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  二章 《夢惑(ゆめまど)い》



 重く感じる身体を誤魔化しながらなんとか渋谷駅に辿り着くなり、麻衣は安堵と疲労が入り交じった溜息をもらす。
 いつもはうんざりとしてしまう土曜日の人混みと都会の熱気やざわめきも、この時ばかり心地よく感じながら、ゆるゆるとした足取りで通い慣れた道玄坂へと向かう。
 夜は幾分涼しくなったとはいえ、日中はまだまだ真夏の陽気を色濃く残している。むしろ残暑で一層暑さは厳しさを増していると言っても良いぐらいだ。
 日陰を選んで歩きたいところだが、コンクリートジャングルとしかいいようがないこの地に、涼を求められるような日陰があるわけがない。そもそも日陰があったとしても、照り返しが強く日陰が日陰の役割を果たしていない。
 重い足取りは人の流れに乗りきれず、何度も後ろから追い抜かれる人にぶつかられながら、よろけるように道路の端へと逃れて立ち止まる。
「・・・あつい・・・・ねむい・・・だるい・・・・・・目が回る・・・誰か迎えに来て・・・・・・」
 声にもならない小さな声で麻衣は呟く。
 熱中症か日射病でも起こしたのだろうか。
 目がグルグルと回り気持ち悪くてたまらない。
 落ち着かせるために幾度も深呼吸をゆっくりと繰り返すのだが、排気ガスの臭いと茹で上がりそうな熱い空気を吸って気分が良くなるわけが無く、逆によけいくらり・・・と目が回るような気がしてくる。
 このままここに立ち止まっていても通行人の迷惑で何より、今にもこの場にへたり込んでしまいそうだ。
 とにかくあと少し歩けば、涼しい事務所に着くのだから・・・と己を奮い起こして足に力を入れるが、引きずるような足取りは先ほどよりもいっそう歩みが遅くなっている。
 普段から辟易してしまうが、本当にどうして渋谷はこんなに坂が多いのだろう。渋谷だけではなく東京都内は意外と坂が多いことにもだんだん腹が立ってくるが、腹を立てたからといえ平らになるわけもなく、黙っていてもオフィスにたどり着くわけではないため、気力だけで足を進めていくが、寝不足の原因を思い出して大きくため息をつく。
 毎晩毎晩聞こえてくる踏切の音。
 それ自体は珍しいことではない。
 アパートの位置的に踏切の音が聞こえるのは致し方ないことで、それを了承してあのアパートに住んでいたのだ。今更とやかく言うことではない・・・なにせ、あのアパートに四年も住んでいたのだから、第三者が聞けば何を今更といわれるに決まっている。
 それにしてもあんなに煩かっただろうか?
 自分の部屋はナルのマンションのように完全防音ではないため、聞こえてきても何ら不思議ではないのだが、ひっきりなしに聞こえてくる。
 そして・・・あれは何だろう。
 踏切の音に負けずに聞こえてくる重い衣擦れの音。
 二つほぼ同時に聞こえてくるのだ。
 耳の奥の方で籠もったような音を立てて風圧に煽られる音が聞こえる。
 踏切の反対側にある何かが風圧に煽られてそうみえるだけなのか、それともレースのカーテンの残映か・・・判らないが、踏切の音同様に白い残映が脳裏に焼き付いている。
 夢なのか本当に見ているのか判らない。
 ただ、気が付くとあの踏切の前に立ちつくしているのだ。なぜ、踏切の前にいるのか、いつの間に部屋を出たのか判らない。
 昼も夜も関係なく、歩きながら、夕飯何食べよう、とか、次のレポートどうしよう、とか、そろそろナルに食事を作ってあげに行かないと忙しさにかまけて食事抜きにされちゃうなー、とか、そんなことをつらつら考えていると、いつの間にか意識が途切れ、そして踏切の前に立っているということを繰り返している。
 もちろん、ベッドで寝ていたにもかかわらず、パジャマ姿のままぼうっと突っ立っていたということもあったし、危ないことにも包丁を手に持ったままぼんやりと言うこともあった。
 それだけではない、バスタオルと着替え(したぎ)を片手にということもあったのだ。運が良くその時は人とすれ違わなかった・・・たぶん、おそらくであろうと思う・・・・と核心が持てないのは、気がついたら踏切前にいたため、そこに向かうまでの間に誰ともすれ違っていない。と言い切れる自信が無いからだ。
 いったいどうしてしまったというのだろうか。


 カンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカン


 こうして周りに踏切が無い場所にいても、耳の奥に踏切の音がこびりついて音が離れてくれない。
 踏切がある場所ではなおのこと、歪んだ鐘を打ち鳴らすようなあの音が耳につく。
 それは、毎晩、踏切の前に立っているせいなのだろうか。
 実際に聞こえる音ではなく幻聴のたぐいか、脳に焼き付いてしまった音なのか・・・よくある、ワンフレーズだけがエンドレスで頭の中で流れているのと同じような状態なだけなのだろうか。それにしても、それだけで踏切までさまよい出るというのは合点がいかない。
 それに、あの白い布・・・残映のように瞼に焼き付いてしまっているそれは、スカートの裾のように大きく膨らみを持って揺れている。
 踏切の向こう側で、電車の風圧に揺られるそれは、本当に目の錯覚なのだろうか?
 しかしどんなに目をこらしても電車が通り過ぎた後には何もない。白い布も白いスカートを身に纏った人もいなければ、白い布がその辺で漂っていることもない。
 だが、どうしてもちらつく。
 幻聴だけではなく幻視も見ているのだとしたら救いようがないような気がしてくる。それともどこかで見た物が目に焼き付いて夢にでも見ているのだろうか。
 気のせいだろうと思ってはいるが、あのスカートの形状はまるでウエディングドレスのようにも見えなくはなく、麻衣は眉を寄せて考え込んでしまう。
 ナルには式は挙げなくて構わないとはいったのだが、やはりウェディングドレスを着たいという願望がしっかりとあり、幻(ゆめ)という形で見てしまっているのだろうか?
