Border







 何かが、ジッと見つめている。
 近寄ってくる事もなく、遠ざかる事もなく、一定の距離を保ったままソレはそこに立ち自分を見つめている。
 ソレが何なのか判らない。
 判るのは、何かが自分をジッと見つめていると言う事。
 そして、ソレから視線をそらす事が出来ないという事。
 反らしたらどうなるのか判らない。
 ただ、反らしたら負けなのだ。
 判るのはそれだけ。
 暑いのか寒いのかそれさえも判らない。じっとりと汗が浮かび上がり、こめかみを伝い落ちていく。それを拭う事もできずただ、見つめている。


 反らしたら負けるのだ


   何に?


 そらしたら、逃げる事になるのだ
 

   何から?


 判らないまま、不毛とも思えるような睨み合いが続く・・・いつまでも。夜が明けるまで。何もない・・・全てを飲み込んでしまいそうな、深淵の世界で。






「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 真砂子は不意に目を覚ます。ぼやけた視界に映るの自室の天井。次第にはっきりとしてくる視線を辺りに向ければ、見慣れた光景がそこにはある。
 当たり前だ。
 ここは自分の家で自分の部屋。見慣れていて当然である。
 ゆっくりと上体を起こし、疲れたようなため息をつく。
 眠っていてこんなにも疲労感を覚えるのは不思議な事だと思いながらも、全身が妙な倦怠感に苛まれているのは誤魔化しようがない事だった。
「いったい、なんなのかしら・・・」
 ここ数日間、連日続く夢。
 真っ暗な闇の中立ち尽くしている自分がいる。
 闇に閉ざされた世界で何かを見ていのだが、夢の中の自分はいったい何を見ているのだろうか?
 目をそらす事も出来ず、ただソレを睨み続けているのだ。
 何か判らないが、何かを確かに凝視し続けている。
 何か意味があるのだろうか?
「夢に意味を見いだすなんて、まるで麻衣のようですわね」
 仕事で知り合った少女の事が不意に脳裏に浮かぶ。彼女は不思議な能力を持っていると真砂子は思う。
 霊能者として業界に出入りしている為、色々なタイプの霊能者と知り合う機会は、おそらく誰よりも多いだろう。本物と呼ばれるような能力者は殆どおらず、大半が似非だと真砂子は思っており、実際そうだろう。
 本物など世の中にはほんの一握りもいないのだと、ずっとそう思っていた。だが、偶然知り合う事の出来た仲間達は、皆それぞれ得意分野は異なるが、力ある本物の能力者達だった。その中でも麻衣は類を見ない能力だろう。
 坊主や、巫女、神父、道師は珍しい存在ではない。国という違いはあれど、宗教と共にあった彼らは遙か昔から歴史の中に名前を刻まれ、日常的に接することはなくとも知識として知っている者は多い。
 心霊ブームがある現在、霊能者という存在もけして珍しくはない。現に自分がそうである。マスコミが取りざたするため、自称霊の声を見る者、聞く者は後を絶たないほど存在している。
 だが、夢で霊視をし、浄霊に導く霊能者の存在など真砂子は今まで聞いた事もない。例えいたとしても夢の中での行動では、嘘か本物かを見分ける事など出来ないため、表に現れていないだけかもしれないが。
 だが、自分は違う。この目で霊を見、言葉で浄霊へと導く。似たような能力でもその発揮する場が違う。
 にもかかわらず、なぜ意味ありげな夢を視るのだろうか。
「いやですわ。あたくし、すっかりと夢を霊と絡めて考えてしまってますのね。ただの夢の可能性の方が高いのに」
 数日間続いているとは言え、夢=霊現象と考えるのはあまりにも安直だ。これが麻衣なら楽観視出来ないだろうが、自分には麻衣のような能力はない。
 まして、起きて居る時には何も感じられない。
 何かに見られている気配などみじんもない。
 ただ、あるのは妙な倦怠感と、じっとりと浮かんでいる汗ぐらいだろう。
 それさえも、夢見の悪さが原因だと考えられる。
 その汗も今では早朝の冷たい空気にさらされ、すっかりと冷え切り体温を奪っていくものだけになっていたが。
