-3-






 
三章 《声の誘(いざな)い》



 リンがナルの車を運転し、ナルは麻衣と共に後部席に座りこむ。
 意識はしっかりとしているようだが、やはり睡眠不足による疲労は蓄積されているのだろう。その足取りは重くかなり危なげなため、ナルが抱えるようにして二階にある事務所から駐車場へと移動する。
 顔色も先ほどよりさらに悪くなってきており、おそらく麻衣本人が自覚している以上に疲労がたまっているはずだ。もちろん、それが睡眠不足からだけ来る物ではないというのは先ほどの行動で想像が付く。
 意識が休んでいたとしても、身体はほとんど休みを取ってないのだから、身体が参ってしまってもおかしくはない。
 今現在普通に動けるのは、それだけ麻衣自身に体力が元々あったということと、霊に対しての耐性がついていたからこそ、今まで問題なく過ごせていたのだろう。でなければとうの昔に倒れていてもおかしくなかったはずだ。
 とはいえすでに限界は近い。後部座席に座るなり麻衣は、疲れたような吐息を漏らし背もたれに寄りかかっている。それでも寝ようとしないのは、再び呼び込まれることを懸念してだろうか?
 ナルはさりげなく麻衣の肩に手を回し、軽く自分の方へ引き寄せる。
「ナル?」
 ナルの肩に頭を寄りかからせる形になり、麻衣は間近にあるナルの顔を見上げる。ほんの少し目線をあげるだけでナルの口元が視界に入り、さらに上にずらせば自分を見下ろす漆黒の双眸と重なる。
「少し休め」
 素っ気ない言葉だが麻衣はふわりと笑顔を浮かべると「うん」と甘えるように答え、肩により掛かったまま目を閉じる。
 ナルは眠っても良いと言ったが初めは躊躇してしまう。だが、肩に回された腕と直ぐ傍にある暖かな温もりに、知らず内に身体から力が抜け、すぐに抗いきれない睡魔が意識をさらってゆく。


   ナルがいれば大丈夫。


 無条件の安堵感と共に、身体から力が完全に抜け、吐息が深い寝息に変わるまで要した時間はそれほどなかった。ずっしりと重みをました身体を支えながらナルは麻衣を見下ろす。
 今のところは問題はない様子で、穏やかな顔で眠っているが、意識をなくすように眠ってしまった事に、ナルは軽く眉を寄せる。身体によいとは言えない眠り方だ。
 これは、霊の影響をただ受けていると言うよりも、霊障と言った方が的確だろう。
「リン、気配をどの程度掴める?」
 ナルの問いにリンはバックミラー越しに、麻衣を見つめながら目を細める。
 今は、前髪に隠されて見えないが、彼の右目は青眼と呼ばれ、あらざる物も見えるのだ。不便きわまりない故に前髪で隠しているのだが、片手で軽く前髪をかきあげその眼を細めて麻衣を見つめる。
「私は音を聞く方には向いていないので、谷山さんが聞いている音を同じように聞き取ることは出来ませんが、式を一つ谷山さんに憑けてますので、何かが接触すれば気配だけは事前察知できるでしょう。
 ただ、相手がどんな形で接触してくるかによって、事前に気がつくか、事後に気がつくか・・・今の段階では、はっきりとは言えません」
 リンが資料室から出てくるのとナルが安原の声を聞きつけて所長室から出てくるのに、タイムラグがなかったところを考えると、リンが気配を察知するのは麻衣が動いた後と言うことになる。すなわち、後手に回る可能性が高いのだ。
 言い換えれば音は結界に左右されないと言うべきなのだろうか? 事務所にはリンの結界が引かれており、麻衣が聞いている警鐘の音が結界に触れるのならば、事前にリンも察知出来るはずなのだが、リンはそれが判らなかったという。
 これで、真砂子も麻衣にまとわりついている存在を感知することが出来なければ、麻衣だけにしか接触できない存在になる。すなわち当然ガードをいくら強めたところで、隙が出来てしまうということだ。
 穏やかな表情で眠っている麻衣を見下ろして軽く息をつく。
 今のところ踏切の前に立つだけで、特に直接的な危害はないようだが、だからと言って暢気に構えているわけにはいかない。
 危害がなかったというのは偶然にしか過ぎないということを麻衣は見落としている。
 この数日間、麻衣が何度踏切の前に呼ばれたのか判らないが、下手をすればその途中で車に撥ねられていた可能性もある。また、踏切の手前で立ち止まっていたからいいものの、線路内まで立ち入っていたとすれば列車に轢かれ轢死していた可能性もあったのだ。
 踏切の前まで何度も行くというのは、そこに呼ばれているという事だ。何に呼ばれているのかは判らないが、でなければ説明が付かない。
 本人の意志を無視して死なせることは難しい。だが、たとえば暗示をかけて《目の前に踏切はない》と思わせることは出来る。踏切がないと思わせれば、まっすぐに歩いていけばいい。そうすれば、かってに電車に撥ねられて死ぬ運命が待っているのだ。端から見れば飛び込み自殺にしかすぎないだろう。
 麻衣が今までその道を通らずに済んだのは、そこまでの力がまだないのか、もしくは今までの麻衣に霊に対する影響力がかかりにくくなっているため、すぐに実行できなかったのか。
 どちらにしろ、今回はたまたま運が良かったに過ぎない・・・
 相変わらず人を頼ると言うことをしない麻衣。それでも少しは甘えることを覚え、我が儘を言うことも以前より増えたが、やはり世間の相場で考えれば、麻衣は我が儘を言うことは極端に少ないだろうと言うことはナルにも判っていた。
 夢遊病と勝手に考え終わらせていた麻衣も浅はかだが、その事を特に自分に相談せず今日まで来たのは、下手なことを相談して手間を取らせるのは邪魔をするとでも考えていたのだろう。
 その不安の具現が、先ほどぽろっと漏らしてしまった言葉だ。なぜ自分が忙しいからと言って麻衣がどこにいればいいのか良いのか判らないと不安に思う必要があるのか、ナルには理解できなかった。
 イギリスでの生活に不安を抱くのは判るが、あそこが自分の家になるという感覚がまだわいていないだけなのだろうか?
 夫が仕事を抱えるたびに家を出て行かねばならない妻がどこの世界に存在するというのだろうか・・・その考えにあきれ果て、ため息をついてしまう。
 いちいち仕事が忙しくなるたびに、家を留守にするのでは今までと何も変わらない。それでは籍を一つにしても何も意味がないのと同じではないか。
 少しぐらい図々しくなっても構わないというのに、この娘はいまだに『頼りすぎてはいけない』と思いこんでいる節がある。いくら、そんなことはないと言っても、母親をなくしてから人に頼りすぎないようにと言い聞かせて生きてきた彼女の思いこみは、そう簡単には変わらないようだ。
 意識の改革をもう少しはっきりとしていかないと、今後にさわりが出るな・・・と思った時ナルは眉を潜める。
 力が抜けきり自分に寄りかかっていたはずの麻衣の身体に、力が入った気がしたからだ。だが、その瞼は未だ固く閉ざされており、目を覚ました様子はない。寝息にも乱れはなく深いものだ。
「・・・・・・麻衣?」
 意識の覚醒が近いのだろうか?
 ナルは麻衣の名を呼ぶが麻衣はぴくりとも動かない。
 身じろいだだけか?
 そう答えを出そうとした時、麻衣は唐突に身体を起こした。意識が覚醒したわけではない。麻衣の瞼は未だに固く閉ざされている。
「麻衣!」
 ナルは麻衣の名を呼ぶが、麻衣は反応を返さず腕を伸ばす。その目的はただ一つ。ドアを開けることだろう。ナルはすぐさま背後から麻衣を抱きかかえると、起きあがった身体を勢いよく自分の元に引き寄せる。
 反動で背中を反対側のドアにぶつけたが、痛みを認識する前に腕の中に麻衣を閉じこめるよう力を込める。
「ナル!?」
「車を止めるな!」
 後部座席でいきなり起きた事態に、リンは車を路肩に止めようとウインカーを出したのだが、ナルがそれを止める。
「ここで、車を止めても意味がない。
 出来る限り急いでマンションへ向かうんだ。僕の部屋には結界が強く引かれてある。こんな所で立ち往生しているよりましなはずだ!」
 ナルが力をかなり込めて麻衣を抱きしめているのが、バックミラー越しでも判る。普通ならば苦しがって藻掻くほどの強さだろう。
 麻衣はナルの腕を自分の身体から引きはがそうとして暴れていた。だが、苦しがっているといった様子はない。逆にナルの方が辛そうに見えるぐらいだ。
 ナルの腕を引きはがすようにかけられた指が、腕に食い込み無理矢理にでもその束縛を解こうとしているのが判る。普段の麻衣の力・・・いや、女性の力とは思えないほどの力でナルとせめぎ合っている。
 急いで広尾にあるナルのマンションへと向かうべく、リンはアクセルを強く踏んだのだった。


