-4-






   四章 《踏切》



 麻衣のアパートには大通りから行くことが出来るため、住宅街を縫うように作られている細い路地を通るのは初めてだった。話に聞いていたとおりかなり道は狭い。ナルが乗っているBMWでは幅がギリギリと言ったところだろうか。路駐した場合ドアを全開にするのは少し厳しいものがあった。
 窓を開ければ、踏切の警鐘音が聞こえてき、目の前を電車がスピードを落としながら通り過ぎてゆく。それらを見送りナル達は踏切をくぐり抜ける。
 細い路地のため一方通行が多く、ナル達が通ってきた道からでは、問題の踏切がある道には出られないため、一度駅を回って行かなくてはならなかった。
 踏切を渡って二十メートルほど進むと、小さな駅が左手方向に見える。駅前にはロータリーと言えるようなスペースもなく、かなりこじんまりとした駅だ。
 急行電車は止まらないが、住宅街に隣接する駅だけあって、利用客は多く、たったいま停車した電車から降りてくる客で、改札口からは吐き出されるように人が出てくる。
 人々の足取りにはいたって乱れたものもなく、駅に停車していた電車も、一分と経つことなく発車していくのがウィンドウ越しに見えた。
 まだ、何も起きていないことに、僅かに安堵をするとナルは車を降りるがリンは車から降りない。ロータリーもない駅前には駐車するスペースもなく、路駐をすれば確実に道路を塞いでしまうため、緊急事態とはいえ路駐することはできなかった。
 なによりも、麻衣を見つけた後速やかにこの場から立ち去るためにも、機動力は確保しておく必要があった。
「私はこのまま車で谷山さんを探します。何かありましたら連絡を下さい」
 麻衣に付けておいたはずの式は寝室に漂っていた。式の感覚自体を誤魔化されてしまったのだ。そのため式は麻衣の異常を感じることなく、リンも式の異常を感じることができずにいたため、察知することが出来なかったのだ。
「判った」
 発進する車から離れ、ナルは駅前の道を辿って麻衣が話していた踏切へと急ぎ足で向かう。狭い上に帰宅ラッシュで人通りが多く、思うように先に進めない事にいらだちを隠せない。
 薄暗い中でも際立つナルの容貌に誰もが目を奪われ、思わずその場で歩みを止めて見とれてしまうため、人の波が停滞し前に進むことを憚る原因となる。
 電車がホームに入ったタイミングで、こちら側に回ってきてしまったのは失敗だったか。と思いつつもナルは歩みを止めず、泳ぐようにして彼らを追い抜いていく。
 途中麻衣が普段つかう陸橋をちらりと横目で見る。階段前には確かに、『老朽化のため補強工事中』という看板が立てかけられており、足場が作られていた。
 陸橋前を走り抜け、さらに百メートルほど進むとようやく踏切へとたどり着く。踏切と陸橋の距離はたった百メートル強しか離れていないのだ。だが、その距離が今まで麻衣を危険から遠ざけ、定めを切り分けていたのだ。
 後一月この陸橋が封鎖されるのが遅ければ、また違った未来があっただろう。もしくは面倒くさがらず麻衣が何を言おうと、その引っ越しを手伝って、早く終わらせていれば良かったのだろうか。
 今更考えても仕方ないと思いつつも「もしも」と考えてしまうのは、今喪失の可能性が目の前に迫っているからか。
 踏切の前には駅から流れてきた数名が、踏切が開くのを待っている。その中に麻衣の姿は見あたらなかった。
 どうやら、麻衣がたどり着くよりも早く付いてしまったようだ。ということは途中で追い抜かしてしまった可能性が高くなる。
 車で向かう時出来る限り麻衣のアパートに向かう道を通り、気をつけてはいたものの、時速六十キで走っている状態から人を探すのは難しい。また、麻衣が普段は車では通らない道を歩いていた可能性もある。
「所長」
 丁度開いた踏切の向こうから、安原が駆け寄ってくる。
「僕は一時間前からここにいましたが、谷山さんはまだここに着いていません」
 案の定追い抜いてしまったようだが、自分たちがここに来る前に、麻衣が来なかったことにひとまず安堵する。
「そうか。僕はこちら側で麻衣を探す」
「僕はまた、あちら側に戻ります」
 再び踏切の警鐘が鳴り響き始める。開かずの踏切と言っていただけあって、開いたと思ってもその踏切が上がっている時間は非常に短く、すぐにまた降りてしまう。そして一度降りると五分や十分ほど開かない事もたびたびあった。
 確かにこれを朝やられれば、待っている時間にいらだち、僅かな空白の瞬間を見計らって、むりやり押し入ろうとする輩がいてもおかしいことはなかった。
 上り電車が目の前を勢いよく通過しても、踏切は開かない。一分ぐらい頭が痛くなるような音を聞いていると、下り電車が勢いよく目の前を通り過ぎていったかと思うと、間をおくことなく今度は上りの急行電車が通り過ぎていく。
 電車が目の前を通過するたびに、風圧で髪が乱され視界を邪魔するため、ナルは片手でかき上げながら周囲に目を向ける。いつ麻衣がこの通過する電車へ飛び込むのか判らないのだ。気を抜くことはほんの一瞬たりとも出来なかった。
 気ばかり焦ってくる。
 踏切の向こう側にいる安原もかなり気を張っているのだろう。周囲に険しい視線を巡らせているのが、反対側にいるナルにも判る。
 知らず内に滲み出てくる汗をぬぐいながら、ナルは辺りに立ち止まっている人々に視線を向ける。
 住宅街にある駅が故に、この駅を使う人間が多い。踏切が開けば人々は流れるように渡っていくが、再び踏切が閉ざされるとせき止められた水のように、人が密集していく。
 陽はだいぶ傾き、風はいくぶん涼しいものになってきたが、額を流れる汗を止めることはなかった。
   ・・・麻衣、何処だ。
 ナルは踏切のすぐ前に立って視線を走らせる。万が一、麻衣が飛び出してきた時に対処するためだ。


