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   一章 《婚約》




 まだ残暑の厳しい九月上旬、麻衣は友人の一人である綾子に一つの報告をする。
 大学を卒業したら恋人であるナルと籍を入れる事が決まったと。英国人であるナルとの結婚は、国際結婚になるため手続きに時間はかかるだろうが、卒業と同時に手続きを始めることにしたと麻衣は幸せそうに告げたのだった。
「おめでとう」
 その報告を聞いた綾子は唐突の話に一瞬面食らったようだが、すぐにめでたいこの話題にお祝いの言葉を言ってくた。
 いずれこの二人は結婚するだろうと思っていたが、まさか麻衣の大学卒業と同時に入籍をするとは思ってもいなかったため、さすがに驚きは隠せなかった。
 けして早すぎるということはないが、晩婚化が進んでいる世間の流から見れば早婚と言えた。しかし、ようやく二人が正式に夫婦(カップル)になると聞いて、綾子はなによりもこの話を喜ぶ。
 下手をすればこの二人のことだから、子供でも出来ない限りこのまま(恋人同士)の関係を続けていくと思っていたぐらいなのだ。
 あのナルも一応それなりのケジメというものを持っていたのね・・・と失礼なことを思わないでもない綾子だ。しかし、この唐突な展開には少しばかり疑問も抱く。
 確かに半同棲状態で、ナルの両親も公認の仲でいつ結婚をしても可笑しくない二人だが、なぜいきなり結婚の二文字が浮いてきたのだろうか? 大学卒業を転機に関係をきちんとしたいとでも、堅真面目なことをナルが思ったのだろうか?
 真面目は真面目だが、そういった意味合いで真面目とは思えないのだが・・・。
「でも、いきなりどうしたのよ。今までそんな話題上がってなかったじゃない。どんなロマンチックな展開があったのよ。それに、入籍するなら何も卒業を待つ必要なんてないんじゃない? 別に高校じゃないんだから何も問題ないだろうし。
 手続きには時間がかかるんだから、もう手続きを始めちゃっても良いんじゃないの?」
 ひとしきりの祝いの言葉を告げると、綾子は不思議そうに問いかけてくるが、その質問は予想済みだったのだろう。苦笑と共に答える。
「ご期待に添えなくて残念だけど、ロマンチックな展開なんてまったくないですー。実はね、ナルもしかしたら、春になったらイギリスに戻ることになるかもしれないんだよねぇ」
 これまた唐突な麻衣の話に綾子は目を丸くする。
 考えてみればナルが日本に来て早六年が過ぎようとしていた。瞬く間に過ぎていったが、確かに六年という時間は長い。本国から呼び戻しがかかってもおかしくはないほどの時間がいつの間にか過ぎていたのだ。
 日常的にナルから異国の臭いを感じないため、ナルがイギリス人ということをすっかりと忘れていたが、彼の本籍はイギリスであり、いずれ戻ることになるのは当然だ。そして、その時麻衣も連れて行くだろう事は簡単に想像付くことなのだが、それが現実の話となると、めでたいと思う反面少しばかり寂しくも感じる綾子だった。
 何よりも、美味しいお茶が飲めなくなるのは困るわね。等と麻衣が聞けば文句を言いそうなことを思う。
「まだ、正式には何も言われてないけれど、何となくそんな感じなんだ。
 実際にはそのままイギリスに帰りぱなしって事にはならないと思うけれど、今までよりも滞在期間が長くなりそうでね、話を聞く感じだと半年から一年ぐらいは向こうにいることになりそうだし、下手したらもう少し長くなるかもしれないんだよね。だからナルは形をしっかりとってくれたんだと思うんだ。
 ああみえて責任感強い人だから」
 プロポーズらしいプロポーズの言葉は何もなかった。はっきり言ってしまえば、淡々としたやりとりだった。
 イギリスにしばらくの間、戻ることになりそうだがお前はどうする? と聞かれた時はっきり言って麻衣にはナルの質問の意図がすぐには理解できなかったほどだ。
