図書館の怪談



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「待って!」
 風が吹き荒れるため、雨がまるで舞台のカーテンのように波打ちながら視界を遮る。
 これじゃ、まるで台風だ
 ここまで天気が酷くなるとは朝のニュースで言っていなかったと思うのだが、予想以上に天候は荒れている。下水処理もオーバーワーク気味なのか、それとも一気に降った雨が溝に入りきらずに溢れているのか、そこかしこから噴水のように水がわき上がり、道路はまるで川のような状態と化し、足首まで完全に水に浸かっていた。
 日常的には電車などの公共交通機関を利用することはないため、その手の情報に疎いがこの天気では交通機関にも大きな乱れ・・・下手をすれば路線のいくつかは止まって都内の交通網は大混乱を起きているかも知れない。
 そんな事を思わず思ってしまうぐらいに、雨が強く吹き荒れていた。
 そんな天気の中、歩き回る人間の姿は皆無と言って良いほどない。
 時々、ヘッドライトを付けた車が脇を通ぬけていくぐらいだ。
 この天気で視界が利かないせいか、車の速度もかなり落とされている。それでも、通り抜けるたび車は道路に溜まった泥水を勢いよく撥ねていくため、郁はその泥水すらひっかぶって全身泥まみれとなり、目も当てられない状態だ。
 庁舎に戻ったら堂上の雷の一つや二つは確実に落ちるだろう。
 だが、だからといって躊躇できる状態でもなかった。
 とにかく、子供を保護するのが最優先事項だ。
 こんな雨の中放置する事など出来ない。
 大人の自分でもかなり身体が冷えている。
 真夏のため幾ら雨が降っているとはいっても、気温はさほど下がっていないはずなのだが、さすがにここまで濡れると話は変わる。強い風が吹いているせいもあって体感温度が低く感じられるのかも知れない。
 いや、夏だろうとなんだろうと全身ずぶ濡れのまま長時間いれば、体温は奪われてゆく一方だ。
 歯の根が気がつけば噛み合わずガチガチと音を立ており、身震いが止まらない。このままだと風邪を引くのも時間の問題だろう。
 今ほど熱いシャワーが恋しいと思った事はないが、とにかく雨に邪魔をされながらも腕をあげて視界にかかる雨を少しでも防ぎながら、足をすすめてゆく。
 あの子はいったいどこへ行ってしまったのだろう。
 まだ幼児と言って良いほどの年で、こんな天気なのだからそんなに離れていないはずだというのに、雨の勢いが強すぎて視界の見通しが悪いせいか、見失ってしまった。
 せめて、名前を知っていれば呼びかけることができたが、名前を知らないため呼びかける事ができないのも痛い。
 雨の音でかき消されてしまうかも知れないが、名前で呼びかけるのとただ、誰ともなく呼びかけるのでは声の強さが違う。それに、名を呼ばれれば微かにしか聞こえなかったとしても気がつきやすい。
 