            ※   ※   ※


「ここが、問題の踏切か・・・」
 安原は麻衣が指し示していた場所に立って辺りを伺う。調査の基本としてまず現場を知ること。刑事ドラマの見過ぎではないが、現場を知らなければ何も判らないのは確かだ。
 オフィスで聞いた話では麻衣は普段、この踏切を使うことはないと言っていた。ここへ来る途中にあった陸橋を普段使っているため、遠回りになってしまう踏切を使う必要がなかったのだ。だから今まで問題なく三年と半を過ごしてこれていたのだろう。
 本来ならばここを通らず引っ越しをする事が出来たはずなのだが、数日前から陸橋の老朽化補強工事が始まり利用できなくなり、やむをえず踏切を利用することになったために、今までと同じとはいかなくなってしまったのだ。
 車が一台通れるほどの細い道。両サイドには古い一軒家や築20〜30年は経ていそうなアパートなどが建ち並び、安原の背丈ほどもある生け垣が左右を挟んでいるため、実際の道幅よりも狭く圧迫感を感じる。
 街灯は等間隔に設置されているものの、女性が夜歩くには少々心細さが伴いそうな間隔だ。これでは、日がくれればかなり暗くなってしまうだろう。
 民家の明かりも生け垣に邪魔をされて道路までは届かない。痴漢注意という看板が数カ所目に付く所を見ると、その手の輩も多いということは誰でも想像付く。駅からさほど離れていないため、後をつけられやすいのかもしれない。
 少し横幅のある車が通れば、生け垣から伸びている生い茂る葉に、サイドミラーをこすりつけそうなほどの狭い道を安原は一人進むが、すぐに問題の踏切が見えてくる。
 道路より若干線路幅は広いが、遮断機は一本ずつで済んでしまうほどの幅しかないが、距離は長い。線路が計四本走っているためやたらと細長い踏切に見える。
 渡るための距離があるため、歩行者の安全確保が取れる時間が短く、踏切が上がってもすぐに降りてしまうのだ。
 今は、電車が来るタイミングではないため、遮断機は持ち上がり、警報機も鳴らず静けさを保っている。
 踏切を渡った先もしばらくは同じように細い道が続く。渡って直ぐに十字路やT字路があるわけでもなく、信号などと言ったものもない。住宅街の路地裏といった様子で車の通りもほとんどなく、見通しが悪いわけでもない、ごくごく平凡な踏切。確かに狭いがだからといって、特筆するようなものはなにもない。とても事故が多発するような場所とは思えない。
 踏切を見た印象はそんなものだった。
 少なくとも何の能力のない安原自身には。
 だが、視線を少し巡らしただけでここがただの踏切ではないなと思わせるものが目に付く。
 枯れた花束やお茶の缶、ミニカーや人形、お菓子などが置かれているのが目に付くところを見ると、ここで死者が過去数回にわたって世代もバラバラに出たと言うことを伺わせる。
 そして、踏切を渡る手前、遮断機の直ぐ麓に掛かられた看板。
 誰かの手書きだろうか。木の板に筆で書かれた文字に驚かされる。
『踏み込むな。その一歩が、さらなる不幸を招く』
 自殺多発地帯にはよく自殺を止めるための看板や、小銭をいくらか置いた公衆電話などがおいてあるというが、まさかこのような普通の住宅街にあるとは思わなかったのだ。
 それほどまでに、ここでは自殺者が多いのだろう。
 何の変哲もない普通の住宅街にある踏切に見えるからこそ、その看板は逆に異様なものに感じた。
 安原はそれ以外に目を引く物がないか当たりを見渡すが、霊能力を持たない安原ではそれ以上の物を見つけることは出来ず、過去にここでどのぐらいの死亡事故があったのかを調べるために、近くの図書館へと移動を開始した。
 図書館で調べた後は、範囲を絞って近所の聞き込みをし、警察関係者にもうまく話が聞き出せないかなぁ・・・と思考を巡らせながら、元来た道を戻り始める。
 背中を向け数歩歩き出した時点で、背後から警報機の音がやかましいぐらいに響き始めた。
 毎日この音を聞いている近所の人たちはいったいどんな気持ちでこの音を聞いているのだろうか。
 警報機と言うだけあって耳障りであり、音量もやかましく、とてもではないがいつも聞いていたいと思うとではない。
 何となく背後を振り返る。
 猛烈な勢いで走り抜ける列車を見つめながら、あれに轢かれたら原形をとどめられないよな。そんな死に方僕はごめんだなぁ・・・などと不謹慎きわまりないが、ごく素直な感想を思い浮かべ、急いで図書館へ向かうべく早歩きで駅に向かい始めたのだった。


 の・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 どこから聞こえる声だろうか?
 はっきりとは聞こえない。
 すべての音をかき消してしまうほどの大きい音で踏切の警報機が鳴り響いていて、誰が何を言っているのか聞き取ることは出来ない。


 ・・・し・・・・・・・・・・・・・・・・・・の・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
         ・・・・・・・・・あた・・・・・・・・・・・・がさな・・・・・・


 低い・・・地の底を滑るような低い声が、聞こえてくる。
 だが、耳を覆いたくなるような音にかき消されて、はっきりと聞き取れない。
 何を言っているのだろう。
 耳を澄ましてみるがはっきりと聞こえない。
 意識を凝らしていると、真っ暗な闇の中から白く浮き出た手が伸びてくる。それは、何かをつかみ取ろうとするかのように開閉しながら、麻衣に向かってまっすぐ伸びてくる。
 人の腕の長さを無視したソレ。
 肘から上は闇に喰われてしまって何も見えない。だが、あったとしてもあり得ないほどの長さをもった腕が、闇の中を蠢く。
 まるで五本の指が奇っ怪な虫のように、ざわざわと蠢いてつかみ取ろうとする。
 それが、何を探しているのか、取ろうとしているのか判らないが生理的嫌悪感を感じ、麻衣は逃げ出したい衝動に駆られるが、足は自分の意志に逆らって前に進もうとする。まるで操り人形に出もなったかのように、かってに足が前に進み出そうとする。だが、背後から見えない何かに押さえ込まれて、身体は全く言うことをきかなかった。
 意識と無意識と、実際の行動が何一つそぐわない事に、頭がどんどん混乱してくる。いったい何が起きているのだろうかまったく判らない。
 とどまりたいのか、行きたいのか、逃げだしたいのか。
 何一つ自分の言うことを聞かない全てに、いらだちが募る。とにかく、麻衣は藻掻いて身体を拘束する物を引きはがそうと指に力を入れるが、藻掻けば藻掻くほど自分を拘束する力は強くなる。
 見えない何かに拘束され、呼吸が苦しくなり、音はますます激しさを増し、手がまっすぐ伸びてくる。


