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  五章 《指輪》



「ナル、歩けるよ」
 マンションの駐車場にたどり着くなり、ナルが麻衣を抱きかかえようとしたため、麻衣はそれを固辞するのだが、ナルは麻衣の言葉など無視して抱え上げる。
「ナル!」
「足の裏を怪我しているお前がまともに歩けるか」
 確かに両足の裏は擦り傷だらけだが、ナルの掌に比べてしまえば軽傷だ。
「まぁまぁ、谷山さん。ここはおとなしくお姫様だっこされましょうよ」
 駐車場でぎゃいぎゃいやり合うような内容ではないため、おつもならちゃかすか、傍観する安原だが、さっさかと二人の中に入り、麻衣を宥め始める。
「安原さんまでなにをいうんですかっ! ナル、掌に火傷しているんですよ? こんなことしたらよけい悪化するじゃないですか!」
 つばを飛ばさんばかりの勢いでくってかかってくるため、安原はわざとらしく眼鏡をきゅっきゅっと拭くとにっこりと笑顔を浮かべた。
「うん。確かに谷山さんの心配はごもっとも。だけどね、所長は掌を使って君を抱え上げているわけじゃないから心配無用じゃないかな?」
 安原の言うとおりナルはわざわざ掌を使って麻衣を抱えては居ない。掌ではなく腕の部分で麻衣を支えているため、傷が触れるというわけではない。
「判ったか?」
 それ以上は何も聞くつもりはないと言わんばかりに、ナルはさっさと歩き出し、その後をリンと安原が肩を竦めながらついて行く。
 心配だからとか、無理をさせたくないとか言えば、麻衣とて素直に言うことを聞くのに・・・と安原なんかは思うのだが、ナルがいきなり安原のごとく、ベラベラと甘い言葉を囁き始めた日には・・・速効で、麻衣を運ぶ役目をきっと引き受けただろう。
 どう考えても火傷が原因で熱に浮かされているとしか思えない。
 マンションに戻ると、先ほどまでは居なかった綾子と滝川まで居た。ナルに呼び出され、マンションで待機していたという。真砂子はまだ霊の影響が抜けていないため、寝室を借りて休んでいた。
「勝手に悪いけど、あんた達のベッド借りてるわよ」
「それは構わないんだけど、真砂子の様子は?」
 ナルの腕に抱えられたまま心配そうに問いかける。
「突き飛ばされて壁に激突したって聞いてたから心配したけれど、怪我らしい怪我もないし、霊の気に当てられただけみたいだから、しばらく休んだら落ち着くと思うわよ。一応ジョンが清めてくれたし、ぼーずも結界を張り直してくれたみたいだから、安心していいわよ。
 それよりも麻衣、足の怪我を見せなさい。全く・・・あんたはよくよくトラブルに縁があるわね」
 ソファーに下ろされるなり、綾子は救急箱を持ってくると、早速とばかりに手当をし直そうとする。
「ちょ、ちょっと待ってよ。車の中でナルがやってくれたから良いよ!」
 麻衣は車中での痛みを思い出して足を引っ込めようとするが、その足首を綾子はがっちりと掴むとわざとらしくにっこりと笑う。
「車の中で出来る手当なんて消毒ぐらいでしょ。いいからちゃっちゃと見せなさい。車の中じゃ洗えなかったとしても泥とかはちゃんと払ったんでしょうね。傷口に小石とかめり込んでいたら、そこから化膿したりするんだから・・・・ってやっぱり! ナル手当てするならちゃんと小石ぐらい取りなさいよ< 傷が残ったらどうするのよっ。足の裏だから傷が付いていいってもんじゃないでしょう?」
 ヒステリックにわめく綾子に、ナルは煩そうに眉をしかめながら、しれっと答える。
「どうせ僕しか見る者はいないんだ。そのぐらい気にしない」
 あまりの返答の仕方に、綾子は呆れたようにため息を漏らし、麻衣は真っ赤になってむやみやたらと口を開閉し、滝川は言うねぇ〜と呑気に口笛を吹いていた。
「そう言う問題じゃないでしょうっ!」
 がう!っと一吠えすると綾子は、遠慮なく足にオキシドールを振りかけ、痛いと泣きわめく麻衣の足を安原と滝川に押さえ込ませ、足裏にめり込んでいる小石をピンセットで、一つ一つつまんでいく。
「・・・痛そうですねぇ・・・・・・・・・・」
 傷もだがその手当ての仕方もだ。容赦というか遠慮というか躊躇いが一切ない。思わず漏れてしまった安原に麻衣は涙目で訴える。
「じゃぁ変わってください」
「いやぁ、変われるものなら変わってあげたいですけど、僕の足の裏つるつるのピカピカですから」
 ロープロープとわめく麻衣をよそに綾子はてきぱきと治療をすすめていくと、クルクルと軟膏を塗りたくり包帯をぎっちりと巻き付ける。
「きつくねーか?」
 なんか、包帯がギチギチ言っているような気がしたのは気のせいだろうか? 滝川が問いかけると綾子は掌をパンパンと叩く。
「どうせこの子事だから、大人しくなんてしてないでしょう。このぐらいで丁度いいのよ。どうせすぐに動き回るんでしょうし。さて、ナル手当は終わったわよ。これからどうするの?」
 手早く救急箱を片づけると、綾子はナルへと視線を向ける。
「安原さんの報告を聞く。初めて構わないか?」
 今まで安原の報告書に目を通していたナルは、一同を見渡して問いかける。
 むろん誰にも異論はない。
 始める前に綾子が麻衣の許可を得て、お茶の準備をし各々の前にカップを置いてから、安原の報告会が始まる。
「あの踏切について少しあまり調べてみました。
 ※※路線が開通されたのは一九七〇年・・・今から三十九年程前になります。東京と神奈川(ベッドタウン)を結ぶメインラインの一つとして利用され、現在では一日でおよそ一七五万人が利用している路線にまでなっています。
 他路線への乗り換えなどはありますが、複数の主要駅・・・渋谷や新宿等に出ることが便利であり、ここ数年の間で東京メトロや都営地下鉄などと直結で乗り入れが可能になったため、利用者の数は増加の一途をたどっています。
 問題の踏切で最初の人身事故が起きたのは今から約三十年ほど前の一九七三年が最初とされています。その時に記載された新聞記事によりますと、人身事故が起きたのは深夜零時を回った頃でした。
 最終電車が踏切を通過した時、女性が巻き込まれたそうですが、この時巻き込まれた女性は亡くなっていません。重傷を負いましたが、かろうじて命はとりとめたそうです」
「でも、死んだわけじゃないのに新聞にそんなに載るわけ? 地方紙なんかに掲載されるとは思うけれど、週刊誌が取り上げるような記事じゃないと思うけれど?」
 綾子が指摘するのも当然だ。
 安原が用意した参考資料の中で一番多かったのが、最初の人身事故が起きた時の記事だ。新聞紙四社、週刊誌三社の計七社が大小様々だが取り上げている。
 今の感覚からでは、人身事故が起きたからといって、そこまでこぞってマスコミが飛びついてくるだろうか? よほどの有名人が亡くなったか、他人が巻き込まれたりしない限り、人身事故による電車の遅れの方ばかりが取り扱われてるような気がし、亡くなった人間には滅多なことではスポットライトはあたらない。
「実はこの時の事故は刑事事件まで発展しかけた事故なんですよ」
「刑事事件?」
 人身事故を起こしてしまった事による損失の賠償がはたして、刑事事件にまで至るのだろうか? 皆が首を傾げると安原はその件ではなく別件で刑事事件が起きたのだと言う。
