第十二話











「麻衣先に行っていて下さいな。あたくし、お手洗いによってから参りますわ」
「判った。先に行っているね」
 真砂子は客室に付いているトイレのドアを開けながら麻衣に声をかける。麻衣はスリッパを引っかけながら返事を返すと、鍵よろしくぅ〜〜〜とだけ言い残して、パタパタと軽い音を立ててベースだった場所へと向かったのだった。


 少し前に遡る。ナルの暗示によって麻衣は既にサイコメトリーをしないというのに、見たと言うことに驚いた綾子は、その事を急いでナルに報せるべく、廊下を走り抜けベースへと向かう。息を付く暇もないほど綾子はことのあらましをナルに告げるが、なぜかナルは驚く様子はなかった。そればかりか、ナルは麻衣が見ているのは『言霊』らしいと皆に説明をし始めた。曖昧な状態での発言を嫌うナルだが、今回口にしたのは綾子から『言霊』に関して詳しく話を聞くためだ。
 このことに関してはおそらく巫女である綾子の方が詳しく知っているだろう、と踏んでのことである。
「全く、あの子もまたやっかいな物を」
 ナルから事情を説明された綾子は呆気にとられる。ナルのように目に見えて形ある物なら判るが「言霊」などと言う実に曖昧な物まで見るとは、自分達が考えているよりも遥かに強い力を秘めていると言うことになるのだろうか?
「ジーンは言霊を視ていると言っていたが、感応力が鋭いんだろう。言葉として聞いた内容よりも声の持ち主に知らず内に同調してしまっている可能性の方が高い」
 だが、強すぎる力はそれだけ制御が難しく、またそれだけ負担をかけることにもなる。それはナル自身がよく判っていることだろう。ジーンの言うとおり「言霊」を視ているにしろ強く「感応」してしまっているにしろやっかいなことには変わりない。さらに、その力に引きずられて制御がままならないというのならなおさらだ。そして、今の段階だでは判別が付かないのも事実だ。
「言霊って一言で言ってもすごく曖昧な物よ。それこそあんたの研究と同じような存在よ。
 言霊学の系譜は神道霊学の系譜であると言われているわね。日本の古神道と深く結びついてはいるわ。学問的系譜として確立された言霊学は1800年代後半ぐらいからだから、まだ百年ぐらいしか経過はしてないわね。
 言霊の定義付けは人によって様々よ。たとえば「言葉に力(チカラ)が宿る」という考え方も あるし、『言葉は力そのもの=言霊』であるという考えも見られるわね。他には宇宙創世期から発せられ鳴り渡り続けている音、意志力のエネルギー、波動ともいわれているわ。
 ジーンは麻衣は言霊に宿る強い思念や感情を読みとるって言っていたんでしょ?それって、話す人が言葉に魂をこめたものを読みとっているって事なのかしら?それとも、テレパシーみたいなもの?テレパシーで読みとった物を自分で体験したかのようにみてしまうのかしら?」
 推測は飛ぶが、それは全て推測に過ぎず過程の域にすら入らない。だが、何を見ているか判らなければ制御のしようがないのだ。
「でも、谷山さんのことですから、本能で切り抜けそうですね」
 安原の言葉に皆が一瞬黙り込む。体育会系とは言わないが、確かに麻衣は理論的に覚えるより、体で覚えていく方が早いだろう。それは、今まで麻衣のコントロールを指導してきたナルもよく判ることだった。
 何よりも麻衣の力がフル発揮されるのは、害意あるものや危険が迫ったときである。以前ナルに「自己防衛本能が動物並」と言わしめたほどだ。だからといって、コントロールする試みを疎かにして良いというわけではないが、周りがあーでもな意、こーでもないと頭を悩ませている内に、本人は無意識に制御している可能性もなくはない・・・のだが・・・・・・