 願望で思わず幻を見てしまうのは構わないのだが、ホラーチックというのが宜しくない。
 どうせ見るのならば教会で結婚式を挙げている夢か、花嫁を見て羨ましがっているといった内容になるのでは? と首を思わず捻ってしまうが、実際に見るのは夢見るオトメ的映像とはかけ離れたものだ。所詮現実・・・幻だが・・・は、こんなものなのかもしれないが・・・・
 それとも・・・
「まさか、職業病・・・なんていわないよね?」
 バイトの内容が内容だから、見る夢もついついホラーティスト満載になる。なんて事になったら笑えない・・・というより、そんな職業病イヤである。
 ナルでもあるまいし、四六時中そんなことばかり考えていたくはない。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ぐ、ぐうぜんだよ。うん、きっと。その事については深く考えるのはやめておこう・・・」
 幻(ゆめ)の件は置いておくとしても、眠れないというのは切実な問題だ。試しにアパートから離れてナルの所に泊めて貰おうかと思う。
 どれほど耳に焼き付いている踏切の音が気になるにしても、ナルのマンションまで距離が離れてしまえば、さすがにあの踏切まで彷徨い歩くことはないだろう。
 それに、あの踏切から離れ静かなマンションに行けば、この煩わしさから解放されるかもしれない。とは言え、ナルは今何かと忙しい時期に入ってしまっており、資料の整理などでナル自身あまり眠っていないようだ。
 数時間寄って食事を用意するだけならともかく、宿泊まですることに躊躇を抱く。
 もちろん泊まりたいと頼めばナルは構わないと答えるだろう。そもそもこれから一緒に住むのだから、遠慮する必要はないのかもしれないのだが、まだ正式に移り住んでいないため、どうしてもためらいが生じてしまう。
 理由が何も判らないのに、ナルを頼ることにためらってしまうのだ。
 できるだけ長い時間、ナルと一緒にいたいと思う。
 だが依存はしたくないのだ。むしろナルを支えていきたい。支えられるようになりたいし、頼りにして貰いたい。そう思うことさえおこがましいのかもしれないが、そうなれるよう努力することは必要だと思うのだ。
 自分でなにもせず、ナルに頼るというのは安易ではないだろうか?
 しばし考えた末、うん、と麻衣は心の中で頷いた。
 今晩もナルのところには泊まらない、と決める。
 もう少し自分一人で、自分の身に何が起こっているのか考えてみることにする。
 なによりも、踏切に呼ばれてふらふらと出歩くなどとは説明しにくかったのというのが本音だが。


 カンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカン


 ナルのことから踏切のことへ意識を向けると、待ち構えていたかのように、遮断機の音が脳裏で鳴り響く。
 耳元でかき鳴らされているような音に、両手で耳を塞ぎたい衝動にかられ、この世にあるありとあらゆる遮断機を壊したくなってきてしまう。
 まるで、こうして渋谷を歩いている事が夢で、現実には踏切の前で立っているような気がする。
 電車が走り抜ける音や、身体を押しのけるほどの風圧さえ感じて来そうだ。
 危険を知らせる間延びした警笛までも、リアルなまでに頭の中で再生できる。瞼を閉じて・・・目を開けたらまた、踏切の前だったらどうしよう・・・だんだん、自分が信じられなってきそうだ。
 なぜこうなってしまったのかが全く判らない。
 とにかく煩くてたまらない。
 元々自分はさほど物音には頓着しないタイプだ。高校時代は古いアパートでの下宿生活。大学に入ってからは別のアパートに引っ越ししたが、壁は薄いため隣近所のささいな物音も良く聞こえた。
 安いのだから贅沢は言っていられないのだが、そのような環境で生活してきていて、音を気にしていたらとうの昔にノイローゼになっているだろう。
 踏切の音とて今更だ。
 ずっと大学を卒業する四年間、窓を開ければ嫌でも聞こえ、窓を閉めていても微かに聞こえてきていた。それでも、気にしたことはない。雑音の一つとして聞き流して来れた。
 それなのに、なぜこんなに頭の中で木霊すのだろうか。
 ふわぁ、と麻衣は口元を手で隠して生欠伸をしてしまう。目に涙が浮かび上がり視界がぼやけ、警報機の音なんだか車のクラクションの音なんだかだんだん判らなくなってくる。
 寝不足でぼんやりした頭では、まともに考えることもできない。
 このままだと、そのうち車に撥ねられてしまうかもしれないと思いながらも、ふらふらと危ない足取りで身体が覚えている路を歩いていく。
   もしかして夢遊病・・・? 浮かれ過ぎ・・・とか?
 こんな事が起き始めたのは、ナルから指輪を貰った日からだ。
 あまりの嬉しさに、浮かれてついつい我をなくしているのだろうか・・・・・・?
 確かに有頂天になって、地に足がついていなかったかもしれない。
 表向きとか便宜上とか、けじめとかそれだけでないということは判っていたが、こうして目に見える形になって気持ちが判ると、さらに幸せがこみ上げてきて・・・はっきり言ってしまえば、自分でも判るほど気分が舞い上がっている。
 お手頃とか安くできていると思われようと何だろうと、嬉しいものは嬉しいのだ。
 だがしかし、ソレが原因で寝不足の上、夢遊病だなんてみんなにばれた日には・・・・・・・・・・
 一生笑いのネタにされる  ?
 そ・・・それだけは、いやぁぁぁぁぁ!