「当時、記事を書かかれた元記者の方に電話でお話を伺うことが出来ましたので、当時の事を詳しく聞くことが出来ました。
 事故に遭われた女性が、実は加害者にあたるんですが、この当時この件には二人の女性が関わっています。
 丸山宏美さん、当時二四才。享年も同年なので二四才になりますね。死因は轢死なんですが、死亡したのは二度目の列車に轢かれた時になります。
 一度目は一番最初にお伝えした件なのですが、当時丸山さんには結婚の話まで決まっていた男性がいましたが、事件を起こす三ヶ月ほど前に男性から別れ話を持ち出されます。
 すでにこの時には心変わりをされ、別の女性と結婚することが決まっていたそうです。
 男性のお話ですと、その時に自分の気持ちを伝えて、彼女にも納得して貰い、綺麗に別れることが出来たはずだと言っていたそうですが、実際はその事を許せず、また諦めきれなかった丸山さんは、すでに用意していたウェディングドレスを着て、男性の婚約者・・・金森佳枝さんに襲いかかったそうです」
「襲いかかった?」
「はい、夜道で待ち伏せをし、帰宅途中だった金森さんにナイフを持って襲いかかり、指輪を奪い取ろうとしたようです。金森さんは怪我を負いながらも、彼女から逃げ出したんですが、丸山さんはナイフを振り回しながら、金森さんを追いかけていったそうです」
 誰かが闇の中で追いかけてくる・・・ウェディングドレスを来て、指輪をカエセと訴えてくるあの声は、丸山宏美の声なのだろうか。
 知らず内に麻衣は隣に座るナルの腕を掴みながら、安原の話に耳を傾ける。
「金森さんは遮断機が降りている状態の時に踏切を渡ったそうです。かなり近くまで電車は近づいていたので、相手も諦めるだろう。少なくとも助けを呼ぶまでの、時間稼ぎが出来ると思ったそうなんですが、丸山さんには遮断機も間近まで迫っている電車もまるで見えていなかったかのようで、躊躇することなく遮断機をくぐり抜けて追いかけてきたそうです。
 あまりの事に驚いて足を止めてしまった金森さんの腕を掴んで、ナイフを振りかざした時、列車が踏切に突入してきて、丸山さんは車輪に巻き込まれました。
 当時の様子がネットで引っかかりましたのでプリントアウトしましたが、少なくともお二人は見ない方が良いと思います。所長はごらんになられますか?」
 ナルは無言のまま差し出された紙を受け取り視線を落とす。その写真を脇からのぞき込もうとした麻衣だが、ナルはついっと麻衣の視線からその紙をそらす。変わりにそれを見た滝川が思いっきり顔を顰める。
「うへぇ・・・麻衣と綾子は見るなよ」
「そんなに酷いの・・・?」
 滝川はそれ裏返しにして安原に返すと、安原はそれをさっさとクリアファイルにしまい込む。
 いったい誰が撮ったのを手に入れたのか、画像は荒いが彼女の状態が判断できるぐらいにはしっかりと印刷されていた。
「丸山さんは、列車が通過した時ドレスのスカート部分が車輪に巻き込まれて、下半身もそのまま列車に巻き込まれ足が引きちぎれたそうです。命はかろうじて助かりましたが、それによって両足を股関節から切断という結果になったそうです」
 記憶を振り返ってみれば、彼女はいつも匍匐前進をするように這いずっていた。
 両足をなくしてしまっていたから、彼女はいつも這いずっていたのだ。
「彼女はその後長期の入院生活を送ることになり、退院後改めて傷害事件の容疑者として告訴されるはずでしたが、完治する前に彼女は病院を抜け出し、今度は自ら線路に踏み込んで自殺を図ったそうです。
 彼女が自殺をはかるまで、開通してから三年強の間自殺者は出なかったのですが、それ以降自殺者が出るようになっています。
 一年で平均十人強・・・三十五年前から亡くなった方達は三四一人になります。事故で処理された方や命を落とされなかった方達の正確な数は不明ですので、実際に起きている事故はもっと数が多いと思われます」
「一つの沿線で年十人ってのは多いって感じはしないけど、あの踏切でだけでしょう・・・?」
 一ヶ月の間にいったい何度、人身事故という言葉を聞くか判らない。一つの沿線で考えれば一年という長い時間で見てしまうと何度も人身事故はあるが、その全てが同じ場所と言うことはない。
 飛び込みやすい区域はあれど、全く同じ場所でとはそうそうないのだ。だからこそ、よけいにあの踏切での死者の数が際だって感じる。
「そうです。
 亡くなられた方達は老若男女問わずいらっしゃいますが、男女の比率で見ると七割ほど女性がしめています。さらに年齢別で見ると、二十代前半から二十代半にかけての女性が一番多く、全員は無理でしたが調べられた限りですと、幾人かは結婚前で自殺する理由がなかったはず。と皆さん口をそろえてお者っていました。
 その中で実際に聞けた話は僅かですが、幾人かの方達は指輪が見つからなかったとおっしゃられています。特に元婚約者は形見にと望んだようですが、遺品からは婚約指輪が発見されなかったというのが六件ほどですが、お話を伺うことが出来ました」
「少年、そのお嬢さん方は麻衣のように寝ている間、ふらふら出歩いていたっていうような話は聞けたのか?」
 滝川の問いに安原は軽く首を振って否定する。
「いえ、皆さん突発的というような感じばかりだったらしいです。それに、一人暮らしをなさっていた方も少なくありませんし、谷山さんが所長に内緒にしていたように、家族にも内緒にしていたとすれば、ご家族の方がご存じなくてもおかしくはありません。
 端から見れば夢遊病ではないかと考えてしまいますし、そのことを誰かに知られることを恐れて・・・例えば、夫となる家族などに心の病を持っていることを、知られるのを怖れたりしてもおかしくないですしね。
 職場などにも知られたくはないでしょうし。
 隠し通したという可能性も否定は出来ません」
「確かにな。麻衣はまぁ脳天気に考えてくれたが、普通ならかなり深刻に思い悩むようなことだからな」
 身も蓋もない言葉に、麻衣はうへっと肩をすくめる。一応自分だってイロイロと悩んだのに・・・と言いたいところだが、思い煩ったかと言われると返答に困ってしまうため、視線をついっとそらせるだけにとどめておく。
   どちらかというと、浮かれてたしなぁ・・・で、すませてしまっていたことだったし・・・・・・・・いや、だってふらふらするの慣れているし・・・
 それは調査中のことだろうが! とつっこみが入りそうな事を考えるが、けして口には出さない。
 下手なことを言えば、やぶ蛇になることぐらい麻衣にも判っていたため、この場合は黙秘を通す。
「少なくともご家族の方は誰も異常を感じたことはなかったということです。情緒不安定・・・俗に言われるマリッジブルーのような状態になることもなく、結婚を楽しみにしていたようなので、誰も本当の理由はわからないと、だから自分たちにとってはあれは自殺ではなく、不運な事故に遭ってしまったに過ぎないと漏らしていました」
 突発的なものなのかもしれないが、家族や婚約者としては自殺とは思いたくなかったに違いない。
