燃え尽きぬ恋





 わたくしがその方に心を奪われた理由は、定かではありませんでした。あの方が御仏に使える身であることは判っておりました。それでも、恋をしてしまったのです。浅からぬ想いを抱いてしまったのです。
 忘れようといたしました。
 ですが、心と理性は別の生き物。けして、自分の思い通りにはいかず、身体は恋煩いに蝕まれていきました。
 両親に蝶よ花よと育てて貰ったという自覚はあります。外界の荒波を何も知らず、広い屋敷の中で優しさと、愛情に満たされて育て上げられたのですから。飢えも寒さも、着る物にも何も困らず、贅沢三昧の日々といっても過言ではありませんでした。
 ただ一人の娘のわたくしを、手放したがらなかった両親のせいでしょうか。わたくしは、二十歳目前にしても許嫁もおらず、殿方と知り合う機会もありませんでした。ただ、静かに平和に、心穏やかに屋敷の中で送る日々だったのですが、ある日一人の僧侶が一宿を求めて我が屋敷を訪れたのです。
 薄汚れすり切れた袈裟を着、かなり疲労の激しい笠を被った僧侶です。声は荒々しく、僧侶の割には立ち振る舞いもどことなく粗野の雰囲気もありましたが、まだまだ修行中の身の上だったようなので、それも仕方ないのかもしれないとわたくしは思ったのです。
 推望次(すいぼうじ)と名乗った僧侶に父も母も彼に部屋を与えました、敬虔な仏教徒の両親です。仏に仕える僧侶を疎略に扱うわけがありませんでした。薄汚れた袈裟の替えを用意し、精進料理を振る舞いました。
 初めはその方の粗野な雰囲気にわたくしは怯えておりましたが、ふとした折りに道中の話を聞かせていただきました。外の世界を知らないわたくしには、まるで物語のように心が躍るお話の数々だったのです。
 やがて、粗野の中にある優しさや、心の広さはまるで雄大な広さを持つ自然そのもののようにも感じ、荒削りでしたが美丈夫なそのお姿にわたくしは瞬く間に夢中になってしまったのです。
 すでに仏の身に仕える御方と判っておりましたが、わたくしは秘めていることが出来ず、はしたないと判っておりましたが、その御方に心を告げたのです。
「お慕い申し上げます」
 心臓は壊れるのではないかと不安になるほど早鐘を打ち、わたくしはきっと全身を真っ赤に染めていたと思います。何とお返事を返して下さるか、死の宣告のようにも感じたその瞬間はすぐに来たのです。
「姫、私も貴方の美しさと優しさに心を奪われてしまいそうです。ですが、この身は仏に仕える身。既に現世にある物ではありません。
 姫の心遣いはとても嬉しく思うのですが、どうか姫のお気持ちは現世にある殿方にお向けられませ」
 判っていたのです。
 この恋は報われないと、知っておりました。
 ですが、わたくしにとって初めての恋は、そう簡単に終わらせられる物ではありませんでした。元々、思いこんだら他が見えなくなる性格だったためか、あまりにも恋い慕うあまり気鬱病に冒されてしまい、やがて枕から頭が上がらない日々に陥ってしまったのです。
 それを哀れんだ両親は、推望次様に娘の気持ちに応えられるのならば、還俗して婿に入って欲しいと頼んだのです。還俗するためにかかる献金などは全て当家が用意するからと。わたくしに甘いことで有名だった両親は、氏素性をろくに判らない行きずりの僧侶に、恋慕うあまり気鬱病になった娘のために、婿に入ってくれと頼み込んだのです。
 推望次様は、しばらく悩んだ様子ですが、熱心な姫の両親の薦めと、元々姫に気を引かれていたと言うことから、還俗を了承して下さったのです。


 それが、全ての始まりだとも知らず……




 麻衣はぼんやりとテレビでも見るかのようにその光景を眺めていた。幸せそうな光景だ。その僧侶は出家する前の名前を河瀬二郎惟次(かわせのじろうただつぐ)という名前だったらしい。元はとある大名に使える武家の次男坊で部屋住だったらしいのだが、大名家にお世継ぎが生まれず取りつぶしになり、彼の家もそれに伴い奉公先を無くしてしまったという。部屋住として元々厄介者だった惟次は出家し家を飛び出したのだという話を、歌子姫に語っていた。




