう。今頃はもぬけの殻となったベースに戻って、一人憮然としているのかもしれない。
 だが、探す必要はなかった。鐘をはさんで対角線上に麻衣はいた。
 ぐったりと、力なく床の上に横たわったまま。
 その麻衣を解放するかのように、マーク・トエインが覆いかぶさっている。そのすぐ脇には、ミラー・キャリーとブラッドもいた。先天的に色素が欠乏しているため、日の当たる元にでられないはずの彼が、城塔にいることを疑問にさえ思わない。ナルにとっては青年の体質など気にかけるようなことではないからだ。
 マーク・トエインはぐったりとしている麻衣の襟元をゆるめ手を伸ばしていた。
 くつろげられた襟元からは、白い肌がかいま見えている。
 その光景を目撃した瞬間、ナルの両目がすっと細められ、剣呑とした気配が漂い始める。
 かなりおくれて姿を現した綾子は、ナルから漂ってくる剣呑とした雰囲気に思わず後ず去ってしまい、麻衣の無事の有無を確認することに一瞬の間が空く。
 だが、ナルの向こう側に麻衣に覆いかぶさるマークの姿を見つけて、綾子は絶句した。
 意識のない人間の服を脱がそうとするのは当然、犯罪だ。
 綾子にはマークが麻衣を介抱しているようにはどうしても思えなかった。
 たとえ、本当に介抱しようという親切心があったからかもしれないが、どうしてもその目つきを見る限りでは素直にそう思えないものがあった。
 この目の前の青年は一体何を考えて、人の婚約者に手を出したというのだ。
 それも、よりにもよってナルの婚約者にである。無謀きわまりない行動だろう。
「彼女は息をしていない」
 彼らが勢いよくドアを開けたことにはすぐに気がついたブラットがすぐに状況を教える。
「脈は?」
 表面上は平静さを保っているナルが大またに麻衣に近づき、細い首筋に指を伸ばす。
 弱いながらも脈はしっかりと打っている。一見したところただ眠っているようにも見えるが、唇に耳を寄せてみても呼吸音が聞こえない。まるで、息をする事を忘れてしまったかのように静かだ。
「鐘が鳴る少し前に我々がここに来たときは、彼女はそこの崩れかけた塀に肩から上を乗り出すような形で寄りかかったまま、意識をなくしていたよ」
 マーク・トエインはどこかつまらなさそうな顔で、麻衣をナルに渡す。
「はじめはそこから外を見下ろしているかと思ったよ。
 だから、突如鐘が鳴り響いて、そっちに気が向いていたからすぐには彼女に近づかなかった。
 その時は意識があったかどうかなんて確認できるような状態じゃなかったしね」
 脈をさぐり呼吸を確かめるナルに、マークやブラットが状況を説明していく。
「鐘が鳴り終わってもしばらくは身動きが出来ませんでした
 。ようやく近づいた時は、彼女はまだ息をしていましたが、酷く細くて頼りないもので・・・・今にも消えてしまいそうな、死に際の人間のように細い呼吸しかしていなかったんです。このままここにいるのはまずいと思って、城の中に運ぼうとしたんですが、彼女は次の瞬間には息をしていなかった・・・・だから、彼が襟元をゆるめて蘇生措置を試みようとしたところで、博士方がいらしたんです。 
 貴方に後ろめたいものを覚えるようなことは、なにもしていないですよ」
 ブラットはマークを弁護するかのように穏和な表情で、先ほどのことを説明した。
「僕は何も言ってませんが?」
 ナルは救命処置だというぐらいは判っていると言わんばかりだが、無言の言葉というものが存在するということが、綾子には肌に痛いほど判った。ブラットやマークは軽く肩をすくめてそれ以上何も言わなかったが、おそらく綾子と同じことを思っているだろう。
 ナルはそれ以上話しかけることはせず、時間が惜しいといわんばかりに、麻衣の上体を抱え上げると頬を軽く叩く。
「麻衣、目を開けろ」
 軽い音が空気を振るわせる。
 綾子は麻衣が呼吸をしていないと聴いた瞬間、掠れたような悲鳴を上げ、今にも麻衣にしがみつきそうな勢いだったが、リンが背後からそれを止める。
 綾子は肩を掴むリンの腕を振り解こうとしたのだが、まったくといっていいほどあわてていないリンとナルの様子に眉を潜める。
 いくら彼らが普段感情を表に出さないといっても、麻衣がしにかけている状態でこうも落ち着いていられるだろうか?出会った当初なら、冷酷人間だの、なんだのとなじっただろうが、短くはない付き合いの中、無情な人間ではないということは知っている。