 人知れず思い悩んでいたことがあったのかもしれないが、そのことに気がつかなかった自分たちの不甲斐なさを感じ、自殺ではなく事故。事故ならば仕方ない・・・そうやって、現実を受け入れざるえなかったのではないだろうか。
 唐突に身内を亡くす辛さは麻衣も知っているため、残された者の感情がいやと言うほど判ってしまう。
「最近で一番近い該当者は一週間ほど前になりますね。
 夜九時過ぎにあの踏切で事故に遭われて、亡くなられた方がいらっしゃいます。遺書の類などなかったので、動機などは一切不明。自殺、事故両方の面で現在も調査されているそうです。
 享年二五才。結婚を目前に控えられていたので、誰もが信じられなかったそうです。
 さすがに時期が時期ですのでご婚約者の方やお身内の方に話を伺うのは憚れましたので、指輪のことは聞いていませんが、駅員さんの話ですと婚約者の方から「指輪が見つかったら連絡を欲しい」と言われているらしいので、指輪をそれを境になくされてしまったのかと思います。
 その指輪がエンゲージリングかどうかは判りませんが」
 愛した者の一部なりとも見つからないのであれば、確かに見つけたいと思うだろう。ましてそれが、エンゲージリングならなおさらだ。
「僕がなにより気になったのは、なぜその人がその道を通ったかなんですよね。その女性は、自宅の場所から見てその踏切を通らないで帰宅できるはずなんですよ。
 まだ、陸橋の工事が始まる前だったので、谷山さんみたいに回り道をしなければ行けなかったという状況でもなかったにもかかわらず、踏切を渡ったと言うことが気になりました。
 それで、他にも事故に遭われた方の自宅の場所も調べてみたのですが、やはり何人かの方々が、通らなくて済むはずの踏切を、わざわざ回り道をする形で、通っていることが判りました。
 これが、あの近辺の地図で、事故に遭われた方達のお住まいがこちらになります」
 安原はあの近辺の地図を、数枚テーブルの上にのせる。その地図には自宅と駅、それから踏切とマーカーで印が付けられ、二色のラインが走っている。黄色の蛍光ペンは普段通っていた正規のルート。ピンクの蛍光ペンは踏切を通って帰宅するルートである。踏切を通るルートはどの人間も遠回りになっていた。
「その人達も・・・あの人に呼び込まれたの?」
 麻衣はその地図を見て、確かにおかしいと思う。
 陸橋が手前にもあるにもかかわらず、その道を通り過ぎてさらに進み、踏切を渡る道を曲がっている。そのまま帰るとしたら踏切を渡った後、余計に進んだ分戻るような形になるのだ。
 誰が見てもおかしいと思ってしまうほど、大きく迂回したラインができあがっている。
「その可能性は高いな。
 結婚前の二十代前半から半ばにかけての女性。婚約指輪を身につけているというのが条件か? 時間帯は?」
 ナルの問いに安原は、パラパラとメモをめくる。
「時間帯はだいたい帰宅時間から深夜にかけてです。通勤時間帯というのは少ないかもしれません。ないわけではないのですが、朝に飛び込み自殺をされる方々は、普段からあの踏切を利用されている方達ばかりでしたので、該当外とさせていただきます。
 二十代半ばまでの結婚を控えた女性。という形でポイントを絞らせて頂きますと、だいたいが夕方の五時以降から終電までの間ですね。特定の時刻というよりも仕事帰りというほうがポイント高そうです」
 安原がどこからか手に入れてきた、三十五年前に自殺した女性の生前の顔写真を麻衣は見下ろす。まっすぐな髪を背の半ばで切りそろえた、少しばかり神経質そうな顔立ちの女性。
 夢の中で見た顔と一致しそうで、一致しないのはあの顔が憎しみで歪んでしまっているからだろうか。
「でも、怖い女よね。いくら男に捨てられたからといってウェディングドレスを着て恋敵を襲うなんて、常軌を逸しているとしか思えないわ。
 まぁ、迫り来る電車に気がつかなかったぐらいなんだから、周りが全く見えていなかったのは確かだろうけれど」
 彼女の中で生きている時から何かが壊れてしまったのかもしれない。
 自分が貰うはずだった指輪を奪い返すことに執念を燃やし、死んだ後によりいっそう思いは募り、見境なく襲うようになったのだろうか。
「麻衣のことを諦めたとは思えないし、諦めていたとしても、今後も被害者が出るかと思うと、放っておくのも寝覚めが悪い。ってなると除霊か?」
 滝川の問いに麻衣ははっと顔を上げてナルを見つめる。
「しかないだろう。ジョン、浄霊は可能か?」
 ナルの問いにジョンはしばし考え込んだ後で、微かに首を振る。
「神様のお声が届かないお人には、僕のお祈りは届かないです」
 彼女は神の救いを求めていない。
 求めているのは婚約者から貰うはずだった指輪だけだ。
「松崎さんは?」
「あたし? あの辺にお縋りできるような樹なんてないわよ。ちゃんと見たことないから断言できないけれど、個人宅で立派な樹を持っている所があるというなら話は別だけど、そうでなければ無理よ。あの辺もすっかりと開拓されちゃってまともな神社とか残ってないし」
 綾子のことは元から期待してなかったのだろう。さらりと流すとナルは滝川へと視線を向ける。
「ぼーさん頼めるか?」
「俺で出来る範囲はやらせてもらうよ。なにせ、ムスメの一大事だからな」
 とぼけて言うが目は真剣だ。だが、その声にかぶるように麻衣が声を荒げる。
「ダメだよ! 除霊だなんて・・・ダメだよ>
 彼女の望みが判ったんだから、浄霊だって出来るかもしれないのに」
「気持ちはわかるけれど、相手はもう何人も殺してきた霊なのよ? 救いを求めているのならば助けられるけれど、彼女はそれを求めている訳じゃないわ。麻衣も判るでしょう?」
 諭すような綾子に麻衣は、首を振って否定をする。
 それだけでは終わらない。そんな気がするのだ。
 あそこでは、この三十五年の間に幾人もの女達が死んでいる。
 幸せの絶頂から、永遠の絶望へ・・・永久の愛を誓う前に、他人の手によって愛しい者と、永遠に分かたれてしまったのだ。
 さらに自分が貰うはずだった・・・貰ったはずの指輪を別の人間に奪われて。
 それがどれほど無念だっただろうか。
 襲われた人間から見れば、自分とは何も関わりのないことで理不尽にも命を奪われ、大切な指輪まで奪われたのだから、そのまま安らかな眠りにつけるとはとうてい思えない。
 取られたら取り返す。その連鎖が三十五年もの間続いていたとしてもおかしくないのだ。
 あの、複数の手・・・初めは、丸山宏美の感情が具現化して手が幾本も出てきただけかと思ったのだが、おそらくあの手は彼女によって指輪を取られた犠牲者達の手ではないだろうか?
 指輪を・・・大切な婚約指輪(エンゲージリング)を取られたから、とりかえそうとしているのではないだろうか?
 自分ならそうする・・・ナルから貰った婚約指輪(エンゲージリング)を第三者に取られたら、どんなことをしても取り返すだろうから。
 すでに丸山宏美個人の問題だけではなく、彼女たち・・・犠牲者も含めた願いを願いを叶えないと終わらない気がしてならない。
 麻衣はその事を訴えるが、ナルは耳を傾けようとはしなかった。
「確かに麻衣の言うことも判る。三十五年間あの踏切は血を吸い続けてきた。連鎖の業と言ってもおかしくはないほど、婚約した女性から指輪を奪うという行為を続けてきている。
