タイムリミットのある恋人達

第一話



「そこまでにしていただきましょうか?」
 低い抑揚の押さえたテノールの声に我に返り顔を上げると、そこには黒衣を纏った白皙の美青年が、静かな怒りをその顔に浮かべて自分を見下ろしていた。青年は視線の先を追い腕の中の少女を見下ろす。
 腕の中の少女は恐怖に顔を引きつらせ、鳶色の双眸に涙を浮かべ、透明な雫が頬を濡らしている。
 その表情は、自分を見る彼女の顔ではなく、少女本来の眼差しが自分を見ていた。
 先ほどまで見せていた柔らかな微笑み。愛しさに満ちた眼差しは消え、恐怖に怯え知らない男を見るかのような眼差し。
 青年は少女から目を反らす。
 ブラウスははだけていた、いや、破れていた―――無理矢理破いたのだ。
 そこから覗く白い肌には無数の赤い痕があった。
 誰かが付けた所有痕。
 おそらく―――目の前に立つ黒衣の青年が付けたものと思われる物。それを偶然見たとき、頭の中で何かが弾け、気が付いたら手を伸ばしていた。
 嫌がる少女を無理矢理組み伏せ―――自分以外の男が付けた所有痕を消そうとした。
 違うのに…少女は自分のものではないのに。
 いつの間にか勘違いをしていた。
 永遠に失ってしまった彼女と、少女を混同してしまった――――

「ごめん―――」

 青年は小さな声で呟くと彼女を拘束していた手を離した。
 少女は起きあがると、黒衣の青年の後ろに隠れる。
 それを見るのは正直言ってつらい。
 別人だと判っているのに、まるで彼女に拒絶されたような気がして。
 黒衣の青年は自分の上着を脱ぐと、少女の肩に掛ける。少女はホッとしたような表情で上着の前を合わせると、彼の服の裾をそっと握りしめていた。

 ああ―――もう、終わりの時が来たんだ。

 青年は漠然とそう思った。
 本当の別れが―――
 始まりは突然だった。
 あまりにも突然すぎて、夢かと思った。
 夢なら良かった――――悪夢のような現実の始まりは、一週間前のことだ。




 そう、全ては一週間前に始まった――――――――――――









「谷山さん!?」
 所長室にいたナルは安原のいつにない慌てた声にいぶかしみ、所長室のドアを開けた。
「安原さん、どうかしましたか?」
 彼が慌てることなど滅多にない。ナルは事務室を見、安原が慌てたわけを知る。
 青白い顔をして麻衣が幽霊のように、ずぶぬれになってドアの前に立っているではないか。
 高校のセーラー服はぴったりと身体に付き、栗毛の髪からはポタポタと雫が垂れている。血の気のない顔は青いというより白くて、唇など真っ青だ。
 ナルは無言のまま身を翻すと、腕に何枚かのタオルを持って戻ってくる。
 安原に財布を渡すと、適当に服を買ってきてもらうように頼む。彼は二つ返事で承諾すると傘を持って雨の街へと飛び出していった。
 ナルは肩にタオルを掛けると、もう一枚で麻衣の髪を乱雑に拭く。
「お前は傘を買うということを知らないのか」
 麻衣は何も言わない。
 ただ、されるがままの状態だがふいに、ぐらり…と後ろに倒れかかるのをナルが慌てて支える。
 ナルの腕の中ぐったりとして麻衣は意識をなくしていた。雨に当たって冷え切っている身体が小刻みに震えているのが伝わってくる。今は何よりも体を温めなければ、風邪を引くのが目に見えて判る。
 ナルは麻衣の身体を抱き上げると、所長室のソファーへと運ぶ。
 もう五月になろうとしていたが、冷え切っている麻衣の体温をこれ以上無くさないように暖房をつけ、濡れた衣服を脱がし、冷え切っている身体から水滴を優しく拭っていくと、ドアが遠慮がちにノックされた。麻衣の身体に自分の上着を掛けると外へ出る。急いで買ってきたのだろう息を切らせて戻ってきた安原が手に袋を持って立っていた。
 それを受け取り、中を見るとフリーサイズのスエットだった。近くのスポーツ用品店で買ってきたのだろう。
「谷山さん、おそらく下で事故現場を目撃しています」
 安原は服を買いに行く途中で事故処理をしている現場を見た。
 若い女性が車に跳ねられて亡くなったというのだ。打ち所が悪かったらしく即死状態だったという話だ。時間的に見て麻衣も目撃していてもおかしくない。
 ナルは安原の言葉に軽く頷き返す。
 それで、麻衣の様子がおかしいことに合点が行く。
 だが、それにしては過敏に反応しているようだ。
 意識を取り戻す気配のない麻衣だが、ふいに閉じられた両目から涙がこぼれる。
 ナルは白く長い指を伸ばして普段の彼からは想像できないほど優しく、頬を流れ伝う涙をぬぐう。