 たとえ、感情を表に出さなかったとしても、死にかけている人間がいたとしたら、すぐに動くはずだ。こちらが嫌になるほど冷静に対処していくはずである。
 特に、いくらナルが自分を抑えることが出来るとはいえ、もっとも大切な人間が今にもその命を終わらせようとしている状態で、ここまで冷静にしているだろうか。
 それも、蘇生法をためすのもなく、医療設備の整っている室内に運ぶでもなく、ただ眠りこけている人間を起こすかのようなことしかしないだろうか? その鼓動が止まり、蘇生がかなわない状態というのならばともかく、無呼吸状態とはいえ脈があるのだ・・・・まだまだ、希望があるというのに。
 無呼吸状態・・・・・・?
 ふと、自分の思考に引っかかる言葉を見つける。
 はっとした顔でリンを見上げると、リンは肯定するかのように肯き返した。
「可能性にしか過ぎませんが、何かを視たショックで呼吸や、脈が止まることはあります」
 ナルのサポートを昔からしてきたリンだ。サイコメトリーしたナルが場合によっては、今の麻衣と同じ状態になったことがあるのだろう。ナルの持つサイコメトリー能力や、麻衣の能力はそれだけ危険が孕んでいるのだ。今までにも何度か危険な状態には陥っていたが、自分たちが知らない間に・・・というのは今回が初めてだったため、すぐにその可能性にたどり着かず、必要以上に気が動転してしまっていた。
 やはり、この二人の洞察力は並ではないと思う反面、リンはともかくナルぐらいは婚約者がこんな状況に陥ってしまったのだ。もう少し慌てふためいてもいいと思うのだが・・・・綾子はただ固唾をのんで見守ることしか出来なかった。
「麻衣・・・・自分を認識するんだ」
 ナルの声が静かに響く。催眠状態に誘導するかのように、ゆっくりとした口調。指の一本一本を絡めるように自分より小さな手を握りこむ。
「お前の身体はここだ。
 お前の意識は、この身体にあるんだ。
 他のどこでもない。ここにある」
 耳元に唇をよせ、囁くように呟く。それでも、一言一言がはっきりと空気を震わせる。
「お前が視ているものは夢だ。
 過去の幻にしか過ぎない。
 今のお前には関わりのない、遥か遠い昔の記憶だ・・・・谷山麻衣の持つ記憶じゃない」
 麻衣の唇がかすかに動き、空気を吸い込む。
 だが、それはまた吸うことを忘れてしまったかのように、唇を閉ざしてしまうが、ナルは諦めることなく繰り返す。
 明らかに異常な状態だった。
 わざと、呼吸を止めているのではないかと思うように、息を止めては窒息間際の人間が抗うように僅かな空気を吸い込み、すぐにまた息が止まってしまう。まるで、自律神経に異常がきたし、自力で呼吸管理を出来なくなってしまったかのようだ。
「麻衣」
 ナルの声に苛立ちが含まれる。
 顔色がいいとはとてもではないが言えない。身体にかなりの負担がかかっているのは誰の目からみても明らかだ。顔は真っ青で、唇などチアノーゼをおこし紫色に染まっている。まるで、今にも死にそうな麻衣を見ていられず、綾子は思わず視線を外してしまうが、それでもナルの声音に焦りはない。
 よほど麻衣を信頼しているのか、自分の誘導にじしんがあるか・・・・おそらく、後者であり前者でもあるのだろうが。
「お前は、城塔の上にいる。
 ここにいるんだ。この城塔に・・・僕の腕の中にいると認識しろ」
 固い声で、きつく告げると、ピクリと瞼が震える。
 今まで呼吸するときも身体に余計な力が入っていたのだが、身体から力が抜け、指先がピクリと動き、喘ぐようにかすかな空気しか吸い込まなかった唇から、長い吐息が漏れる。
 まるで、身体の奥底によどんでいたものを吐き出すかのように。
 その吐息が聞こえた綾子が視線を麻衣に戻すと、麻衣の瞼がゆっくりと開く。
「麻衣!」
 綾子が悲鳴に近い声を上げるが、麻衣は認識をしていないのだろう。
 何度か瞬きをした後、自分を抱えて見下ろしているナルをしばしじぃっと見つめる。
 音が聞こえそうなほど瞬きを繰り返す。
 目の前にある顔など見慣れているはずだというのに、魅入るほどじぃぃぃぃぃぃぃっと見つめ、きゅっきゅっと音が聞こえるのでは?と思うような勢いで目をこする。
 それでも、目の前の美麗な顔は消えない。
 不機嫌そうなままの表情で、自分を見下ろしている・・・・先ほどから繰り返している麻衣の行動にやや呆れてはいるかもしれないが。
 目の錯覚ではないことをようやく確認した麻衣は次の瞬間、声を張り上げた。