 だから、僕はそれを含めてぼーさんに除霊を依頼するつもりだ」
 麻衣が考えついたことは、すでにナルも考えていた。
 自殺した者の犠牲となった者が、素直に浄化すると思えず、彼女と同様の思いに囚われていたもおかしくないことは、すでに思い至っていた。
 だが、だからといって何が出来るというのだろうか。
 指輪を得ることで満足するのならば、とうの昔に満足しているだろう。もう数え切れないほどの指輪を奪ってきているのだから。にもかかわらず、彼女たちはけして満足しない。
 無理なのだ。
 彼女たちは乾いている。
 自分の指輪を永遠に失ってしまったと言うことに。
 それを潤す方法などない。だからナルは迷わず除霊の道を選ぶ。
 なによりも、これ以上麻衣を危険にさらさないために。
「駄目だよ! それじゃ何も終わらないっ>」
「ならどうすればいい? お前の指輪を奪えば彼女たちは満足するというのか? だが、お前の指輪を奪ったからと言って、浄化するならばとうの昔に満足しているはずだ。
 何人犠牲になったのか判らないが、指輪が不明になったケースが何件かある。
 純粋にどこかに飛んでいったのかもしれない。中には自ら命を絶った者もいたかもしれない。その場合自殺する前に自分で指輪を処分した者も居るだろう。だが、失われた指輪の中には霊が奪っていったものもあると考えてもおかしくはない。
 指輪を奪うだけで満足をするのならば、その中の一つでもあればいいはずだ。だが、あの霊はまだ満足することなく新しい物を、次の獲物(ゆびわ)を狙っている。
 今は、お前の指にはまっているそれだ」
 麻衣はナルへ目を戻してさらに食い下がった。
「犠牲者が・・・指輪を失った人が、また次を欲するから、自分で奪った物じゃ意味がないから、だから、あの人達は何度もっ」
 ナルは麻衣の言葉を遮ると、その華奢な手を取り指輪に触れる。冷たいはずのリングは今では麻衣の温もりを宿してほのかに暖かく感じた。
 この温もりを無くしたくはない。
「お前は覚えていないだろうが、一歩間違えば死んでもおかしくない状況だった。次もまた無事に助けられるという保証はない」
「でもっ!」
「駄目だ」
 あまりにも冷ややかな眼差しを向けられて、麻衣は言葉を呑む。
   ナル、怒ってる・・・。
 その怒りは麻衣に向けらたものではなかった。
 また、ナル自身に向けたものでもなく、麻衣を呼び寄せた霊に対して怒っているわけでもなかった。
 麻衣が殺されかけた、という事実に静かだが張り詰めたような怒りを発散していた。声を荒げ、物や人に当たり散らすよりも、激しく深い怒りだ。その怒りの激しさに、どれほど自分が危険であったのか麻衣は理解する。
 車中で感じた違和感は、このことだったのだ・・・・・
「・・・ナル、ごめんね」
 恐る恐る麻衣は包帯に包まれているナルの手に、自分の手を重ねると、負担をかけないように持ち上げて頬にふれさせる。
 いつもなら滑らかなナルの掌に触れられるのに、今は触れられない。
 自分がいけないのだ。
 もう少ししっかりしていれば、ナルにこんなに心配をかけさせることなどなかったのだ。忙しいこの時期によけいな事を煩わせなくて済んだのだ。
「こんなに心配させて、なのに、私は抵抗することすらできなくて、いいように操られてこんなに怪我をさせて、いつもナルに助けられてばっかり・・・」
 麻衣は小さく笑う。
 これほどまでに、自分は非力だ。
 その非力さを判っていながらも、すべてを無かったことにはできない。全ての結末を滝川に任せて、安穏とこの腕の中で守られていることは出来なかった。
「・・・ナルに馬鹿って言われても仕方ないよね」
 ナルは冷ややかな表情を変えず、麻衣の目を真正面から見つめ返す。麻衣が何を言っても自分は一歩も引く気はないと・・・麻衣の話は一切呑めないと、雄弁なほどその双眸が語っていた。
 麻衣はその目を静かに見つめ返す。
 感情のまま叫んでもナルは聞き入れてくれない。
 きちんと落ち着いて自分の思いを伝えればナルは判ってくれるはずだ。その考えは甘えなのかもしれない。それでもそう思ってしまうのは掌から伝わってくるナルの思いがあるから。
 どれほど自分が彼に大切に思われているのかを感じ取り、不謹慎だが体中が喜びに溢れている。
 けして言葉にして伝えてはくれないが、いやだからこそ伝わってくる想いは、疑いの余地などないほどまっすぐしみこんでくる。
 この場に滝川やリン、安原や綾子もいたがすでに麻衣の目にはナルしか入ってなかった。彼らのことなど忘れ麻衣はナルの手を握りしめたまま、自分の思いを伝える。
 もしかしたら、自分はナルの心を裏切ることを言うのかもしれない。
 まっすぐに寄せてくれる思いに・・・甘えて良いという言葉を利用して、ただ我が儘を押し通そうとしているだけなのかもしれない。それでも、言いたいことがあった。
 言って、判って貰いたいと思うのは、やはり我が儘なのだろうか?
 それでも思わずにはいられない。ナルならきっと判ってくれると・・・
「どうして、こんなに指輪を欲しがるのかなんて判らない。私の指輪を取ったからって、満足するとは思っても居ないよ。だって、あの人は乾いているから・・・」
 ナルの言うとおり乾いているのだ。
 三十五年前の時から、一度も潤うことなく、乾涸らびてしまい、別の物で乾きを潤そうとしているだけなのだ。
 けして、それでは潤わないと判っているのに・・・一時の慰めにもならないと、きっと判っているのに・・・それでも望まずにはいられないのだ。
「ただ、闇雲にどれでも良いから望んでいるだけにしか見えない・・・だけど、そんなことあるわけないじゃない。欲しがっているのはただの指輪じゃないんだよ。婚約指輪(エンゲージリング)を欲しがっているんだよ。どれでも良いなんてあり得ない。
 婚約指輪(エンゲージリング)は本当に好きな人に貰ってこそ、初めて意味を成す物なんだよ・・・ナル・・・」
 包帯の上から麻衣は優しくナルの掌にキスを落とす。
 掌に落とすキスは思いを誓う意味が込められていると言っていたのは誰だろう。
 どうか、自分の思いがナルに伝わるように・・・祈りながらキスをする。そんな麻衣をナルは少し苛立たしく思いながら見下ろす。
「なら、お前はどうしたいと言うんだ」
 ナルの言葉に麻衣はそのままの姿勢で、しばらく目を閉じる。そして何かを決意したかのように顔を上げて、まっすぐナルを見つめる。
 決意をし、それでいながら今にも泣き出してしまいそうな、それを堪えるような笑みを浮かべて。
 その決意に、ナルは少しばかり嫌な予感を抱き、麻衣は全てを覚悟して告げたのだ。
「この指輪を彼女にあげて」
 この指輪・・・ナルから貰った指輪を。
 麻衣の思いにもよらない言葉にナルだけではなく、皆が瞠目する。
「麻衣貴方何を言っているの? 自分が何をナルに言ったか判ってるの?」
「判っているよっっっ>」
 綾子が叫べばそれ以上の声で麻衣も叫ぶ。
 堪えてきたものがとうとう耐えきれなくなったかのように、今にも泣き出しそうに顔を歪めて、それでも震えそうになる唇を噛みしめて耐える。
「私だってイヤだよ・・・だって、これは私がナルから貰ったんだもん。誰にもあげたくなんかないっっ」
