Border







 

 電車を乗り継いで家に帰り着いた時はすでに、日はどっぷりと暮れていた。
 玄関を開けると外同様に真っ暗な室内。どうやら、母親は買い物にでも出かけているようで、家の中は人気が皆無だった。
 その事に安堵を覚え、真砂子は無言のままブーツを脱ぐと一階にある自室へと向かう。
 かつては祖母の部屋だった和室が今現在の自分の場所だ。
 女の子らしくない一見殺風景な部屋だが、真砂子はこの和室が一番落ち着く場所であった。
 コートを脱ぐと服を着替えることなく、ベッドの上に横になる。
 もう、何も考えたくはない。
 そう思えてさえくる。
 こんな面倒くさいこと、煩わしいことから早く解放されてしまいたいと。
 だが、どうすれば解放されるのかが判らない。
 そればかりか・・・・・・・・・
 何度目になるか判らないため息が漏れる。
 あの後、綾子と別れた真砂子はJRのホームで偶然安原を見かけたのだ。
 リンのようにずば抜けて背が高いと言うわけでもない。
 ナルのように目を見張ってしまうほど顔立ちが整っているわけでもなければ、滝川のように華やかと言うわけでもない、穏やかな面立ちの青年。周りの大学生からみれば理知的で大人びた雰囲気はあるが、特筆するような所があるわけではないのに、この人混みの中でなぜかみつけてしまった。
 無意識のうちに足が止まる。
 唐突にとまった真砂子を避けきれず、数人が舌打ちをしながら背中にぶつかっては通り過ぎていくが、真砂子はすぐに動くことが出来なかった。
 電車待ちをしながら、隣に立っている女性と会話を交わしている。
 友人・・・だろうか。ジーンズにニットを着、その上からストールを羽織っただけのシンプルなファッションの女性となにやら、会話しているのが見えた。
 大学の友人だろうか。それとも高校時代の級友だろうか。
 真砂子は当然安原の交友関係をまったく知らないのだから、彼女が安原にとって何なのか、ここから見ただけでは全く判らない。
 女性は悪戯っぽい笑みを浮かべながら安原を見上げると、安原は苦笑を浮かべながら、後頭部を無造作に掻いていたりする。
 仲よさげに見えるその二人の姿は、ホームに滑り込んできた電車に乗ったところで、真砂子の視界からは消える。アナウンスが流れドアがゆっくり閉まり、電車はホームから離れていく。
 風が勢いよくながれ、髪が乱されたことによって、真砂子は大きく詰めていた息を吐き出した。
 知らず内に呼吸を止めてしまっていたようだ。
 まるで、鉛を飲んでしまったかのように咽の奥に覚える違和感。
 安原が同じホームにいた自分を気が付かなかったことに、落胆をしてしまった事に、真砂子は片手で目を覆う。
 自分が気が付いたように、気が付くと思ってしまった己が浅はかに思える。立ち位置から考えてそれはあり得ない。それなのに、なぜ自分を見つけて欲しいと思ったのだろうか。
 瞼を閉じれば、安原の顔が浮かぶ。
 手を振り払った時の、少し驚いたような・・・目が微かに見開いた後、僅かに細められた目。
 何か言いたげに一瞬唇が動いたようにも見えたが、結局音を成さないまま閉ざされた唇・・・
 あの時の安原は、何が言いたかったのだろうか。
 自分はどうしたいのだろうか。
 今まで曖昧にしてごまかしていたものが、もうごまかすことは出来ないのだ。昼間のあの一件で今まで仮初めの均衡を保っていた秤が、確実にずれている。それがどちらの方に向かってずれているのかはまだ判らないが、このまま元にはもう戻れないだろう。
 どっちつかずの微妙なライン。
 表面上だけの話ならば、今まで通りでいることは可能だろう。何事もなかったかのように明日またオフィスへ向かい、今日のことを詫びればそれですむ。少し疲れていたことにしてしまえば、安原はそれ以上踏み込んでこないだろう。
 だが、それはあくまでも仮初めにしか過ぎない。
 終わりの合図をほんの少し伸ばしただけなのだ。ささいなきっかけで同じ事になるのは目に見えている。
 いや、もしかしたらもっと最悪なパターンになるかもしれない。
 自分と安原だけの問題ではなく、周りも巻き込んでしまうような醜態をさらしてしまうかもしれない。
 いい加減、自分の中で答を出さなければ行けない時が来たのだ。
 自分はいったいどうしたいのだろうか。
 安原と付き合いたいのか、それともただの友人のままでいたいのだろうか。
 なぜ、自分のことなのにこれほど何も判らないのだろうか。
 真砂子は伏せていた顔を上げると、窓ガラスに自分の顔が映る。