 いきなりのことに呆然としていると、ピンッと額を指先で弾かれ、親指が優しく目の縁を撫でていた。てっきり離ればなれになってしまうと思い、迂闊にも泣いてしまったのだ・・・その件に関しては完全に自分の早とちりで、その後ナルからその気があるならと、入籍の話を持ち出された。
 まるで、便宜上それを選んだような感じではあったのだが、便宜上だろうと何だろうと、そうしても構わないと思ってくれたのはナルで、言い出してくれたのもナル。
 そして、イギリスに連れて行く気で居たのもナル。
 むろん麻衣に否の言葉はない。
 向こうでの生活に不安が無いわけでもないが、答は他にあるわけがなく、その場で即座に返事をした。「yes」と。
「というわけで、どうせ来年の春から向こうに行くんだから、今高い旅費払って、イギリスに行かなくてもその時でいいかなっていうことになってさ。
 別に今すぐ始めなきゃいけない理由もないし、急ぐものでもなんでもないし」
 理由を聞けばなるほどと納得できる。
 確かにここからイギリスまでの交通費は馬鹿にならない。半年後イギリスに戻ることになるのならば、その時手続きを始めればすむ話であり、無駄な出費を抑えることが出来る。これがすでに妊娠でもしていて体裁を繕う必要があるのならば、のんびりしている場合ではないのだが、今のところ二人の間にそのような問題はない。
 そもそも入籍をするきっかけがきっかけだ。二人らしいと言ってしまえばそれまでなのだが、もう少しロマンティックな展開をみせても良いとは思うのだが・・・仕事の転勤(この場合恋人の帰国?)に合わせての、入籍といえば王道と言ってしまえば王道なのかもしれない。
「んで、いつなの?」
 麻衣に新しく入れてもらった紅茶を一口飲んで、気を取り直したかのように綾子は問いかける。
「だからぁ、来年の四月以降に向こうに行ったら手続きをするって言ったじゃん。人の話を聞いているの?」
 綾子の問いに麻衣は深くため息をついて呆れたように言うが、違うわよ。と綾子の方こそ呆れたように言う。
「入籍の準備の話じゃなくて、式の方よ、結婚式! 入籍が終わったら式を挙げるの? それとも入籍の前にとりあえず結婚式だけは挙げるの?」
 まるで、入籍だけですでに完結している気がするのは気のせいだろうか。これからがメインイベントだというのに。
「のんびりしている暇なんてないんだからね。式の準備なんてそれこそ早くやっておいて損はないわよ。日取りを決めたら会場を決めて、予約が取れたら、ドレスをレンタルにするかオーダーにするかでかかる日数が変わってくるし、招待客をどうするか、料理をなににするか決めることはたくさんあるのよ?
 まだ半年あるし・・・なんて暢気にしていたら絶対に間に合わないわよ。まして日本でやるならともかくイギリスでなんていったら、もっと準備が大変じゃない。まぁ、イギリスでやるとしたらナルと一緒に向こうに行ってからになるのかしら? あちらには、ナルのご両親やまどかさんもいらっしゃるし、あちらの方達の意見とかを参考にした方がいいものね。イギリスは五月、六月がベストシーズンって言うから、少し早めに向こうに行って準備を始めたら、丁度いい季節にお式あげられるんじゃない? イギリスならあこがれの六月の花嫁(ジューンブライド)にもなれるし。
 日本でやるならば四月頃が良い季節よね。六月の花嫁(ジューンブライド)にも憧れるけれど、そのころ日本だと梅雨だし、五月も意外と天候不安定だし、ゴールデンウィーク明けは冷え込む時もあるから。
 でも桜が咲く季節に合わせてやるとしたら、競争率激しいわよ。タイミング良く咲いてくれるかどうかも判らないし。ここ数年の流でみると三月には咲いてしまって、入学式シーズンになると若葉の季節なんてこともあるから、ちょっと難しいかもしれないけれど。