     ・・・・・・・・・ナル。


 風のそよぎのように淡く、だが聞き違えることのない片割れの声が唐突に脳裏を掠めていき、柔らかな風が頬を撫でていく。
 特別な風ではない。
 だが、その風に導かれるように・・・目に見えない何かに引かれるように、ナルは視線を右手へと向けた。
 離れたところにあるのは、柵に囲まれた駅のホーム。
「  麻衣」
 麻衣がぼんやりとした表情でホームの端に立っていることに気が付く。ちょうどナルが立っている側のホームだった。半ば夜と化した暗さの中、ホームの照明に照らされて麻衣の姿が浮かび上がっていた。
 虚ろな眼差しは何も映してはおらず、ぼんやりと意志をなくした状態で立ちつくしている。薄汚れた服を着、素足のままその場に立っているため、傍にいた人が不審そうに麻衣をちらちらと見ているのが判る。
 そんな視線など当然麻衣は気が付いておらず、ぼんやりとした視線をこちら  踏切側に向けていた。
「麻衣!」
 ナルが動くよりも早く、麻衣はいきなり線路へと飛び降りた。
 傍にいた人間が驚いて止める暇もなかったほどだ。
 今までぼんやりしていたのが嘘のようにその動きは速かったが、一メートル以上あるその高さにバランスを崩し、前のめりになって倒れる。
 麻衣の周囲にいた人々は、驚きに声を上げることもできずに唐突に飛び降りた・・・それも電車が来ていないにもかかわらず、麻衣を見て言葉をなくしている。
 電車が来る前に飛び込んだため、駅員を呼ぶという行為さえ忘れているようだが、微かに一部がざわめき始める。
 それは、自分と同じように踏切が開くのを待っていた人間達が、ホームから飛び降りた麻衣に気が付き、なにやら話はじめたからだ。
「ちょ・・・なに、あの子」
「危ないんじゃないか?」
「ちょっとやめてよぉ、こんな時間帯に自殺ぅ?」
「夕飯前にスプラッタは勘弁して欲しいよなぁ」
「あたしらもしかしてもろ目撃者になるわけ?」
 一人が口を開き始めたら、それが伝播するように人々の口を軽くひらせていく。
 ナルはそれらの声が耳に入っていないかのように、遮断機をくぐり抜け麻衣の元へと走り出す。
「ちょ! 貴方危ないわよ!」
 誰かが止める声が背後から聞こえてきたが、ナルがそれで足を止めるわけがない。
「麻衣っ>」
 麻衣は何事も無かったかのように起き上がると、線路の上をよろめきながら踏切へと歩いてくる。
 手をぶらりと足らしながら身体を左右に揺らして歩く姿は、まるでホラー映画の中に出てくるゾンビのような様子で、口々に囁きあっていた人たちは知らず内に言葉を飲み始める。
 麻衣を包み込む異常な気配に飲まれ始めているのかもしれない。
 羽音のように煩わしく聞こえてきた声が止んだかと思うと、変わりに踏切の警鐘が一段と大きく聞こえるような気がするのは錯覚なのだろうか。叩き壊したくなるほどの勢いで警報機の音が鳴り響き、近付いてくる電車の震動が、レールを響かせる。
 ホームの向こうに、ライトを点けた電車が小さく姿を見せるや否や、それはみるみる近付いてくる。ホームで止まるためにスピードを緩めているはずが、真正面から見ると異様に速く感じられた。
 近づいてくる電車のスピードが思ったよりも落ちない。
   まさか、通過電車か?
 自分の走る速度がもどかしい。
 大粒の石が敷かれている線路内は走りにくく、足が石に取られそうになるが、それでもナルは麻衣の元にたどり着くなり、その手首を掴んで引きよせると肩に担ぐようにして抱き上げた。
 線路沿いに作られた小さな花壇へ避難するため、ナルは背後へと振り返った。その時、