 
「ねぇ、どこにいるの!?」
 
 
 声を張り上げる。
 雨に負けないように。
 車が跳ね上げる水しぶきの音に負けないように。
 だが、その声に返ってくる声はない。
 どこかで通り過ぎてしまったのだろうか。
 それとも、外に飛び出したように見えたまだ図書館の敷地内にいるのだろうか。
 郁は、無線がせめて使えれば、図書館の敷地内を探索してもらえたのに・・・と思うのだが、飛び出して来てしまった以上、それはいまさらだ。
 ただ、ぎりで隊には報告出来ているのだから、何らかの行動はおこされているだろう。憶測にしか過ぎないところが歯がゆいが、最低限の事は伝わっているのだから、あの人達ならば何とか動いてくれるはずだ。
 だが、それでも状況が把握出来ないと言うのは歯がゆい。
 堂上が何事も案件は脳まで運べと言う言葉、今ほどそれを痛感したことはない。
 それとも、単独行動に出ていなければ良かったのか・・・どう行動すれば一番この場合良かったのか。
 女の子が駆け出す前に保護出来ていればベストだったが、ではベターはどうすればできたか。
 女の子が見つからないからか、焦りだけが増していく。
 もしかしたら親と合流できて、すでにこの場から離れているのかも知れない・・・それなら、一番安心だ。だが、それはただの希望的観測だ。少なくとも、現状ではそう思い込むことは出来ない。
 なにより、そんな親子らしい人影を見てはいない。
 この視界の悪い中、道路に飛び出して事故に遭っているかも知れない・・・だが、それならとうの昔に騒ぎになっているだろう。
 いくら、雨音が酷いとはいえ救急車のサイレンの音を聞き逃すはずがない。
 行き違ったか・・・それとも、こちらの方に女の子は駆けだしたと思ったが、実は反対側だったと言う事だろうか。
 このまま真っ直ぐ行けばいいのか、一度戻った方が良いのか、駆けだしていた足の動きは内心の迷いを現すかのように、徐々にスピードが落ちてゆく。
  
 
 どうしようどうしようどうしよう
 
 
 今までここまで状況判断に迷ったことはない。
 いつも、反射で動いて答えを掴んで来た。
 確かに時には空振りもするし、掴み損ねることもある。
 だが、今まで駆けだしてからケリがつくまでに迷った事はない。
 だからこそ迷いに惑わされる。
 自分が来た道が、駆けだした道が、間違っていたら・・・見当違いだったらと。
 
 
「落ち着け。まだ三歳ぐらいの女の子なんだから、こんな雨の中そんなに遠くまでいけるはずがない」
 
 
 少なくとも走って自分が追いつけないなんてありえないのだから。
 ドクドクと焦りを助長するように、跳ね上がる鼓動を落ち着かせるように深呼吸させて、目を閉じる。
 あの人なら・・・堂上教官ならこういう時どうするか。
 こんなミスしないだろうけれど、あの人がもし今の自分の立場なら・・・まず、状況を再確認するはずだ。
 

 あの時、門を飛び出した女の子がどこへ向かったか。
 ちゃんとその瞬間を見ていたはずだ。
 この雨の中遠目でもはっきりと認識出来て居た。
 ずぶ濡れになって、俯いて立っていた女の子に驚いて声を掛け、図書館に行こうと促した。
 その時はすぐ傍に居た。
 だが、無線で本部と連絡を取っている間に、女の子はいきなり走り出した。
 まるで、自分から逃げ出すように。
 いや、違う。
 あの時、門の前まで走った女の子は一瞬立ち止まって、自分を見た。
 まるで、追いかけて来ているかどうかを確認するかのように。
 遠目だったからはっきりと視線が混ざり合ったとは言えないが、視線は確かに交差した。
 だが、そのまま女の子は立ち止まることなく、くるりと身を翻して走り出してしまった。
 その時彼女は門を出て右側へ向かって行った・・・間違い無い。
 その後を慌てて追いかけて来たのだから、タイムラグは五秒とないはずだ。
 それならば追いつける。
 だが、現実にはその姿を見失ってしまった・・・・ということは、どこかで雨宿りしているか、雨や車に怯えて隠れてしまったか、他に考えられない。
 この辺にいるはずだ。
 郁は周囲に視線を巡らせる。
 小さな女の子が隠れられるような場所がこの辺にあったか・・・・
 周囲は住宅街が続いて、店などは見あたらない。
 自動販売機や看板の類もなく、軒先などもない。
 どっか、民家に入り込んでしまったか・・・・
 忙しなく首を右や左へ動かし、子供が隠れられそうな所はないかと、視線を巡らせているとちらりと視界の片隅に映りこんだ赤い色。
 はっとして顔を上げあると、反対側の歩道に女の子が立っていた。
 図書館で見かけた時と同様に全身を雨に打たれて。
 