 推望次様…いえ、惟次様に戻られてしばらくした頃でした。時折そのお顔がかげるのです。遠くを見るように山々を見つめ、弱々しく溜息をつくことが増えたのでした。わたくしは、惟次様が何を思い煩っているのか、不安でした。
 もしも、この生活に嫌気が差し元のように自由な身に戻りたいと思っていたら…わたくしの、我が儘のために惟次様はこの地に残られたも同然でした。いつ、自由な身に戻りたいと思うか、わたくしにはそれが恐怖でしかなりませんでした。もしも、わたくし以外に心引かれる方がどこかにおられたら…そう思うだけで、心が千々に引き裂かれてしまいそうなほど、苦しくて呼吸すらままならなくなりそうでした。
 この時わたくしは本当の自分を知ったのです。
 なんと、嫉妬深い女なのだろうと。一度疑い出すと際限が無くなりだすのです。元々武家のお生まれなので、背筋も美しく身体もたくましく、また、この長旅で得られたのか知識に長けておりました。どこか、荒々しい雰囲気は武家ならばと納得し、父と母はわたくしの婿として、最良の方を選べたと喜んでおりました。惚れた欲目から見なくとも、誰もが思わず見とれてしまいそうなほどの御方だったのです。
 町を歩けば娘達の視線が惟次様に向けられ、町娘だけではなく他家の姫君達も惟次様に感心をよこし始めたという噂が立ち始めたときには、わたくしは嫉妬で心がおかしくなってしまうのではないかと思いまじめました。
 下女達が親しげに惟次様にお声をかけている姿を見るのも、汚らわしく思えたのです。
 惟次様は、わたくしの殿方なのです。
 他の女性が惟次様の視界に入ることが許せませんでした。
 しかし、それはあまりにも醜い心。そして、その心を向けると言うことはそのまま惟次様を信用していないと言うことになりかねません。わたくしは、惟次様を信用しております。信用しておりますが…いやだったのです。
 何と醜くて浅ましい心なのかと思いました。
 世の女性は全てこの想いに煩わされているのかと…自分が煩わされて初めて、女の苦悩ということを知りました。


 歌子姫の煩いには麻衣も判る。
 ナルは、惟次という男では問題にならないほどの美形である。外を歩けば男女問わずその姿に目を奪われる。例え傍に自分がいても、外見に自信のある女性達はナルに声をかける。例え、相手にされずともめげずに声をかけてくる人間は、後を絶たない。
 ナルは明らかに彼女達の存在をうっと惜しがっているのが判る。ナルという人間の性格も知っている。だが、それでも彼女達がナルに近づくことは、麻衣とて面白くなかった。その身体に、慣れ慣れしく触れようとする彼女達を見ると、触らないで!と叫んで突き飛ばしたくなることもしばしばある。もちろん実際に行動に移したことはない。だが、きっと表情には出ているだろう。そして、ナルには伝わっているはずだ。ただ、彼は何も言わず女性を突き放すと、そのまま麻衣を促して女性を相手にしない。
 だから、麻衣はまだそんなに醜い嫉妬心に心をかき乱されることは少ないだろう。それでも、けしてないとは言い切れない。あのナルでさえ自分が男性と話しているのを見ると、不機嫌そうになるのだから。
 確かに、恋をすれば同時につきまとう嫉妬心。
 それは、どんな人間だって逃れることは出来ない。
 大なり小なり形を変え、大きさを変えて人には絶対に存在する物だ。
 歌子姫がそのうちに抱えている嫉妬心は、かなり大きい方だということは一目瞭然だった。本人は必死になって嫉妬心を抑えて居るつもりだったが、元来素直に育てられていたのが災いしたのだろう。我慢が出来ない性格になっていたのだった。惟次が下女と言葉を交わし、微笑みを向ければ、歌子姫は下女を厳しく罰した。下手をすれば、主に対する反抗のつもりかと言い募ったこともあった。
 それは、軋みを産む。
 なかった誤解を招き、偽りが真実へと変わる。