   嫌だ・・・
   アレに触れられたくない。
   掴まりたくない。
   いや・・・来ないで、来ないでっっっっ


 無我夢中で自由を得ようと暴れるが、身体は言うことを効かない。
 何が起きているのか判らず、
 なぜ、自分がここにいるのかも判らず、
 パニックに陥りそうになった時、直ぐ近くで乾いた音が聞こえた。
「な・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・に?」
 耳に届く音は乾いた音。
 それから少し遅れて、頬がじんわりと痺れ痛みを訴えてきた。
 呆然とした眼差しは虚空を見つめ、無意識のうちに掌で頬を押さえ込む。体温よりもじんわりと熱い気がするのは気のせいだろうか?
「眼が覚めたか」
 直ぐ傍・・・と言うよりも真上から聞こえた声に、麻衣は顔を上げてみればナルが険しい眼で自分を見下ろしていた。
「ナル・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?」
 まだ、ぼんやりとしている麻衣はこれ以上ないぐらいに傍にいるナルをただぼんやりと見つめている。
「ナル、女性の顔を殴るのは手荒すぎます」
 背後から聞こえた声に振り返れば、バックミラー越しにリンの顔が見える。しかめ面をしてナルを見ていたが、麻衣と視線が合うと微かに視線に心配げな色が浮かぶ。
「谷山さん、頬は痛くないですか?」
「頬・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?」
「マンションに着いたら冷やす。それほど強くは叩いていない。腫れることはないだろう」
 そう言いながらもナルは、頬を押さえ込んでいる麻衣の手を外して、自分が叩いた頬に視線を落とす。
 白い肌がほんのりと赤く色づいているものの、ナルの言うとおりそれほど強くは叩かれなかったのだろう。腫れる様子はない。
「・・・・・ナルが、叩いた・・・・・・・・・・・・の・・・・・・?」
 未だ、意識がはっきりと覚醒していないのか、自分が叩かれたくせに、麻衣は人ごとのように問いかける。
「名前を呼んでも起きる様子はなかったからな」
「起きない・・・・・? あ、私・・・・・・・・・・・・・・また?」
 漸く麻衣はどんな状態に陥っていたのか把握する。
 周囲に視線を向ければまだ、車は走っている。
 目的地に着いた分けではない。
 ナルにがっしりと身体を抱え込まれ、頬を叩かれて起こされたことを考えれば、出てくる答えは一つしかない。
「眠ったまま、走っている車から出ようとした」
 浮かんだ答えを肯定するかのように告げられた言葉に麻衣は、ため息をつく。
「ごめん・・・」
「お前が謝ることではない」
 自分の意志でやっているのならばともかく、自分の意志でないことに謝罪する必要はなかった。
「だが、マンションに着くまでは起きていられるか?」
 意識は覚醒したとはいえ、睡魔が完全に飛んだわけではないのだろう。麻衣の目つきはとろん・・・としており、直ぐにでも再び眠りにおちてしまいそうな気配が漂っている。
「ん・・・頑張って、起きている」
 億劫そうな声に、かなり無理していることはナルにもリンにも簡単に判ったのだが、万が一車から飛び出してしまった時の危険を考えれば、後少し起きていた貰った方が安全だ。
 下手に走行中の車から飛び出せば、後続の車に轢かれる可能性もあり、大事故に繋がる可能性もある。運が良く後続車に轢かれなかったとしても、時速60キロで走っている車から飛び降りて、無傷で済むわけがない。
「起きてるから、大丈夫だよ?」
 自分をしっかりと抱え込んでいるナルの腕に、麻衣はそっと触れるがその瞬間首をかしげる。
 触れた腕が微かに硬直した気がしたからだ。
 ナルは確かに未だに人とふれ合うことを苦手にしており、たびたび硬直していることがあると、綾子や真砂子は言うが麻衣にとってはもうここ数年感じることのない違和感だ。
 まさか、自分を通して霊をサイコメトリーしてしまったのだろうか?
 不安から間近にあるナルを仰ぎ見るが、サイコメトリーをしている様子はない。いつもと同じ感情を伺わせない瞳が、自分を見下ろしていた。
 いや、どちらかというと少しばかり苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべ、麻衣からの質問を避けるかのように、すっと視線をはずし麻衣の腕をはずそうとするが、それよりも早く麻衣が動く。夏でも変わらず着ているYシャツの袖を躊躇なく捲りあげて、白い腕をあらわにする。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ごめん」
 青紫の鬱血の痕。爪が食い込んだのか半月状の形で微かに血が滲み、みみず腫れになっていた。
 触れないように指をその上に重ねてみれば、ぴったりと自分の指と重なり合う位置だ。
 外に出ようとしたのを食い止めてくれた腕を引きはがそうとして、食い込んだ痕が生々しいほどはっきりとその腕に刻まれていた。
「ごめん」
 ナルは麻衣から腕を放すと、捲られていた袖を元に戻して麻衣の視界から、痕を隠す。
「たいしたことはない」
「だけど・・・・・・!」
 たいしたことがないのなら、ナルなら綺麗に隠し通せるはずだ。ほんの僅かなりとも顔に出たと言うことは、それだけ痛みを訴えてきているということになる。
 青紫色になっていた痣は、少しずつ腫れ上がり熱を持ち始めていた。堪えられない痛みではないだろうが、痛みはあるはずである。
 車の中では手当など何も出来ないが、隠すように下げられた腕に、麻衣は罪悪感が消えない。
「直ぐにこんな痣は消える。それよりも、今回も踏切の音が聞こえただけか? 他に何か変わったことは?」
 自分を見下ろすナルの顔はすでに研究者としての顔であり、恋人として傍に居るのではないことは問いを聞かなくてもすぐに判ったが、麻衣はナルの腕の方が気になって仕方なかった。
 いくら、女の力はたいしたことはないとはいえ、あそこまでくっきりと痣が浮き上がっているのだ。おそらく、通常では考えられない力がかかったとしか思えない。下手をすれば筋を痛めているかもしれないのだ。たいしたことはないかもしれないが、医者に診て貰った方がいいのではないだろうか?
 その事をナルに告げるが、ナルは湿布で済むと簡単に終わらせてしまう。
「麻衣、今は僕のことよりも自分のことを優先しろ。
 今回も踏切の音だけだったか?」
 ナルは再度確認するように問いかけてき、麻衣は渋々と返事を返す。
「踏切の音がうるさいぐらいに聞こえてたよ。真っ暗で何も見えなくて、耳をふさぎたくなるほど踏切の音が聞こえていたの。何を言っているのか聞き取れないぐらいに、煩かった・・・・・・・・・・・・」
 麻衣の言葉にナルはふと眉を潜める。
「何が聞き取れないぐらいに煩かったんだ?」
「え?」
 質問の意図が掴めず、麻衣はきょとんとナルを見上げる。
「お前は、何を言っているのか聞き取れないぐらいに煩かったと言った。なら、警報機の音で何の音をかき消されていたと言うんだ?」
 再度繰り返される質問に、麻衣は瞬きを数度繰り返し視線を彷徨わせる。
 意識して告げた言葉ではなかったのだろう。ナルの背後を見ているかのように、焦点はずれぼんやりとどこか遠くを見つめる。
 何か言いかけては言葉にならないのか、麻衣は何度も小さく唇を動かす。
 ナルはそれ以上問いかけることはなく麻衣の反応をただ待つ。


 耳を塞ぎたくなるほどの音が満ちていた。
 危険を知らせる警報機の音。
 人を無条件に不安に落とすような、落ち着かなくさせる音だけが聞こえていた。


     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・の


 だが、その音にかき消されて聞こえなかった音がある?


  ・・・・・・・・・たし・・・・・・・・もの・・・・・・


 音・・・・・音・・・・・・・音
 暗い闇の中に聞こえた音・・・・・・警報機の音だけだった?
 暗い、世界から伸ばされた蠢くもの。
 白く・・・伸ばされた腕。
 自分はどこかに向かって進もうとしなかったか? 足が招かれるようにかってに動き出そうとしていた。
 なぜ? どこへ?
 また、踏切の元へと足が動いただけだったのだろうか?
               ・・・・・・・・・・・・もの・・・・・・がさ・・・い・・・


