をとめの姿
  しばし 留めぬ


    
 春うらら。帝のおわす京の都は今春真っ盛り。都中の桜が咲き乱れ、青い空を淡い色に染め変えるごとくの勢いだ。
 もちろん、大内裏にある陰陽寮の桜も見事なまでに咲き乱れている。さわさわと枝をしならす風が吹き抜けるたびに、淡い色に色づいている桜が舞い散る。
 さて、こうして天気のよい暖かな昼下がり。
 じっと部屋の奥にいられるわけがない。
 ある程度仕事を終えた麻衣は、袿の裾をまとめると階を降りて庭へと出ていく。深窓の姫君がすることではない。まして人の妻となっているならばその姿をむやみやたらとさらすような真似は、言語道断なのだが麻衣には自分が「深窓の姫君」という自覚がない。人妻とはなっているが、やはり自覚がない。
 さらに、その夫である青年も、とやかく言うような人間ではないので、麻衣のこんな行動を諫めるのは、もっぱら、彼女の周りにいる友人や女房達である。
「麻衣、はしたないですわよ?
 殿方に見られたらどうしますの」
 嬉しそうに庭に降りて、舞い散る桜の花びらに戯れている麻衣を気配で察したのだろう、友人の一人の百合子が声をかける。彼女は深窓の姫君らしく、その顔をしっかりと扇で隠している。この部屋に出入りする人間に顔を見られるのはかまわないが、関係ない人間にまで見せる義理はないのである。
「百合子もさ、こっちおいでよ。気持ちいいよ? いつもいつも屋敷の奥にいたら病気になっちゃうよ」
 気持ちがいいからと言って出ていく人間がいるだろうか?
 百合子はあきれたようにため息をもらすが、麻衣は楽しそうに桜を見上げている。長い栗毛の髪が陽光を弾きキラキラと、黄金色に輝いている。白い頬は興奮気味にあるせいか紅潮しており、鳶色の瞳は実に楽しげに桜を見上げ、地面を見下ろし春の訪れを満喫している。
 春らしく卯の花の襲ねをまとい、表の白地には桜紋が施されているせいか、まるで桜の精霊のようだ。精霊といってもどちらかというと、いたずら盛りの子供の精霊といった雰囲気だが。
 対する百合子は桜重ね。もちろん、この季節を意識しての襲ね目である。百合子はごくふつうの漆黒の髪だが、陽光を受けてしっとりとした輝きを放ち、桜襲ねを着るとよりいっそう映える。麻衣が無邪気で人なつこそうなな桜の精とするならば、百合子は優雅な桜の精を連想させる。
 結局は百合子も麻衣の誘いを断りきれず、扇で顔を隠してはいる物の庭へと降りていく。もちろん、盲目のため麻衣がその手を引いてゆっくりと庭へと降りたのだ。たとえ見えなくても百合子は気配に聡く、見えない分肌で四季の移ろいを感じられる。柔らかな日差し、温かな風を全身で受けていると、寒い冬が漸く幕を下ろし、暖かな季節が到来したことを全身で感じられる。そうして二人で楽しげに桜と戯れていると、普段は気位の高い百合子も麻衣同様に無邪気さを浮かばせた。
「麻衣、午後から誰か来るって言ってなかった?」
 奥から涼子が声をかけてくる。すでに、麻衣を諫めるつもりはないようだ。優雅に脇息にもたれながら麻衣が用意したお茶を飲んでいる。
「言ったけど、こないんじゃないのかな? 約束の時間を半時以上過ぎているもん」
「あらま」
 麻衣の言葉に涼子と百合子は同時につぶやく。
 いったい、依頼人にどんな身分があるのかは知らないが、無断で時間に遅れてくるとはいい度胸をしているというべきだろうか。
 ここの部屋の主である陰陽師・安部鳴瀧は非常に優秀だが、比例するかのように性格に難が付く。優秀なやつは根性が悪いという見本市場のようなものだ。毒舌家で容赦がなく、口やかましい。
 時間に遅れてくるような非礼を平気でするような人間に、礼を持って接する必要はないということを平気でやってのける。安部鳴瀧という男を前にして、身分を笠に着てもなんにもならないと言うことは、宮中でも有名すぎるぐらい有名であり、その人となりを知る人間ならば、例え要職に付く人間であろうとも、礼を持って接してくる。
 そして、それだけの実力も兼ね備えているのだった。
 さて、話は戻るが麻衣達はのんびりと午後の一時を過ごしていた。その様子を見つめている人間の姿にさえも気が付かない。
「うきゃぁ〜」
 麻衣の喜んでいるんだかわからない悲鳴が上がる。
 風のいたずらと言うべきだろうか、いきなり突風が吹き抜ける。枝が激しくしなり勢いよく花びらが散っていく。その風は御簾を激しくまくり上げ、室内まであらわにする。そして、いたずらをしてしまったお詫びをするように、多量の花びらを室内にまで届けた。
「すっっごぉ〜〜〜い。
 花びら散っちゃうのはもったいないけれど、一斉に散っていくのってきれいだよね」
 興奮冷めやらぬ様子の麻衣に、百合子は苦笑を漏らしつつも同意する。例え見えずとも降り注ぐように桜が舞い散っているのが判るからだ。
 一週間やそこらで散ってしまう、咲き急ぐ花だからこそよりいっそう美しく感じるのだろうか。