 意識を切り替えると、厚手のカーディガンをパジャマの上に羽織り、タオルと着替えを持って静かに部屋を出て行く。まだ、家族は誰も起きていないのだろう。静まりかえった廊下をヒタヒタと出来るだけ足音を殺して歩いて、浴室へと向かい、頭から熱いシャワーを浴びる。
 鏡に映った自分の身体を何気なく見て、ため息が漏れてしまったのは何故か。
 脳裏に浮かんだのは先日の調査先で、一緒に入浴した際の麻衣の裸身。
 時折共に仕事をするようになって、一緒に入浴をする事もたびたびあった。だから、何も初めてあの時麻衣と共に入浴したわけではない。
 だが、それでもなぜ気になるのだろうか・・・・・・・・
 自分と同じようにほっそりとした身体。色素が薄いせいだろう。透けるような白さをした肌が温まった事によって仄かに色付く。そこに自分にはない色香を感じたのは何故か。
「・・・・・・・・疑問に思うのもばからしいですわね」
 自嘲した笑みが浮かぶ。
 先に大人になってしまった友人を見て、抱くのは焦りだろうか? 脇腹に散っていた赤紫色の痕を思いだし、真砂子はそっとため息をつく。
『どんなに涼しい顔をしていても、結局はあのナルも普通の男だったのね』
 しみじみとそう呟いたのは年上の友人。
 麻衣は何の事を言われているのか判らなかったようできょとんとした眼差しを向け首を傾げていた。真砂子も綾子も特に何も言わなかったため、麻衣は何をさしてそう言っているのか判らないようだった。
 ナルと麻衣が正確にいつ頃から付き合いだしたのか、真砂子は知らない。そして、いつからそういう関係になったかも。気が付けば二人は付き合っており、そういう関係になっていた。ごく自然にそう思うようになっていたのだ。
 なら、自分もそうなるのだろうか?
 安原と    
 柔らかな物腰の、穏やかな青年の顔が浮かぶ。
 彼から告白されて、迷って悩んで・・・受け入れたのは半年ほど前だったか。
 穏やかな青年らしく、穏やかな告白だった。
『僕は原さんの事が好きなんで、おつきあいして頂けたら嬉しいな』
 何も気負うようなものもなく、さらりと告げられた言葉に深い意味を探る方が難しかった。まるで、ちょっと遊びに行きませんか?と言われたようにも感じてしまうほど、あっさりとした言葉。
 真意が伺えず・・・というより、どんな反応を返せばいいのかとっさには判らず、黙っていると彼は苦笑を浮かべる。
『これでも一大決心の上での告白なんですよ?』
 そうは見えないほど彼は落ち着いていた。
『そうですか? 僕の心臓ばっくんばっくんなんですけど。大学入試の時だってこんなに緊張した事なかったのになぁ。
 原さんが所長のことをお好きだったと言うことは存じてます。
 気持ちの整理が付いていなければ、待ちます。
 考えて貰えませんか?』
 最後の一言を言った時だけ、わずかに緊張しているようにも見えた。それから、どのぐらい沈黙していただろう。
『ナルのことはもう整理はついておりますわ。ナルが麻衣のことを想っていることを知ってから、整理をつけるだけの時間は十分にありましたもの。
 ですけれど、あたくし安原さんのことはずっと仕事仲間として見てきましたわ』
 ナルのことを異性として見ていたのはもう過去の話だ。
 初めは麻衣とナルを一緒に見ることは辛かったが、今はもう二人が共にいる所を見ても、心が乱れることはない。
 決着はもう自分の中では出来ている。
 が、今の今まで安原を異性として意識したことはなかった。
『判っています。
 原さんが、僕のことを異性として見ていなかったことは、重々承知しています。ですから、これから見て貰えませんか?』
 安原の問いかけに「NO」と言い切れず、微笑みに押される形で、時折デートをするようになった。共に映画を見、ショッピングを楽しみ、食事をし・・・・・それだけだ。それ以上の事は特になにもない。
 今だに「原さん」と呼ばれ「安原さん」と呼んでいる。
 恋人同士と言うよりも、仲の良い友人同士のような関係。
 今までと何か違うのであろうか?