 酷く頼りなげな表情は、情けない物を感じるほど、途方に暮れているように見える。化粧をしていてなお血色が悪く見える顔色。唇の赤さだけが妙に浮いて見える。
「本当に日本人形のようですわ」
 日本人形のように真っ白い顔。紅い唇。肩口で切りそろえられた髪型。無表情にしていれば自分でも日本人形のようだと思えてしまう。
 確かに整った顔立ちだろう。だが、生気の欠片もなく、造られた物のようだ。
 性格にしたってプライドばかり高く、けして扱いやすい性格ではない。
 安原はいったい自分のドコを見て、好きになったと言うのだろうか?
 外見だけとは思いたくない・・・だが、中身が外見同様にいいかというと、自信がまったくない。
「安原さんは、いったいあたくしの何を見て好きだと思われたのかしら・・・あたくしは、安原さんの何を今まで見てきたのかしら・・・・・・」
 穏やかでいつも微笑みを絶やさない人。気配りが上手で、話題に豊富で頭の回転が速く・・・時々何を考えているのか判らない人。
 一緒にいて・・・気を張らなくてすむ人・・・・・・
 ただ、それだけなのだろうか。
 真砂子は身を起こすとバスルームへと足を運び、冷たい水で何度も何度も顔を洗う。
(安原君が真砂子以外の女の子と一緒にいるのを見た時どう思うかよね。ナルが麻衣を見ているのを傍で見てて真砂子はどう感じた? 同じように感じれば脈有りなんじゃないの)
 綾子の言葉が脳裏に蘇る。
 ナルが惹かれているのは麻衣だと知った時、憤りを感じた。
 なぜ、自分ではなく麻衣なのかと。
 なぜ・・・どうして・・・悔しかったし、哀しかった。
 二人が一緒に連れ立って歩いている姿を見かけた時は、頭の中がぐちゃぐちゃで、冷静な気持ちでその姿を見ていることができず、逃げ出すようにその場から離れたことさえもあった。
 なら、安原の時は・・・?
 沸き立つ物は何だっただろうか?
 憤りも悔しさもない。頭がぐちゃぐちゃになるほど色々な感情が沸き立つこともなかったが、咽の奥がずっしりと重く感じた。
 大きな固まりを飲み込んでしまったかのよな違和感に、無意識のうちに止めていた呼吸。
 はたから見たら、茫然自失の状態だっただろう。
 ナルの時と全く違う感覚。
 今思い返しても、体の奥がずっしりと重みを増したように感じる。
 答が・・・求めていた物が、その奥に潜んでいるような気がし、手を伸ばせばこのもやもやとした物から解放されるのかもしれない。
 どっちつかずの中途半端な状況から脱するのかもしれない。
 だが、その答を見る勇気を持つことが出来なかった。
 きっかけが欲しい。
 もっと、確実なきっかけを・・・もう一歩踏み出すことの出来るきっかけを。
 どんな結果でも、それがたとえ相手を傷つけるしかない答えでも、自分が惨めに終わる事であろうとも・・・
 ナルが今も好きなのか。
 安原に惹かれているのか。
 ただ、恋に恋しているだけなのか・・・・・・
 答がでれば、視線の正体もわかるかもしれない・・・なぜか、そう思うのだった。
 今こうしていても、視線を感じる。
 じっと、暗く澱んだ視線。
 何かを伝えたがっているようにも感じるが、振り返ってもそこには何も存在しない。
 いくら見ようと目をこらそうとしても、真砂子の双眸に何かは映らない。
 顔が痛くなるほど冷たい水で洗い続け、ようやく決意を決めた真砂子は、丁寧にタオルで水滴をぬぐうと自室へと戻り、携帯をバックから取り出す。
「原です。少し宜しいでしょうか?」
 数コールで出た安原の背後はざわめいていた。どこかの居酒屋かレストランに入っているようだったが、場所を移動したのだろう。少し周囲の音が遠くなり、安原の声がはっきりと聞こえてくる。
「今日は大変失礼をいたしました。・・・・・・ええ、もう大丈夫ですわ。せっかくお誘い頂いたのに、ご心配をおかけして申し訳ありません。
 もし、安原さんのご都合がよろしかったら今度の日曜日、ご一緒していただけませんか? 松崎さんにミュージカルのチケットを戴いたんですの。安原さんならご存じだと思うのですけれど、オペラ座の怪人ですわ。ご都合はどうでしょう?
 大丈夫ですの? では、開演が一時からですので・・・ええ、判りましたわ。
 十二時半に大江戸線の汐留駅改札口で」
 用件だけを伝えると、真砂子は通話を切り携帯をベッドの上に放り投げる。
 半年かけて出なかった答えが、あと数日で見つかるだろうか。
 いまだ曖昧にすぎない自分の心に不安がよぎるが、これ以上逃げ続けたくはない。
 寄せられる気持ちからも、なによりも自分自身からも  
「あたくしは、負けませんわ」
 窓ガラスに映った自分を凝視しながら、真砂子ははっきりとした声で呟く。