 その悲痛な声はまさしく麻衣の本心だった。
 だからこそ、綾子には理解できない。
 なぜその大事な指輪を渡そうとするのか。
「そうしないと終わらないの!
 あの人が望んでいるのは恋人だった人からもらうはずだった指輪だから。自分が奪い取った指輪じゃ意味がないの! 自分で奪った指輪じゃ虚しさが残るだけで、満足なんて絶対に出来ない! そして、奪われた人がなくした物を求めるだけなんだよ? ずっと・・・ずっと・・・三十五年間ずっと繰り返されていたの>」
 連鎖は続いているのだ。
 このままじゃいつまで経っても終わらない・・・
 終わらせることができるのなら、終わらせてあげたい。
 一歩間違えば自分も彼女たちと同じようになっていただろうから  なによりも、この指輪の大切さが、愛しさが良くわかるから、だから早く彼女たちを解放してあげたいのだ。
「なら、ナルがあげたって意味ないじゃない。ナルは貴方の婚約者であって、あの霊の婚約者じゃないのよ?」
「そうだけど、そうじゃないの。
 今あの人にとって憎い恋敵は私になっている。その私に指輪をくれたナルを自分の恋人だときっと思うはずだよ。もしかしたらナルじゃなくても平気かもしれない。あの人の目の前で私の指からこの指輪を抜いて、あの人にあげる人なら誰でもかまわないかもしれない。
 だけど、私はナル以外イヤ。ナルから貰ったこの指輪を、ナル以外の人には外してほしくないっっ」
 そこまで大切な指輪をなぜ、麻衣は見知らぬ女にあげようとするのか。
 なぜそこまで出来るのか綾子には全く理解できず、途方に暮れてしまう。
 綾子だけではない安原やジョンとて麻衣の剣幕に手が出せず、どうすればいいのか判らなかったが、今まで一言も口をきくことなく静観していた滝川が、ぽふっと泣き叫ぶ麻衣の頭の上にその手を乗せた。
 そして、宥めるように二〜三回軽く叩く。
「少し落ち着け。話はわかったから。
 だがな麻衣。俺は思うんだが、何もナル坊から貰った指輪じゃなくてもいいんじゃないのか? それように別に指輪を用意して、その指輪を婚約指輪に見立てて、ナルに外して貰ってその霊にあげるってのはダメなのか?」
 綾子と麻衣の言い合いに口を挟むように、妥協案を提案する。
「他の・・・指輪・・・?」
 涙に濡れた双眸が縋るように滝川を見る。
 滝川はそんな麻衣を見下ろしながら苦笑を漏らす。
「霊もお前さんの薬指にはまっているリングをみて、婚約指輪だと理解したんだろうしな。だいたい婚約指輪ってやつは、これじゃなきゃいけないなんて決まり事があるのか? 麻衣には悪いが、俺には結局どれだって同じ指輪にしかみえんしな。
 だったら何もお前が貰った指輪じゃなくて、似たようなデザインの別の指輪にしちまえば、何も問題ないんじゃないか? お前さんもナルから貰った大事な指輪を、犠牲にしなくてすむしな。
 そんな、魂を引き千切られるような顔をして、これあげてと言われても誰も納得できんぞ。俺も綾子も少年もリンもジョンも真砂子だってお前の味方だ。
 お前が泣くって判っている方法を選ぶことは出来ない。
 そもそも、お前が言った方法で上手くいくのかなんて俺には判らない。そんな賭としか言えないような事に、大事な指輪を賭ける必要はないだろう。指輪を目の前で抜いて渡すという方法に反対するわけじゃない。麻衣は何度もあの霊と接触しているからな。そのお前が言うならそれで解決するのかもしれないし、それですむならそれに越したことはない。
 除霊より浄霊の方が精神衛生上いいしな。
 だが、もしもそれでもあの霊が引き下がらないようなら、他に方法はない。除霊に切り替える。これでどうだナル?」
 滝川の提案にナルは無言のまま麻衣を見下ろす。
 麻衣は思い詰めた顔でナルを見上げていた。
 ナルからしてみれば、一か八かの賭などせず、さっさと終わらせてしまいたい。
 これ以上危険にさらす必要がどこにあるというのだ。
 だが、ナルとて判っている。
 感情がただ、付いてこないだけなのだ・・・
 その事に知らず内に苦笑を漏らす。
 駄々っ子のようなのはいったいどちらなのかがだんだん判らなくなってくる。
「仕方ない。お前は一度言い出したら聞かないからな。ならそれしか方法はないだろう」
「麻衣は?」
 ナルはこの妥協案を飲んだ。後は麻衣の返答を聞くだけだ。麻衣は滝川を見た後ナルを見る。ナルは相変わらず一切の表情を切り捨てて自分を見下ろしている。
 本心を言えば、再び踏切の前に連れて行くことには抵抗があるのだろう。自分の掌を包み込むナルの手に僅かに力が込められる。それが、紛れもないナルの本心だ。だが、ナルはけしてその本心を見せない。見せずに選ばせてくれる。
 麻衣は、負担をかけないようにその掌を握り返す。
「うん、ぼーさんの案でいいよ」
 麻衣もコクリと強く頷き返す。
 婚約指輪(エンゲージリング)を彼女が欲しているという強い思いこみから、この指輪でなければならないと思いこんでしまったが、何も本当にこれをあげなければいけないというわけではないのだ。
 そもそも、ナルから貰った指輪も別の人間から見ればただのファッションリングにしか過ぎない。その事を指摘されて初めて気が付き、この指輪を失わなくて済むことに、麻衣は自分で言い出しておきながらあれだが、安堵する。
「なら、指輪の方はあたしに任せなさいよ。
 あたしにはもう合わないから使ってないのがあるのよ。その中から見栄えのするやつ見繕ってくるわ」
 二人が納得したのならこれ以上綾子が反対の意を唱えてもどうしようもない。それに、麻衣が大切にしている婚約指輪(エンゲージリング)を渡すのでないのならば、傷つくこともないだろう。
 それに綾子とて、浄霊ですむのならそれに越したことはないと思うのだ。
「いいの?」
 綾子が持っている指輪は学生が気軽に買えるほど安価な物ではない。まして綾子が「見栄えをするもの」というのだから、それなりの値ははるだろう。
「気にしなくて良いわよ。どーせ、あたしの懐は痛まないんだから」
 けろっと笑いながら言い切ると言うことは、数多いるボーイフレンドの誰かからの贈り物なのだろう。
「で? いつ決行するわけ?」
 綾子の問いにナルは今夜と答える。
「麻衣に対する影響力から考えてみれば、早期解決をする方が好ましいだろう」
 確かにナルの言うとおりだ。もたもたしていたら、また同じ事が起きかねない。まして、ナルのPKによって弾いているのだから、かなり刺激をしただろう。
「判ったわ。すぐに指輪を取ってくるわね。
 麻衣、夜までまだ少し時間があるから休んでなさい。顔色が良くないわよ」
 綾子はそれだけ言い残すと、運転手(たきがわ)を伴ってマンションを出て行く。
「寝室には原さんが休んでいるんでしたよね? 谷山さん休めますか?」
 真砂子は未だに寝室で休んでいる。Wベッドだから二人共に眠ることは出来るが、疲れ切っている時に他人と寝て果たして身体が休まるだろうか?
 安原が懸念して問いかけると、ナルは無造作に麻衣を抱き上げる。
「僕達は書斎に居ます。何かありましたら声をかけてください」
「了解しました」
 すちゃっと安原は敬礼をして、ナルと麻衣を見送る。