 そもそも、自分は本当に安原を「男」として見ているのだろうか? 自分の気持ちだというのに全く判らない。
 ただ、安原といると心が穏やかになる。
 ナルを無理矢理連れ出して、デートをした時には感じられなかった穏やかな時間。虚勢を張ることもなく、ただ普通に素の自分で会話の出来る相手・・・
 ナルの時は彼の隣に並んで、見劣りしないことばかり考えていた。一緒に歩くことで周囲の視線を意識し、虚勢ばかり張っていたのだが、安原には肩肘を張らずにすむ。確かに、一緒にいて心地よい相手ではあったが、安原と共にいてナルに感じたように切なくなるような想いを抱くことはなかった。
 はたして、麻衣のように無邪気にナルといられることを喜べるほど、自分は安原に惹かれているのだろうか? 麻衣のようにでなくても構わない。安原の傍にいられるだけで幸せだと思えているのだろうか?
「ただ単に麻衣の事が、羨ましいのかしら・・・・・」
 名前を呼ばれ名前を呼ぶ事の出来る二人・・・と言ってもこれは、関係が出来る以前からの話だが。一つの部屋で共に過ごし、口づけを交わし・・・・・・・・そして・・・・・・・・・・・・・
 唐突に、ゾクリと悪寒が背筋を伝う。
 真砂子はシャワーのノズルをしめ、背後を勢いよく振り返る。
 だが、そこには何もない。
 浴室内は適度に湯気で曇って見えるが、だからと言って視界が効かないほどの湯気が篭もっているわけではない。
 ドアが開いたわけではないのだから、自分以外の誰かが入ってきた事ももちろんありえない。
 だが、確かに誰かに見られていると感じたのだ。
 まっすぐ射抜くような視線を・・・絡み取られるような視線を感じた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・気のせい? それとも・・・」
 自分には見る事が出来ない存在なのか、それとも見る能力が無くなってしまったのか・・・・・・・・
 ギクリと身体が強ばる。
 あって得したと思う事はなかった。
 それこそ昔は、こんな能力はいらないとさえ思ったこともある。だが、もしも本当に無くなってしまったとしたら・・・・・
 コワイ、と思った。
 この力が無くなってしまったら、あのオフィスに出入りする理由が無くなってしまう。
 友人に会うふりをして、彼と会う理由が無くなってしまう。
「・・・・・・・・無くなったと決まったわけではありませんもの。
 ただの、あたくしの気のせいかもしれませんし・・・騒ぐほどの事でもありませんわね」
 きゅっと拳を握りしめると、もう一度シャワーのノズルをひねって熱いお湯を浴びる。
 身体の向きを変えた瞬間、また視線を感じるような気がした。
 見られているようで、落ち着かない・・・・・
 だが、もう振り返る事はしなかった。そこに何もない事を確かめるのが、怖かったからかもしれない。








「こんにちは」
「あ、いらっしゃい」
 ブルーグレーの扉を開けると、心地よいカウベルの音と共に、爽やかな青年が笑顔で出迎えてくれた。
「今日は着物ではないんですね」
 室内に入ってきた真砂子は和装ではなく、白いハーフコートに薄桃のセーターと黒のタイトスカートに白いロングブーツと言った洋装をしており、一見しただけでは「霊能者 原真砂子」を思い浮かぶ人間はいないだろう。
「今日は仕事がなかったので、安原さんお一人だけですの? 麻衣は?」
 いつもならもう一人、朗らかで明るい声が出迎えてくれるのだが、今日はなかったため、事務室を一通り眺めて真砂子は不思議そうに問いかける。麻衣の座席は綺麗に片づいており、出勤してきている形跡はない。
 土曜日の午後二時ともなれば、よほどの事がない限り麻衣は出勤してきているのだから不思議に思ってもおかしくはなかった。
「谷山さんは、所長と一緒にイギリスに昨日旅立たれました」
「ナルと一緒にイギリスですの? ずいぶん急に旅立たれましたのね」
 四日ほど前に事務所に足を運んだ時は、そんな話題は出なかったというのに、急な話もあるものだ。
 何かあったのだろうか?