「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ぬぁ、ぬぁる!?」




 今まで、呼吸を半ば止め意識をなくしていた人間とは思えないほど、元気な・・・元気が良すぎて、耳をきぃ〜〜〜んと突き抜けるような、裏返った甲高い声が当たりに響き渡り、危うく自分を見下ろしていたナルに頭突きをする勢いで身を起こす。
 かろうじて頭突きをしなくてすんだのは、とっさにナルが上体をそらしたからに過ぎない。
 でなければ、ナルの顎にもろに頭突きをかましていただろう。
 ついでに言うならば、いきなり大声を張り上げたため、麻衣は涙を浮べながらむせこんでいる。
 あまり、上品な咳き込みかたではない。
 ゲホ、ガホならまだしも、鼻水と涎を垂れ流さんばかりの勢いで、咳をし続ける。
 思わず綾子はハンカチを差し出し、顔を拭きなさい・・・・と言ってしまうほどの有様だ。
 百年どころか一万年先まで続く恋ですらさめかねなかったが、人の美醜にこだわらないと言うナルが婚約者だったため、婚約破棄という悲惨な結果は免れたが。
「な、な、なに? なんで皆ここに・・・あ、アレ?何で、私・・・・・」
 ようやく呼吸が整い、周りを見る余裕が出たのだろう。冷たい石畳の上に座り込んでいる自分の状況にも、その自分をぐるりと囲むようにいる皆にも、わけがわからず麻衣はおたおたと説明を求めるかのように、周囲に視線を巡らせる。
 だが、誰一人説明をしてくれるものは居なかった。
 いや、説明を聞きたかったのは麻衣よりも彼らに違いない。
 ほんの一瞬前まで漂っていた緊張感が嘘のように消え、しらじらとした空気が流れることに麻衣一人気がつかない。
 あきれたようなため息をつきつつ、ナルは麻衣へと視線を固定させる。
 いつの間にか、なぜか不機嫌度をUPさせているナルに、ようやく気がついた麻衣は思わず喉を鳴らせてしまう・・・・・


 あの・・・・なんか知らんけど、怖いんですけどぉぉぉぉぉぉ・・・・・・・


 こわばった笑顔を浮べながら自分を見上げてくる麻衣に、再度ナルはため息をつくと、こんな事態になったいきさつを聞くべく麻衣に問いかける。
「話を聞こう」
 といわれても、麻衣には一体何のことか判らない。
 こっちのほうが話を聞きたいぐらいだと言いたい所だが、状況を考えるにこの事態を作り出したのは自分のようだ・・・・心当たりはないというのに。
 外の空気が吸いたくなって、城塔に登ってきたのは覚えている。
 ちょっと、なんだか暗鬱な気分になっていたのだが、自然が織り成す見事なグラデーションに、どうでもよくなって・・・もっと、よく見たくて壁に近づいた・・・・・・・


「あれ?・・・・・・・・・・・・・私、ここから落ちなかったけ・・・・・?」


 寄りかかろうとした壁が崩れて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 地面が近づくのが見えた・・・・・だが、自分は地面には落ちてはいないで、城塔の上にいる・・・・・
 落ちては居ない。
 だが、落ちた感覚はいまだ残っている。
 身体が、下にまっさかさまに落ちていく感覚。風を切り裂き、眼前に迫る地面・・・・覚えている。
 確かに、あの感覚は身体に焼き付いている。
 だが、自分は怪我一つせずここにいる・・・・・・・・と、なれば考えられることはただ一つだ。






「もしかして、私・・・・・・・・・・・・・・・・・・視たの?」




 

 なぜ、この娘はさっきから自分のことなのに疑問形式で問いかけてくるのか。
 心底あきれたようなため息が、ナルから漏れたとしても仕方ないかもしれない・・・・・・









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