 その様を見つめる男は、たった一人の姫に目を奪われていた。
 日の光に艶やかに輝く見事な髪。愛らしい表情はまだ幾分あどけなさを残すもののはっとするほど美しい。風に乗って聞こえてくるのは軽やかな鈴の音のような麗しい声。
 姫君としてあるまじきことをしているとわかっているが、今はそのようなことは気にならない。
 まさしく、桜の精のような美しさと可憐さ、そして清浄さを持った姫に目を心を奪われる。
「そこの――」
 青年は通りがかった雑司に声をかける。
「あそこにおわす、桜の姫君は何処の姫だ?」
 青年の問いに雑司は視線を青年が見つめる先に向ける。そこには見慣れた女性が二人いた。どうやら、百合子も麻衣に誘われるのを断りきれず表へ出てきたようである。今は二人で花びらを手に取り戯れている。
「ああ。麻衣姫様です」
 桜の花びらに戯れ、朗らかに楽しげな様子の麻衣を見てにこやかに答える。
 下働きの下男として下げすさむことをしない麻衣は、雑司にも人気が高かった。
「麻衣姫?」
 その名に覚えがあるのか、青年は眉をひそめる。
「権の博士安部様の北の方様です」
 その一言に青年はショックを隠しきれなかった様子だ。呆然と雑司を凝視している。雑司は「やはりこの男も―――」と思うとため息を付く。宮中に仕える女房や、姫君達やその親たちは麻衣のことを「狐姫」と呼んであざ笑っているが、逆に一部では密かに人気のある姫なのである。飾ったところのない麻衣は姫君らしくないが親しみやすく、顔立ちは充分に愛らしいのだ。ただ、不思議な力を持っているのと色素が薄いため邪視しているものもいるだけである。
 だが、「あの」陰陽師の北の方に収まっているため、無礼な働きをする者はいないが、警戒する必要は十分にある。
「そうか…あの姫が博士の北の方か。
 噂では、たいそう溺愛しているという話だったが……所詮は噂ということか……」
 青年は訳の分からないことをつぶやきながら、楽しげに桜見を楽しんでいる少女へと視線を向ける。
 だが、やがてさらに風が強くなったせいだろうか。室内からもう一人の女性が、麻衣達を室内に戻るように言う。二人の少女も十分に桜を堪能したからだろう。その言葉に素直に従い、乱れた髪をなおしながら室内へと戻っていく。
 御簾がおろされ、さらに格子戸も閉められ頃、青年はふと歌をつぶやく。

「天つ風 雲のかよひ路 ふきとぢよ
      をとめの姿 しばしとどめむ―――」

 そして、はらりと扇を広げ口元を隠すと、意味深げな笑みを刻みながらその場から去っていった。その場に一人取り残された雑司は、歌の意味は分からなかったが非常にまずい状態ではないのか?と思いつつも、どうすればいいのかわからず。
 結局は君子危うきに近寄らず――という言葉を実行したのだった。
 いわゆる、なにも知らない、見ていない、聞いていない。
 である。