 誰もが予想だにしていなかった未来に違いない。

 歪められた想いをぶつけられれば、真っ直ぐだった物もやがて歪む。
 歌子姫を思っていた惟次の心は、その重苦しいほどの歌子姫の妬心に辟易をし、圧迫されている世界から逃れるように、外へと心を向けるようになってしまった。
 そして、ごく普通の貧しい町娘と親しくなってしまう。
 元々部屋住という立場がいやで家を飛び出し、自由を求めて出家した男だった。それが、歌子姫に惹かれ自由の身を捨て、入り婿という籠の中へと自ら飛び込んでいったとはいえ、自由に焦がれる心が消えたわけではなかった。
 さらに、自由の全く利かなくなるほどの歌子姫の妬心が重い石となり、さらに惟次の心を抑圧し、自由を望む思いを強くさせていく。その最中での出会い。初めは何もやましいことはない。ただ挨拶を交わす程度だったのだが、やがて二人の中は親密な物へとなっていく。
 その事が、歌子姫の耳に入ったのはその娘に、惟次の子が宿ったときのことだった。 
 式を挙げる寸前のことだ。既に浮気をされ、外に子まで作られたと知り錯乱した歌子姫は式の時に着るはずだった白無垢に袖を通して、刃を振り回す。その刃は、手当たり次第屋敷の女達へと向けられた。そして、それは自分の実の母さえも含んでいたのだ。常軌を逸するほど妬心に惑わされ、自分を見失った彼女は、母を刺し殺し、さらに惟次まで殺そうと向かっていった。
 だが、彼女が握りしめていた刃は惟次まで届くことはなかった。
 その前に、惟次が抜刀し彼女を袈裟切りにしたのだった。

 深紅の血が飛び散る。
 白い…白い…祝福された花嫁だけが着る衣装が、己の血によって紅く染まる。
 壁に飛び散り、惟次を血で染め上げる。

「何故…何故…惟次様は、わたくしを裏切ったのです……わたくしは、貴方に全てを捧げるとお誓いしたのに…………………何故、貧しき娘に心………を…………」
 
 床をずるずるとはいずく張りながら、全身を開けに染めつつも歌子姫は惟次へと近づき、その足をがしっと掴む。血にまみれた両手が、死に際の娘とは思えないほどの力で、彼の着物を掴む。
「何故…何故です…………」
 惟次は女の執念という物を、歌子姫に見た気がした。
 徐々に力をなくしつつある、黒い両眼はそれでも惟次から視線を逸らすことなく、彼の顔を凝視している。
 惟次は、その視線に恐怖を感じずに入られなかった。ねっとりとからみつく視線は、死に瀕する物の視線ではない。変わらず向けられる重々しい空気を纏った、嫉妬の視線。そこから自由になりたいというのに、彼女は死に近づきつつあってもそれが無くなることがなかった。
「身なりは貧しくとも、心は豊かな娘だ。
 そなたのように、心が貧しくない健康的な娘だ」
 その言葉に、歌子姫は双眸を見開く。
 当然だろう。
「おう…らみもうし、あげます……………。
 子々………孫々、末代まで……お恨み、申し上げますぞ」
 歌子姫は血を吐きながら今にも消えそうな声で呟く。
 呪詛の言葉を。
 惟次はそれ以上彼女の声を聴いていたくなかったのか、それとも呪詛を吐くその声を潰してしまいたかったのか、握りしめていた剣をさらに煌めかせる。真一文字に空を切った刃は、彼女の喉を切り裂く。
 ごぼり…と喉がなり、血泡があふれ出す。
 声帯を傷つけられたのか、声が出ない。

 お慕いしていたのに。
 どうして、なぜ、なぜ、どうして、
 ただ、わたくしは…わたくしは―――――――

 彼女は自分を置いて去って行こうとする男の背中を身ながら、床をはいずくばる。どす黒い血が畳の上に蛇行線を残してゆく。多量の血が流れ出ようとも、痛みで意識の半分が奪われていこうとも、彼女は一心不乱に自分を置いて出ていこうとした、男を追いかける。