 真砂子の懸念は的中する。
「一昨日、ディビス夫人が交通事故にあったと連絡が教授からあったんです。入院するほど大きな怪我は負ってないらしいんですが、知らせを聞いた谷山さんが、所長をせっつかせて帰国させたんですけれど、夫人は谷山さんにも会いたいとおしゃっていたらしいので、同伴することになったんですよ」
「まぁ・・・ナルのお母様が事故に? でも、大きな怪我でなくて良かったですわ。麻衣達はしばらくイギリスの方に?」
「おそらくそうなると思いますよ。
 しばらく夫人一人では家事は無理そうなので、谷山さんがお手伝いされるそうです。その事に、夫人はたいそう大喜びだそうで。もう十二月も半ばですし、クリスマスまでもうそんなに日数もありませんからね。そのままお正月が終わるまでイギリスに滞在する予定になりそうですよ」
「森さん情報ですの?」
 真砂子の問いに安原へ笑顔で答える。
「そうですよ。休んでなきゃいけないのに、谷山さんが来てくれた事に興奮しちゃって、連れて出歩きたがって大変だっておしゃってましたよ。
 今、向こうはクリスマス前で盛り上がっている時期ですしね。その準備とかもあるそうで、毎日大変だって谷山さんからもメールが届きました」
「よほど嬉しいんですのね」
「もう、娘扱いそのものらしいですよ」
 戸惑いながらも喜んでいそうな麻衣の姿が浮かんでくる。
 ナルも呆れながらも、ここぞとばかりに義母の面倒は麻衣にまかせ、イギリスでも好きかってやっている事だろう。
「まるで、一つのファミリーのようだっておしゃってましたからね。っと、すみません。お茶まだでしたね。おかけになって待っていてください。谷山さんほどではないですけれど、お茶淹れますから」
「おかまいなく」
 安原は真砂子に奥のソファーを勧めると、給湯室へと足を向ける。
 リンの姿もオフィスにはなく、自分と安原以外誰もいないのだが、安原の態度はけして変わらない。丁寧な対応で親密なものを感じさせるところは何もないにもかかわらず、真砂子は座り慣れている場所に腰を下ろすと、知らず内にため息をついてしまう。
 麻衣もナルもいないというのは盲点だった。
 特に、麻衣がいないというのは戸惑いを隠しきれない。自分の勘違いでもいい。早とちりでも構わない。ただ、話を少し聞いて貰いたかったのだ。
 それに、自分には判らない事も麻衣なら判るかも知れなかったから、専門家でもあるナルの意見も聞いてみたかったのだが、どうやら当分無理なようである。
「お疲れのようですね、お仕事忙しかったんですか?」
 暖かな玉露が入っている湯飲みが二つ目の前に置かれる。
 柔らかな緑色の液体からくゆる心地よい香りを楽しむと一口口に運ぶ。冷え切った身体にじんわりと染み渡る暖かさに、ようやくほっと一息を付く。
「疲れているように見えます?」
「ええ、顔色があまり良くないですよ? もしかして風邪ですか? 流行る時期ですからね。
 お茶よりココアとかの方が良かったかな?」
「いえ、風邪ではありませんので、ご心配なく。
 お茶とても美味しゅうございますわ」
「それは良かった。
 あ、原さんこの後何か予定とか入ってますか?」
「いえ、特にありませんけれど」
「あと三十分ほどで仕事が終わるので、良かったらこれから出かけませんか? Bunkamuraで生け花の展示会がやっているんですが、叔母の作品が入賞したんですよ。
 その後、夕飯でもどうです? 美味しいイタリアンのお店を谷山さんに教えて頂きまして。ぜひ、原さんとご一緒したいなーと思っているんですが」