    「カエセ」


 ナルの耳元で、知らぬ女の声が囁いたとたんに麻衣が暴れ始める。
「麻衣っ!」
 車中でのように麻衣の力は尋常ではなかった。
 体勢が不安定だったために、ナルの拘束は簡単に振り解かれる。
 半ば落ちるように麻衣はナルの腕から離れると再び線路へと足を踏み出した。電車はもう、そこまでやってきているが、ナルはためらうことなくその腰に腕を回し、暴れる麻衣を目に見えない力からもぎ取るようにきつく抱き締めた。

「アタシノ モノ」


 ナルの目の前に女が姿を現す。
 真砂子が言っていたように白いウエディングドレスを身に纏った女が線路の上に這い蹲っていた。
 上体のみを起こして恨みがましい目を麻衣に向けている。レースの手袋に覆われた手を伸ばすと、麻衣を引きずり込もうとするかのようにその腕を掴み、女はニヤリと笑みを浮かべる。
 チェシャ猫のように目が三日月型に歪むと、女は赤い唇を動かす。


「アタシノ モノ」


 ナルは軽く目を細めると、右手でしっかりと麻衣の身体を抱き寄せ、左手を女へと差し向ける。
 目の前の女を消滅させるほどの力はたまってはいない。だが、これだけ溜まれば今は十分だ。
「麻衣は、誰にもやらない」
 青白い光を纏った何かがナルの掌から突き抜け、それはまともに女の顔面で弾ける。


「ぎゃぁっ!」


 女は断末魔のような呻き声を上げて、麻衣から手を放して己の顔を押さえ込む。
 生身の身体を持っているわけではないというのに、女の顔は黒く焼けこげ、タンパク質が焦げる嫌な臭いがナルの嗅覚をつく。
 女は痛みにのたうつように、背を大きくそらすと線路に叩きつけられるように倒れ伏すが、地面に崩れる前に姿をかき消した。
 そして、女の姿がその場から消えると、がくん、と麻衣の全身から力が抜け抵抗がなくなり、ナルは麻衣を抱き締めたまま花壇に倒れ込む。
 己の身体で全てから守るかのように、小柄な身体を抱きしめる。
 電車の警笛と突風、重量のある震動がすぐ脇を駆け抜けていく。
 電車が行き過ぎると踏切の警鐘が止まり、小さなざわめきが瞬く間に広がっていく。皆の目に今の状況がどう映ったかは判らないが、このままここに居残ることは良策ではなかった。
 ナルは身体を起こして麻衣を見下ろす。ひとまずあの霊の干渉は退けられたのだろう。すっかりと意識をなくしている様子で、起き出す様子はなかった。
 怪我がないことを確認し、麻衣を抱き起こすと、安原が踏切を乗り越えて駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか」
「ああ・・・怪我は無い」
「ですが、所長・・・」
 安原にはナルが何とやりとりをしていたのかは判らない。だが、麻衣を片手で抱きかかえたまま、左手を突き出していた。その左手には微かに青い光を纏わせ、一瞬だけ何かが弾けるような音が、警報機の音に紛れて聞こえてきた。
 そして、その破裂音が聞こえた後、唐突に麻衣は力をなくしたかのように意識を失ったように見えたのだ。そこから考えてみれば、安原とて容易に想像できる。
 案の定、麻衣を抱きかかえ直した時に見えた、ナルの左の掌には小さな水泡がいくつかでき、軽度の火傷を追ったような状態になっていた。
 それは、手を濡らすことなくPKを使った時に現れる、反動の一つだ。
「自分でやったことだ。構わなくていい」
 安原の心配をよそにナルは淡々と告げると、麻衣を抱き締める手に力を無意識のうちにいれる。
 麻衣を失うことに比べてしまえば、掌の痛みなどたいしたことではない。それどころかこの程度ですむのならば、左手の一つぐらい惜しくはなかった。
 ナルの決意を察したのだろう。安原はそれ以上その件に関して問いかけることはしなかった。
 何があったのか判らないが、除霊できる人間が傍にいない以上、ナルが出来ることと言えばPKを使うしかないのだから。
「リンが近くを車で走っているので呼んで下さい」
「わかりました」
 ナルが麻衣を抱きかかえ、安原が先導するように歩き出すと、駅員がようやく小走りで近づいてくる。おそらく見物していた人間の誰かが、ようやく呼び出したのだろう。
 駅員の顔には「またか」と言ったような表情がありありと浮かんでいたが、ナルも安原も駅員の声など聞こえないように歩いていく。
 踏切の元まで歩いていくと、今まで何があったのかと話していた人達の囀りがぴたりと止まる。
 女一人を挟んだ三角関係でも噂しているのだろうか。ナルと安原を交互に見た後で、またボソボソとなにやら話し始めるが、二人ともまったく意に返すことなく、踏切から離れてゆく。