 雪のように散りゆく桜の花びらをうっとりと見とれていると、女房の一人が麻衣に声をかけてくる。
「姫様、お文が届いています」
 いつもは中継ぎをするのは多恵なのだが、彼女はただいまお里帰り中であり、代わりの女房が麻衣に届けられた文を手渡した。
 見事な桜を咲かせている枝に結びつけられた文だ。薄模様の高級そうな和紙である。
「誰から?」
 麻衣は文に視線を走らせると、女房に文の送り主を問いかける。だが、文を届けに来た童女は何も言わずに文だけを届けると去ってしまったという。
「姫様、そのお文は……」
 好奇心いっぱいという表情を隠そうともせず、麻衣が折り畳んでいる文へと視線を走らせる。すでに通う(一緒に住んでいるが)殿方はいるのだが、自分の主が他の殿方からの恋文をもらうのは、それだけ主が評判高いと言うことになり、その主に使える自分たちもまた鼻が高くなるのだ。
 是非ともどんな内容だったのか、知りたい。といわんばかりの様子の女房だが、麻衣は気のない返事を返すだけだ。
 どうやら、あまり機嫌がよくなさそうである。
「ただのいつもの冷やかしだよ」
 いつもの冷やかしというが、その和紙を見る限りだとそうは思えない女房。だが、麻衣は意味が分からないことが書き連ねていて、見当も付かない。と、肩をすくめるだけだ。
 実際に麻衣は気前よくその文を見せてくれた。
 女房はその文を見て、麻衣の気持ちがよくわかった。
「申し訳ありません、二度とこの方からのお文は受け取りませんわ。失礼にもほどがあります」
 その文を読んだ女房は、顔を真っ赤にして怒り心頭といった様子である。
 麻衣はその様子を見て苦笑を漏らす。
「まぁ、いつものことだからいいよ。気にしていたら切りがないしさ。
 それより、そろそろ鳴瀧が帰ってくると思うんだ? 着替えの用意をしたいんだけれど手伝ってくれる?」
「はい」
 顔も知らない男からの恋文という名の嫌がらせより、主の愛する殿方の出迎えの準備の方が重要であることを思い出した、女房はいそいそといつもの仕事に戻りだした。
 それからというものの、一日とおかず文が届けられる。だが、どう見ても嫌がらせというか訳の分からない文であり、麻衣はひたすら無視していた。もちろん受け取りを拒否しているのだが、勝手に送りつけられてくる。
「麻衣、あんた気をつけなさいよ」
 いつものように涼子と百合子が陰陽寮に遊びに来て早々の言葉である。麻衣は訳が分からず首を傾げる。
「あんた、最近通ってきている男がいるんだって?」
「なっ、いないよ!!」
 麻衣は涼子の言葉にがばっと勢いよく立ち上がって、大声で否定した後、ばっと口を押さえて背後を伺う。そこは扉がきっちりと閉まっており、その奥にいる家主が出てくる気配はなかった。
「まぁ、通ってきているかどうかはおいておいても、噂になり始めているわよ?
 あんたに、あの藤浦の少将が文を送っているって」
「ふじうらのしょうしょう?」
 麻衣はきょとんとした表情で聞き返す。誰のことを言っているのか分かっていない様子だ。
「何よ麻衣、文を送ってきている人の名前も知らないの?」
「知らないよ。名乗らないし」
 名乗らなくても、字体や香、文の書き方などで相手を探ってもよいと思うのだが…百合子と涼子は同時にため息を付く。おそらく鳴瀧以外の人間が目に入っていないから、わからないのだろうが。
「藤浦の少将。将来有望株のおぼちゃまよ。
 まぁ、ちょっと浮き名を流しているけれど、なかなかの美青年よ。帝の覚えもいいみたいだし、確実に納言の位には付くでしょうね。浮き名を流してはいるけれど、みっともない別れ方はしていないみたい。
 もっとも、後腐れのないつきあい方をしているようだったけれど。
 その、藤浦の少将が麻衣に熱烈なまでに文を送っていると言うから、注目を集めて当然よね。あんたといえば、あの新月の君といわれている鳴瀧ですら、がっちり惚れさせたんだから」
 涼子の言葉にちょっと赤くなって照れる麻衣。そんな表情は非常にかわいく、鳴瀧でなくても腕の中で大事にしてしまいたくなる。
「でも、なぜその少将様が麻衣に文を送っていらっしゃるのかしら? 麻衣との接点がないように思いますのに。麻衣も相手にしていないのでしょ?」
「してないよ。最近じゃ文も読む前に鳴瀧が破棄しているし」
 相変わらずの独占欲の権化とかしている鳴瀧の行動に、涼子と百合子はあきれたようにため息をもらすが、麻衣は何も不自由を感じていないらしく、いつも通りだ。まるで、ゴミを捨ててもらったと言ってもらっているようでさえもある。
 しかし、哀れなのはその少将だ。
 せっせと思いの丈をつづった文を、あっけなくも送り主の旦那に破棄されているのだから。
「あんた達は、本当に万年新婚夫婦ね」
「本当ですわねぇ…今の世の中、麻衣のように恵まれた結婚をできる方なんておりませんわよ」
 ほう…とため息を付く百合子はやや疲れ気味のようだ。顔色があまりよくない。
「どうしたの百合子?」
「いえ。最近あたくしの両親が結婚話を進めてきますの」
 百合子も適齢期を迎えているのだ。ここぞとばかりに毎日のように縁談を持って来るというのだが、麻衣と鳴瀧を見ているとこういう夫婦のあり方が理想だと思うようになり、通例的な結婚を受ける気になれないとつぶやく。
「あたくしは、このとおり目が見えませんし、贅沢を言っていられる立場ではないのですけれど」
「確かに、あんた達を見ていると、他の女と同じ夫を共有するのがわびしく思えてくるのよねぇ」
 とは、適齢期を過ぎた(失礼)涼子の言。
「でも、私だってわかんないよ?」
 自分をうらやむ二人に対し、麻衣は苦笑を浮かべながら言うが、二人は麻衣の不安など相手にしない。不安に思うだけ馬鹿だと言うのがよく判っているからだ。
「あんたの心配はする必要のないものだから安心なさいよ」
 けらけらと笑い飛ばす涼子と百合子だが、麻衣は苦笑を浮かべたままだ。
「それよりも、百合子の方ってどんな相手が来ているの?
 本当にいいと思う人っていないの?」
 麻衣は話題を変えるべく百合子に話を降るのだが、今度は百合子が苦笑を浮かべる番となった。