                ※     ※     ※




「ナル・・・ごめんね」
 書斎に置かれている仮眠用のベッドの上に麻衣を置くとナルは離れようとするが、麻衣はそっとナルの腕を掴んで引き留める。
「何がだ」
「・・・・・・・・・・・・・全部」
 ナルが心配して除霊を選んでくれたのに、それを反対したことを。せっかくくれた指輪を霊にあげてくれと言ったりしたことも。報告が送れたことも、心配をかけたことも、怪我をさせたことも・・・今回だけで謝りきれないほど迷惑をかけた。
「イヤにならない?」
「なにがだ?」
 仕事(リビング)に戻らず麻衣の相手をするつもりなのだろうか、ナルはベッドサイドに腰を下ろす。
「私を結婚相手(パートナー)に選んだこと」
「何を唐突に?」
 麻衣がなぜ急にそんなことを言い出したのか理解できずナルは眉を寄せて問いかけてくる。
「だって、私ナルに迷惑ばかりかけている。今回だけで、どのぐらい迷惑かけちゃったんだろう・・・仕事の邪魔はするし、怪我までさせちゃったし、それもPKまで使わせちゃった・・・使わせたくなんてないのに・・・私って本当に馬鹿だよねぇ  」
 自業自得の色が滲んだ笑い声に、ナルは微かに眉を潜めるが、麻衣は気が付かず、深くため息をつく。
 今回はたまたま左手の平に軽度の火傷を負った程度ですんだ。その火傷とて今も痛みを訴えているだろう。だが、ナルが本気でPKを使っていたとしたら、火傷どころの話ではすまず、今頃ベッドの上にいるのは自分ではなくナルだったはずだ。
 その力は強大だが、それゆえ諸刃の剣でいつ何時ナルの命を奪う物になるか判らない。
 その力を使わせてしまったのだ。
 そこまでしてくれたのに、自分はナルの思いをねじ曲げてでも自分の思いを貫こうとしている・・・
「ゴメンね  」
 謝って済む問題ではない。判っている。だが、言わずには居られなかった。
 いつまでも繰り返しそうな勢いの麻衣を、ナルは止める。
「別に・・・今更だろう」
「今更?」
「そう、今更だ。お前が今まで何度無茶をしてきたと思っている」
 改めて言われてみれば確かにそうだ。いつもいつも自分一人突っ走って皆に迷惑をかけている。その筆頭は紛れもなくナルだろう。
「お前を選んだ時に覚悟は出来ている。
 今更だ  」
 そう。今更なのだ。
 麻衣が猪突猛進な事はとうの昔に知っていたことだ。一度言い出したら聞かないことも、自分のことより人のことばかり心配するのも、いつものことで今更な事なのだ。
 指輪の件を持ち出された時にはさすがに驚きを隠せなかったが、確かにこの娘らしい発想だろう。
 イヤだ。と泣き叫びながらも、行動に起こすことにためらいなどもたずやってしまうのは。
 それをどんなに引き留めたくても、腕の中に閉じこめてしまいたい衝動に駆られても、麻衣はするりと抜け出していってしまう。
 いつか失うのではないだろうか・・・その焦燥感に突き動かされ、頑なな態度を取っていたのは自分の方だ。
 確かに冷静に考えれば、除霊より浄霊の方が危険は少ない。それで成功する可能性があるのならば、それにトライして見るべきだと言うことは判っていた。
 にもかかわらず、頑なに反対したのは、これ以上喪失の恐怖を抱くことを自分が厭うたからにすぎない。
 この子供じみた独占欲に振り回されて、麻衣は泣く必要などないのだ・・・・・・・・
「今更、心配するような事じゃない・・・・・・」
 ナルは囁くと、麻衣の唇についばむように口づける。
「だから、泣くな」
 少し困ったような声で囁きながら口づける。
 麻衣はナルのその言葉でいつの間にか自分が泣いていたことを自覚する。そして、一度自覚してしまうとなかなか涙は止まらない。
 ナルは口づけを唇から頬をたどって、目の縁へ昇り涙を舌先でぬぐい取る。目尻を掠め額に口づけを落とすと、再び嗚咽を漏らす唇へ。
 微かにくぐもった声が漏れるが、それさえもナルの中に消えていく。優しく慰めるように触れるだけだった口づけは、徐々に深くなっていき、麻衣の手がすがるようにナルのワイシャツに皺を刻む。
 二人の身体は自然とベッドの上に横たわり、互いが互いを求めるように深く唇を重ね合わせる。僅かに離れては角度を変えて、これ以上近づくことなど出来ないほど身体を重ね、貪るようにキスをする。
 このまま、もたらされる熱に流されそうになるが、ナルは別れるのを惜しむようについばみながら唇を離す。
 腕の中にいる麻衣を見下ろせば、恍惚とした顔で自分を見つめる麻衣と目が重なる。普段の彼女からは連想しない色香に、甘い目眩を感じつつも身体を起こす。
「夜中までまだ時間がある。少し休んでいろ」
 濡れそぼった唇を親指で軽くぬぐいながらナルが告げると、麻衣は艶やかに染まった顔でナルを見あげる。
「・・・・・・傍にいてくれる?」
 素直に甘えてくる声にナルは苦笑を漏らすと、くしゃりと髪を撫でる。
「いるから、安心して休め」
 その言葉に麻衣は、ふわり・・・と柔らかな笑みを浮かべると、ゆっくりと瞼を閉じる。一度瞼を閉じてしまえば眠りにつくのは早かった。意識をなくすように瞬く間に深い眠りへと入る。気がゆるんだと言うこともあるだろうが、霊の干渉を受けていたのだ。それだけ疲労が蓄積されていたのだろう。
 ナルは麻衣との約束通り、時間になるまで傍にいたのだった。