 行かないで。
 置いて行かないで。
 どこにも行かないで。
 貴方はわたくしだけの貴方なのだから。
 許さない。
 他の女の所へ行くのはけして赦さない。
 わたくし以外の女はけして認めない。

 身体が鉛のように重くなっても、自由が利かなくなっても、視界が霞んでも彼女は男をはってでも追いかけ進む。
 だが、やがて彼女の身体はピクリとも動かなくなったのだった。
 前を睨み付けるようにカッと見開いたまま、腕は先へとはい進もうとするかのように、伸ばされた状態で硬直していた。身体は血と泥で汚れ、足は石などですり切れ着ずだらけとなった状態で、村人に発見された。
 歌子姫が息を引き取って一週間ほどが過ぎた頃だった。腐敗が進み、激しく人相が変わり、彼女が歌子姫だと気付かれることなくひっそりと、埋葬された。その両眼は瞼を下ろそうとも何をやっても見開き、その腕はまるで何かを求めるように伸びたままだったという。

 
 ただ、わたくしは………

 里の裏山に葬られた、彼女の怨念は静まることなくゆっくりと降り積もってゆく。その躯を幾多もの蛇に絡まれ、虫に蝕まれたむごたらしい姿のまま、彼女の男に対する念は深まったゆく。
 愛していたのに。
 自分はこのような辱めを受けるような人間ではなかったのに。
 