 そうね、いっそうのこと桜は諦めて、梅の季節とか桃の季節でも良いかもしれないわね。三月は年度末だからどこの企業も忙しいし、式を挙げる人は四月に比べたら比較的少ないかもしれないだろうし、今から動いても間に合うんじゃないかしら? どちらにしろ、早く動くにこしたことはないんだからね。
 さらに有名な教会で式をしたいなんて言ったら一年待ちなんてざらにあるんだから、ボケボケしてないで麻衣が率先して動きなさいよ! ナルが自らその手のことをやるなんて思えないんだから。
 というより、結婚式に関して男は何の役にも立たないんだからその事は忘れない方が良いわよ。
 花婿最初から最後まで添え物(パセリ)にしかならないんだから、主役(メイン)は花嫁よ! 麻衣がてきぱきと動きなさいよ!」
 結婚式など一度もやっていないというのに、さすが年の功というべきだろうか。まるで、自分がさぞ苦労したことがあるかのように綾子は言う。が、麻衣はきょとん・・・と綾子を見て首を傾げた後、ぽふっと手を叩いた。
「言ってなかったけ?」
「式の日取りのことなんて何も聞いてないわよ」
 聞いたのは婚約したこととぐらいだ。
「しないから大丈夫だよ」
「そう、なら決める必要は確かにな・・・・・いぃぃ?」
 さらりと言いのけた麻衣に対し、綾子は寄声を発する。あまりの声に麻衣は五月蠅そうに眉をしかめる。所長室は防音だから構わないが、ナルが聞きつけたら間違いなく身をすくめるような言葉が返ってきただろう。
「あんた、いましないとか言わなかった?」
「・・・言ったけど?」
 それがどうかした? といわんばかりの麻衣になんだか急に目眩が襲ってき、綾子は片手で目を覆ってしまう。
「何でしないのよ!」
 思いにもよらない綾子の剣幕に麻衣は目が点である。
「イヤ・・・何でって、やっぱりお式ってお金が色々と掛かるし、ナルは面倒だと思うだろうし。別に今やんなきゃいけないってこともないでしょ? やりたくなったらやればいいよねーってナルに言ったら、好きにすれば?って言ってたし。
 ナルのご両親も焦ってもいいことはないから、やりたくなってから式は挙げればいいって言ってくれたし、だから今回はとりあえず入籍だけをすることにしようかって話なんだよね。
 イギリスに戻ることになりそうだから、入籍って話が出たわけなんだし、別にお式を挙げないと入籍できないってわけでもないし」
 綾子は開いた口が塞がらない。
 麻衣のお金がかかるから式を挙げないというのは、若い夫婦には多いことだ。式を挙げない理由にも確かになる。だがしかし、その問題少なくともこの二人には・・・いや、正確に言えばナルには当てはまらないはずだ。一等地の高級マンションに住み、ある意味無頓着に金を使っている・・・とくに、物理面的には麻衣に不自由をさせていないナルに、式を挙げるだけの余裕(かね)がないとは言わせない。
「・・・・・・・・・本当に後悔しないの? 若いうちよ? ウェディングドレスを着て映えるのって、後数年もすれば肌は荒れるし、体型は崩れるし、見栄えは格段に落ちるわよ?」
 妙に実感がこもっているような気がするのだが、あえて麻衣は触れない。藪蛇を突っつくに決まっているからだ。
「いや・・・まぁ、別にいいかなーって・・・・ウェディングドレスって確かに憧れるけど苦しそうだし・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 綾子は二の句が続けられなくなったかのように、深々とため息をこぼす。
 ナル一人の意見(我が儘)で式をしないというならば、綾子は率先して麻衣の味方をして、ナルに式をやらせるよう訴えるつもりだったが、麻衣自身も乗り気でないのならば、周りがあれこれ言う立場ではない。煩い人間が一人出ることは確実だが。
「まぁ、何はともあれおめでとう。あんたたちに言うのも今更な気がするけれど、幸せになりなさいよ」
「もっちろん」
 麻衣は満面な笑顔で答えたのだった。