「お願い」
 彼女―――美弥子と名乗った女性は麻衣に向かって頭を下げた。
 麻衣は戸惑う。
 彼女の願いは出来れば叶えてはあげたい。だが、それを自分が出来るのだろうか?
「貴女の身体に負担が掛かることは判っています。無理を言っていることも。
 一週間だけ、一日数時間―――二時間でも一時間でもいいの、貴女の身体を貸して下さい」
 ほっそりとした背の高い女性。髪は緩くウエーブが掛かっており、背中の真ん中ほどまで伸びている。優しげな顔立ちの綺麗な女性だ。
 年の頃は二十歳ぐらい。生きていれば二十歳ぐらいだろう…
 そう、彼女はほんの何時間か前に息を引き取った女性だ。
 麻衣の目の前で交通事故にあって全身を強く打ちほぼ即死状態。せめてもの救いはその顔に傷が付いていないぐらいだろうか。
「晃司さんの誕生日が一週間後にあるの。
 その間だけ。お願い…お願いします――――――」
 一瞬の事故。身体から抜け出した彼女はパニックを起こした。
 血塗れの自分の身体が足下にあったら当然であろう反応だ。狂乱状態に陥った彼女を麻衣だけが見ていた。
 救いを求めようとしても誰も美弥子の存在に気が付かない中、美弥子は唯一自分を見る麻衣の存在に気が付いた。そして、助けを麻衣に求めた。
 麻衣はつらそうに視線を伏せる。
 大切な人を残して逝かなければいけないのだ。出来れば願い事を叶えて上げたい。
「一週間だけなら………」
 残されるつらさは判る。
 それも、別れの言葉も何も言えないで終わってしまうのは、辛すぎて前を見ていけなくなる。この人も永遠に浮かばれなくなってしまう。
「来週の木曜日まで、一日ほんの数時間だけなら…あまり時間は上げられないけれど……」
 麻衣が身体をかすと皆が知ったら反対するだろうから、彼らには気付かれないようにしなければならない。特に真砂子とナルの目をごまかすためには、色々と神経を使わねばばれるだろう。
「バイトは休めないの。休むとばれるから……」
 麻衣の言葉に、美也子は小さく頷く。
 普通なら聞き入られないコトを言っているのだ、麻衣からの条件はどんなことでも呑む気でいる。
「ありがとう。約束は守ります」
「それと…キスとかはしないでくれます?」
 彼女が会いたいと言っている人物は、彼女の恋人。会えばキスとか、色々するかもしれない。だが、この身体は麻衣のであり、麻衣はナル以外とキスはしたくはなかった。
 美也子はもちろん麻衣のその言葉にも頷く。
 美也子とて恋人側から見れば美也子に見えるかもしれないが、他人なのだ。やはり晃司が他人とキスをするのは見たくない。
 こうして、麻衣は一週間だけ美也子に身体を貸すことを約束したのだった。