 視線は、今も感じる・・・
 だが、なぜか今朝まで感じた追いつめられるような圧迫感が、少しだけ和らいだように思えたのだった。




「すみません。お待たせしちゃいましたか?」
 大江戸線の改札口から出てきた安原は、すぐに真砂子を見つけると開口一番にそういったのだった。
「いいえ、あたくしも少し前に付いたところですわ」
 緊張しているのだろう。
 若干強ばってはいたが、真砂子はいつも通りの笑顔を浮かべると安原にチケットの一枚を渡し、二人は連れだって劇場のある汐留シオサイトへと向かう。
 ここ数年の間に開発され、日本テレビの新社ビルも汐留に移り、休日ともなれば人出もかなり膨らみ、オフィス街でありながらにぎわいに満ちていた。
「オペラ座の怪人は僕まだ一度も見たことなかったんですよね。映画も見てみようかと思っていたんですが、忙しさについつい見逃してしまいました」
 チケットを受付嬢にわたすと、案内に従って座席へと向かう。
 テレビ局が近くにあるため、真砂子の立場を慮り待ち合わせをギリギリにしたため、ゆっくりしている時間がないのが惜しく感じたが、開演のブザーが鳴るまではまだ時間がある。
 パンフレットを買ってそれに視線を落としながら、安原は真砂子に話しかけた。
「あたくしミュージカルは以前一度だけ見たことがありましたけれど、とても良かったですわ。また観たいと思っていたので、松崎さんには感謝しておりますの。
 映画も良かったですわよ。麻衣と見に行ったのですけれど、舞台では判らない細かな所が詳細に出ていたので、また主役の三人の関係がより深く・・・リアルに感じられましたの。きっと、ミュージカルを観たら前回とは違ったように感じられると思うので、今から楽しみですわ」
「それじゃ、DVDが出たらレンタルしてみようかな。原さんがお勧めの一品ですか?」
「ミュージカルを観て楽しんで頂けましたら、胸を張ってお勧め致しますわ」
「では、じっくり堪能させて頂きます」
 客観的に考えるのならば、今日の真砂子は今までの真砂子に戻ったように思える。
 だが、改めて注意して見てみると真砂子は安原と目を合わせることなく、微妙に俯きがちの視線で会話をする。緊張している彼女の心理状態を示すかのように、膝の上にそろえられた両手は、ぎゅっと握り拳を作り、不必要に力が入っているのが、筋の浮き出た拳をみれば一目瞭然だが、安原はあえてその事には触れなかった。
 彼女がなぜ自分を呼んだのか、その真意を計りかねてた。
 麻衣の代わりに自分を誘っただけなのか・・・それならば、自分ではなく綾子とくれば済むことだ。もしくは他の友人・・・ジョンや滝川でも声をかければそんなに緊張することなく、ミュージカルを楽しめただろう。
 不必要に緊張してまで、自分に声をかけたというのならば、いよいよ来たのだろう。
 半年前に告白した事に対する回答の日が。
 その事に思い当たった瞬間、不思議と熱がすっと引いたような、妙に頭の中がクリアーになったような気がした。
 彼女の答がどんな物でも、冷静に受け止められる。
 それが、自分が聞きたくない答でも・・・・・すんなり受け入れられるだろう。
 見苦しくあがきたくはない・・・恋愛は、見苦しいものだとしても、けして綺麗な物ではないということも知っているが、彼女をこれ以上苦しめることだけはしたくはなかった。
 ずっと見てきた。
 彼女がまだナルに思いを寄せていた時から。
 ナルが麻衣を見ていることに気が付き、傷ついていた時も、ナルが麻衣を選び、恋の成就は潰え涙を流していた時も・・・諦めきれず、心の整理が付かず苦しんでいた時も、ずっと見ていた。
 だから、これ以上彼女の心をかき乱すことはしたくなかった。
 今日答が聞けなかったとしても、もうこれ以上彼女の心をかき乱すような事はすまいと、安原は心に固く決めていた。
 安原は笑みを浮かべてまっすぐに真砂子を見つめる。
 たとえ、その視線が自分を見ることがなくても、安原は気にすることなく見続ける。
 こうして、想いを乗せて見ることが出来るのは、今日が最後なのかもしれないのだから   










2008/10/20 UP
Sincerely yours,Tenca



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