               ※   ※   ※




 時計は深夜二時を過ぎようとしていた。終電車は一時半にはなくなっているため、それ以降この線路を走る電車はない。浄霊がたとえ失敗しても、除霊に切り替える時間も十分にあり、また列車が途中で突入してくると言うこともない。
 なにより、終電車が通り過ぎた後はこの通りは朝まで人通りは皆無と言って良い状態になるため、 第三者に目撃されると言う心配もなくなる。
 麻衣はあらかじめナルから貰っていた婚約指輪をマンションに置いて、変わりに綾子から譲り受けた指輪をはめる。
「たまたま、あんたが付けていた指輪と似たような形のデザインがあったからそれにしたわ。あいにくと本物(ダイヤ)じゃなくてイミテーションだけどね。見栄えはなかなかするでしょう?」
 麻衣がナルから貰った指輪のようにVの字型の指輪。そこにはダイヤを模した小さな宝石が、無数にちりばめられている。
「綾子・・・本当にいいの?」
 イミテーションとはいえただの安物ではないだろう。リングにはプラチナが使用されており、それだけでもそれなりの値段がしそうだ。
「構わないわよ。それ何年も使ってなかったから持っていたこと自体忘れていたぐらいだし。っていってもあんたじゃ気にするなって言う方が無茶な話かしらね。
 じゃぁアタシからそれ買うってのはどう?
 それをあんたに譲るから、今度とびっきり美味しい紅茶を淹れてちょうだい。まぁ今までさんざんただ飲みしているし。ソレの代金と思ってよ。それから今後のも含めたね」
 綺麗なウインクと共に言い切った綾子に、麻衣は感謝をするとその指輪を変わりに薬指にはめる。少しだけ大きいが指の上でクルクルと遊ぶこともなく、麻衣の細い指にすっきりと収まる。
「用意はいいか?」
 ナルの問いかけに麻衣はやや緊張した表情で頷き返す。
 今まで聞こえなかった声が、踏切に近づくほど聞こえてき、気を抜くとまた取り込まれそうになるが、ナルの温もりを傍らに感じることで、傾きかける自分自身をしっかりと意識する。
 麻衣とナルは連れだって車から降りると、ゆっくりと辺りをうかがいながら踏切へと向かい始める。
「音は?」
「・・・聞こえる。なんだか、かってに足が進んでいく感じ」
 出来るだけゆっくり歩きたいにもかかわらず、足がかってに進もうとする。それを耐えられているのは、ナルが腰に腕を回して身体を押さえてくれているからだろう。
 そんな二人の様子を滝川達は踏切から少し離れた所から見守っていた。近づきすぎて警戒心を抱かせてはならないが、離れすぎてもいざというとき対応が出来なくなるため、間の取り方が難しかった。なまじ一本の路で身体を隠す場所がないため、車を縦にして潜んでいることしか出来ない。
 端から見ると怪し過ぎる光景だが、この近辺の住宅はもう就寝のとについているのだろう。ポツポツと窓に明かりがともっている家もあるが、ほとんどの明かりは消えており誰かに目撃される心配はひとまずない。
 麻衣は幾重にも足にテーピングをして、底の厚いスニーカーをはいて踏切に向かう。強気で言い張ったが幾度も不安げにナルを見ている。
 ナルは辺りを警戒しながらも、宥めるようにその背を軽く叩く。その温もりを感じ麻衣は、無意識のうちに詰めていた息を吐き出す。
 踏切に近づくと、少しずつ遠ざかっていた音が近づいてくる。


カンカンカンカンカンカンカンカンカン


 耳障りな警鐘音。その音の中に潜む怨嗟の声。
 意識的に耳を澄ませてみれば、その声にいくつもの声が混ざり合っているような気がするのは気のせいだろうか?
 この踏切で大勢の人間が亡くなっている。
 自ら命を絶った者も、偶然事故で命を散らせた者も、そして命を散らされた者も・・・もう、それを終わりにしたい。誰がここを通っても二度と、同じような事が起きないように。
 ナルに二度とあんな顔をさせないために  
「返しに来たよ」
 警戒してかなかなか現れないため、麻衣は自ら声をかける。もしかしたら、ナルのPKによってもう姿を保っていられないのかもしれない。
 だが、まだ彼女は消えていない。
 この場に深い念と共に残っている。
「返しに来たよ・・・貴方が貰うはずだった婚約指輪(エンゲージリング)」
 麻衣が左手をかざして、薬指を露わにする。
 そこには街灯を浴びて儚げに光を弾くリングがはめられていた。
 それに吸い寄せられるように、辺りに冷気が漂い始める。
 九月とはいえ酷暑の影響か、未だに熱帯夜が続いているにもかかわらず、鳥肌がたってしまうほどの冷気が足下から漂い初め、まるでドライアイスを炊いたように空気が霞み始めると、ズズズズ・・・何かを引きずるように重たい音が聞こえてくる。
 それは、遠くから徐々に近づいてき、その動きに沿ってスモークが緩やかに動き始める。


「カエシテ・・・アタシノ・・・・・・婚約指輪(エンゲージリング)・・・・・・・・」


 あんなに怖く感じた声がなぜ、こんなに哀しい声に聞こえるのだろうか。
 足が居すくむような恐怖はもう感じられなかった。未だに声は地の底をはうような、不気味さを持っていたにもかかわらず、その声は哀しいほど切なく聞こえた。
 麻衣達がジッと見つめる中、女はスモークの中から姿を現した。ウェディングドレスを纏い、匍匐前進をするかのように這いずって近づいてくる女。
 よく見てみれば白いはずのドレスにはべっとりと血が染みつき、足があるべき部分のスカートはぺっしゃこんにつぶれ、ドレスのスカート部が重たげに尾を引いている。
 女は腕の力のみで麻衣の元まで進んでくると、がっしりと麻衣の足首を掴む。そして、太ももを掴み、腰を掴む。ギリギリと爪先が食い込み血が滲んでくるが、麻衣は表情一つ変えずに、ナルに向かって左手を差し出した。
 ナルは無言のまま行動に移す。
 その左手から・・・約束の指から指輪を抜き取ったのだ。
 それを間近で見ていた女は不意に動きを止め、男(ナル)を凝視する。
 目の前に立っている男が誰かはきっと理解してないに違いない。だが、ナルがする動きを感極まった表情で見守っている。
「これが、望みなんだろう」
 ナルが感情を伺わせない淡々とした声で女に・・・丸山宏美に話しかけると、宏美はコクコクと何度も何度も激しく頷き帰す。
 そして、麻衣から手をようやく放し恐る恐る、ナルへと左手を差し出す。
 ナルはその手を取ることに一瞬躊躇した様子を見せるが、軽くため息をつくとその手を取り、薬指へリングを通した。
 宏美は何度も何度もリングとナルを交互に見る。もう彼女の目に麻衣の姿は欠片も映らなかった。ただ、ひたすらナルを熱い視線で見続ける。