「気が付いたのか?」
 重い瞼を開けるとナルの姿が視界に入る。辺りを見渡すと、すぐにそこが所長室だと言うことが判る。けだるさが残る体をとりあえず起こすと、制服から見覚えのないスエットの上下に着替えていたことに気が付く。
「ずぶ濡れだったからな」
 その言葉で着替えをさせたのがナルだと言うことに気が付く。当然だ。ここに女手は自分以外しかなく、着替えをさせてくれる女性…いれば綾子や真砂子だろうが、いない場合はナルに今ならナルだろう……。
「今更だろ?」
 麻衣の顔が一気に赤くなったことに気が付いたナルが、意地悪げな笑みを浮かべて言う。
 確かに今更なのだ。今更なのだが……
 ナルを見て更に真っ赤になる麻衣。
 ふとしたときに、一週間ほど前のあの夜を思い出す。
 以外と広い胸や、力強い腕、そして……………………………………………
 余計なことまで思い出して、熟れたトマトのように麻衣の顔は真っ赤だ。
「麻衣、気分は?」
 麻衣の隣に腰を下ろしたナルが、麻衣の額に手を伸ばす。ひんやりとした手が火照った顔に気持ちいい。思わずうっとりと目を閉じる麻衣。
 ナルは以外にも触れてくることに、麻衣は最近気が付いた。といっても、世間の恋人同士から見ればそれほど触れあっているわけではないが、麻衣が想像していたよりもナルは触れてきてくれる。
 そして、麻衣が触れても嫌がることはない。
「―――大丈夫……落ち着いたから………ごめんね」
「謝ると言うことは、自分がどうして倒れたか判っているんだな?」
 ふと離れてしまった手を寂しく思いながら、麻衣は目を開ける。
 瞼を閉じていた目には明かりが眩しいのか、麻衣は何度も瞬きを繰り返す。
「事故現場偶然見ちゃって…お母さんのこと思い出したら、頭がこうパンって弾けたような気分になってね………………」
 麻衣は泣き笑いのようなそれでいながら困ったような顔で言う。
 本当ではないが、嘘でもない。
 そう思ったことは本当だ。
 一瞬何も考えられなくなって、頭が真っ白になった。彼女の血塗れの身体と悲惨な事故現場を見て、思い出したのは母のこと。血塗れになって息も絶え絶えになっていく母の姿・・・逝かないで、一人にしないでと泣いてすがった自分・・・あの時を思い出して、頭が一瞬の間飽和状態になった。だから、彼女は麻衣と接触できた。無心になってしまった為に、麻衣の潜在的なガードが弛んでしまったのだ。
 でなければ、彼女のように弱い存在が麻衣の中に潜んで、リンと滝川の結界が張り巡らせているオフィスに気が付かれることなく入れるわけがなかった。
「判っているならいい。もう少し横になっていろ。顔色が悪い」
 麻衣はナルの言葉に嬉しそうに微笑みを浮かべて頷き返す。例えたった一人になってしまってもこうして心配してくれる人がいるというのは、心が安まり落ち着いていく。心配してくれるのが大切で大好きな人なら、なおさらだ。
 ソファーの肘掛けの方に頭を倒そうとするが、ナルの腕が伸びてきて反対の方に倒される。「え?」と思う間もなくそこがどこなのかすぐに気が付くと同時に身体を起こそうとするが、上から押さえ込まれ肩にナルの上着を掛けられる。
「いいから大人しく寝ていろ」
 麻衣の頭の下にあるのは、ナルの暖かい足で……鼓動が聞こえてきそうな程間近にナルがいる。ナルの白い指が麻衣の髪を優しく梳いていく。
 鼓動…聞こえては来ないけれど、ナルの温もりと一緒に鼓動まで聞こえてきそうで……
 麻衣は幸せな気持ちで瞼を閉じる反面、自分の中にいる彼女を気の毒に思う。
 彼女は二度とこのような気持ちを感じられないのだ。
 大切な人との永遠の別れを、しなければ行けないのだ………
「泣くな―――」
 どこか困ったような声が微かに聞こえてきたが、意識が再び闇に包まれようとしている麻衣にはハッキリと認識できなかった。
 切なげに苦しげに眉をひそめて涙を流す麻衣を見下ろしながら、ナルは溜息をもらしつつも白い指先で麻衣の涙を拭う。 