 
   やっと見付けた・・・・
 
 
 ずぶ濡れには違いないが、怪我の類はなさそうだ。
 その事に安堵するが、目があった瞬間女の子はまるで郁から逃げ出すように身を翻して走り出す。
 
「待って! 一度、お姉ちゃんと一緒に図書館に行こう? お母さんはお姉ちゃんが探してあげるから。このままだと風邪引いちゃうよ!」
 
 なぜ、逃げ出すのか判らないが、雨の勢いに負けないように声を張り上げて、追いかける。
 距離は二車線分。
 たいしたものではない。
 相手はまだ自分の腰ほどの背丈しかない幼児で、自分は特殊部隊でも一、二を競う瞬発力を持っているはずだ。
 手塚より堂上の方がスタートダッシュは早く、その堂上より中距離までは自分の方が早い。既に現役のスプリンターではないが、最大の武器となっている足がなまらないように自主トレは欠かさない。
 なのに、追いつけない。
 
「ど、どういうこと!?」
 
 ありえない。
 いくら、現役の走者ではないとはいえ、幼児に負けるなんてありえない。
 例え、これが柴崎だったとしてもこの程度の距離で幼児に追いつけないはずがない。
 そう、たかが十メートル程度の距離を大人が幼児に負けるなんて、考えられない。
 なのに、現実はその距離が縮まることはなかった。
 まるで、ルームランナーの上でも走っているかのように、二人の間の距離に変化は生まれない。
 もしかして、自分は夢でも見ているのだろうか。
 女の子は離れて行かないが、近寄ることも出来ない。
 だが、その距離感さえだんだんおかしく感じてくる。
 本当に走っているのか?
 目の前に女の子が本当にいるのか。
 
 
 
 
 
 
   あたしは、今、何を追いかけているの・・・・?

 
 
 
 
 
 
 そう思った瞬間、ドクリと強く心臓が音を立て、背中を嫌な汗が伝い落ちるが判った。
 雨の雫ではなく、間違い無く汗だ。
 怖い。
 なぜ、そう思ったのだろう。
 まだ、年端もいかぬ小さな女の子にしかすぎないのに。
 親の庇護を必要とする、まだ大人が守らなければならないような、小さな小さな女の子。
 なのに、どうしてこんなに怖いと思うのか。
 
 無意識のうちに足が止まり、まるで女の子から距離を取るように少しずつ後ずさる。
 何かがおかしい。
 何かがじゃない。もしかしたら全てがおかしいのかも知れない。
 こんな小さな子がこんな豪雨の中一人で外に居ることも。
 小さな女の子に追いつけないことも。
 自分がこんな小さな子供に対して恐怖心を抱くのも。
 何かがおかししいのではなく、全てがおかしいのではないか・・・
 
 郁が一歩足を引くと、今まで逃げていた女の子の方が一歩近づいて来た。
 さらに一歩下がれば、一歩近づいて来る。
 郁は、背後を気にしながらジリジリと下がってゆく。
 まるで、戦闘時のような緊張感に苛まれながら、なにか得体の知れない者から逃れようとするかのように、ジリジリと後退していくと、それまで俯いていた女の子がゆっくりと顔を上げた。
 
 まだ、あどけない顔の少女。

「・・・・・っっ」

 女の子の顔を正面から始めてみた。
 先までずっと俯いていたから気がつかなかった。
 その顔が、服と同じように真っ赤に染まっていることに。
 
 その瞬間、辺りには噎せ返るほどの鉄臭い・・・生臭い臭気が漂い、反射的に胃が収縮運動を起こし、逆流してくる。
 だが、郁はそれを力ずくで飲み込み胃の収縮を抑え込むと、何かを考える前に反射的に後退する。
 女の子から目を逸らしたいのに、そらしたら駄目なような気がし、一時も視線を逸らすことが出来ない。
 雨が目に入ろうとも瞬き一つせず、女の子へ視線を定めたまま数歩後ずさった所で、足がもつれてバランスが大きく崩れる。
 踏鞴を踏むように数歩さらに下がってバランスを整えるが、その時目を射抜く強い光が眼前に迫っていた。
 
 ぷわっぷわー!!
 