『お客様が線路に降りました関係で、安全の確認を現在しております。お急ぎの所申し訳ありません。後続列車が遅れますこと、ご理解下さい  』


 構内アナウンスが風に乗って微かに聞こえてきた。
 そして、それから間もなくして何事もなかったように踏切は再び警鐘をならし、電車が通過していく。






 それは、自分が貰うはずの指輪だった・・・それなのに、なぜあの女が持っているのだろう。笑顔を浮かべて薬指のリングを眺めている女が憎い。
 浮き足だって歩いている女が憎い。
 自分から全てを奪い取っていった女が憎い。何もかも奪い去って自分一人だけ幸せになろうとしているあの女が許せなかった。
 あの女は何も気が付かず、目の前を通り過ぎてゆく。
 幸せそうな笑顔を浮かべながら。
 

 暗い焔がその笑顔を見た瞬間、胸の中で沸き立つ。
 全てを奪っていったのなら、全てを取り戻せばいいのだ。
 答は一つしかない。奪われたというのならば奪い返せばいい。何も難しくはない。やられたのならばやり返せばいい。盗まれたのなら盗み返せばいい。そんなに簡単な事なのにどうしてすぐに思いつかなかったのだろうか。
 ただ泣くだけしか出来なかった自分がばかばかしく感じ、笑いがこみ上げてくるが、それを必死の思いでこらえると女の後をついて行く。
 笑いがこみ上げてくる。あの女は自分が全てを手に入れたと思っているのだから。それを奪われたらどう思うだろうか?
 苦しめばいい。
 自分が苦しんだ以上に、もがき苦しめばいいのだ。
 あの女がいなければ幸せに慣れるはずだったのだから。
 あの女がいなければ皆に祝されるはずだったのだから。
 あの女がいなければこんな姿にならずに済んだのだから。
 あの女が憎い
 あの女が恨めしい
 あたしがもらうはずだったのに
 あたしのゆびにはまるはずだったのに
 あたしがきるはずだったのに
 これをきていっしょにあるくはずだったのに
 どうしてなんで なんであの女が
 憎い 恨めしい 憎い 恨めしい 憎い 恨めしい
 カエシテ ソレハアタシノ アタシノりんぐ
 カエシテ・・・カエシナサイヨ・・・


 永遠に繰り返される呪詛。
 あの場に焼き付き、警鐘の音と共に蘇る果てなく続く願望。潰えた事に気が付かくことなく、未だに求め彷徨う。


 カエシナサイヨ‥‥


 暗い声と共に伸ばされる腕が、痛いほど食い込んでくる。
 己の腕をけして放さないとばかりに腕を捕まれ、もう一方の手が握りしめられている指を無理矢理こじ開けようとしてくる。一本の腕だけではない。幾本もの・・・無数の腕が伸びてきて、麻衣から奪い取ろうと体中に手がからみつく。
 振り払おうとしてもけして振り払うことが出来ず、執念のように指を一本一本こじ開けて、薬指にはまるそれを奪おうとするため、左手をぎゅっと胸の中に囲い込み、右手で掌を覆えば、右手の甲に爪を立てられ、引きはがされそうになる。