「も〜〜〜〜っ、あーだこーだいっても仕方ないわ。
 とにかく考えることはお腹をいっぱいにしてからにしましょう! それにしても、あの子達遅い…漸く来たようね」
 化粧を半分ほどしかしていない綾子に、安原やジョンは何か言った方がいいか顔を見合わせるが、どうやら二人の少女の内一人がこちらへ向かってきているようだから、彼女達に言って貰おう。女性の方が男が言うよりいいだろう。そう思ったのか二人はその事には触れず、少女の登場を待った。
 静かにふすまを開けたのは、肩で切りそろえた髪が綺麗な真砂子の方だった。
「あら、麻衣は?」
 真砂子は先にテーブルに付いているメンバー達を見渡して首を傾げる。自分より先に着ているはずの麻衣の姿がないからだ。これがオフィスならお茶を淹れているとも考えるのだが、ここではポットとかその他諸々全部、室内にある。席を外すと言うことはまずあり得ない。
「麻衣なら、まだ来てないわよ」
 綾子が皆にお茶を淹れた湯飲みを回しながら、答える。
 まだ、誰も指摘してないようで綾子のメイクは半分しかされていなかった。
「松崎さん、メイクが途中ですわよ」
 呆れたような真砂子の言葉に、綾子はしばし行動を停止させる。そして、何か判らない叫び声を上げると脱兎の如く駆けだした。漸く自分が何の途中で部屋を出てきたか思い出したのだろう。真っ赤になっていた。
「麻衣はまだ来ていませんの?」
 真砂子はナルに向かって問いかける。ナルも綾子同様「来ていない」と答えたのだ。
「変ですわね。あたくしより先に来ているはずなのに。
 少し、見てきますね」
 真砂子は首を傾げながら旅館内を見て回るがどこにも麻衣の姿を見ることができなかった。安原やジョンやナル、綾子もすぐに旅館内を見て回るが、どこにも姿を見ることができない。靴は部屋に置いてあるため外に出たとも思えないのだが。
「すみません、うちの所員をどこかで見かけませんでしたか?」
 ナルが通りかかった中居に聞くが彼女は首を傾げる。他の仕事仲間にも聞いて貰うと、麻衣らしき少女がふらふらと表へと出ていくのを見たという男が出てきた。旅館に出入りする仕出し屋の一人で、裏門から珍しく女の子が出入りするから記憶に残っていたらしい。
「麻衣が何も言わずに出ていくなんて変だわ」
 例えこれがオフィスであろうと、麻衣は必ず一言誰かしらに声をかけていく。それが礼儀でもあり、また麻衣は『誰かに一言声をかけられる』と言うことが嬉しいようで、マメにしていることだった。その麻衣が何も言わずに出て行くわけがない。まして今のような状態でならなおさらだ。こうして皆が心配をして探し回ることが判っていて、するような子ではないのだ。
 ナルはおもむろに麻衣達の部屋へと足を向ける。その理由にその場にいた全員が気付き、止めるべきか迷ったが事が事だけに誰もナルがしようとしていることを、止めることはできなかった。
 ナルは真砂子から鍵を受け取ると部屋の鍵を開け、室内に置いてある麻衣のバックからポーチを取り出すと今朝も使ったであろうブラシを出す。壁に凭れるように座り込み神経を指先に集中させ、ゆっくりとブラシに触れる。躊躇っている時間はないのだから、もしも――という考えを捨てて、一点に神経を向ける。
 すぐに変化は訪れた。
 まるでどこか底の見えない空間へと墜落していくような感覚に包まれる。感覚が一度遮断されるがそれは一瞬のことだ。すぐに五感が戻ってくる。意識が急浮上し、闇が晴れる。
 ナルが恐れていた現象は晴れた視界には映らなかった。
 死者に同調したときに起こる現象――緑がかった光は映らない。
 最悪の事態はまだ起きていない。