「生け花ですの? 楽しみですわ。
 あたくし、生け花が持っている独特の凛とした空気が好きですの。着物を着た時のようにしゃんっと背筋が伸びるような気がしますわ。
 そう言えばこの前麻衣が美味しいお店を見つけたっておしゃってましたの。そのお店かしら?」
「そうかもしれませんね。スゴイ興奮して教えてくれたんですよ。どうやら、所長と偶然入ったお店らしいんですけれど、あの所長が気に入った様子だったって言う話でしたから」
「まぁ、ナルがですの? それはとても楽しみですわね」
「ですよね。じゃぁ、少し待っていてくださいね。超特急で仕事終わらせますから」
「あたくしのことはお気遣いなさらなくて大丈夫ですわ。
 でも、もう上がってしまって大丈夫なんですの?」
「構いませんよ。所長が留守の間は特に仕事らしい仕事もありませんから」
 安原はそう告げると視線をパソコンの画面に戻し、キーボードを素早く叩いていく。視線はモニターから離れることなく、左右にせわしなく動く。
 それらをぼんやりと眺めていた真砂子はふと、事務所の静けさに意識が向く。思い返してみればこのオフィスで静かな時間を過ごした事などほとんどないだろう。
 麻衣が居れば仕事をしながらも会話を交わし、そこに安原が加わり、滝川や綾子が居ればそれこそ、麻衣も仕事の手を止めて会話に参加するのが日常的な光景。
 だが、今はこの部屋に自分と安原しかおらず、自分は麻衣のように率先してしゃべりかけるような性格をしてはいない。
 安原なら気の利いた話題をいくらでも触れるだろうが、急いで仕事をあげる気なのだろう。モニターに集中しているのがここから見ていてよく判る。
 静かな時間はけして嫌いではない。どちらかといえばにぎやかな方が苦手なため、静けさの方を求めてしまう。だが、妙に今は居心地を悪く感じるのはなぜだろうか。
 手持ち無沙汰だからか。
 視線をむやみやたらと動かし、何かこの妙な間をごまかせる物がないかを探す。
 別にただゆっくりとお茶を飲んでいるだけでも安原はきっと気にしないだろう。
 だが、なぜか自分が落ち着かず、視線をむやみに彷徨わせるが、オフィス内はきっちりと片づけてあり、何か時間が潰せるような物が目に入る事はなかった。
 ぐるり・・・と視線が不安定にめぐると、はたりと安原の上で止まる。
 沈黙や静けさではなく、この部屋に自分と安原の二人しかいない事を、改めて意識する。二人っきりになるのは何も今が初めてというわけではない。付き合い初めて早半年。その間デートに何回か誘われ、ドライブにも連れて行って貰った事もある。デートともなれば当然二人っきりだ。
 今更その事を意識する必要などなにもない。
 それなのに、なぜこんなに鼓動が早くなるのだろうか。
 高揚感と言った類の物ではない。
 麻衣が、ナルと二人っきりになって嬉しくて、気持ちがふわふわと浮き立つと言った、心地よい物ではなかった。ソワソワと落ち着かなくなり、握りしめた掌がじんわりと汗を掻き、唾液を音を立てて飲み込んでしまう。
 ああ・・・・・まただ。
 背後から誰かに見据えられているような気がする。
 背後は壁で、誰も立つ事など出来ないというのに。
 振り返れば何かを見る事が出来るだろうか?
 だが、このオフィスにはリンの結界が貼ってあり、むやみやたらと入ってこれるものはいない。
 それなのに、視線を感じるというのは過敏になりすぎているだけなのだろうか?
 それとも、自分がここへ連れてきてしまったのだろうか?