 一人で赤くなったり、青くなっているとそんな麻衣を奇妙な物を見るような目つきで、通り過ぎていく人達に気が付くと、心の中で思いっきり悲鳴を上げながら、歩く速度を一気に早めてその場から逃げ出す。
 この瞬間だけは確かに踏みきりのことも、翻る白い布のことも、寝不足だということも何もかも忘れて、一気に坂を登り切ると、真っ赤な顔のまま、まっすぐSPRのある雑居ビルへと入っていった。




 からん、とドアベルを鳴らして麻衣はドアを大きく開けた。
「おはよーございまーす」
「おはようございます」
 すでにパソコンに向かっていた安原が、にこやかに返すが、麻衣を見るなり軽く眉を潜める。麻衣は安原の変化には全く気が付かず、荷物をデスクの上に置く。
「遅くなっちゃってすみません。すぐにお茶入れますね」
「別にそれは構わないけれど、谷山さんもしかして、夏ばてか夏風邪でも引いた?」
「はい?」
 安原から前後の脈絡のない問いに、麻衣は給湯室へ向かおうとしていた足を止めて振り返る。具合が悪そうに見えるのだろうか?
   もしかして、顔赤い・・・とか?
 先ほどのことを思い出し、麻衣は内心悲鳴を上げながら誤魔化すように笑顔を浮かべる。幾らなんでも往来のど真ん中で一人百面相をやってました・・・とは言えない。絶対に言えない。というか、口が裂けても言いたくはない。
「外ものすごく暑かったですから、顔赤いですか? いやだなぁ。日焼けでもしたかなぁ」
 あはははは〜とわざとらしく笑って答えるが、安原はむろん麻衣のそんな言葉にはだまされない。と、言うよりここ最近抱いていた疑問をぶつけるかのように質問を続けてくる。
「いや、そう言うんじゃなくてね、ここのところ遅くなることが多いから。いつもそうなら別にいいんだけど、谷山さんはそうじゃないでしょ。それに最近、よく生欠伸してるしね。夏ばてかな?
 今年の夏って例年以上に暑かったし、かと思えば最近は秋になって朝晩は少し涼しくなってきたからね。体調崩しちゃったのかな? ああ、安心して原因までは聞かないから。
 窓開けて寝てしまって寝冷えしたとか、お腹出してついつい寝ちゃったとか・・・ああ、妙齢の女性にそこまで聞くつもりないから安心して。ん? それとももしかして所長が寝かせてくれなかったとか? こんな事聞いたらセクハラって言われちゃうのかな」
 にっこりさらりと言われた言葉に麻衣は、ぷっくりと頬をふくらませる。言わないからとか言いながらしっかりと言ってるし・・・ブツブツ呟く。
「小さな子供じゃないんだからお腹なんて出して寝てませんっ。ナルだって関係ありませんから、というよりも・・・そんなに、してました? あくび」
 とたんに声を潜めた麻衣に、安原は小さく笑う。
「けっこうしてたね。・・・ああ! もしかして、おめでたとか? そうならそうと言ってくださいよ。水くさいなぁ。僕と谷山さんの仲じゃないですか。
 何も気をもむ事なんてないですよ。お二人はもうご婚約されていて、お住まいももうじき一緒! 結婚が決まっている男女の間なんですから、少しばかり早くても問題ないですよc」
 きらーんと眼鏡を輝かせて問いかけてくる、と麻衣は顔を真っ赤にして、力一杯否定する。
 何をどうすればそんな所に行き着くのか、麻衣には皆目検討がつかない。
「ち・・・違いますっ。先から言ってますけれどそんなんじゃないですってば>」
「なーんだ違うのか。
 まぁ、冗談は置いておいて体調があまり良くないなら今日は休んだら? 所長には僕の方から言っておくから気にしなくて休んでもいいよ? 仕事もそれほど忙しくはないし、引っ越しの準備だってあるんでしょう?
 所長も論文の準備とかで忙しそうだから、谷山さん一人でやっているんでしょう?」
 全て判っていながら言う安原に、麻衣はガックリと肩を落としながら答える。
 いや判ってないはずがないのだ。なのに、いつも自分は向きになってしまって、安原の掌で遊ばれている気がする・・・・・
「いや、本当に大丈夫ですよ。確かにエアコンのない部屋での生活はちょっと寝苦しかったりしますけれど、健康だけが取り柄だし。ただ、ちょっと寝不足なだけで」
 苦笑しながら麻衣は自分の頬を指先で掻いた。寝ぼけていることを思い出して恥ずかしさにまた頬が熱くなる。
「寝不足? 引っ越しの準備で? 滝川さんが手伝うって騒いだ時、そんなに大変じゃないって言って断ってたよね」
 麻衣は内心で、ぐぬう、と唸る。
 単なる寝不足で誤魔化そうと思っていたのに、どうしてこの男はこういう風に突っ込んで来るのだろう。しかも一見罪の無さそうな笑顔というのが、ますます嫌味だ。
 そうは思いつつも、あの醜態を知られるわけにはいかない。
「や、もう、浮かれ過ぎちゃって・・・それでなかなか眠れないだけなんですよ。ほら、私って単純だし。いや、もうねぇ、自分で言うのも何だけど舞い上がちゃって、地に足がついてない感じというか何というか、毎日がハッピーって感じで、うん。そう、そうなんですよ。いや、もう人生ってこんなに楽しくていいもんだねぇ〜」
 なんだか、だんだん自分で言っていて訳が判らなくなってくるのだが、麻衣は必死で話を変えようとする。
「そうそう、遅くなりましたが、御婚約おめでとうございます。今度是非とも僕からのお祝いを受け取ってくださいね♪」
 極上の笑みで、安原はデスクチェアに座ったまま丁寧に頭を下げた。そして、気のせいだろうか。最後の最後で眼鏡がきらん☆と光った気がする・・・が、深く考えるのはやめておくのが精神衛生上良いような気がした。。
「ありがとうございます。楽しみにしてますね・・・ってか、お手柔らかにお願いします・・・」
 いったい何をやろうとしているのか。そのいかにもたくらんでますという顔を見ると戦々恐々なのだが、しかし御婚約、という言葉に気が付けば気持ちがさらに舞い上がる。