 翌朝


 麻衣は妙にけだるさが残る身体を叱咤して起きあがる。
 食欲もわかない。
 朝食を食べる気も起きず、とりあえず冷蔵庫から牛乳だけを取り出して少しだけ飲む。
 顔を洗って鏡を見ると、自分の顔が歪んで別の顔に変わる。美也子の顔だ。
 美也子には高校の授業が終わって、バイトへいくまでの二時間ほどだけを身体を貸すことを約束した。本当はもっと貸してあげたかったが、あまりバイトを遅刻することは出来ない。麻衣にとってバイトは死活問題に繋がってくるし、何よりも皆の、ナルの目を誤魔化せなくなるかもしれないからだ。二時間ほどなら、学校の委員会が当番だからと言って誤魔化しが利く。
 鏡の中の美也子は唇だけを動かして麻衣に「ありがとう」と礼を述べる。
「ううん。私も大切な人亡くしたことあるし、大切な人いるから、美也子さんの気持ち判るから…」
 麻衣の言葉を聞くと、美也子は淡い笑みを浮かべて消える。
 鏡には濡れた麻衣の顔だけが映っていた。
「さぁ〜てと。支度をして学校に行きますか」
 麻衣はのびをすると、制服に着替え始めた。
 午後5時麻衣は渋谷ではなく新宿で下りると、待ち合わせ場所へ向かった。美也子に聞いて彼女の恋人晃司に連絡を取ったのだ。「美也子さんから伝言を預かっています」と。
 晃司は美也子の死の連絡をすでに受け取っていたのだろう。
 電話に出たその声は掠れていた。
 新宿のアルタ前にたどり着いたとき、心臓が激しく脈打つのを感じた。壊れそうなほど早く鼓動が鳴り響く。大勢の人が人待ち顔で立つ中、麻衣の目は吸い込まれるように一人の人を見つける。身長はナルよりかなり低いだろう。170センチぐらいの男の人。茶髪でほっそりとした男の人だ。顔は優しげな感じで、特別ハンサムというわけではないが好印象をもたれそうな雰囲気の人だ。
 麻衣の意識がその人を見た瞬間、急速に睡魔に捕らわれていく。
 ああ―――あの人、なんだ。
 そう思ったときには、意識が入れ替わる。

 麻衣から、美也子へ。

「晃司さん、待たせてごめんね」
 麻衣の肉体を借りた美也子はぽんっと晃司の肩を叩く。
 その声は麻衣のはずなのに、彼女が発する声よりも低かった。
 弾けたように晃司は振り返り、背後でニコニコと笑っている女性を見て、晃司のほっそりとした目がこれ以上ないぐらいに大きく見開かれる。
「みや―――こ―――――――馬鹿、な……美也子は、昨日死んだ………はず」
 晃司の呟きに美也子は悲しげな顔をする。
「うん…私、昨日死んじゃった…だけど、どうしても晃司さんの誕生日を一緒に過ごしたくて、麻衣ちゃんにお願いしたの。
 麻衣ちゃんってね、この身体の持ち主なの」
 美也子は晃司に説明するが、晃司はすぐには信じられなかった。当然だろう。事故で即死した人間が目の前に現れて、それも幽霊が他人の身体を借りて目の前に現れるなど、誰が想像するだろうか?
「僕には、美也子の顔に見えるが―――」
 美也子の顔に見え、声が聞こえる。だが、確かに美也子より5センチほど身長は低いようだ。いつもよりも目線が低い。
「うん…私が表に出ると、晃司さんだけには顔が私に見えるみたい。たぶん他の人が見たら、麻衣ちゃんの顔のままに見えるはずだよ」
 美也子はゆっくりと納得して貰えるまで、晃司に説明をする。
「一週間だけ…晃司さんの誕生日が過ぎるまで、一日ほんの少しだけど、身体かして貰えるの―――」
 晃司は堰が切れたように美也子を抱きしめる。
 失ってしまった温もりを確かめるために。
 
 
 幸せだけれど、残酷の恋人達の時間がカウントを始めた。
 

 

 

 

 

 ☆☆☆ 作者の戯言 ☆☆☆
亜狭都様リクエストにお応えして、一週間だけ死に別れた恋人達に身体を貸す、麻衣のお話をここに送ります。
いったいどんな風に展開していくのか、まだ天華にも判りません(笑)
長くなるのか短いのかも、さ〜っぱり見当が付きません。ラストだけは決まっていますけれどねぇ〜〜〜〜〜気ままにやっていきたいと思いますので、最後までお付き合いの程よろしくお願いいたしますv

 時期的にはナルと麻衣がつきあい始めて一週間後ぐらいの設定となっております。

 

 

                        拝――天華



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