 その様子を藤浦の少将は離れたところから眺めていた。何を話ているのかわからないが、麻衣姫はなんだか浮かない顔をしている。周りの友人はなだめているようにも、あざ笑っているようにも見える。
 いや、きっと表で慰め裏であざ笑っているに違いない。
 なぜならば、藤浦の少将は見てしまったのだ。
 あの、権の博士が奥方以外の女性と睦まじそうにしているところを。
 あの雰囲気ではおそらく、肉体関係もすでに持っているだろう。陰陽寮内とはいえ裏庭に属するあたりで、人目を忍ぶように桜を楽しんでいた二人。博士は、その姫君の肩に腕を回し、無表情ながらもいつもその目はその姫へと向かっていた。
 そして、風と花びらが舞い散る中、その姫君と口づけを交わしていたのだ。
 ソレを目撃したときは、麻衣姫の泣く顔が脳裏に浮かんだ。
 愛妻家として有名であり、他に通うところのない殿方を持つ姫として有名だったのだ。それなりの自信と安心感を持っていたというのに、裏切られていたことを知ればそのショックは他の姫君達が受けるショックよりも遙かに大きいだろう。
 まして、その相手が、自分の友人ともなればなおさらである。
 人づてに聞いた話では麻衣姫の親友の位置にいるという話だ。その親友が自分の夫を盗んだとなれば…そのショックはいかほどのものだろうか。
 まして、あのように心優しげで儚げな彼女では、裏切られたショックのあまりに世をはかなんで宇治川にでも飛び込んでしまいかねない……

 その時はなんとしても、彼女を支えてやるのだ。

 今までに感じたことのない高揚感に、藤浦の少将はほぅ…とため息をもらすと、その場からそっと姿を消した。




「麻衣、まさかと思いますけれど、姿見られたと言うことはありませんよね?」
 麻衣の性格をよぉ〜くしっている百合子は、可能性の一つとして問いかける。いくら何でも全く相手にされない人間に文を送って、こうも熱を上げるとは思えない。それなりの反応が会ってこそ楽しい駆け引き。
 でなければ、それほどまでに夢中になる理由…「一目惚れ」である。
「源氏物語の三ノ宮のように、姿を見られたがために熱を上げられているような事態ってことになったらしゃれになりませんわよ?」
 麻衣は考え込むがどうも今ひとつぴんとこない。
 最近友人達以外の人間とは顔を合わせていないからだ。
 元々陰陽寮に出仕しても、部屋にこもりきりであの部屋を訪れるような人間は皆無に近い。確かに数日ほど前陰陽寮の庭に百合子とともに出たが、あのときは誰にも会わなかった…
「誰にも見られていないと思うけどな。最近は鳴瀧と一緒にいるから一人歩きもしていないし…どこかの宴に出るって事ももともとないし」
 う〜〜〜〜む。とうなっている麻衣に涼子が一応念のためにと思って言う。
「だけど麻衣気をつけなさいよ?
 万が一が起きないように、屋敷の警備をしっかりとしておいたほうがいいわよ。それから、鳴瀧のそばにいるべきね」
「鳴瀧にも言われた。
 だから、今日は一緒に宿直なの」
 調査で夜通しになることはあるが、陰陽寮に夜通し一緒にいることは今までになかったことのため、非常にわくわくドキドキである。
 そんな麻衣を見ていて、本当に大丈夫なのか?と一抹の不安を感じないわけでもないが……
「いいわ。今夜はあたしも一緒にいてあげる。
 なんだかいやな予感がするのよねぇ――」
 涼子の予感という者は結構馬鹿にできない。その言葉に、百合子もあたくしも是非ともご一緒いたしますわ。と続けたのは言うまでもあるまい。




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