 振り返って背後を確かめればいい。
 ソレが霊なら視えるはずだ。
 だが、振り返る事が出来ず、視線を感じなくなるその時までジッと堪える。夢で耐えているように・・・・・ 
「原さん、どうかなさいました?」
 不意に安原に声をかけられ、真砂子はハッと顔を上げる。知らず内に俯いてしまっていたようだ。
「顔色がかなり悪いですよ。やっぱり熱でもあるんじゃないですか?」
 安原は心配げに表情を曇らせながら、席から立ち上がりゆっくりと近付いてくる。それをぼんやりと見上げていた真砂子は、次の瞬間反射的に手を挙げていた。
 パシッと乾いた音が響く。
「・・・・・あ・・・あたくし・・・・・・・・・・・・・」
 額に触れた安原の手を、真砂子は反射的に振り払っていた。
 呆然と振り払ってしまった自分の掌を見つめながら、真砂子は言葉を続ける事が出来ず詰まってしまう。
 安原自身微かに目を見開いていた。
「すみません。急に触れたら誰でもびっくりしますよね」
 何事も無かったように安原は表情を和らげて言葉を続ける。
「い・・・いえ・・・あ、あたくし・・の、方こそ失礼しましたわ。か・・・考え事、していて・・・それで、ビックリして・・・・・・・・
 あ、あたくし、今日はもう失礼致しますわね。
 申し訳ありません。お花とお食事はまた今度の機会にお誘い下さいませ」
 真砂子は一気に叫ぶように告げると、コートとバックを手に持って安原が止める暇も無くオフィスを駆けだしていく。
 カンカンと高いヒールの音に遅れて、バタンとドアが閉まると共に、カウベルが軽やかな音を鳴らす。
 それを見送った安原はソファーの上にどっかりと腰を下ろすと、手で目をふさぐ。
  何か、怯えさせるコトしたかな?」
 まるで仔ウサギのように怯えきってソファーの上で縮こまっていた真砂子を思い出し、本気で首を傾げてしまう。
 男と一緒に行動する事に慣れていない事は判っていた。だから、怯えさせないように・・・下手に意識させないように、できるだけ気を付けてきたつもりだ。それこそ、麻衣と接するのと同じような感覚で接してきたつもりだったのだが・・・もしかして、それが徒となったのだろうか?
 微妙な乙女心がもしかして、変な疑いを持たせてしまっているのか?
 だが、あの怯え方はそう言った類のものではなく、どちらかといえば、男である自分を意識して居竦んでいたようにも思える。
 まったく意識しないでいられるより、意識してもらえていることは嬉しいことなのだが・・・
「難しいなぁ」
「なにがだ?」
 安原のぼやきに被るように再びカウベルが鳴り響き、どこかのほほんとした低い声が後を追う。
 ソファーに寄りかかったままの姿勢を崩さず、視線だけをドアに向ければ予想通り滝川がベースを背負った姿で、「よっ」と声をかけてきた。
「今日は娘さんいらっしゃいませんよ    」
「みたいだなー。なんだ土曜日なのに大学か?」
「ダーリンと一緒にハネムーンです」
「・・・・お父さんは聞いてないが?」
 胡乱な目で自分を見下ろす滝川を見上げながら、安原は谷山さんも相変わらず大変だなーと思いながら上体を起こす。普通は冗談としてかるーく流すだろうに。このままからかうのも一興だが、さすがに今はそんな気分には慣れなかった。
 なにより、ギャラリーがいないのに滝川で遊んでも、面白くも何ともないというのが正直な感想だが。
「イギリスですよ。
 ディビス夫人が事故に遭われたので所長と一緒にイギリスに向かわれました。帰国の予定は一月の半ば頃になるそうです」
「夫人が事故に?」