 微かな音・・・こ・・・・・・え?
 呟き・・・・囁き・・・・悲鳴・・・・・・こと・・・ば・・・・・・・?
 のし掛かるような音の他に、確かに聞こえた「音」がある。
 警報機の音じゃなくて、人の声。地の底から響くような・・・恐ろしく低く掠れた声。
「声が・・・・聞こえた」
「声?」
「言葉・・・かもしれない。判らない。
 警報機の音がうるさくて、聞き取れなかったから。
 それから、白い手が・・・肘から先しかない腕が伸びてきて、何かを掴もうと指が動いていた・・・かもしれない」 
 男かもしれない、女かもしれない。
 何を言っていたのか、そもそも本当に声だったのかも疑問だが、確かに警報機の音に埋もれるように、聞こえてきた声があった。
「何を言っているのか全然判らなくて、だけど怖かった。手が伸びてきて・・・何かを捕まえようとしているような感じで、掴まったら大事な物を取られそうで・・・逃げたかったけれど、身体が何かに拘束されているように動けなくてもが・・・・・い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・て・・・」
 人の腕の長さを無視して伸びてくるそれから、逃げたかったが、身体はかってに前に進もうとしていた。だが、実際には目に見えない何かに束縛されて、その場から動くことが出来なかった事を思い出す。
 あれは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 あの時、どこを束縛されていただろうか?
「・・・・・・・・・ごめん」
 あれは束縛。『声』に導かれて動き始めた自分を、とらえた腕。それは、ナルの・・・腕。
「ごめん」
 項垂れた麻衣にたいし、ナルはその事についてあえて触れることはしなかった。今は何を言っても麻衣は素直に聞けないだろうことは良くわかる。
「終わったことをいつまでも引きずっても何も始まらない。お前に言っても理解できるかは、甚だ疑問だが教訓にすることだな」
 迂闊に、声に近づこうとしたことも、あまり良くない場所と判っていて、踏切を渡ったことも、勝手に素人判断をして報告が遅れたことも、ひっくるめての言葉に、麻衣は文句を一言も言えなくなる。
 不可抗力とはいえそれは事実であり、いくらなんでも三つも重なれば、しかたないで済むレベルではなくなってくるのだから。
「ナル、原さんとブラウンさんがお見えになってます」
 今まで一言も口を挟まず、運転に専念していたリンが、前方を見たままポツリと告げた。
 その声に促されるように前方に視線を向ければ、マンションのエントランス前に真砂子とジョンが立っているのが、見える。
「真砂子・・・」
 その姿に思わず安堵してしまったのは、きっとこのいたたまれない気持ちから逃げ出したからからかもしれない。ナルの腕からするっと抜けて車から飛び出すと、おもむろに真砂子にひしっと抱きつく。
「熱烈な歓迎はとても嬉しいのですけれど、前後の確認もなくドアを開けるのは危険ですわよ?」
 いきなり飛びつかれて数歩よろめいた真砂子は、麻衣を受け止めながらも呆れたような表情を隠すこともなく、自分より幾分背の高い麻衣を見上げる。
「婚約をなさっても、子供っぽいところは変わりませんのね。少しは大人になりませんと、婚約解消されてしまいますわよ」
「ひどいなー、真砂子だって同い年でしょ」
 口では軽く返してくるが、少しばかり元気のない、今にも泣き出してしまいそうな様子の麻衣に、真砂子は首を傾げナルを見上げる。麻衣がこんな表情をする時はたいていナルが絡んでいる時だが、ナルは真砂子の視線を綺麗に無視してしまう。
「原さん、お忙しいところすみませんが、麻衣を視て判ることはありますか?」
 リンは二人が車を降りると同時に、地下の車庫へと車を納めるべく発進し、この場にはナルと麻衣、ジョンと真砂子の四人だけが残される。
 出来るだけ早く結界の施されているナルの部屋に移動した方がいいのだろうが、結界のない状態で真砂子に視て貰うのも必要だ。下手にこの場に立ちつくすのは通りがかった人間や、近所の住人の視線を引き寄せかねないため、真砂子こもこれ以上無駄口をすることもなく麻衣からすっと離れて、麻衣をまっすぐ見つめる。
 真砂子が霊視を行うところは何度も見ているのだが、いざその対象が自分となると、どうも落ち着かなくて麻衣は挙動不審なまでに視線をあたりに彷徨わせる。自分を視ているようで、自分ではない何かを視ているため、妙に落ち着かないのだ。
 長かったのか、短かったのか判らない沈黙の中、真砂子はポツリと呟いた。
「音・・・?」
「音?」
「ええ、踏切の警報機の音かしら? どこか遠くから風に乗って聞こえてくるような感じで音が聞こえてきますわ。でも、これは現実のものなのかしら・・・
 ナル、この近辺に踏切はありましたかしら?」
 本当に風に乗って聞こえてくるかもしれないため、真砂子はナルに問いかける。音の場合、現実の音なのか違うのか見える物と違って曖昧な存在のため、自分一人で判断するのはなかなか難しい。
「いえ、利用できる駅は地下鉄なので踏切はありません」
「そうですか。麻衣の周囲に特にこれと言って何かの姿が見えると言うことはありませんわ。気配の残滓・・・とでも言えばいいのかしら? 何かがまとわりついていたような気配・・・すみません。そちらに関してはこれ以上は判りませんわ。
 後、踏切の音のようなものが微かに聞こえます。もしくは、それと類似したような音と言えばおわかり頂けるでしょうか」
 真砂子は麻衣を見透かすように見つめながらも、確信が持てないのか眉を潜め目をこらす。だが、どれほど意識をこらそうともそれ以上のものを感じることは出来なかった。
「申し訳ないのですけれど、あたくしにはこれ以上のことは現段階では判りません。なにか、お役にたちまして?」
 真砂子には先入観を持たせないために、事前にどういった事が起きているかは知らされてはいない。安原からは「また麻衣がやっかい事に巻き込まれた」と言われているだけに過ぎないのだ。
「参考になります。詳しい話は中で、ここで立ち話をするようなものではありませんので」
 ナルの申し出に、真砂子だけではなくジョンまでも軽く目を見開く。今まで、ナルのプライベートエリアーに麻衣とリン以外が立ち寄ったことがなかったからだ。
「僕もお邪魔してええんですか?」
 ジョンはともかく真砂子は、マンションのエントランス前で待っていて欲しいと言われていたため、てっきりそこで霊視をするか、もしくはどこかに場所を移して霊視をすると思っていたのだ。まさか、ナルの部屋に立ち入ることになるとは思いにもよらず、ジョンと真砂子は顔を見合わせると、恐る恐るナルに尋ねる。
 ナル自身は諦めたようなため息を一つついて、仕方ないと答えた。
「他に場所はないから仕方ない。ジョンには部屋に入り次第一応、麻衣の浄霊を頼みたいんだが?」
「もちろん、僕でお力になれることでしたら、手伝わせて頂きます。麻衣さん、顔色が優れへんですが気分は大丈夫でっしゃろか?」
「ブラウンさんのおっしゃるとおりですわね。麻衣顔色がよくありませんわよ? 夏ばてですの? それともナルと喧嘩をしまして?」
 ジョンの言葉で気が付いたように真砂子は麻衣の顔をのぞき込むと、心配そうに眉を潜めて問いかけるが、麻衣はにゃはははと笑いながら軽く手を振って、二人の心配を流してしまう。
「大丈夫だよ。ちょっと眠いだけなんだ」
「まぁ、麻衣ったらどんな時でも寝むたがりやさんなんですのね」
 あっけにとられつつも、自分が思っていたよりも麻衣が元気そうで、真砂子はクスクスと笑みを漏らし、ジョンも「お元気そうで良かったどす」とほんわりと思わず和んでしまうような笑顔を浮かべる。
 が、その背後にいたナルは眉を潜めて麻衣を見つめる。
 二人が思っているほど、麻衣の状況は楽観視できる状態ではなく、麻衣の元気は確実に空元気だと言うことを知っているからだ。
 初めてナルのマンション内に入るジョンと真砂子は露骨にならない程度に室内に視線を巡らせる。案内をされた場所は当然といえば当然だがリビングにあたる。キッチンやダイニングと続いているため、かなりゆったりとしたL字型の部屋で、南側に大きく窓が取られているため、燦々と日差しが差し込んできている。