 言い響きだなぁ、素敵な言葉だなぁと呟きながら、ほにゃん、と頬が緩んでしまった麻衣に、安原はにこにこと言葉を続けた。
「本当に幸せいっぱいだね。何してても嬉しくってしょうがないんじゃないの?」
「にゃはははは、もちろぉ〜ん。だってさ〜、ナルにプロポーズしてもらえるなんて思ってなかったからさぁ〜。まぁ、きっかけがきっかけとはいえ、プロポーズには違いないしぃ。人間贅沢を言っちゃいけないよね、理由は何であれ、意味は同じだし」
「確かに浮かれまくってるねー。地に足がついていないとはこういうことをいうんだろうねぇ。いや、初めて見たよ」
「でしょでしょー。私も初めて経験したのぉ〜」
 いやーん、と言って自分で認めている辺り重症だろう。照れ隠しに安原の二の腕をバシバシと叩くが、そんな麻衣に安原は動じた風もない。
 いつものように、にっこりと笑みを向けた。
「でも、それだけテンションが高いと、夜眠る頃には疲れちゃわない?」
「そうとも言う。昼間は気にならないんだけど、夕飯食べ終わった頃にうとうとしちゃったこともあったし、この前なんてお風呂で寝ちゃってね! 危うく溺れるかと思ちゃったよ。これだけ暑いとただでさえ疲労するし」
「忙しいんだろうけど、早く寝た方がいいんじゃないかな」
「この間から少しでも早く眠るようにしてるの。引っ越しもあるし、夏バテと寝不足で倒れたんじゃ、シャレにならないもん。ナルも今忙しい時期だから面倒かけたくないし」
「そうだね。ところで、どうして早く眠るようにしてるのに寝不足になるの? しかもお風呂で寝ちゃうほど疲れがたまっているのなら、横になったとたん眠れそうだけど? 特に谷山さんなら、一二の三で夢の住人なんじゃ?」
 ニコニコと変わらない笑顔で言いのける安原に、はっ、と麻衣は我に返る。
 まじまじと笑顔の安原を呆然と見返して、ガックリ。と肩を落とす。
 はめられたのだ。
 今更気が付いてもすでにどうにもならない。まるで罠にはまった子羊を料理するかのように、楽しげな笑みを浮かべながら安原はにっこりと笑顔を向けて、麻衣の逃げ道をがっちりとつぶす。
「睡眠取るのに何か問題があるなら、きちんと解決した方がいいんじゃないかな。それこそ、倒れちゃってからじゃ遅いでしょう? 何よりも所長を心配させるようなことになったら谷山さんだって困るでしょう?」
「・・・そりゃ、そうだけど・・・」
 気が付くと踏切前に立っていることを、安原に言うべきかどうか、迷いに迷う。
 空調の効いてない部屋だから。と言い続けたとしても、そんなの今更でしょう?と言い換えされるだけで、納得してくれるはずがない。
 聞き出す気満々でいる安原を相手に黙っていることは麻衣には不可能だった。
 渋々、パジャマ姿だったことだけを伏せて話すことにした。
「・・・判りにくいかもしれないんですけど、夢遊病みたい・・・なんですよ、ね」
「夢遊病・・・?」
 思いにもよらない言葉にさすがの安原も面食らう。何か問題を抱えているとは思ったが、まさか夢遊病なんて言葉が麻衣から出るとは思わなかったのだろう。
 麻衣も一度言い始めたら、止まらなくなり説明を素直にしだす。
 確かに自力でどうにかしたいとは思ったのだが、どうすればいいのか全く判らず、誰かに聞いて貰いたい・・・できればアドバイスを貰いたいとも思っていたのだ。
 内心、もしかしたら心療内科にでも行かないといけないのかな。とちょっぴり不安もあったぐらいだから、一度話し始めると止まらなかった。
 そもそも、何が原因でこんな事になってしまったのが、正直に言うと全く見当が付かないのだから、途方に暮れるのも当然だ。
「気が付くとね、近所の踏切の前に立っているの」
「踏切? 気が付くとって・・・どういうこと?」
 麻衣が言いたいことがなんなのか全然話が掴めず、安原は怪訝そうに眉を顰める。
 踏切と夢遊病がどんなふうに繋がるのだろうか?
「ちゃんと自分のベッドで眠ってるんだけど、気が付くといつの間にか踏切の前にぼんやりと立ってるんです。
 やけに踏切の音が煩いって思って目を開けると、いつの間にか踏切の前に立っていて、電車がものすごい勢いで走り抜けていくですよね。
 いや。もう本当初めての時はものすごい驚きましたよ。一瞬起きた時の方が夢かとおもちゃったぐらいですから。そこまで行った記憶が綺麗さっぱり見事になかったですし」
 そして、その時見え隠れする向こう側に、白い布が風圧を受けて大きくひらめいているのが見える・・・ような気がするのだが、おそらくこれは目の錯覚だから麻衣は黙りを決め込む。
 白い布は夢遊病には関係ないだろうし、ただの錯覚だろうし・・・黙っていても平気だろうと一人勝手に決め込む。
「今の口ぶりだと、一回だけじゃないってことだよね」
 安原は麻衣の話を思い返しながら問いかける。
 それ以降にも何度か続かなければ、「初めての時」なんて言葉は使わないだろう。
「お恥ずかしながら続いてます。なんで、同じ人に二度も三度も見られたりして、恥ずかしいんですけれど・・・きっと、頭のおかしい子だって思われているんじゃないかな・・・・」
 えへへへ、と何かを誤魔化すように麻衣は笑うが、安原は笑わずに深い溜息をつく。
「・・・えへ、じゃないでしょう」
 予想外の安原の反応に麻衣はきょとんとしてしまう。笑われるかと思っていたのだが、やたらと真剣な顔で自分を見上げている。
 そんなに深刻な話をしただろうか? 首を傾げる麻衣を見て安原は大きくため息を一つ付くと、「お茶淹れておいて」と言い残して、麻衣が返事をするより早く安原は所長室に入っていってしまった。
「何か変なこと言ったかな・・・?」
 確かに眠ったままふらふらと歩いて踏み切りの前にいるのだから、変と言えば変である。
 いや思いっきり怪しいと言ってしまえば怪しいのだが・・・あんなに真剣な顔をするほどおかしいことだっただろうか?