                ※    ※    ※




 入籍するのはしばらく先なのだが、麻衣はアパートを引き払いナルのマンションに引っ越すことになっていた。
 元々荷物が多い方ではなかったため、ちまちまと荷物をまとめアパートからマンションへと運ぶ日々を過ごしているのだが、麻衣はこの日もアパートに一度寄ってからマンションに向かうため、いつもより少しだけ早めにオフィスを後にしたのだった。
 幾分風は涼しくなったとはいえ、まだまだ日差しはかなりきつい。いくら夕方になっているとはいえ、アスファルトから立ち上がる熱と、残光のきつい夕日に電車から降りると思わずため息をついてしまう。
「早く、涼しくならないかなぁ〜」
 そう思うのはきっと皆同じだろう。
 改札を出、重くなってしまう足取りでいつも通る陸橋に向かうのだが思わず足を止めてしまう。陸橋の前に看板が貼ってあり、老朽化のため補強工事中につきしばらくの間、他の道を行ってくれと言ったようなことが丁寧な文体で書いてある。
「うっそぉ  一ヶ月先なら良かったのにぃぃぃ」
 今月いっぱいでアパートを引き払い、引っ越しを終える予定なのだ。その後でならいくら工事が始まっても支障はないのだが、よりにもよって一番往復の多い時期に使えないとは痛い。もちろん、他にも線路を渡る道はあるのだが、かなり遠回りになってしまい、その上・・・・
「やだなぁ。あまり、あの踏切使いたくないのに」
 思わず大きくため息をつきながら呟いてしまう。
 事故が昔から多く噂の絶えない踏切。そういった先入観抜きにしても麻衣は、以前から踏切というものが苦手だった。
 特に最近あの道には行きたくない。
 理由など無い。
 ただ、何となく生理的に受け付けないという理由だけなのだが、最近ますますそんな思いが強くなってきているため、よりいっそう通らないようにしていた。とはいえ元々今までは使う必要がないため意識せずとも通らずにすんでいたのだが。
 なぜこんなに苦手に感じるのか判らないが、人気もあまりなく寂しげな道はそれだけでも通りたくなくなるものだ。まして、「痴漢注意」「ひったくり注意」などと書いてある看板があればなおのこと。
 だが、通らないわけにはいかない。
 思わずナルに車を出してもらえば良かったかなと今更ながら後悔をする。
 ああ見えてもナルはイギリス人であるだけあって紳士的な面も持っている。荷物を運びたいから車を出して欲しいと頼めば、よほど都合が悪くない限りだしてはくれるのだが、締め切り間近ではないとはいえ、ナルも今は論文の資料集めで忙しい時期で、半年後には一時帰国という状況にもなっているため、資料の整理によりいっそう時間がとられている。
 そのさなかさらに自分の引っ越しなどの整理でマンションもごたごたしてしまっており、自分一人で出来ることで余計な手を煩わせたくはない。
 それに生理的に受け付けないとはいえ、踏切で何かを見たことがあるとか、声を聞いたと言うことは一度もない。
 ただ何となく嫌な感じがし、今まで特に使う必要性を感じることもなく、また真砂子が以前そういう直感は大切にした方がいいと言っていたから、意図的に避けていただけといえばだけである。
 他の道を回るか・・・という考えも浮かぶが、夕方を過ぎ陽が傾き始めているというのに、いっこうに下がる気配のない気温にその考えは一分と立たず霧散する。
 他の道を選ぶとなると果てしなく遠回りになってしまうのだ。炎天下ではないが蒸し暑いさなかをえっちらおっちら倍以上の時間を費やして返りたくはない。
 逡巡はほんの僅か。諦めて問題の踏切へと足を向ける。
 自分だけではなく陸橋を使う人間はみな、同じ方向へと向かうため、いつもよりその踏切に向かう人は多い。一人ではないと言うことに安堵を覚えるが、踏切を渡る前に無意識に足が止まってしまい、思わず左右を確認する。
 警報機が鳴る様子もなく、遠くに電車の姿が見えるわけでもない。麻衣はいつも通りの歩調で足を踏み出す。
 人と車一台が通れるほどの幅しかない狭い踏切。距離は線路が四本並んでいるため多少あるが、長すぎると言うこともない。
 レールの間に間違ってもサンダルのヒールを挟まないように足下を気をつけながら歩くため、視線は自然と足元を見る形になる。