 部屋の隅にオーディオセットが置かれ、それに面してローチェアーのソファーとガラスのテーブル。別の壁一面に大きな書棚がとりつけられ、分厚い洋書やらがぎっしりと収まっている。ナルらしい気むずかしげな気配を称えるリビングはとてもくつろぎの場とは思えないのだが、ここに麻衣が加わることによって今後どう変化かをしていくのか、想像している場合ではないのだが思わず興味を抱いてしまう真砂子だった。
 真夏の空気が色濃く残る部屋にナルは眉をしかめると、エアコンのスイッチを入れ、各々に好きなところに座るよう指示を出し、ソファーの一つに腰を下ろすと、詳しい事情を何も知らない二人に改めて説明をする。その間に麻衣はキッチンで人数分のお茶の準備を始める。
「このバカはどうやらまた、どこかで何かと接触をしまきこまれたようだ」
 またという言葉がやたらと酷く強調されているのは間違いないだろう。思わず真砂子もジョンも苦笑をしてしまうが、仕方ない。確かに麻衣は巻き込まれる、もしくは接触してしまう確率が高かった。
 霊能力を持ってしまうと、否応なく呼び込んでしまいがちになる。常人に比べてしまえば存在を認識できるがために、接触率は高くなってしまうのだ。霊とて無視されるのは辛いからだろうか? 真砂子も良くあることなのだが、麻衣の方がその能力に対して不安定のため、どうしてもトラブルに巻き込まれやすかった。
「僕達が異常を知ったのは今日だが、この粗忽者は一週間ほど前から、踏切の音が絶えず聞こえ夜な夜な眠った後、警報機に招かれるようにさまよい歩いていたと言う。
 麻衣のアパート付近にある踏切が原因だと思うが、そこで何に接触をしどう影響を受けたのか、今はまだ何も判らない。現在安原さんが踏切に関して調査中だ。
 麻衣には常に警報機の音が聞こえている状態らしい。聞こえ方は様々で、気になる時とならない時があり、切り替わる原因は不明。睡眠状態になると耳元で鳴り響いているような状態になり、煩さに目を覚ますと踏切の手前で立ちつくしていたという。
 今では警報機の音は徐々に強く意識するようになり、起きていても気を抜けば睡魔に囚われ、ふらふらと歩いていこうとする」
 夜な夜な歩き回るとはただごとではない。
 ジョンも真砂子もそれで麻衣の顔色が元気な割には悪いことが判った。意識が眠りについていても、身体がほとんど眠っていないのだ。いや、この場合意識が眠っているとも言い切れない。つねに踏切の音に精神を蝕まれ、まともな眠りを取れていなかったのだろう。
 人間眠らなければ体調を崩す。若いのだから多少の無理は利くが、そこに霊という不確定要素が加わればさらに体力、気力共に奪われていく。
 ただ消耗するのではなく文字通り奪われていくのだ、同じ期間同じ程度の睡眠しか取らなかったとしても、疲労感が全く違う。身体を休めるための眠りが、体力気力精神力すべてをこそぎ取るように奪われていたのだ。
「麻衣さんは、夜な夜な踏切まで歩いていたことを知らなかったんどすか?」
 ナル達が一週間も気がつかなかったと言うことは、麻衣も気がつかず報告が遅れていたと言うことだろうか? ということならかってにふらふらと出て行った後、知らず内にアパートに戻っていたと言うことになるのだろうか?
 ジョンも真砂子も一週間というタイムラグに気が付き首を傾げるが、ジョンの純粋な問いに麻衣は目をそらし、ナルは深いため息。リンは珍しく苦笑を浮かべている。
「このオロカモノはそれをただの夢遊病と思って黙っていたんだ」
 深いため息の後に漏らされた言葉に、真砂子もジョンもとっさにどうコメントしていいのか判らず、ジョン至っては「大変どしたなぁ」と力の抜けた声で呟き、真砂子は「暢気にも程がありますわ」と呆れも隠さず呟いたのだったが、ふと首を傾げる。
「麻衣のアパートの近くの踏切って、※※※線の△△駅と○○駅の間にある住宅街沿いの、生け垣に挟まれた細い通りの踏切ですの?」
 何かを思い出すように上目遣いで天井を見上げながら、問いかけた真砂子に麻衣はこくりと頷き返す。
「真砂子知ってるの?」
「以前・・・どのぐらい前だったかしら? 番組のロケ地候補に挙がったことがあったんですの。事故とか自殺とか確かに多い踏切でしたけど、ドラマ性にかけるとして却下された場所だったと思いますわ。
 周囲の住人もロケに反対していましたので、別の地方にある場所にロケに変更したことがありましたの。
 あの時麻衣が利用する路線だと思ったので、何となく記憶に残ってましたわ」
「うへぇ・・・あそこって、そんなに本格的な場所だったの? 事故や自殺が多いってのは聞いていたけれど、マスコミが取り上げようとするほど本格的な場所とは思ってもいなかった」
 呑気な麻衣の発言に、真砂子は本当にこの子は霊能者としての自覚があるのかしら・・・と果てしなく不安に陥る。真砂子だけではなく誰もが思うだろうが。
「麻衣、ご自分の住んでらっしゃる付近ぐらいしっかりと把握してませんと危ないですわよ? 今頃言っても遅いかも知れないですけど」
 耳に痛い言葉に、麻衣は思わず肩をすくめてしまう。
「で、迂闊にも麻衣はそこを通るか何かをして、何かを拾ってきてしまったんですのね。そこでブラウンさんの出番ですの?」
 SPRの協力者にはそれぞれの方面に秀でた霊能者が居る。リンは除霊、真砂子は霊視、ジョンは浄霊、ここにはいないが滝川は除霊、綾子は浄霊の方に面しており、ジョンはとくに憑き物を落とすのを得意としていた。
 今のところ麻衣に憑依しているといったほど深く関わっているようには思えないのだが、影響を受けている以上、放っておくわけにはいかず、ジョンの出番というわけなのである。
「僕でよろしかったら、お祈りさせていただきます」
 はんなりと笑顔を浮かべて控えめに申し出てくれたジョンには、さすがのナルも威圧的な態度は取れないのだろう。苦笑を浮かべながらも「お願いします」と述べたのだ。
 それから、休憩を取ることもなくジョンは浄霊の準備を始め準備が整うと、麻衣の前でジョンは膝をつくと胸の前でそっと手を組み目を閉じる。
 クリスチャンではないのだが、なぜか自然とジョンの前に座ると厳かな気持ちになり、ジョンにつられるようにして胸の前で手を組む。
 目を閉じる前にジョンを見みれば、優しい・・・本当に優しい笑顔が降り注がれるように自分を見下ろしていた。ナルとは対照的にどこまでも明るく澄みわったた青空のような瞳と目があう。
「安心してください。すぐに、気持ちが楽になりますよって」
 今まで、調査でジョンが祈りをささげるたびに、依頼者に言ってきた言葉だ。今日初めて聞くわけではないのだが、改めて自分が聞く立場になると、言葉の深さが、想いの暖かさ変わってくる。
 麻衣はコクリ。と小さな子供のような仕草で頷き返すと、項垂れて目を閉じる。それを合図にするかのようにジョンは言葉を紡ぎ始める。
 短い言葉。
 特別飾り立てられた言葉ではない。
 それでも、冷え切った身体を湯船につけた時のように、じんわりと暖かさが染み渡ってくる。
「天にまします我らの父よ」
 優しいだけではない、力強い厳かな声が空気を震わせる。
「・・・・・・我らをこころみにあわせず、悪より救いいだしたまえ。国とちからと栄えとは、限りなく汝のものなればなり。  アーメン」
 すっと流れるような仕草で聖水の瓶をあけ親指を濡らすと、胸元、額、両耳の近くで十字を切る。その際冷めたい雫がかかったたせいか、それとも、かかった水が清められたものだからか、麻衣の身体がぴくりと微かに身じろぐが、ジョンはそのまま言葉を続ける。
「我は汝に言葉をかける者なり。我はキリストの御名において命ずる、身体のいかなる箇所に身を潜めていようとその姿をあらわし、汝が占有する身体より逃げ去るべし」
 拒絶を許さない声が、何かを追いつめるべく綴られる。
 ふだんのジョンよりも幾分硬く、さらに意志の強い声。
 麻衣の身体が微かに震え始めるが、ジョンの言葉は止まることはない。
「我らは霊的な鞭と見えざる責め苦でもって、汝を追い立てる者なり。主によって清められたるこの身体より離れることを、我は汝に求める。
 離れるべし、いずこに潜みおろうと離れ、神に捧げられたる身体をもはや求めるなかれ。
 父と子と精霊の御名により、聖なる身体は汝に永遠に禁じられたものとなすべし」
 ぱらり・・・ジョンは聖書を開き、癖の付いているページを開くと、視線を落とす。
 神に祈り、神に救いを求める言葉。
 すべてのものに平等に向けられる言葉。
 神の前ではすべてが等しい存在であり、神に愛されている言葉。
 暗きモノは光の前では力をなくし、あることを拒絶する言葉。