 許さぬ―――










「ねぇ、幾ら何でも麻衣遅すぎない?」
 時計の針は既に10分ほど進んでいる。トイレに行くだけでこれほど時間が掛かるわけがない。途中お茶を淹れて来るにしろそろそろ戻ってきてもいい頃だ。
「あたくし、様子を見て参りますわ」
 真砂子が立ち上がると念のためと言うことで、綾子も一緒に行く。最初に台所を覗くがそこには誰もいない。では、トイレかと思いそちらの方へ足を向け、奥の手洗い所へと足を向ける。廊下は二人が並んで歩いてもまだ余裕があるほどの広さがある。高い天井には等間隔で、裸電球がぶら下げており暖色の明りが廊下を照らしているにも関わらず、なぜか薄暗い感じがした。
 不意に真砂子は足を止める。
「どうしたの?」
 真砂子は綾子の問いに答える様子もなく、ただじっと先を凝視していた。廊下の先にはトイレと手洗い所へと入るドアしかない。そのドアはぴったりとしまっている。その奥からは何か空気が抜けるような音が聞こえてくる。そして、ドアに着いている曇り硝子にぴったりと張り付いている細長い影。ソレが、何かを認識する前に綾子は叫んでいた。
「真砂子、すぐにナル達を呼んできて!!」
「は、はい」
 真砂子はくるりと身を翻すとナル達を呼びに廊下を走る。綾子は意を決するとドアに近寄りノブに手をかけようとするが、ふとその手を引っ込めて首に巻いているスカーフを外すと、掌に巻き付ける。万が一の可能性があるからだ。
 そして、予想通りドアノブに手をかけた時、電気が走り掌に電流を伝える。それは瞬く間に全身に走り、痛みを訴えてきた。微かな呻き声が漏れるが綾子はそのままゆっくりとドアノブを回す。そして、ドアを勢いよく弾いた瞬間綾子はその光景に呻き声を漏らす。
 一面蛇だらけだった。
 一畳ほどの広さのそこは水道とタオルがあるだけだ。その奥にトイレと繋がるドアがあるのだが、床と言わず壁と言わず天井といわず、無数の蛇がはいずっている。そして、壁に凭れるように一部だけこんもりと山になっている部分があった。
「麻衣!?」
 綾子が名前を叫ぶがその蛇の山はピクリともしない。それどころか、綾子の存在に気が付いた蛇たちがいっせいに綾子を見る。
 綾子は何千匹といる蛇の視線に身体が硬直しかけるが、とにかく何とかしなければならないのだ。距離を充分にとって勢いよく九字を切る。見えない空気が刃となって蛇たちを襲う。本来ならば蛇はこの力の前にかき消えるはずだった。
 だが…蛇たちは消えなかった。
「な……何なのよ!!」
 蛇は消えずに、血をばらまいて切り刻まれていったのだ。
 この場所にいる蛇は歌子姫に操られている蛇霊ではなく、本物の蛇のようだ。判断できないが青大将とか言われる種類だろうか。だが、この季節ともなればとうに冬眠しているはずの蛇。まして、幾ら山間部にあるとはいえこんなに多量に出るわけがない。
 ワケが分からないまま、綾子はとにかく麻衣を助け出そうと九字を切って蛇たちを散らしていく。身の危険を感じたのか、それとも、蛇に働いていた力が消えたのか、蛇たちは逃げるようにちりぢりに散っていった。
 床が天井が波打ち、下水から蛇口から、窓の隙間や廊下へと逃げ出していく。
「うわぁ!なんだこれは!?」
 背後から驚く声が聞こえる。真砂子に呼ばれて駆けつけてきた滝川達だということが判る。蛇が消えた手洗い所には意識を無くして横たわっている、麻衣が姿を現した。綾子がすぐに近寄ろうとするが近寄ることが出来なかった。麻衣の全身を包むように、大きな大蛇が巻き付いているからだ。
「麻衣から離れなさい」
 相手を刺激しないように静かに声をかける。
 下手に刺激して大蛇が麻衣を締め付けたりしたら、麻衣の命が危険にさらされてしまう。あれほど大きな大蛇ならば、麻衣の背骨ぐらい簡単にへし折ることが出来るだろう。
「歌子姫、麻衣を離して。彼女は貴方から婚約者を奪った女ではないわ」
 歌子姫は恨みがましい視線を麻衣と、綾子に向ける。
 彼女には区別が付かないのだろう。婚約者を思い出させる僧侶の周りにいる、自分以外の女は全て憎い恋敵に見えてならないのだ。だからこそ、こうして恨みがましい視線で自分や麻衣を見るのだ。
「歌子姫、麻衣を返して貰いましょうか」
 ナルがスッと前に出る。
 歌子姫は真っ直ぐにナルを見る。重い前髪の隙間から覗くのは、恨みがましい視線。どんよりと曇った双眸が真っ直ぐにナルを見る。
「何を勘違いしているのか、判らないが麻衣を返していただこう」
 威嚇するようなうなり声が上がる。下手に刺激してしまえばそれこそ、何をするか判らない。今はとにかく麻衣を彼女から引き剥がす方が先決なのだが、彼女は麻衣から離れる様子がない。
「歌子姫、麻衣を返して下さいませ。
 彼女は、貴方の許嫁を奪った女性ではありませんわ」
 始めて歌子姫を視た真砂子は一瞬竦んでしまったが、一歩前に出て彼女に語りかける。いくら、憑依された後で体力を奪われていたとはいえ、寺の中に入ってきたことに気が付かなかったのは、自分の失態だ。真砂子は握っていた拳を開いて、歌子へと手を向ける。
「何を望んでいらっしゃるの? おっしゃって下さいませ」