 うつむきがちに歩いていたが、自分の前に誰もいないことぐらいは判る。そもそも歩き始めた時、自分の前を歩いている人はいなかった。それなのに、目の前を白い布きれが翻ったような気がした。
 この場には不似合いなほどふわりとしたスカートの裾・・・まるで、ドレスのようにふんわりと広がって風になびく様子に違和感を覚え、麻衣は思わずその場に立ち止まってしまうが、目の前には白い服を着た人間は誰もいない。
 それどころかスカートの裾が見えた位置にさえ人は立っていない。
 当然だ、誰も前を歩いていなかったのだから、人の姿が見えるわけがない。
「え・・・・・・っと・・・?」
 目の錯覚だろうか、それとも何かを見間違えただけなのだろうか? 呆然と突っ立っていると、前方から聞こえてきた中年の女性の声にはっと我に返る。
「そこのあなた! 危ないわよ!」
 パチクリと数度瞬きを繰り返すと、急に頭の中がクリアーになって麻衣は慌てて走る。
 今までなぜ聞こえなかったのが不思議なくらい、カンカンカンカンと踏切が警鐘をならせており、ゆっくりと遮断機が下りるところだった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・び・・・びっくりしたぁぁぁぁぁ」
 遮断機が下りてしばらくすると、下り電車が勢いよく目の前を通過していく。なぜこんなに大きな警報機の音に全く気が付かなかったのか、あの女性に声をかけられなかったら・・・と思うと背筋を冷たい物が流れていく。
「ね・・・寝不足かな?」
 指の上で光る指輪に目をとめると、思わず人目もはばからずにんまりと笑みを浮かべてしまう。
 昨日、綾子が帰った後で所長室にお茶を運んでいった時ナルがくれた物だった。お茶を置いたらすぐに出て行くつもりだったのだが、不意に目の前におかれた小さな箱。
 掌サイズのそれをじっと見下ろしていると、ナルは軽くため息をついくと、ぶっきらぼうな口調で「やる」と言った。
 驚いた表情のままそれを手にとって慎重な手つきで包装紙をとくと、小箱の中には滑らかなビロードの布が張られた小箱が姿を現す。
 その蓋をおそるおそる開けると・・・
「ナル・・・・・・」
 中央にルビーがあしらわれ、左右にダイヤの粒が広がってゆくVの字の型をしたプラチナのリングが厳かに収まっていた。
「これ・・・・・・・・」
 式は挙げなくても構わないと言った。入籍だけで何も特にする必要はないと。だから、こういった指輪なども貰えるとは全く思っていなかっただけに、麻衣はとっさにどう反応すれば良いのか判らず、戸惑った顔のままナルを見上げる。
「何を情けない顔をしている」
「だって、これ・・・って・・・・・・」
 両手ですくい取ったまま途方に暮れていると、ナルはおもむろに立ち上がり麻衣の掌から箱を奪い取ると、中から一点の曇りのないリングをとりだし、麻衣の薬指に静かにはめる。
 ナルらしく最初から最後まで何も言わない。だが、その心は指輪を通して伝わってくる。掌に優しく触れる少しだけ冷たい指が、何よりも思いを伝えてくれる。
 麻衣はそのままナルの首に思いっきり抱きつく。いきなり抱きつかれたため、ナルは少しばかり踏鞴(たたら)を踏むが、小柄な身体を難なく抱き留め苦笑を浮かべていた。
 きっと、自分の驚きように呆れていたかもしれないが、予想もしてなかったことだけに嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
 その後はもう鼻歌を歌いながら業務をこなしていたぐらいである。安原が休みだったから良かったものの、いたらきっとからかいのネタにされていたに違いない。
 嬉しさのあまり昨日はあまり眠れなかったほどで、連日の暑さと引っ越しの準備による疲れなどで、つい気が抜けてしまったのかもしれない。
「いかんいかん。いくら嬉しくても夢の住人になっちゃいかん」
 こつん。と自分の拳で軽く頭を叩くと、さっさと歩き出す。
 なんとなく、白い服を着た人がいるか周囲を見渡すが、気が付けば自分一人がこの場に残っており、誰もいなかった。線路の向こう側に踏切があがるのを待っている人達が数人いるぐらいだ。
「気のせいか・・・じゃなかったら、通り過ぎちゃったかな?」
 視線を元に戻そうとした瞬間、勢いよく上り電車が走りすぎてゆく。頭上からは煩いほど警鐘が鳴り響き、不快感が増すばかりなので麻衣は足早にその場から移動を開始する。