 あ・・・・・・びわ・・・・・・


 その低い声がすぐ傍で聞こえ、麻衣は全身に鳥肌を立たせる。
 伸ばされていた手が今にも己にふれんばかりの距離まで来ていたのだが、それはジョンの祈りの声によって近づいては来れないようだ。
 硬直したかと思うと苦しげにのたうちはじめ、やがてゆるゆると遠ざかってゆく。


   あた・・・・・・・の・・・・・えし・・・・・・・・・・・・・・・


 徐々に遠ざかってゆく警報機の音。
 それと共に声も聞こえなくなってくる。
 衣擦れするような音をたてて警報機の音と共に引いていくような感じだ。
「命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」
 先ほどまで常に聞こえていた音は、最後の言葉に追いやられるように・・・潮が引いていくかのように離れていくのを感じた。
 頭が痛くならんばかりの音が嘘のようにかき消える。
「おやすまりやす」
 ジョンは自分の首にかけていた十字架をそっと取ると、麻衣の首に静かにかける。
 人肌の温もりを移していたクロスは冷たくはなかったのだが、首にかけられたとたん自分の周りの空気が一瞬清々しいものになり、ひんやりとした心地よさを伝えてくれたような気がした。
 ジョンの手が離れていくのを気配で察すると、麻衣はゆっくりと顔を上げて閉じていた目を開き辺りに視線を巡らせる。
 直ぐ傍で固唾を呑んで心配げに自分を見つめている真砂子と、優しい笑顔を浮かべて見守っていてくれているジョン、少し離れていたところで事の成り行きを見守っていたリンとナルの順で視界に入る。
 麻衣はそのまま首を巡らせて、見慣れているはずの室内をゆっくりと見渡す。別に何も変わっていないのに、妙に視野がすっきり感じる。まるで霞が取れたかのようにすべてがクリアーに感じるのだ。
 麻衣の身体から自然と力が抜け、ピンと背筋を伸ばしていたがソファーにもたれかかるように力を抜くのを見て、真砂子はそっと安堵のため息をつきながら問いかける。
「気分はどうですの?」
 浄霊は憑依している霊がしぶとければしぶといほど、霊と浄霊者と憑依された人間三人の戦いになるのだ。はたから見ている分にはジョンの浄霊はあっさりとしすぎるほど、すんなり終わったように見えるのだが、それでも何事もなかったとは思えず、真砂子は問いかける。
「すっごく、清々しい感じかな? 音も聞こえないし。ジョン、ありがとね。すっごく気分いいよ」
 にっこりといつもの麻衣らしい笑顔を浮かべて礼を述べると、ジョンは「僕は、お祈りさせて貰っただけどす」と少し照れくさそうな表情で言うのだ。
 ナルも少しこの謙虚さを見習えばいいのにとも思うのだが、ナルが謙虚になってしまったら「ナルシストのナルちゃん」にはならかったに違いない。
「皆に心配かけたお礼に、とびっきり美味しいお茶入れるね。お変わりいるでしょう?」
 言うだけ言うと、麻衣はパタパタと軽い足音を響かせて、さっさとキッチンへと移動する。
 非常に軽い足取りからさっするに、煩わされていた音から解放されたようだが、その姿がとりあえずキッチンに消えると、今まで特に口を開かなかったナルがジョンに問いかける。
「手応えはどんな感じだ?」
 浄霊が無事に終わったという割には、ナルの表情は芳しいものではなかった。ナルだけではない、ジョンも今一つすっきりとしない顔をしていた。
「それが、払えたという手応えがあらしまへんでした。
 確かに強う抗うお人ではなかった感じどした。素直に聞いてくれはったようにも思ったんどすが、どちらかと言うと分が悪いのを察して今は、引きはったような感じどす」
 最初の内は微かな手応えを感じた。だが、それは元々麻衣に近づききれなかったのか、それとも今はタイミングが悪いと察したのか、潮が引くようにあっさりと引き下がった。とはいえ、無抵抗のままジョンの言葉に従ったというわけでもない。
 確かに今この場限りでみれば成功したと言えるのかもしれないが、ジョンの言葉に従って浄化されたのならば、もう少し確かな手応えを感じるはずだが、それらしい物を感じることはなかった。
 おそらくこの場はすんなり引くことによって、己を守ったのだ。
「ですが、先ほど聞こえた音は今は聞こえませんわ」
「気配はどうですか?」
 真砂子は麻衣を視た時、何かの気配を感じていた。それが何か具体的な事は判らないと言っていたが、なにかがまとわりついているような気配が麻衣の周りに感じられたのだ。
「今は特に感じられませんわ。
 この部屋には結界がひかれてますでしょう? 部屋に入った時点で気配の方はほとんど感じられなくなりましたの。
 音はそれでも微かに聞こえていましたけど、今ではまったく聞こえませんわ」
 自信を持ってきっぱりと言い切る真砂子に、ナルは軽く息をはくと視線をキッチンへと向ける。
「おそらく、麻衣に接触をしていた『影』は離れたと思っていいだろう。今後どう動くかは、安原さんの調査報告次第で決める」
 これで何事もなくすめば終わりにすればいいだけだ。
 麻衣はもうじきアパートを引き払い、この部屋に越してくる。荷物の移動は業者に頼めばいいだけであり、あの踏切を行き来しさえしなければ、これ以上の問題にならないのならば後は人に頼んでしまうのも一つの手だ。
 とにかく、今夜一晩様子をみてみるという事に話は落ち着いた時、麻衣がお茶を入れ終え姿を現す。
 暖かなお茶を飲み、お土産に貰ったケーキを食べてお腹も満足すると、次に襲ってくるのは睡魔だ。
 ジョンの浄霊によりしばらくの間煩わされてきた音から解放され気が弛んだのだろう。かみ殺しきれぬあくびを数度したと思うと、とろんとしてくる瞼を何度か擦って、必死で起きていようとする。
「眠いなら、寝室で休んでいろ」
 意地でも起きている必要は無くなったのだから、眠いのならばゆっくり眠ればいい。だが、麻衣はとろんとした怪しげな目つきのまま、大丈夫・・・と妙に舌っ足らずな口調で答えるが、次の瞬間にはコトン。とあっけないほど簡単に眠ってしまい、ナルの肩に寄りかかって、カップを抱えたまま寝息を漏らし始める。
 すとん。と見ていて唖然としてしまうほど、あまりの寝付きの良さにナルはあからさまなため息を漏らすが、起こそうとはしなかった。
「まるで、赤ちゃんのように寝付きがいいですわね」
 真砂子はクスクスと笑みをこぼしながら、麻衣がカップを落とさないうちにその手からカップを取り、空になっている他のカップと共にキッチンへと運ぶ。
「音から解放されて気分が落ち着いたのでしょう」
 ナルの肩に寄りかかる麻衣を見れば、さしものリンも少しだけ表情を柔らかいものにかえる。
 まだ幾分顔色は良くないが、穏やかな眠りは精神を脅かすものではない。なにより疲弊しきった身体には休息が必要だ。このまま妨害されずゆっくりと休むことが出来れば、体力と気力を回復するのにさほど時間はかからないだろう。
「これで、元気になってくれたらええどす」
「でも、麻衣ぐらいですわよね。ナルの肩に寄りかかって平気で眠れるのは。滝川さんあたりがご覧になったら、さぞかし焼き餅を焼きそうですわね」
 真砂子の発言に、三人はそれぞれ何とも言えない表情を作る。
 親ばかキャラを楽しんでいるのか、ナルの邪魔をするのを生き甲斐に感じているのか、はたまた本気で父性本能を発揮しているのか、端から見る限り何とも判別しにくいのだが、滝川は確かにこの手の展開になると、麻衣にちょっかいを出し、静かな時間さえも騒がしいものに変えるのだ。自分がだすちょっかいによって、ナルの表情が変わるのを楽しんでいるという点が一番有力な気がする、メンバー達である。
 もちろん、純粋に麻衣をかわいがってもいるだろうが、親ばかっぷりを発揮しながらも、それなりに楽しんでいるというのが確実だろう。時折羽目を外しすぎて、自爆していることもあるが。
 なにはともあれ今ここに滝川がいないため、静かな時間を壊すような人間はここにはおらず、麻衣はそれはそれは幸せそうな安心しきった顔で眠っている。
 ギャラリーの視線など全く感じていないのだろう。赤ん坊のように無邪気な寝顔をしばし凝視していたナルだが、おもむろに麻衣の身体を抱き上げると、何も言わずに寝室へと連れて行く。
 その後ろ姿を見ながら、三人はほぼ同時に笑みを深くする。
 麻衣を抱きかかえる動作は慎重さを伺わせ、眠っている麻衣を起こさないようにと言う配慮が端から見ていても判ったからだ。
 よほど眠りが深いのだろうか。無理な姿勢から抱き上げても、麻衣は目を覚ます気配はまったくなかったが、リビングを出、寝室へと移動しベッドの上に静かにおろすと、シーツの冷たさが引き金になったのか、微かに瞼が動きゆるやかな動きで瞳を開く。
「・・・・・・・・・ナル・・・・・・・・・・?」
 ぼんやりとした双眸が数度瞬いた後に、ナルを認識したのだろう。不思議そうな声で名を呼ぶ。
「少し眠っていろ」
 額に掛かった前髪を軽く払いのけると、麻衣はふわり・・・と笑顔を浮かべ気持ちよさげに目を細めるが、ふと麻衣は目を開けると自分の髪に触れていたナルの手を取ると、ゆっくりと身体を起こす。
「ナル・・・手当、してない」
 マンションに付くなり真砂子の霊視が始まり、その後すぐにジョンの浄霊となってしまいナルの腕の手当をしていなかった事を思い出す。
 あれから、どれほどの時間が経ったのか判らないが、かなり腫れ上がって熱を持ってしまっているだろう。
 今にも起き出して手当をし始めようとする麻衣を、ナルは軽く頭を叩いて宥めると、肩を押して再びベッドへと横たわらせるが、無理矢理起きようとするのをナルは押さえ込む。
「このぐらい自分で出来る。お前はしばらく眠っていろ」
 宥めるように言うが麻衣はまだ気になるのだろう。抗いきれない睡魔に逆らって、双眸を不安定に揺らせながらも、ナルからけして目をそらさない。
「リンが居る」
 ため息混じりに告げられた言葉に、麻衣しばらく考え込むように視線を彷徨わせると、掠れた声で呟く。
「ちゃんと、リンさんに手当して貰ってね・・・」
 車の中にはリンもいたのだ。ナルの腕の状態はリンも知っているのだから、場が落ち着けば何も言わずとも救急箱を持ち出して、処置をしてくれるだろうが、リンもナルに劣らず仕事馬鹿のため、場合によってはこのままうやむやになってしまう可能性も否めないのだが、ナルはこれ以上麻衣がごねるのを止めるように、その双眸に手をかざして半ば強引に瞼を閉ざす。
「僕のことより、自分のことを考えろ」
 ナルからしてみれば腕の痣などたかがしれている。若干の違和感はあれど支障はなにもない。骨が折れたのならともかく皹すらも入っていないことぐらいはナルでも判る。ただ単に内出血をしているだけなのだ。麻衣が心配するほどのことではないのだが、いらぬ不安を抱かせる必要もない。
 手当はすると告げて、安心させるかのように、優しく髪をすいていると、とうとう抗いきれなかったのだろう。麻衣の身体から今度こそ確実に力が抜け、呼気が寝息へと変わる。
「・・・・・・・・・・・・・・・おやすみ」
 軽く身を屈め、額にそっとキスを落とし、ナルは寝室をいったん出るとリビングにいる真砂子を呼ぶ。
「どうなさいましたの?」
「麻衣が目を覚めるまで傍にいて貰ってもよろしいですか? 何か、異常を察知したら直ぐに知らせてください」
 真砂子はナルの言いたいことを察すると艶やかな笑顔を浮かべて了承する。
「判りましたわ。なにかあればすぐに大声を出しますので、ご安心下さいませ」
 ナル達はリビングで安原からの報告待ちをしている間に、検討していくのだろう。だが、麻衣の眠る部屋を空にしておくのも、まだ気が引ける。ジョンの感覚では、まだ一時的に離れたにしか過ぎず、ほとぼりが冷めればまた麻衣に接触してくる可能性が高いからだ。そのため、霊を察知できる自分がこの場に呼ばれたのは言われずとも判った。
 ナルは軽く黙礼をすると、真砂子を残して部屋を出て行く。
 一人残された真砂子は、部屋に置かれていた椅子をベッドの傍まで移動させて座ると、健やかな様子で眠る麻衣を見下ろす。
「果報者ですわね、麻衣。あのナルにあそこまで心配して頂けるんですもの。そんな方この世に二人とおりませんわよ。とても判りにくい心配のなさりようですけれど・・・ナルらしいといってしまえば、ナルらしいですわよね。
 麻衣はもう少し素直に心配して欲しいっておっしゃるのかしら? そうそう、起きたら改めておめでとうを言わせて頂きますわ。
 ですから、今はあたくし言いませんわよ。眠っている貴方にいっても仕方ありませんし」
 ふっくらと柔らかな頬を、軽くむにゅっと掴みながら、小さな声で呟く。ここまで熟睡してしまっている麻衣なら多少のことをしてもきっと起きないだろう。案の定麻衣はうめき声を上げあるだけで、起きることはなかった。
「んん・・・・・・・・・・・・な・・・・・・・・・る・・・・・・・・・・・・」
 眉を潜めながら漏れた名に真砂子は笑い声を潜めるのが大変だった。
「ナルがこんなことをなさるのかしら?」
 自分の知るナルでは想像も付かないが、案外麻衣と二人っきりになれば、ナルとてこういうお茶目な悪戯もするのかもしれない。
 今度、じっくりと麻衣から話を聞き出してみようと、改めて思ったのだ。
「麻衣だけが知っているナルを教えて貰うのも、楽しいかも知れませんわね。いったいどんなナルを麻衣はご存じなのかしら・・・あたくしとしては、是非とも普段のナルからは想像できないナルを聞かせて頂きたいところですわね。
 松崎さんと一緒に、お酒のつまみにさせて頂こうかしら? 一人でさっさとお嫁に行ってしまうのですもの。このぐらいの意趣返しは当然ですわよね」
 小首を傾げて呟く声を、麻衣が聞いていたら顔を真っ赤にして怒るかもしれないが、きっと綾子も真砂子の提案に喜んで乗ってくるだろう。
 綾子の部屋で、女三人で楽しくやるのも一興だ。美味しい料理に美味しいお酒、第三者の視線を気にすることなく、羽目を外すのは楽しい。
 どんな状態になるのか想像することはたやすい。きっと調子に乗りすぎて、自分も麻衣もお酒がすすみ、翌日は確実に二日酔いになっているだろう。綾子一人元気で二日酔いでつぶれている自分たちの面倒を、文句言いながらも見ている様子が簡単に予想でき、思わず笑い声が漏れてしまうが、慌ててのどの奥でかみ殺す。
「なんだか、暑くなってきましたわね・・・」
 ふとエアコンに視線を向ければついているのだが、微風に調節されているせいか、室温は思ったほど下がってはいない様子だ。それとも笑ったせいか身体の内に熱が籠もってしまっているような気がしてくる。
 エアコンの設定温度を下げればすぐに室温は丁度良くなるだろうが、体調がベストとは言えない麻衣にはあまり強い冷風は当てない方がいい。日中は残暑が厳しくいまだ三十度を超える日もあるが、夕方にもなってくるとだいぶ風がひんやりとしてき、秋が間近まで迫っていることを感じさせるようになってきている。窓を開ければ十分な涼がとれるだろう。
 真砂子は少し考えたすえ、窓を開ける。ひんやりとした風が吹き込んできき、火照った頬を心地よいが風沈めてくれた。
「風はもう秋なんですのね・・・」
 真砂子はそのまま窓辺に立って外の光景に目を向ける。角部屋の上最上階に位置するこの部屋の景観は最高に良かった。この周辺ではこのマンションが群を抜いて高く、視界を邪魔するマンションやビルがないのだ。見晴らしは文句なしに最高だろう。
 きっと夜ともなれば街の明かりがイルミネーションのように見えて最高にロマンティックな光景を演出しているのだろうが、はたして、朴念仁が相手でロマンティックなシチュエーションになるかは甚だ疑問だ。
 風にしばらく当たっていたのだが、気がつけばだいぶ身体が冷えてきたため、閉めようと窓に手を伸ばしかけたのだが、それが不自然な動きでもって途中で止まる。
 真砂子の両目は窓の縁を凝視していた。信じられないモノを見たかのように、目が見開かれている。彼女の視線の先では白いレースの手袋に覆われた指先が、窓の縁を掴んでいたのだ。
 ここは十六階建てマンションの最上階だ。窓の外には壁のみしかなく、足場になるようなベランダの類はどこにもない。