「入院するほどの怪我ではないそうですけれど、大事を取って自宅療養中だそうです。男手だけだと色々と大変だろうと言う事で、谷山さんも一緒に行かれたんですよ。
 今頃夫人と仲良く過ごされているんじゃないんですか?」
「なるほどねぇ。本場英国でクリスマスか。麻衣にとってはこっちで過ごすよりも楽しいかもしれんなぁ・・・・・はぁ、今年はクリスマスも大晦日も、お正月も麻衣抜きかぁ・・・お父さんは淋しいなぁ。
 お前さんは真砂子ちゃんとかい?」
 滝川は勝手に冷蔵庫から作り置きのアイスコーヒーを取り出してグラスに注ぐと、どっかりといつも座っているソファーへと腰を下ろす。
「どうですかね」
「・・・・・・・・・・・・・そういえば、今そこで真っ青な顔をした真砂子とすれ違ったけど? ああ、別にお前さんがナルみたいにケダモノになったとは思ってはいないから、安心をし」
 ヒラヒラと手を振りながら、当たり前のように告げられた滝川の言葉に、安原はずるっと滑る。
「所長に聞かれたらしめられますよ?」
「ナル坊イギリスだろう? のーぷろぶれむc
 まぁ、あれだ。お前さんはナル坊みたいに、無鉄砲にはなれんだろうよ。その性格が災いしてな」
 にやりと意地悪げな笑みを滝川は刻む。
「無鉄砲って・・・所長がですか?」
 あの怜悧冷徹な人間を相手取って無鉄砲と言い切る滝川に、さすがの安原も唖然とする。
「無鉄砲だろうよ。恋愛事っていうか麻衣に関してのみって限定がつくけどな」
 大笑いをしながら言い切った滝川に、安原は確かにそうかもしれない・・・と口の中で呟く。
 ことに恋愛関係に関しては奥手そうにみえ、いや無関心に見えながら・・・事実大半の女性の秋波には無関心だが、麻衣に関しては気がつけばしっかりと掌中に収めているのだから、その手管は是非とも教えてほしい程だ。
「で、僕の何が災いしているんですか? 所長よりもましな性格だと思うんですけど」
 ナルほど厄介な性格をしているとは思ってはいないのだが、滝川はチッチッチと舌を鳴らしながら、指を左右に振る。
「ある意味厄介だろうよ。
 ナルはああみえて自分に素直だと俺は思うぞ。興味があるから動く。ないから動かない。あやつの行動心理はこれにつきるね。だが、お前さんはそれだけじゃ動けんだろ?」
「そうですか? 僕もやりたくないことはやりませんよ」
 やりたくないことを引き受けるほど、自分はお人好しではない。だが、滝川は結果は同じでも過程が違うと言う。
「ようは、おまえが策士ってとこだな。
 相手に不快を与えず手回しをして、自分を不利な立場にすることなく歪曲にさけていく。調査中に見ていると本当に手際いいと思うぜ。お前さんの年でそんだけそつなくこなせるのは珍しいしな。対してナル坊は相手の事情も感情もお構いなし。己の信念のみで動く。
 ナル坊も薄情というわけじゃないが、感情の機敏がちと鈍いんだろうなぁ。コレに関しちゃナル坊はやっかいな爆弾を抱えているから、仕方ないのかもしれんけどその差かね。
 まぁナルはある意味潔いんだろうよ。相手にどう思われようともまったく意に介していない。他人の評価など紙くず同然のように思っている。別名人間関係が破綻しているとも言えるとこが問題かもしれんけれど。
 言っておくがお前さんが潔悪いというわけじゃないぜ。争わなくて済むのなら、多少の手間がかかっても厭わないだろう。というか俺的にはその多少の手間を楽しむ性質があると思っているんだけど。違うか?
 手間を惜しむか惜しまないか。それだけの差と言ってしまえば、そんだけなんだけどな。少年はその年の割には立ち回り方がうますぎるんだろうよ。同年代の中にいると、ナルとは違った意味で浮いてたりするんじゃないの?