 いやおかしいかもしれない。
 やっぱり病院行きかな・・・なんだか、それは嫌な音だぞ。と妙にとんちんかんな事で頭を悩ませながらも、素直に麻衣は給湯室で紅茶の用意を始める。
 お湯を沸かし、ポットを使って丁寧に紅茶をいれていく。ダージリンの香りを楽しみながらティーカップをトレイにのせて、麻衣は給湯室を出た。
 ところが、事務室にはいつの間にか安原だけでなく、ナルとリンまでが立って麻衣を待っており、麻衣は思わず慌ててしまう。リンはともかくナルはお茶の催促かもしれない。ちらりと壁の時計に視線を向ければ、いつもお茶を持って行く時間より30分ほど過ぎていた。
「あ、ごめん。お茶が遅くなっちゃって・・・」
 麻衣が言い終わるよりも先に、ナルの冷ややかな声が飛ぶ。
「馬鹿」
「ちょ、だからごめんって言ってるじゃない。お茶が遅くなったくらいで馬鹿はないでしょ!」
 麻衣は子供のように頬を大きく膨らませて反論をするのだが、先程の安原以上にナルは深い溜息をついた。
「こっちに来い」
 いきなりナルが麻衣の腕を引き寄せたため思わず蹌踉(よろ)めくが、ふらつく彼女よりも素早く安原がトレイを横から取り上げる。
「え、何? いきなりどうしたの?」
 いきなりの事態に麻衣一人がついて行けず、目を白黒させて三人を・・・特にナルを見上げるが、ナルも安原もリンも麻衣の言うことには答えない。
「いいから座れ」
 応接セットのソファへと半ば強引に座らせられる。その向かいにナルが座り、ナルの隣りにリンが腰掛けた。安原は麻衣から受け取ったティーカップをそれぞれの前に置いていく。
「それで、夢遊病というのは何だ?」
 思いにもよらないほどナルの鋭い眼光に、麻衣は首をすくめ、思わず目を逸らせてしまう。
「えー、何って・・・別にぃ」
 誤魔化そうとするのだが、麻衣が何かを言うよりも先にナルの厳しい声が飛んだ。
 ごまかしは通用しないと言外に込められて。
「麻衣!」
「うわぁっ、は、はい・・・!」
 麻衣は思わず居住まいを正してしまう。
「夢遊病というのは、いつからだ?」
 ちらり。と上目遣いにナルを見上げればまっすぐ自分を見つめる強い眼差しにあたり、麻衣はすぐに視線をそらしてしまう。
 ごまかせらんないかなぁと逃げ道を探すのだが、すでに安原に話してしまているのだから筒抜けだろう。観念したかのようにぽつり、ぽつりと話し始める。
「一週間くらい前からかな・・・えーと、大家さんが御夕飯に誘ってくれた晩が・・・確か・・・うん、そう初めは酔っぱらっただけかと思ったぐらいだったから・・・あの日が最初かな。
 一週間前からなんだけど、いつもどおりベッドで眠るんだけど、気が付くと踏切の音が妙に煩く感じて、目を覚ますと踏切の前に立ってたりするんだよね。
 だけどそこまで行った記憶がまったくないし、おかしいなぁとかは思ってたんだけど、わけ分かんないし、ふとこれが噂の夢遊病なのかなぁなんて思ったりしてね。
 もしかして私って心の病気かなぁとか・・・思い当たることなーんもないけれど、思ってたり・・・するんだけど・・・・」
 えへへへへ、と笑う麻衣を、ナルはしばし黙って見ていた。
 漆黒の瞳に見つめられて、麻衣は居心地の悪さに俯いて視線をむやみやたらと彷徨わせる。
 そんな麻衣にナルは冷ややかに言放つ。
「とても睡眠障害とは思えない」
「へ? 睡眠障害?」
「お前が言った夢遊病だ。
 睡眠時遊行症と言って、ほとんどは幼児期に起きる。お前が幼児と同じレベルだというのは頷けるが、発症するほどのストレスがお前にあるとは思えない」
「し・・・・しっつれーなっ! 私にだってストレスくらいあるんだからね! まだまだ暑いし、引っ越しの準備は終わってないし、ナルの世話もあるし、ナルが忙しかったらどこにいれば良いんだろうとか、イギリス行ったらどんな生活なのかなって思ったらちょっとは不安あるし・・・あ・・・・・・」
 言うつもりのなかったことまで言ってしまい、麻衣は慌てて口を押さえて、おそるおそるナルを見るが、至って麻衣の発言を気にした様子もなく、それどころかすっぱりと言い切る。
「僕は世話をしてくれと頼んだことはない」
 確かに頼まれたわけではないが、すぐに人間崩壊生活をするくせにと、麻衣は頬を紅潮させて唸りながら、恨みがましくナルを睨みつけると、ぷいっとそっぽを向きながらふて腐れたようにやけっぱっちになって言い放つ。
「私が幼児レベルなら、ナルはロリコンってことじゃん」
 だがさすがのナルも、麻衣のその指摘に硬直してしまう。表情こそは変わらなかったが、返す言葉が見つからないようで、麻衣をじっと見返すだけだった。
 ナルの失言には同情の余地無し、とリンは知らんぷりで紅茶を静かに飲み、安原はどちらに加担するわけでもなく、ニコニコとしたまま二人のやり取りを見ていた。
「そういうことになるよねぇ〜。そうでしょ? ナル。これは何なのかなぁ〜」
 麻衣はにやり、と笑みを浮かべ自分の薬指にはまっているダイヤモンドのリングを指差した。
「気を付けないと、墓穴を掘っちゃうこともあるかもしれないんだねー」
 ナルはこれ以上のものは無いほど、とことん不機嫌な表情になっていた。だがやはり、言葉を返すことができないらしい。
 この場にいるのがナルだけなら、きっと喜びの声を上げてガッツポーズをしていただろう。いや、たとえリンや安原がいる手前、してなくてもふふふ〜ん♪ と鼻歌を歌っている時点で似たようなものである。