 彼女は今だ復讐を望んでいるのだろうか。
 伝承では彼女は、すでに自分を裏切った元僧侶を殺しているのではないのだろうか。それでもまだ、彼を求めそして復讐したいというのだろうか。
『わたくしは……わたくしは………』
 不意に真砂子が震えたか細い声を出す。皆の視線が真砂子へと向かう。麻衣を巻き付ける歌子姫の姿は消えてはいない。何かを語るように唇が動くが言葉はそこから出ていない。ただ、滝川へと視線を向けながら唇を動かしている。その声は、その場に跪いている真砂子から聞こえてきた。
 どうやら、歌子姫は声を出せないらしく、二度ほど既に憑いており依りまし体質の真砂子を媒介に言葉を紡ごうとしているようだ。
 恋い慕う男を見るかのように滝川に視線を向けるが、滝川は歌子姫の視線に気が付かない。背後にいるリンとどうやって麻衣を取り戻すか話しているのだ。
『なぜ、わたくしを視て下さらないのですか……そんなにこの女が、大切なのですか……』
 自分を見ようとはしない滝川に、歌子姫は激しく憎しみを募らせる。滝川に対してではなく、彼が心を手向けている少女に。
『それほど、このような小娘が!!』
 麻衣の身体に巻き付けている胴に力を入れる。それほど力を入れているとは思えないのに、軋むような音がして麻衣が苦悶の表情を浮かべる。喘ぐように唇を動かし酸素を取り込もうとするが、上手く取り込めないで居るようだ。
「やめろ!!」
 表情を変えた滝川よりも早く、ナルの鋭い声が空気を切り裂く。
 滝川のように焦りに表情は一切変えていないが、何よりも鋭い漆黒の視線が歌子姫を貫く。それ以上、麻衣を苦しめることは自分が許さないと言うように。
『この娘にお前も心を傾けるというか。このような小娘のどこがいいというのだ』
 二人の男に愛されていると思っている麻衣に、より嫉妬の色を濃くする歌子姫だが、ナルは唇を微かに傾け笑みの形を作る。それは、確かに笑みの形を作っているのだ、酷薄な印象を与える笑みは恐怖を与えるだけだった。
「何を勝手に勘違いしている。
 麻衣が愛しているのは滝川さんではなく、僕だけだ。僕以外にはいない。勝手に勘違いしないで貰おうか。
 勝手な思い込みで麻衣を傷つけることは許さない」
 横柄な態度できっぱりといいきるのだが、歌子姫は簡単に信用しようとしない。昼間あれほど見せつけられたというのに、彼女は覚えていないと言うのだろうか。それともやはり、滝川…僧侶の周りにいる女性全員に嫉妬せざるえないのだろうか。
『ならば、なぜこの小娘如きに心を煩わすのだ』
「麻衣は彼にとっては妹も同然だ。肉親ならば大切に思うのは当然だろう」
 本来ならば娘のように可愛がっていると言うべきだろうが、下手に『娘』と言えば逆上してしまう可能性もある。言葉は慎重に選ばなければ逆効果になりかねない。
『どうすれば、わたくしを視て下さる…何がいけなかったのだ…ただ、わたくしは…わたくしは…………………』
 歌子姫は苦悶の表情を浮かべながら両手で髪をかきむしる。
 望んだことはただ一人の愛だった。
 目の前の漆黒の男がこの少女だけを愛しているように、自分だけを愛しているとハッキリと言いきれるように、自分だけを愛して欲しかったのだ。それ以外望んでいなかったのに…
 歌子姫はずるり…と麻衣に巻き付いていた胴を離すと滝川に近づこうとする。その隙にナルは駆けだしぐったりとしている麻衣を腕に抱き上げる。意識は戻っていないようだが、呼吸も脈にも異常はない。ただ、身体が冷えていた。氷のように冷たく小刻みにその身体は震え、顔も唇もすっかりと青ざめていた。
 自分の着ていた上着を脱ぎ麻衣の身体を包み込む。今はとにかく、体を温め休ませることが先決だ。
『どうすれば、わたくしを愛して下さる…………』
 全てを切り裂くような長い爪を滝川に向けながら、すがるように近づくが、滝川は一歩身体を引く。そのタイミングを狙っていたかのようにリンが口笛を吹く。澄んだ音が空気を切り裂くと同時に、歌子姫はざっと両手で顔を覆い、その場から瞬く間に身を引かせて逃げる。
 その事で憑依状態から抜け出せたのだろう。真砂子も深く息を吐き出すとゆっくりと身体を起こす。一日に二度もその身に降ろしたせいか、非常に顔色は良くなかったが、意識はしっかりとしているようだった。








☆☆☆ 天華の戯言 ☆☆☆
 いちおう、歌子姫の過去編でした。そして、主人公なのに麻衣が一言もしゃべっていない、唯一の話(笑)
いやぁ、初めてかもしれないなぁ。麻衣が一言もしゃべらない回なんて(笑)一年と数ヶ月やってきたけれど、今まで一度もなかったはず。他のメンバーを主人公に置いて書いたことがないせいか、ナルが出なかったことはあっても(・・・あったと思うけれど)麻衣が一言もしゃべらないというか、出なかった話を書いた覚えがないので(^_^;ゞ
 おそらく、今後もこういうことはほとんどないかと思うけれど・・・・
 いよいよ、佳境一歩手前・・・な展開だけれど、もしかしたらのびるかも?









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