   イヤ


 奪われまいとすればするほど、手の甲に食い込む力は強くなり、拳さえも砕けてしまいそうな痛みが絶え間なく襲ってくるが、けして左手を開こうとはしない。


   だって、これは私がナルから貰った指輪(もの)・・・


 麻衣の必死の抵抗を嘲笑うように、澱んだ笑い声が木霊す。


「カエセ アタシノ リング  」


 ドレスを引きずって這いずくばっていた女は顔を上げるとニヤリと笑みを浮かべる。
 麻衣は女の手を振り払ってその場から逃げ出すが、女は匍匐前進をするかのように両腕の力のみで追いかけてくる。
 信じられない速度で追いかけてくるそれの恐怖に必死に抵抗しながら、麻衣は今にももつれそうになる足を必死に動かして逃げる。
 どこまで逃げれば良いのか判らない。
 何も見えない真っ暗な道をただ、ひたすら走り逃げる。
 息が切れ、目の前が暗くなっていく。それでも追いかけてくるソレの音は消えることがないため、ふらつく足を闇雲に動かして進んでいくと、ようやく僅かな明かりが見え始める。
 助かる・・・
 僅かな安堵のため息をつくと、最後の力を振り絞って麻衣は光に向かって歩き出す。
 自分から光に近づいているのか、光がこちらに近づいているのかは判らない。徐々に光は大きくなり、目を射抜かんばかりに強烈な光となって目の前に立ちはだかった。
 それでも麻衣は足を止めることはせず、ふらふらと歩いていく。あと少し・・・あと少しでたどり着く。そう思った時背後から誰かが腕を伸ばしてきて自分を羽交い締めにする。
   追いつかれた。
 その恐怖に身体が居竦むが必死に腕を上げて抵抗するが、びくともしない。
   いや・・・怖い・・・助けて・・・
 救いを求めるように手を光に伸ばそうとするが、手は光に届かない。必死に抵抗していると、不意に決意に満ちた声が耳元を掠めた直後、女の叫び声が闇の中に轟いたような気がした。
 鼻先を掠めるのは何かが焦げたような臭い。だが、それが何かを把握する前に、それ以降の記憶がぷっつりと途絶える。