 麻衣はティーカップを手に取り口元に傾けた。あまりの嬉しさに眠気さえ感じない。
 すると、ナルの深い溜息が流れた。
「・・・とにかく、お前がしている行動は夢遊病とは言わない」
「ふーん、そうなんだ。じゃぁなんて言えば良いんだろうね」
 久々の勝利に浮かれてしまっている麻衣は、ナルの言葉などさほど気にせず、間の抜けた相づちをするのだが、ナルはあまりの呑気さに呆れつつもリンへと視線を向ける。
「リン。どうだ?」
 リンは普段は隠している右目をあらわにして、何かを見定めるようにジッと麻衣を見つめる。普段ではないほどジッと見つめられ、麻衣は落ち着きなく視線を彷徨わせる。
「完全な憑依ではないようです。ですが、何かの気配が残っています。時折、谷山さんと意識の波長を合わせてくるのかもしれません」
「そうか・・・」
 考え込んでしまったナルに、麻衣はさすがに真顔になる。この展開で呑気に鼻歌を歌っているほど、麻衣も馬鹿ではなかった。ティーカップをテーブルに置くと一呼吸を置いてら問いかける。
「えっと・・・じゃあ、ただの寝惚けとかじゃなくて、霊のせい・・・とかなの?」
「調べもせず即断はしたくはないが・・・接触された気配が今もなお残っているというなら、そちらの方が可能性が高い。
 特にお前の場合、夢が絡むとするならばなおさらだ」
 普段のナルならば確定もしてないことを、すぐに心霊がらみとは考えない。しかし、麻衣が持っている能力を考慮すれば、心霊現象と言うことも十分に考えられることだった。
 さらに、リンが視て時間が経っているというのに、残滓が残っているとを考慮すれば、可能性は非常に高くなる。
「でも・・・どうして、こんなこと・・・急に・・・・・・」
「それはこちらの台詞だ。何が起こっているのかは、これから調べる。最初にその現象が起きるようになった時のことをもっと詳しく説明してみろ」
「・・・あ、うん・・・」
 麻衣は頷いて、最初の晩のことを思い出しながら説明をしだそうとするが、どう説明すればいいのか判らず言いあぐねると、ナルは巧みに質問を続ける。
 その日の天候、電車の運行状況、その場にいた自分以外の人間について年回りや性別、何人ぐらいいたか、周りの人間に対して何か違和感を覚えたかどうか、その踏切についてのインスピレーションなど、覚えている限りのことだが麻衣は尋ねられるたびに、一つ一つ答えながら、調査依頼に来た依頼人たちの視点でナルを見ることになった。
 なるほど、確かに優秀だわ、と妙な所で今更なことなのだが納得をしてしまう。
 そんな麻衣の感心を余所に、ナルは溜息をつくと言った。
「原さんとジョンを呼ぼう」
「はい」
 と安原が立ち上がって自分のデスクへと向かう。
「麻衣、外せない用事があったとしてもキャンセルして、僕のマンションに来るんだ。いいな」
「・・・用事なんてないから平気だけど・・・でもナル、論文は・・・」
「一日書けなかったところで大したことはない。それにあそこはお前の家にもなるんだろう。何を気にしている」
 ナルは、麻衣のトラブルを一日で解消するつもりなのだろう。きっぱりと言い切る。それよりも、あそこもお前の家になるとナルの口からはっきり言われた時、上手く言葉に言い表すことができないほど、暖かな思いがこみ上げてくる。
 今この場に第三者の目がなければ、指輪を貰った時のように思わず泣いてしまったかもしれない。
 何よりも普通に・・・当たり前のように「何を気にしている」という言葉が、すとんと入ってくる。
 居ることを前提にして考えてくれていることに、麻衣は自分の方が妙に構えて、神経を使いすぎてガチガチに固まっていたのかもしれないと、今更ながらに思いじんわりと涙が浮かんでくるが、紅茶を飲んでこみ上げてくるものを誤魔化す。
   いかんいかん。なんだか非常に感激屋さんになっているぞ。というよりも、これがかの有名な情緒不安定(マリッジブルー)というやつだろうか? うんうん。やっぱり結婚前って言うのは、誰でもナーバスになるもんだよね。
 やっぱり、私も繊細に出来ていたんだ。
 なにか大いに間違ったことを考え始めている麻衣をよそにナルは話を進めていく。
「できれば今日中に片を付けたい。今晩は大人しくしているんだ。いいな」
「いつも大人しくしてるもん」
 ナルは立ち上がりながら、冷ややかに麻衣を見下ろす。
「どこの誰がだ」
 麻衣に反論する間を与えず、ナルはリンに声を掛けてそれぞれの部屋に入っていってしまった。
 それを恨めしげに睨み付けるが不機嫌は続かない。肩の荷が下りたような感じがし妙に安堵してしまう。
 はー、と大きく息を吐いて、麻衣は思わずソファにコロリと横になる。
 やっぱり人間慣れないことはするものじゃないな。とつくづく思ってしまう。
 あんなに考えても考えても判らなかったことが、ナルに話したらなんだかするすると解けて行くような気がする。むろん何一つ未だに判っていないのだから、状況は何も変わらない。気を抜いている場合ではないのかもしれないのだが、もう大丈夫。そう思えてきてならない。
 ナルがいてくれれば何も心配することはない・・・そう思うと、ほっと息が抜け瞼が重く感じる。それを無理矢理こじ開けて、閉ざされたドアをぼんやりと見上げる。