 結果的にナル同様何を考えているんだか判らないって思われちまうんだろうなぁ。
 手のひらで踊らされているように感じて、何を考えているのか判らない、本心が読めない・・・お前に近づこうとすればするほど、逆に判らなくなっていく。
 ある程度年が離れてしまえば、あまり気にならない点が、なまじ同世代だと自分との違いを敏感に感じ取ってしまい、遠い存在のように思えてくる。
 お前さんもナルも本心をなかなか見せないからね。
 ナルはあの怜悧な美貌を崩さない無表情で。お前さんはその、人当たりの良さそうな笑顔で、だ」
 どうだ、図星だろ?と言わんばかりに、滝川は人の悪い笑みを浮かべる。
 その言葉に安原は内心、本心を見せないのはナルや自分だけではなく、滝川やジョンとてタイプは違えど同じようなものだと内心で呟く。考えてみればやっかいなタイプばかりが集まっているものだとしみじみ思ったのだ。
「策士、策に溺れる。っていいたいんですか?」
「そこまでは言っとらんよ。立ち回りが上手すぎるってのが問題なんじゃねーの? 少しは本心を見せてやってもいいんでないかい?
 少なくとも、本気で相手にしてもらいって思っている相手に、外面をいくら繕っても無意味だと思うぜ」
 一気に話し終えると、滝川はアイスコーヒーの残りを一気に飲み干す。
「経験者は語る。ですか?」
 苦笑いを浮かべながらの問いかけに、滝川は口元だけに笑みを刻むと、軽く肩をすくめる。
「どうだかね。
 まぁ、俺も人のことあれこれ言えたもんじゃないけどな」
 よいせ、と立ち上がると滝川は自分が使ったグラスを給湯室で洗い流すと、ソファーの脇に置いてあった荷物に手を伸ばす。
「まぁ、あれだ。
 たまには素直に、感情的に動くのもいいと俺は思うぞ」
「谷山さんのようにですか?」
「おまえが麻衣のようにイノシシになれるか?」
 安原の出した例えに、滝川は声を上げて笑う。
「まぁ、それも面白いかもな。
 感情相手に理屈こねたって何にもならんよ」
 恋せよ青少年♪ 鼻歌を歌いながら滝川はオフィスを後にする。その後ろ姿が完全にドアの向こうに消えた頃、安原は大きくため息をつく。
「判っていても、どうにも出来ない事ってあるんですよねぇ」
 滝川に言われたことは、悔しいことに事実だろう。
 煙に巻くのは得意だ。たいていのことは自分の望む方へと持って行くことが出来る。同世代相手で言葉のやりとりに緊張感をもてるのは、上司であるナルぐらいだ。
 同級生はどんなに知能があっても、頭でっかちばかりの理屈屋で面白くも何ともないが、一応つきあいというしがらみが絡んでくるため、適当にそつなくやってはいるだろう。
 だが、真砂子相手にはそんないい加減な気持ちでつきあいたとは思ってはいない。
 言葉を巧みに使えば、彼女を錯覚させることはできるだろう。
 だが、それでは本当の関係は成り立たない。大学の同級生達と同じ関係にしかならなくなってくる。そんなものを望んでいるわけではないのだ。
「人生最大の難関だなぁ・・・・・・」
 日本最高学府に余裕で受かった人間のせりふとは思えないほど、弱気な声だった。










                                 
☆☆☆ 天華の戯言 ☆☆☆
この話は・・・2005年頃だったかな?
PeridotKeys様にて発行された同人誌「kiss!kiss!kiss!」に差し上げた話になります。
安原×真砂子のアンソロで、私が書いた唯一の安原×真砂子もどきの話になります(笑)
ゲスト原稿で安原×真砂子なのに、安原→真砂子な感じなのだけれど(笑)
3年半ぶりに読み返したのだけれど、なんだか自分が書いたとは思えない話でした。やっぱり、普段書き慣れない安原真砂子だったからかな。
この話はどえらり難産だったんですよ。確かたった20〜30ページの話を書くのに半年かかったんだっけかなぁ。
私的にお勧めポイントは、越後屋じゃなくて少年な安原と、オトナなぼーさんと綾子でございますv


今までに書いたことのない安原→真砂子堪能して頂ければ幸いです♪


って、続きますけどねまだ(笑)



2008/10/18 UP
Sincerely yours,Tenca


Border2 へ