 背中を向けた瞬間、ふわりと白い物が遮断機の向こう側に微かに広がるが、麻衣は気が付かない。




   カエシテ・・・




                ※    ※    ※




「ナル? 今日、そっちにいけないや。
 大家さんがお祝いにお夕飯に招待してくれたの。急でゴメンネ。ナルもちゃんとご飯食べてよ」
 ナルのマンションに行くつもりだったのだが、帰宅するなり大家に夕食に招待されて断る事も出来ず、マンションに行くことは取りやめることにしたのだった。
 高校時代に下宿していた所のように親密な付き合いにはならなかったが、子供もすでに自立し老後の道楽でアパートを経営していた老夫妻は、天涯孤独で身寄りがまったくない麻衣のことに何かと気を遣ってくれ、麻衣の結婚祝いと、お別れ会という名目の焼き肉パーティまで開いてくれたのだった。
 おじいちゃんとおばあちゃんがいたらこんな感じなのかな?と思いながら、ついつい薦められるがままにアルコールを飲んでしまったせいか、部屋に戻った時にはかなり酔いが回り、シャワーを浴びることもせずベッドにダウンしてしまう。
 グルグルと視界が回るような感じがし、胸がむかむかとしてきて気持ち悪い。最後に飲んだ日本酒がまずかったのか、完全に悪酔いを起こしている。
 調子に乗りすぎだ。と言うナルの冷たい声が聞こえてきそうだ。
 それでもナルがいれば水でも取ってきてもらえるのだが、この部屋には自分以外誰もおらず、待っていても誰も持ってきてはくれない。かといって、起きて自分で取りに行くのも面倒で麻衣は、そのまま諦めて目を閉じる。
 だが、閉め切ったままの部屋は熱気が籠もっており、とても寝付けるような状況ではなく、だるく感じる腕を伸ばして窓を少しだけ開ける。
 さすがに九月ともなると夜風は気持ち涼しい。
 そよそよと風が頬をなでるのを感じながら目を閉じる。


 カンカンカンカンカンカン
           カンカンカンカンカンカンカン


 風に乗って、踏切の警鐘音がここまで微かに届く。線路からの直線距離があまりないため、聞こえてくるのは日常茶飯事だが、いつもは気にならないはずのその音が、なぜか耳に触る。


 カンカンカンカンカンカンカン
            カンカンカンカンカンカン


 煩い。
 だが、そう思ったからといってどうにかなるものではない。電車が通り過ぎれば音は聞こえなくなるのだ。それまで待つか、窓を閉めるしか遮断する方法はないが、朝や夕方のラッシュ時とは違い、開かずの踏切になってしまうほど車両が通るわけではないのだから、すぐに静かになるだろう。
 意識も殆ど夢うつつで、はっきりとしないのにそれでも警鐘音だけがイヤにはっきりと聞こえ、白い布が目の前でゆらゆらと揺らめく。
 レースのカーテンが風にのって揺らめいているのだろうか?
 大きく膨らみサワサワとかすれる音を立てながら、繊細なレースが揺れ動く。それは風に乗るというよりも波打つような動き。


 カンカンカンカンカンカン
          カンカンカンカンカンカンカン


 なかなか、止まらない音に苛立ちが生まれる。
 いったい、いつまで鳴り響いているのだろうか。
 そもそも、こんな時間にそんなに電車が通るわけがない。上下線とも電車が通ったとしても、たかが数分にも満たないはずだ。
 それなのに、警報機の音は鳴りやまず音を響かせる。
 サラサラと衣擦れの音と共に。