『カエシテ・・・アタシノ』


 地の底から聞こえてくるような、低い声がこだましたかと思うと、はっきりと体感できるほど室内の空気が瞬く間に下がり、吐き出す呼気が白くたなびく。
 指先に力が入っているようには見えないが、それは己を確実に引き上げていく。頭が見え額が現れ、髪に隠された目までが窓際から姿を現した。
 真砂子は無意識のうちに後ずさってしまう。
 ぎょろぎょろと左右を見渡すと、その目は真砂子を見つけニヤリと笑った。口元は見えない。だが、チェシャ猫のように三日月型に両目が歪んだのだ。


『アタシノ・・・モノ・・・カエシテ』


 先ほどまで薄ぼんやりとした、陽炎のような存在でしかなかったのに、輪郭さえまともに表すことが出来なかったのが嘘のように、その姿がはっきりと見えた。
 沈みゆく夕日を浴びて、血に染まったかのように真っ赤に見えるその姿ゆえ、錯覚をしているのだろうか。むせかえるほどの血臭が部屋に充満し、くらりと目が回る。
 その場に膝をついてしまった真砂子を見ると、女はますます笑みを深くした。


『アタシノ・・・モノ・・・カエシテ』


 女は何かを求める。
 それが、何かは判らない。
 だが、まっすぐに伸ばされた腕の先には真砂子ではなく、麻衣がいる。
「麻衣・・・起きて・・・」
 かすむ意識を覚ませるように唇を血が滲み出るほど噛みしめる。痛みが一瞬意識をクリアーにさせ、渾身の力を込めて麻衣を揺り起こす。
 アレが狙っているのは自分ではない。危険なのは真砂子ではなく麻衣。今の自分ではナル達を呼べるほど大きな声は出せない。せめて麻衣を起こして逃げて貰わなくては・・・
 窓を開けなければ・・・
 悔やんでも悔やみきれない。だが、今更悔やんでももう遅い。ならばせてて今自分に出来ることを・・・
「麻衣、起きてくださいまし・・・」
 身体を左右に揺さぶる。か細い真砂子の声にかぶるように女の高笑が聞こえてくる。振り返ってみるといつの間にか女は窓枠にしがみつくようにして、上半身まで姿を現していた。この場に不似合いな白いウェディングドレスを着て、窓枠を乗り越えると、どさりと音を立てて身体が床の上に倒れ込み、腕の力だけで進むかのように、女は床の上を這い蹲りながら近づいてくる。
 ズ・・・ズ・・・・・・ズズズ   
 重たげな音をたててドレスの裾を引きずりながら、麻衣に近づいてくる。
「麻衣・・・っ」
 起きて! 真砂子の祈りは虚しく、女は麻衣の腕をがしっと掴むと、勝ち誇った笑みを口元に浮かべた。真っ赤な口紅に彩られた唇が不気味な弧を描く。


『捕まえた・・・・・・・・・・』


 麻衣の腕を掴み、窓の方へ引きずっていこうとするが、真砂子はとっさに袂から数珠を取り出すと、女に向かって投げつける。
 どれほどの効果があるのかは真砂子にも判らない。ただ、無我夢中でしたに過ぎなかったが、女はうめき声を上げると、麻衣の手を放して一気に窓の縁まで引き下がり、恨めしそうに真砂子を睨み付けるが、真砂子はそんなことに構ってはいられない。
 床に倒れ伏している麻衣に近づくと、その身体を強く左右に揺する。
「麻衣・・・起きて・・・麻衣!」
 必死の祈りが通じたのか、それとも麻衣の危険に対する本能がようやく働きだしたのか定かではないが、麻衣はゆっくりと瞼を開け身体を起こした。
「麻衣・・・逃げて」
 麻衣が目を覚ましたことに安堵のため息を漏らしてしまう。まだ、本当に安全な場に移ったわけではないのだが、目を覚ませば起きるだろう。
 だが麻衣はぼんやりとしたまま床の上に座った状態で、周りの様子に意識を向けるそぶりはまったくない。人形のように意志をなくしたような状態だ。


「ニガサナイ・・・アタシノ・・・モノ・・・」


 暗く澱んだ声が再び聞こえてくると、麻衣はふらふらと立ち上がり、真砂子には一目も触れず寝室を出て行こうとするが、その足を真砂子はとっさに掴む。するとバランスを崩した麻衣はその場に座り込むが、何事もなかったようにのろのろと身体を起こすと、再び女の元へ向かい始めるため、真砂子はすがるようにその身体にしがみついた。
「麻衣!」
 このまま麻衣を行かせるわけにはいかない。ナル達に現状を知らせなければいけないのだが、ナル達はこの状況を察する気配はまるでない。
 もしかしたら、すでにこの部屋全体が女の意識化に置かれ、室外に異常が漏れないのかもしれない。真砂子は麻衣が出て行かないようにその身体にしがみつくが、麻衣は真砂子が自分にしがみついていることなど判らないかのように、引きずりながら進んでゆく。その事に業を煮やしたのか女は忌々しげに舌打ちをする。


「邪魔をするな!」


 叫び声と共に窓からものすごい風が吹き込んでき、麻衣の身体にしがみついている真砂子の身体を吹き飛ばす。壁に背中と頭を打ち付けてしまい、意識がさらにくらりと霞む。
 それでも、踏みとどまって真砂子は麻衣をつなぎ止めるべく手を向けるが、さらに強い風が吹き付け壁に押しつけられる。




カエセそれはアタシノモノ誰ニモヤラナイカエセあたしのダユルサナイアタシノカエセソレハアタシノモノユルサナイオマエナンカユルサナイカエセカエセカエセカエセアタシノカエセオマエナンカニワタサナイカエセアタシノアタシノモノカエセカエセカエセカエセアタシノカエセカエセアタシノアタシノモノダレニモワタサナイカエセカエセカエセカエセカエセそれカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエセカエ




 頭いっぱいに女の声が響き渡り、真砂子は自分が今何をしているのかが曖昧になっていく。むき出しの女の感情に全てが飲み込まれそうになる。
 ただ一つの感情が渦巻き、念となって意識を凌駕せんばかりに押しつけられる。そのむき出しの感情に耐えながら、真砂子は必死の思いで手を伸ばす。
「麻衣・・・・・・・・・・っ」
 手を伸ばすがその指先は麻衣に触れることはなかった。
 麻衣はぐったりと横たわる真砂子には意識を向けることなく、ふらふらと寝室を出て行く。
 開けっ放しにされたドアの向こうから、重い扉が微かなきしみをあげて開く音が聞こえ、微かな音を立てて閉まる。
「ま・・・・・・・・・・・・い・・・・・・・・・・・・・・・待って・・・」
 出て行った麻衣の後を追いかけようと身体に力をいれようとするのだが、全くと言っていいほど力が入らず、意識が急速に落ちてゆく。
 ぼやけて霞んでゆく視界の片隅で、女が勝ち誇ったような笑みを浮かべたのが見える。何も出来ない歯がゆさに真砂子は唇を噛みしめるが、その痛みさえ感じることなく、意識に斜がかかる。
 彼女の姿が朧気になっていくのは、意識が無くなりかけているからなのか、それともこの場にとどまる必要が無くなったため、姿を消し始めているのか判断はつかない。
 伸ばした手が力なく落ちた時には、室内に充満していた血の臭いも、女の姿も全てが無くなり元の静けさを取り戻していた。