 こんなことなら、もっと早くナル達に相談すれば良かったのだ。依存や甘えと、信用や頼りにすることの、バランスを取るのは難しい。人によってボーダーラインは異なり、麻衣自身の人間関係に対する価値観などもある。
 本当は、もっとナルに甘えてもいいのかもしれない。
 だからナルは麻衣のことをさして怒らなかったのだろう。あの溜息は呆れというよりも、心配から出たものだった。
 それが判るからこそ、あの不機嫌な顔さえも嬉しく感じてしまう。
   私ってば、本当に幸せ者だね。
 幸せな気分に浸りながら、麻衣はとうとう我慢しきれず瞼を閉ざす。なんだか気が抜けたせいか、どっと睡魔が押し寄せてき、抗おうとする気力さえ押し流してしまう。
 少し寝てしまおうか・・・そんなことを考えながらウトウトし始める。


 カンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカン


   ・・・あ・・・また・・・・・・踏切の・・・音・・・・・・・・・


   カンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカンカン


   ・・・しつこいなぁ・・・・なんでこんなに煩いの?   お願いだから・・・いい加減に眠らせてよ・・・


 翻る白いドレスが目の前をちらちらと揺らめく。
 踏切の向こう側で左右に動いているのだろうか。それとも風圧で大きくひらめいているのだろうか、重い衣擦れの音が警報機の音に重なって聞こえてくる。
 なぜ、この警報機の音でかき消えないのだろう。不思議に思いながらも、警報機の煩さにいい加減にしてほしいと思った時、電車の隙間からまっすぐに伸ばされる手が見えたような気がしたが、背後から急に肩を掴まれたような感覚がし、一気に目の前の全てが遠のく。
「谷山さんっ!」
「ふえっ、あ・・・あれ・・・? ここ・・・・・・あ、オフィスか」
 いつの間にか、麻衣はドアの前に立ち、ノブに手を掛けていた。安原に肩を掴まれて立ちつくしている姿が磨りガラスに映っており、安原の背後にはリンも立っている。
 突然、眠っていたのを起こされたのと変わらないのだ。まだ現実感がないのだろう。麻衣は焦点が定まらないようなぼんやりとした視線で安原を見上げる。
「大丈夫?」
 今にも瞼が閉じてしまいそうなとろんとした視線に、安原は心配そうに表情を曇らせながら、麻衣に問いかける。
「・・・あ、うん。大丈夫・・・です。いちお」
 数度瞬きをすると麻衣は返事を返す。
 熟睡していた時に無理矢理たたき起こされたような倦怠感に、麻衣は大きく息を吐きだす。吐き気と目眩を若干感じるが少しすれば落ちつくだろう。
「なるほどね、これじゃ寝不足になるよ」
 背を支えるようにして、安原は麻衣をソファへと連れていく。腰を下ろすなり麻衣は再び眠そうに瞼を閉ざし始めていた。かなり睡魔が強く表れているようだ。顔色もけして良くはない。先ほどまでは頬に赤みも差していたのだが、今ではすっかりと青ざめてしまっている。
「どうした」
 気配を察したのかナルも所長室から出てき、先ほどとは全く様子の違う麻衣に眉を潜ませ、二人に報告を求めるように視線を向ける。
「一瞬でしたが、谷山さんに接触がありました。今は特に感じられませんので問題はないでしょう」
 リンの言葉に、そうか、と頷き返しナルは麻衣の傍らに腰を下ろす。
「麻衣、何があった?」
 まだどこかぼんやりとしている麻衣の代わりに、安原が客観的に起こったことをナルに説明した。
「行こうとしていた場所は、話していた踏切か?」
「たぶん・・・そうだと思う・・・。いつも同じ踏切の前にいるから・・・他の場所ってことは  なかった。アパートからだと同じような距離に・・・反対方向にならもう一つ踏切があるけれど、そっちには行ったことないや  」
 ナルの問い掛けに、麻衣はゆっくりと答える。
 覚えているのは踏切の音だけで、他はなにもない。なにか電車の影から伸びてきたものがあったようにも感じるのだが、記憶はあやふやで形にはならない。
 が、やはり白い物がちらつく・・・
「どこの踏切だ」
 持ち出してきた地図を安原が麻衣の目の前で広げる。麻衣は線路を指で辿り、細い道路と交わる部分で指を止めた。
「えっと・・・ここ・・・。ここの踏切・・・」
「ここって、何かありますか? 最近、事故があったとか」
 調べる対象を絞ろうとしているのだろう。安原の質問に、麻衣は思い出すようなそぶりを見せることなく「あるよ」といとも簡単に答えた。
「でも、事故は最近だけじゃないから。
 そこ、いわゆる開かずの踏切って言われる所だから、昔から頻繁に人身事故あるところだよ。
 安原さんならテレビとかでも聞いたことあるかもしれないけれど、踏切がなかなか開かない所なんだ。だからくぐり抜ける人とかけっこういて、人身事故が起こる事で有名だと思う。
 毎年何回かあったはずだよ・・・数えたことなんてないから、実際はどの程度なのか判らないけど」
 麻衣がそう言うと、ナルと安原は呆れを隠さず、同時に溜息をついた。
「それだけの状況が揃っていて、どうして僕に言わなかった」
「だって、ナルがいつも何でもかんでも霊のせいにするなって言ってるじゃん・・・。それに、忙しいのに邪魔したら悪いと思ってたし・・・