 カンカンカンカンカンカン
         カンカンカンカンカンカンカン


 夢でも見ているのか。それともこの音は実際に聞こえる音ではなく、耳に焼き付いている音なのだろうか。それにこの警鐘音に混じって聞こえる衣擦れの音・・・カーテンの音にしては音が大きすぎる気がする。そもそも、こんなにドッシリとした質感のある音がしただろうか?
 うっつらうっつら、しながらも疑問が浮かんでくるが答は当然でない。
 ただ、ウトウトと思考は働かないままなぜだろうとだけ思っていると、白い物が大きく目の前でひらめくような気がした。
 大きくふくらんだ布にはふんだんにレースがあしらわれ、波打つよう動いて音を立てる。
 遠くで風に揺らめくそれを見ながら、なぜか怖い。と言う感情がわき起こる。
 逃げなきゃ。
 煩い。
 そんな感覚に頭が混乱してきはじめると、夢現に聞こえていた音が、身体を押しやる風圧と共に、現実のものとなって鼓膜に届く。
「え・・・・え・・・・えぇぇぇぇぇぇぇ?」
 麻衣は思わず時間も場所も関係なく叫び声を上げてしまう。
 それも当然だ。アパートにある自分のベッドで寝ていたというのにもかかわらず、なぜか踏切の前に立っているのだ。これを驚くなと言う方が無理だろう。
 目の前をものすごい勢いで、電車が走っていく。
 ちらり・・・・と視界を掠めた物をみると、どうやら目の前を通過している電車が今夜の終電のようだ。
 電車が通り過ぎれば当然警報機は鳴りやみ、遮断機も上に上がる。
 遮断機がゆっくりと上がりきると、人が二〜三人踏切を渡ってくるのが、外灯に照らされて見える。彼らは麻衣を奇怪なモノでも見るような目で見ながら通り過ぎていく。
 なぜ、彼らはそんな怪しい物でも見たかのような目を向けるのだろうか? 確かに踏切の前でぼうっと突っ立っていれば、ある意味やばい人間なのだが、それにしては、その類の視線ではないような気がし、麻衣は首を傾げながら自分を見下ろして真っ赤になる。
 髪はぼさぼさ、着ている物はかろうじてジーンズとキャミソールと外に出ても痴女と間違われない物だが、よれよれのしわしわで、まともな感覚を持っていたら恥ずかしくて外に出られるような姿ではない。
 痴漢にあってもそんな格好をしている方が悪い。といわれかねない姿だ。その上素足ともなれば自殺志望者か夢遊病患者が、ふらふらと家を抜け出したものの電車に飛び込めず突っ立て居たように見られてもおかしくはない。
 せめてもの救いはすでに零時を越えており、ほとんどの目撃者がいなかったからだろうか。
 これ以上人目に付かないようにさっさとアパートに戻るに限る。


 カエシナサイヨ  


 遮断機の一歩手前で誰かが立ちつくして、走りさる麻衣の背中をジッと見つめる。
 赤く塗られた唇が微かに動いて言葉を紡ぐが、音となることはなかった。
 それがニヤリと笑むように唇を歪めると、合図のように風が吹き抜け白い布が大きくひらめく。
 布だけではない、風に吹かれ木々がしなり大きなさざ波のような音を立てる。
 青々とした葉が数枚風に煽られ、地面にゆらゆらと舞い落ちた時には、元の静けさを取り戻していた。
 その場に立ちつくしていた者の姿もいつの間にかない。
 麻衣は、その存在に最後まで気が付かないまま振り返ることなく走ってアパートまで戻る。
「それにしても何で、あんな所にいたんだろう?」
 シャワーを浴びて汗などをすっかりと落とし、酔いも抜けた頭で考えるが、理由が思い出せない。
 そもそも、理由をはっきりと思い出せるような状態なら、あんな格好で外にふらふらと出たりはしないはずだ。
「もしかして、酔っぱらって警報機に文句を言いに行ったとか言わないよね・・・・?」
 音がうるさく感じたことだけは覚えている。
 いつまでも鳴りやまない音にかなり苛ついてはいた。
 もしかしたらとっくに止まっていたのに、耳に残っていた音に腹を立てていたのかもしれないがそう思ったらそんな気がし、麻衣は青ざめながらも首まで真っ赤に染めるという器用な芸当をやりとげる。
「うわぁ・・・・ナルとかいなくて良かったよぉぉぉ」
 ナルがいたらそれこそ、酔っぱらった勢いで外に出ることなどないのだが、麻衣の頭にはあんな所を見られなくて良かったと言うことしかなく・・・・
 今夜のことはけして誰にも言うまいと固く誓って、ベッドに入ったのだった。