 ふと、頬に触れた優しい手の温もりに、麻衣の意識は暗闇、怨嗟の声から瞬時にして遠離った。
 背から感じる暖かな温もりと、間近に感じる穏やかな鼓動に無意識のうちにため息をつくが、頬に触れる掌に違和感を覚える。
 自分の癖や仕草よりも親しんだ手の動き。
 だがその手の平にいつもの滑らかさはなかった。
「・・・ナル・・・どうしたの・・・?」
 頬に添えられた手に麻衣は手を重ねると、違和感が包帯であることに気が付く。
 目を開けてその手を見ると、包帯が巻かれていない指の内側には所々火膨れを伴った赤い火傷があった。それは指の付け根に近いほど酷くなり、手の平は包帯に隠されていて見えなかった。軽度ではあるが、痛みは決して軽くないはずだ。
 麻衣の問いにナルは答えない。だが、自分を静かに見下ろしているナルの漆黒の双眸に、麻衣はようやく周囲の様子に目を向けた。
「・・・ここ」
 どう見てもナルの車の中だった。後部座席でナルに抱えられるようにして横になっていた。視線をさらに動かしてみれば運転席に座るのはリンで、助手席には安原が座っている姿が見える。
「あ、谷山さん気が付かれました? 気分はどうですか?」
 麻衣の声を聞いて意識を戻したことに気が付いたのだろう。安原が背後を振り返って尋ねてくる。その様子をぼんやりと見、再びナルに視線を戻す。
 記憶がまだはっきりとはしない。今はいつだっただろうか?
 オフィスで眠ってしまった後、マンションに移動したはずだ。その前に安原は調査のため別行動となり、リンが運転をしてマンションに向かった。そしてマンション前でジョンと真砂子と合流をし、寝室で休んでいたはず。
 麻衣の記憶では確かにそうなっている。にもかかわらず、またナルに抱きかかえられるようにして車に乗っていた。
「私・・・もしかして、また・・・?」
 寝室で眠った後どうしただろうか?
 踏切の音が聞こえた・・・そう、また確かに聞こえてきた。少し涼しくなった風に乗って、微かに・・・遠くから聞こえてきた。その音に乗って女の・・・恨みの籠もった低い声が聞こえてき、呪詛を吐き付けられる。
 伸ばされた白い腕、指をこじ開けて取られそうになった指輪・・・救いを求めて逃げまどい、ひたすら真っ暗な路を突き進んできた。
 ようやく明かりが見えたと思ったら、誰かに背後から抱き留められ進むことが出来なくて・・・
 どうすればいいのか判らなくなった時、女の断末魔が聞こえた・・・それ以降の記憶が自分にはまったくない。
 目を開ければナルに抱えられて、後部席に横たわっていたのだから・・・
 麻衣は呆然としながら、ナルの左手を見つめるが、触れることさえ出来ずのばしかけた手を引き戻してしまう。
「ナル・・・PKを使ったの・・・?」
「ああ」
 こうもあからさまな症状が出ていれば隠しても無駄なため、ナルは無機質な声で肯定する。判っていたこととはいえ、ナルに改めて肯定されると、麻衣の顔が今にも泣き出しそうなほど歪む。
「気にする必要はない」
 引き戻そうとした麻衣の手を逃がさず、ナルは強く握り締めた。
「駄目だよ、ナル。火傷が酷くなっちゃう」
 己の手をぎゅっと握りしめるナルの手をそっとふりほどこうとするが、かえってナルはその手を強く握りしめ直す。
「このぐらいたいしたことはない。僕のことより怪我は?」
 自分の怪我に対して全く無頓着なナル。いつも通り・・・いや、逆にいつも以上に冷静なその様子に、麻衣は無意識のうちに不安を感じてしまい、戸惑ったようにその双眸を見つめる。
 何か、酷く緊張している・・・ピンと張りつめた弓がこれ以上ないほど引き延ばされているような気がするのは、気のせいだろうか?
 麻衣の不安が通じたのか、ナルが宥めるように頬に触れてき、肩に回されている手にも力が入る。
「痛みを感じるところはあるか?」
 再度の問いに麻衣はフルフルと首を振って、身体を起こそうとするが、その時走った痛みに思わず顔をしかめてしまう。
 むろんナルがその麻衣の変化を見逃すわけがない。
 ナルは身をかがめるなり麻衣の足を掴むと己の膝の上にのせて、その足の裏に視線を落とす。
 白い足の裏は薄汚れ、細かな傷が無数に付いていた。所々深く切っている部分もあるのか、血が滲み出ているところもあるほどだ。
「は・・・だし?」
 麻衣は素足のままの状態に目を白黒させる。
「素足で踏切まで歩いたんだ。傷ついて当然だろう。安原さん救急セットを」
 ナルは助手席に座る安原に声をかけると、安原はボックスの中に常備されている救急セットを取り出し、それをナルに手渡す。ナルはその中からオキシドールを取り出すと、脱脂綿にたっぷりと含ませて、足裏を丁寧にぬぐっていく。
「イタッ・・・痛い!」
 脱脂綿が肌に触れるたびに、ピリピリと痛みが走り思わず麻衣は足を引っ込めようとするが、がっちりと足首をナルに固定されしまっているため、引くことが出来ない。
「麻衣、暴れるな。傷に響く」