「やっと・・・アタシのトコに帰ってきてくれた・・・」

 その言葉に麻衣はギクリと身を竦ませる。もしかしたら、勘違いをさせてしまったのではないだろうか?
 今まで女に向けていた憎しみが、男に対する愛しさに変わったとしたなら? 今度はナルを連れて行こうとするのだろうか?
 無意識のうちにナルの服を掴もうとするが、その事に気が付いたナルはすっと身を動かして麻衣の手を交わす。今下手に女を刺激することは最善とは思わなかったからだ。


『ありがとう・・・・・・・・・ありがとう・・・ありがとうありがとう・・・』


 女は笑顔を浮かべて何度も呟く。
 涙がポロポロと流れ、それは大地へ落ちると共に光となって弾け散る。
 その変化に麻衣は驚いて顔を上げてみれば、女の周りを覆っていた怨嗟の念は徐々に光となって散っていく。
 血に汚れていたウェディングドレスはいつの間にか元の純白を取り戻し、頭にはベール、顔にはうっすらと化粧が施され、花嫁の姿を優しく彩っていた。今の彼女には写真で見たような神経質さを想像させるものは何もない。
 その笑顔は幸せそうな花嫁そのままの表情で、ブーケを抱えてその場にたたずんでいる。なくしたはずの足もいつの間にかに戻っていた。完全なる生前の・・・損なわれる前の、幸せな時を夢見ていた時の姿に戻ったのだろう。
 何の陰りも憂いもない幸せそうに、ぎゅっと左手を右手で握りしめて、胸の前で愛しそうに抱きしめる。まるで、そこに恋人でも抱きしめているかのように。


『これで・・・あたし達は、永遠に   』


 女は瞼を閉じると、幸せそうな笑みを浮かべたまま一滴の涙を流す。
 ゆっくりと頬を伝い流れ落ち、レールの上で弾けたとたん、女の姿も光に包まれ弾け散る。
 指輪を得るためだけに存在し、指輪を得たとたん存在意義が亡くなってしまったかのように、まるで己という物自体がはじけ飛ぶように、彼女は光の中に紛れ、火花のように散り消えた。
 丸山宏美だけではない。
 彼女が指輪を得た瞬間から、姿無き光の玉がまるで、シャボン玉が空を漂うようにふわふわ漂っていたかと思うと、丸山宏美に吸い寄せられるようにその周囲に集まり、彼女の流す涙を受けては、弾け消えていく。
 その数がいったいいくつになるのか正確にはわからない。だが、まるで光が乱舞するかのように彼女の周りに集まっては、パチン、パチンと微かな音を立てて弾け消えていく・・・そして、丸山宏美そのものも光となって消えたのを最後に、静寂さが戻る。
「・・・・・・・・・・浄化、したの?」
 唐突な沈静化に、麻衣はぼんやりとした表情のまま、ナルを見上げると、ナルは軽く肩を竦める。自分には基本的に霊の姿は見えないため見ただけでは判断はできない。
 なぜあれほど彼女がはっきり見えたのかは判らないが、おそらく麻衣の傍にいた男だからその姿を見ることができたのだろう。彼女にとって見れば、婚約者の前にその姿を現したような物だ。
「踏切の音は?」
 ナルの問いかけに、麻衣は軽く首を振る。
 気が付けば踏切の音は全く聞こえなくなり、怨嗟の声も聞こえず、久方ぶりに頭の中がすっきりしたような感じがする。
 その事を伝えるとナルは軽くため息を漏らし、滝川達の待つ方へと向かって歩き始める。その横を並びながら麻衣は不意に思ったことを口にしたのだった。
「ナル・・・あのね、やっぱり着たいかも・・・」
「なにを?」
 唐突に麻衣は言ってくるが、脈絡のない言葉にナルは何のことを言っているのか全く判らない。
「ウェディングドレス」
「面倒なんじゃないのか?」
「それは、ナルの方でしょう! 初めはね確かに私もそう思ったんだけど・・・今の彼女見ていたらすごく素敵だったから。だから、結婚式あげたいなって思ったの」
「ウエディングドレスは着ていたが、結婚式を挙げていたとは僕には見えないが?」
「そうだけど・・・」
 初めウェディングドレスを着ている彼女を見ても羨ましいとも何も思わなかった。逆にそこまでそれに執着している姿を見て怖いと思ったほどだ。
 だが、彼女が本当に執着していたのは、ウェディングドレスでもなく、指輪でもなく、心変わりしてしまった彼の心が戻ることだったのではないかと今になって思う。
 ナルに指輪をはめて貰った時、彼女が漏らした言葉が、待ち望んでいた事なのではないかと・・・・・・
 指輪を貰った時何度も何度も、涙を流しながら「ありがとう」と呟き続けていた彼女のことが忘れられない。彼女にとって本当にアレが全てだったのだろう。
 憎しみのあまり、全てを忘れて、恨みと思慕を募らせ、ただひたすら欲した指輪を得られて満足しただろうか?
 自分の指を見下ろす。
 今は何もはまっていない薬指。指輪がはまっていた時間はまだ短いにもかかわらず、酷く寂しく見えてしまう。
 ここに早く指輪を戻したい・・・早く、マンションに戻りたいと今切実に思う。
「マンションに戻ったら、また指輪はめてね?」
 その腕に腕を絡めて、仰ぎ見ると、ナルは意地の悪い笑みを口元に刻んだ。
「指輪は、彼女にあげたんだろう?」
 だから、もうあれは婚約指輪(エンゲージリング)ではないとナルは言いたいのだろうか? 麻衣が思いっきり頬を膨らませてブスくれるのを見下ろしながら、咽の奥で笑みをこぼす。
「あんた達なにのほほんと歩いているのよ!」
 いちゃつきながら戻ってきた二人を見て、綾子達も姿を現す。彼女たちのいた場所からだと、細かな状況まではっきりと見ることができず、現状がどうなっているのか判らないため、二人の雰囲気に苛立っていた。
 真夜中の住宅街のため声のトーンはそれでも落としていたが、いらだちがそれを凌駕し、静かな住宅街に響き渡る。
 思いの外自分の声が響いたことに驚いたのだろう。綾子はとっさに自分で自分の口を押さえ込む。
「いま、そっちに行くよー。ナル、行こう」
 その腕を引っ張って歩き出した麻衣の背に、ナルはぽつりと告げた。


「ルエラ達も喜ぶだろう  」


 麻衣が驚いて振り返るが、ナルはそれ以上何も言うことなく、麻衣の背を促して歩き出す。
 その端麗な顔に、笑みを浮かべながら・・・・・・



 足下にいくつもの指輪を見つけたのは、その後のことだった。