              ※    ※   ※




 ナル達はリビングで今後のことについて話し合いをしていた。完全に浄霊できたわけではない以上、根源を絶たない限り同じような事がないとも限らない。それゆえ安原から連絡を待っている状態だった。
 なぜ、この時期になって麻衣が霊の影響を受けるようになったのかが、最大のネックといえるだろう。一週間前に初めて通ったというのならともかく、普段は利用しないとはいえ過去に一度も通ったことがなかったわけではない。
 今まで何回か通ったとしても今回のような事態にはならなかった。
 そもそも麻衣はたまたま普段はあの路を通ることはなかったが、麻衣以外に毎日大勢の人間があの路を通っている。その内の何割かは当然女性もいる。麻衣だけがあの路を通る女ではない。にも関わらず、なぜ霊は麻衣を選んだのか。
 そのきっかけは、違いはなんなのか。情報が集まっていない現状では何一つ判らず、今後の対策を立てることは未だに出来ていなかったが、事が展開することをただぼうっと待っているわけにはいかない。
 安原からの報告を受け次第、その結果によって動く方向を決めていかねば、今後も後手に回り続けるだろう。
 リンとナルは場合によっては滝川や綾子を呼び出した後踏切に向かい、安原、ジョン、真砂子は麻衣と共にマンションで待機と言うことになる。
 麻衣はすでに著しいほど体力を消耗していた。今休んだからといって、すぐには元には戻るものでもない。
 距離など関係なく影響を受けることを考えれば、マンションにいたからといって安全とは言い切れないが、ジョンと真砂子にフォローを頼み、その間に浄霊もしくは除霊に及んでしまえば、問題は解決するはずだ。
 まずは、安原からの報告しだいですぐに動けるかがどうかが決まるのだが、ふとナルは咽の渇きを覚える。
 いつもならばそろそろ麻衣がお茶のお代わりを用意する頃合いなのだが、肝心の麻衣は今は伏せっているため、タイミング良くお茶が運ばれてくることはない。リンやジョンに頼むのは筋違いのため、ナルは自分で淹れるべく立ち上がる。
 足はそのままキッチンへと向かい始めるのだが、何の脈絡もなく麻衣の笑顔が脳裏に浮かぶ。意味など何もないのだが、あれから時間は一時間ほど過ぎている。少しは様子が落ち着いただろうか。
 真砂子にも今後のことを告げるために、ナルは目的場所をキッチンから寝室へ変える。
「ナル、どうしましたか?」
 唐突に立ち上がったナルにリンが問いかけると、ナルは麻衣の様子を見てくると簡単に答え、リンの返答を待つこともなくリビングを出て行く。
 リビングには早い内に電気を付けていたため、気が付かなかったがいつの間にか陽が大きく傾いていたようだ。
 最後の足掻きのように、赤い夕日が廊下に満ちており、壁紙を毒々しく感じるまでに染め上げていたことに、ナルは足を止め眉を潜める。
 廊下には窓ガラスはない。外光が差し込むとすれば、廊下の延長上にある玄関ドアと寝室のドアぐらいだが、玄関はきっちりと閉ざされていおり、本来ならば寝室のドアも閉ざされているはずだ。
 麻衣を寝かせ真砂子に後を任せた時、確実にドアを閉めたことを覚えている。それ以降真砂子が寝室を出た様子もなく、麻衣も眠ったままのはずだ。にもかかわらずドアは開いていた。
「麻衣?」
 ナルは慎重に扉を開けると、室内の有様に軽く目を見開く。
 閉めていたはずの窓は半分ほど開けられた状態で、外から吹き込んでくる風によって、カーテンが大きく揺れ動いて、室内に暗い影を落としている。
 部屋の中央部に設置されているベッドはもぬけの殻で、人の寝ていた気配はあるものの、肝心の麻衣の姿はその上にはなく、真砂子は壁にもたれるようにして意識をなくしていた。
 麻衣がいつの間に部屋を出て行ったのか、ナルはおろかリンもジョンも誰一人として気が付かなかった。そもそも、この部屋で何らかのトラブルがあったことさえ全く関知できなかったのだ。
 真砂子が壁にもたれ意識をなくしていることから考えても、何もなく済んだとは思えない。
 窓は確かに開けられていたが、それぐらいでリンの結界が揺らぐとは考えられない。かといって破壊された様子もない。
 結界を壊せばリンがすぐに判ったはずだ。それを察せられなかったと言うことは、結界が今もなお正常に機能してこの場にあるということなのだろう。麻衣を連れ去った何かはこの場にしかれている結界を壊すことなく踏み越えることが出来たのだ。
 ナルは微かに唇を噛みしめると、今だ気を失っている真砂子に近づき、床に膝をついて真砂子の肩を抱き起こし、軽く頬を叩く。
「原さん」
 ナルの鋭い声にも真砂子は目を覚まさない。完全に意識を失っているようだった。
「原さん!」
 先ほどよりも幾分強く頬を叩くが、真砂子はピクリとも動かない。
「ナル、どうしました?」
 珍しく声を荒げているナルに気が付いたリンとジョンが、駆け込むように寝室に入ってき、室内の状態に驚きを隠せない。
「リン」
 ナルの呼び掛けに、リンは真砂子の傍らに膝をつくと、両肩を支えて真砂子の上半身を支え、背を反らすように小さく動かすと、ピクリと瞼が痙攣し、ゆっくりと漆黒の双眸を露わにする。
「・・・・・・ま・・・い・・・」
 リンに支えられたまま、真砂子はしばらく瞳を彷徨わせるが、目的のモノを見つけられなかったのだろう。勢いよく身を起こそうとするが、目眩によりその場に崩れ落ちかけるのをリンに支えられる。
「原さん、いきなり動くのは危険です」
 諭すような声に、真砂子は弱々しく礼を述べると、傍らに立っているナルを見上げる。
「麻衣が・・・連れて行かれてしまいましたわ・・・・・・」
「踏切にですか?」
 ナルの問いに真砂子はこくりと頷き返す。
「女性が・・・ウェディングドレスを着た女性が、麻衣を呼んでました  」
「ウェディングドレスを着た女性・・・?」
 思いにもよらない単語に、ナルだけではなくジョンやリンさえも意外そうな表情をし、真砂子へと視線を注ぐ。
「酷く恨みを持った女性・・・何かに酷く執着している様子でした。『カエセ』と、それだけをぶつけて来ました。何を返して欲しいのかは判りませんが、それを奪い返すために麻衣を呼んでいます・・・」
 そこまで告げると、真砂子は大きくため息をつく。霊の暗澹たる想いをダイレクトに叩きつけられ、身体が拒絶反応を起こしているようだ。全ての感覚が遠く感じ、気を抜けば意識をなくしてしまうだろう。
 生々しいほどの感情は、全てを塗りつぶしてしまいかねないほど黒く、消えることなく炎のように燃えさかっている。
「何故、麻衣を呼ぶんです」
「判りません・・・が、その女性が求めるモノを・・・なくしてしまった物を麻衣が持っている・・・いいえ、麻衣が奪ったと思っているのだと、思いますわ・・・」
 これ以上は判らない、と真砂子は口を閉ざす。
 彼女の欲求は一つのようでいて、一つではけしてなかった。
 カエセとわめきながら、憎いと怨念を渦巻かせる。負と負の感情が入り交じり、互いに増幅しながら彼女を作り上げている。
 霊との接触とそれに対する抵抗で、真砂子は酷く消耗していた。伝えるべきことをナルに伝えると、再びリンの腕の中でぐったりとしてしまう。
 その様子を見てナルはこれ以上聞くことは無理だと判断するとおもむろに立ち上がった。
「ジョン、原さんを頼む。僕は麻衣を追う」
「ハイ」
 リンと代わってジョンが真砂子を抱えると、ナルはベッドに寝かせておくように告げた。。
「リン。来てくれ」
 リンもまた無言で立ち上がり、ナルの後に続いて寝室を出て行く。ナルはもう真砂子の様子に意識を向けることもなく、携帯を手に取ると登録されている番号を呼び出しながら、玄関へと足を向けると、記憶してあるナンバーを呼び出す。






 図書館で古い新聞の記事を舐めるように読んでいた安原は、ようやくある記事を見つける。一九七三年発行の地方新聞に記載されている記事だった。
 その記事が記載されているページをコピーし、他の新聞社の記事も見ては、コピーを取っていく。新聞だけではないゴシップ雑誌なども調べては、コピーを取っていく。当時かなりニュースとして取り上げられたようで、いくつかの雑誌や新聞に問題の件が取り扱われていた。
 それらを一通りコピーを取り終え、さらに検察の知り合いの元へ電話をし、当時の資料がなにかしら残っていないか問い合わせをし終えたタイミングで、携帯に着信が入る。
 表示には『所長』の二文字。
 自分から連絡を取る前に、ナルの方から連絡がかかってきたと言うことは、何か事態が動いたのだろう。それも良くない方へ。安原が調べる必要が無くなった・・・ということはまずあり得ない。そう確信して安原は出る。
『所長、何かありましたか?』
 ツーコールで電話が繋がるなり、安原はそう尋ねてきた。
「麻衣がいなくなりました。例の踏切に向かったはずです。安原さんが現状では一番近い所にいますので、急いで踏切に先回りして下さい。僕もこれから向かいます」
『わかりました』
 通話が切れる。
 安原が調べてきた事は、無事に麻衣を保護できてから聞けばいい。
 敢えて車の運転はリンに任せた。
 夕刻の帰宅に混み始めた道路。
 ナルは堪えられない苛立ちに、膝の上で拳を握り締める。


   ・・・麻衣。


 空一面を朱色に染め上げる夕陽。
 不吉なまでに真っ赤な夕日を凝視しながら、ナルは麻衣の無事を、神にではなく、今は亡き片割れに祈り続ける。