 淡々と言われたため、傷に響くとは自分の足のことかと思ったのだが、がっちりと足首を掴んでいる手に違和感を感じて、視線を向けてみればナルは怪我をしている左手で足首を固定していた。
「ナル?」
 なぜ、よりにもよって怪我をしている手を使うのか。麻衣が問えばナルは片眉だけを器用に上に上げる。
「僕の利き手は右だが?」
 だから、右手で手当をし、左手で固定する。当然のことなのだが、よりにもよって怪我をしている手を酷使するのか・・・消毒液が肌に触れるたびに引きつるような痛みが走り、麻衣は反射的に足を引きそうになるのを、必死にこらえる。
 消毒が終われば後は軟膏を塗ったガーゼをはり、包帯で固定すれば終わりだ。
 ようやく手当が終わった頃には、ぐったりとしてしまい、何となく窓の外へと視線を向け、今どこに居るのかようやくはっきりと認識をする。
 フロントガラスの向こうには、見覚えのある夜の街の景色が広がっていた。麻衣が住んでいるアパートからもさほど離れていない国道だろう。普段は通らないが、ナルに車でアパートまで送ってもらった時に通った記憶がある。
 今、車が停まっている駐車場も、どこの駐車場であるのかすぐに判った。ファミリーレストランの駐車場だ。この国道と、さらに商店街のある通りの向こうには、あの踏切と麻衣が使っている駅がある。
 歩くと少し距離があるが、アパートから歩けないほど遠いわけでもない場所・・・
「あたし、いつの間に、こんなところまで・・・だって、ナルのマンションで眠っていたのに・・・」
 マンションを抜け出した事は判った。
 それ自体はまたかといった程度の認識しかなかったのだが、ナルのマンションからここまで車できても二十分はかかる。
 その距離を自分は歩いてきたというのだろうか? 歩くとしたらどの程度時間が必要とされるのか判らないが、そうすぐたどり着く距離ではない。
 自分のアパートから踏切に向かうのと距離が違うのだ。
 改めて足の裏に出来た無数の傷を見る。素足で長い距離アスファルトを歩いてきたのだから、傷だらけになっているのは当然だろう。
 ただ、歩いた距離が違う。
 今までとちがう点はそれだけだ。だが、もう一つ決定的に今までとは違うことがあったのだ。
「ジョンに落としてもらったのに・・・どうして?」
 麻衣は息を詰まらせる。
 声が・・・身体が震え始める。
 確かにジョンに落として貰って、ずっと煩わされていた踏切の音から解放され、ようやくゆっくりと眠りにつけたのだ。にもかかわらず、なぜ未だに呼び出されるのだろうか。
 それも、よりいっそうグレードアップしているようにさえ感じる。だって・・・それまで、こんな痣は出来たりしなかったのだ。
「なんで・・・こんな、痣が・・・」
 左手首をぎゅっと握りしめられた痕と、指を無理矢理こじ開けようとしたかのように、爪が食い込んだ後がどす黒い色となって、麻衣の手に刻印されていた。
「ジョンは、手応えを感じないと言っていた。おそらく一時的に引いただけであって、根本的な解決にはなっていないと」
 震える麻衣の肩を軽く抱き寄せながら、ナルは淡々と事実を口にしていく。
「原因を根本から消さないと、同じような事は何度か起きるだろう。
 原さんは、恨みを持った女性が何かに執着をしてる様子だと。何かをカエセと。その何かをお前が持っている・・・いや、お前が奪ったと思いこんでいるため、奪い返すために麻衣を呼んでいると言っていた。
 僕も踏切で見た。ウェディングドレスを着た女が、お前の腕にしがみついて何かを奪い取ろうとしていた」
「知らない・・・私、何も知らないよ」
 そんなことを言われても麻衣には思い当たる節はなにもないため、頭を左右に振って否定する。
「本当にお前が何かを奪い取ったとは誰も思っていない。ただ、霊がそう思いこんで居るんだ。
 何を奪い返そう・・・お前から奪い取ろうとしているのか、判るか?」
 ナルの問いに麻衣は首を振りかけるが、ふと己の左手に視線を落とす。
 手首には五本の指の痕。指にはこじ開けたように爪の後が刻まれている・・・とくに、左手の薬指は動かさなくてもジンジンと痛みがこみ上げてくるほどだ。


「かえせ あたしの りんぐ  」


 ぽつりと麻衣は何かを思い出したかのように呟く。
「あの人・・・そう言っていた。
 私のリング・・・ナルから貰った指輪を奪い取ろうとして、必死になって掴みかかって来たの。振り払っても振り払ってもたくさんの腕がしがみついてきて、指を引きはがそうとして・・・
 ナルから貰った指輪を、私が奪った物と勘違いしているの? 私のなのに・・・私がナルに貰った物なのに・・・どうして  」
 きゅっと大事そうに左手を右手で守るように握りしめる。ナルが落ち着かせるようにその小さな掌を、一回りも大きい掌で包み込むと、視線を安原へと向ける。
「安原さん、結果は?」
「ばっちりオッケイです。今の谷山さんの言葉で、かなり核心的な事を掴めたと思えます。この場で報告会にしますか?」
 ナルは少し考えた末で、一度マンションに戻ると告げたのだった。