 ナルはあまり電車使わないから判らないのかもしれないけれど、電車の事故ってしょっちゅういろんな路線であるから、今まで特に気にしたことなかったし・・・普段、その踏切は通らないからよけい記憶に残ってなかったんだもん」
 都内や近県を走るJRや私鉄各路線で、一ヶ月と言う単位で見ても何回も人身事故の放送を聞く。そのたびにダイヤが乱れるので珍しくも何ともなく、記憶にさえ残らなくなってきているのが現状だ。
 事故があっても「またか」という程度の認識しかもたないため、そこの踏切だけがおかしいと思わなかったのだが、今更何を言っても言い訳にしか過ぎず、語尾がだんだん力なく小さな声になっていく。
「だが、あれだけ奇妙な行動を取っていて、それが平常だと思う方がおかしいだろう。自分で判断が下せないと思った時は、次からきちんと報告しろ。
 それが超常現象であるかどうかは僕が判断を下す。素人判断をするな」
「・・・はい・・・」
 麻衣はしゅんと項垂れてしまう。
 迷惑を掛けたくなかったのに、結果としてはかえって迷惑をかけてしまった。
 そんなつもりではなかったのだ。
 ただ、自分で出来ることは自分でやりたい。そう思っていただけなのだが、素人判断とまで言われ肩を落とす。
 確かに自分はナルのようにこの道のスペシャリストではないのだが、ずぶの素人でもない。できるだけ見定めたかったのだが、結局ナルはおろかリンや安原の手まで煩わせる結果になってしまい、自分がふがいなく感じる。
 ぎゅっと唇を噛みしめて俯いていると、ぽすん、と大きな手が麻衣の頭の上に置かれ、驚いて麻衣が顔を上げると、ナルはすでにデスクにいる安原へと振り返って指示を出しており、安原はその指示に従って、くだんの踏切を調べにフットワーク軽くSPRを出ていった。
 そして、何故か合流場所はナルのマンション。
「ナル、どうするつもりなの?」
「ここではお前が休めないだろう」
「ソファーがあるから横になれるよ」
「ソファーで眠っても身体が休まるわけないだろう。
 顔色がかなり悪い。マンションで休め」
 手を伸ばして麻衣の頬に触れると、普段冷たいナルの手より麻衣の頬は冷たく感じた。冷房の効きすぎと言うわけではないだろう。
「でも、眠ると動いちゃうんだし・・・」
「だがまったく眠らないというわけじゃないだろう。どのみち、夜通しここにいるわけにはいかない。オフィスに張ってある結界では防げないようだしな。マンションの方がオフィスよりよけいな雑念に晒されていないぶん、結界の効力も高いだろう。
 ジョン達に協力してもらう都合もある。人数がいればお前のアパートでは無理だ。だったら僕のマンションしかない」
「ナル・・・」
 麻衣の声の色が微かに変わる。
 ナルは伏せていた目を上げて、麻衣を見つめ、何かを言いあぐねている麻衣を視線だけで促す。
「本当は人を入れたくないんだよね。それなのに御免ね」
 見当違いの気遣いをする麻衣にナルは軽くため息を漏らす。
「別に気にするほどのことじゃない。他人を入れるのが嫌な人間が、お前が入り浸ることを容認すると思うか?」
 確かにそうだが、ナルはいつも滝川達が来たがるのを非常に煙たがっていたのも事実だ。
「だっていつもぼーさんたちが遊びに来たいって言うと、嫌な顔するじゃない?」
「煩いからな」
「・・・それだけ?」
「充分な理由だと思うが?」
 ナルらしい言い草に、麻衣は小さく笑う。
 自分だって、ナルから見れば色々と煩いだろうけれど。
 それを容認してくれていることが判り、ふわり・・・と笑みを浮かべ、ナルの手にそっと額を寄せる。
「・・・でも、ありがとう」
「礼を言われるようなことじゃない。それより今はどうだ?」
「ん? 眠いよ・・・。でも、我慢できないほどじゃないから」
「踏切の音は?」
「今のところ、聞こえない・・・」
 今は確かに音が聞こえなかった。
 ナルが傍にいてくれる・・・ナルが何とかしてくれると思ったとたん、肩から力が抜けて頭の中にこびりついていた音からようやく解放されたような気がしてくる。
 安堵のため息をついて、ソファーに深く寄りかかった時、窓にかかるレースのカーテンがナルの背後に見えた。
 白いカーテン・・・あれは、何なのだろうか?
 見え隠れする白い物。あれは何か関係があるのだろうか? あれの事もナルに報告しておくべきなのだろうか?
 迷うが一度言い逃してしまうと、なかなか言うタイミングが見つからず、言葉をとぎらせてしまっていると、ナルは自分の思考に入ってしまうが、ナルの名を麻衣が心細げに言うと、その視線は再び麻衣を見下ろす。
「ナル?」
「すぐにマンションに移ろう。早い方がいい。帰る準備をしておけ。あと原さんとジョンに、ここではなく僕のマンションに来るよう伝えてくれ」
「あ、はい・・・」
 ナルはリンにも帰る準備をするよう指示を出す。その後、ナルは自分の仕事をこなしながらも、SPRを離れるまで麻衣から離れなかった。
 不謹慎だということは判っているのだが、この事態に思わず幸せを噛みしめてしまう麻衣だ。
 このところナルも自分も忙しくて、あまり一緒にいる時間がなかったため、のんびりとしている場合ではないのだが、一緒にいられることを嬉しいと思ってしまう。
 SPRを出て、リン、ナルと一緒に駐車場にあるナルの車へと向かう途中、ふらつく麻衣の身体を支えるようにナルの腕が背に回る。
 真夏の炎天下であるのに、その手の温もりが心地よかった。