 と、大気を裂くような音が辺りに鳴り響く。
 眼前に迫ったそれが何か、警告を発する音が何かを脳が理解する前に、背後から何かが飛びかかってきた。
 いや、飛びかかってきたと言うより、強い力にき抱えられたと言うべきかも知れない。

 雨に打たれて冷えた身体には熱く感じる程の温もりが絡んだと思ったときには、横に飛んでおり水たまりの中に頭からつっこむ。
 衝撃はあったが痛みを感じなかったのは、自分が硬い路面の上ではなく、誰かの胸の中に抱えこまれているからだと気がついたのは、何かから守るかのように自分の身体に回された力強い腕が視界に入ったからだ。
 それが誰か、意識しないまでも答えが出た。
 だが、名が口を出る前に、雨音に負けない声が辺りに響く。
 
 
「このどあほうが!! お前はこの天気の中なにど真ん中に突っ立っているんだ! 自殺する気でもあったのか!?」
 
 
 思いにもよらない言葉に郁は目をまん丸にして、自分を胸に抱えこんだままの堂上を見上げ、呆然といった呈で「教官?」と呟く。
 まるで、状況が判っていません。と言わんばかりの郁に、堂上はこれ以上無いほど眉間に皺を刻む。
「いくらお前がアホウでも、道路と歩道の境界線ぐらい理解しているよな?」
 そんな事幼稚園児でも判る事だぞ。
 と、改めて言わなくても良いことを言われ、郁は瞬く。
「あたし・・・道路のど真ん中に立っていたんですか?」
「お前、本気で道路の区別がつかないなんて言わないよな?」
 いや、この状況なら言いかねない。
 堂上は本気で郁の言葉にそう思った。
「だって、あたしさっきまで歩道にいて・・・・目の前の女の子・・・血まみれの・・・」
「血まみれ?」
 堂上は怪訝な顔をする。
「お前は、一人でぼんやりと道路のど真ん中に立っていたぞ」
「え?」
 堂上はゆっくりと身体を起こすと、そのまま腕に抱えていた郁も引きずりあげるが、くったりとその場に座りこんでしまう。
 堂上はいつにない郁の状態に柳眉を潜めるが、何も言わず、腰でも抜かしているかのように力の入らない身体を支えるように、腕を腰に回して立たせ、自分に体重を掛けさせる。
 密着しているため、郁の体温がかなり低下していることが良く判った。
 雨に打たれたからだけではない。
 貧血でも起こしているのだろう。
 顔色がこれ以上無いほど真っ青になっているのも、そのせいだと言う事が堂上には判った。
「追いかけて来た女の子が居たはず・・・なんですが」
 郁はまだ現状が良く判っていないのか、茫然自失といった様子で言葉を口にする。
 だが、その言葉に堂上はため息をついて、郁が思いにもよらない事を告げた。
「女の子を追いかけて来たという話だが、笠原。お前は誰を追いかけてきたんだ?」
「・・・・だから、女の子  
 血まみれの女の子・・・というのはあり得ないが、郁の目にはそう見えた。
 もしかしたら、血まみれと見えたのはなにかのランプが女の子に当たってそう見えただけかもしれない。
 そう、言葉を続けようとしたのだが、堂上が続けた言葉に郁は息を飲む。
「駐車場の防犯カメラにはお前の言う女の子は映っていなかった」
「え? だ、だって、あたし確かに女の子  
「詳しくは一度隊に戻ってから聞く。このまま雨に打たれながらする話でもないだろ。それより、お前何を持っているんだ?」
 堂上に言われて郁は自分の手に視線を落とす。
 その時始めて、自分が何かを持っていることに気がついた。
 手を開いて確認してみれば、それは見慣れたカード・・・・武蔵第一図書館の会員カードだった。

 

                          続く