 ――麻衣は、まだ生きている。






 調査用に使っていた部屋はまだ借りたままだ。機材が無くなった今ではそこで皆で食事をとる形になっているため、麻衣は一人廊下をパタパタとスリッパの軽い音を立てながら歩いていた。
 足取りは非常に軽く、表情は軟らかい。
 サイコメトリーをしたと言うことに関してのショックはないようだ。今にも鼻歌を口ずさみ出しそうでさえあった。
 麻衣は角を曲がろうとしたとき、足を不意に止める。そればかりか何かに怯えるように身体を震わせて、後退し出す。
 ――角の向こうに『いる』
 直感的に麻衣はそう思った。
 身体を翻し逃げなければ。
 本能が訴えてくるが、身体はいうことを聞かない。ただ、少しづつ後退をするだけだ。
 冷たいヒンヤリとした冷気が流れてき、身体を包み込む。鼻をつく臭いは甘くくどい臭い。脳が麻痺していくようで目がチカチカとしてくる。更に濃くなっていく臭気に意識は霞、思考が麻痺していく。
 いつの間にか冷気はスモークを炊いたように視認できるようになり、廊下を覆い尽くす。
 ――「おいで」
 誘うような声が聞こえる。
 聞いてはいけない。この声を聞いてはいけないのだ。
 それでも、声は麻衣を誘う。
 スモークの中に浮かび上がる、血塗れの男がゆっくりと麻衣に手を差し伸べる。掴みたくない。血にまみれて肌の色さえ判らない状態の男の手なぞ、触れたくもない。だが、身体は麻衣の意志に反して動き出す。それは緩慢としていてゆっくりとした動きだが、声に誘われるがままにゆっくりと動き出し、男の手を取る。
 ヒンヤリと氷りに触れたかのような冷たさが伝わってくる。
 一瞬身を弾きかけるが、男は麻衣の手を握りしめて放さない。
 ――おいで…僕の元に。
   その綺麗なモノを僕に……彼女に………
 男が何を望んでいるのか。
 それは、恋人の復活。甦ったと思いこんでいた男は、恋人が朽ちていくことを認めなかった。それ故に起こした凶行。
 それは己が死んでも妄執だけは残っていた。
 もしかしたら、男は自分が三十年も前に死んだとさえ思っていないのかもしれない。
 だから、同じ事を繰り返そうとする。
 ジーンが眠りにつく最後に言った言葉「犯人は操られている」それはきっと、この男の妄執に操られているのだろう。自分と同じ願いを持った男を意のままに操り、凶行を繰り返す。
 そして男はついに見つけたのだ。望む物を。
 麻衣は誘われるがままにふらふらと歩き出しはじめた。
 とろんとした虚ろの瞳は何も映さない、ただ唇が微かに動く「な…る…」と助けを求めるかのように。
 麻衣はそのまま人気のない道を通っていく。途中スリッパさえなくした麻衣は裸足のまま、砂利道を歩いていく。柔肌を鋭く尖った砂利が傷つけようとも気にせず、男に誘導されるがまま歩く。
 神が住むと言われている森へ。







 回線を麻衣から切ったナルはゆっくりと目を開く。ひどい目眩と倦怠感が身体を包み込むが、ナルは振り払うように軽く頭を振る。
「麻衣は、森へ行った。ジョン除霊をするかもしれない、準備をしておいて下さい。
 安原さん、ぼーさんとリンはいつ頃こちらへ着くと言っていましたか?」
「午前中には着くようなことを言っていましたが―――」
 時計を見ると今の時刻は8時半だ。午前中は12時ジャストまであり、その間は三時間半もある。あてにしていたら間に合わなくなるだろう。
 ナルは安原に二人に連絡を取って、森へ直接来るように伝言を残すと、ジョンと真砂子、綾子とともに、麻衣を追って森へと急いだのだった。
 片手にはブラシを握りしめて、森へと続く道を急ぐ。
 常に意識の傍らで麻衣を追う。
 間に合う。
 死んではいない。
 殺させてなるものか。
 憎たらしいほどいつもと変わらない表情、声、理性。ナルは的確に状況を判断し、メンバー達に指示をする。綾子に吉田の霊を牽制して貰い、憑依状態にあると思われるもう一人の男をジョンに祓って貰う。場合によっては麻衣もだ。
 その後、綾子もしくはジョンが除霊する。
 浄霊は望めないことは吉田の妄執から簡単に判る。一番攻撃力の強い滝川かリンがいれば良かったのだが、間に合うか判らない。とにかく一度麻衣を手元に取り戻さない限り、麻衣の命が危ないのだ。
 戦力の足りない今では、状況を的確に読まなければ、全てが失敗する。仲間にも犠牲が出、その上麻衣の命すら失われるだろう。
 目と鼻の先でかすめ取られた屈辱と、怒りで腸は煮え返りそうだったが、頭だけが異常なほどに冷静さを増していく。今何をするべきか、どうすればいいか、思考を張りめぐらす。
 ジョンも綾子も歯が立たなかったときは。
「存在もろとも吹き飛ばせばいいだけだ」
 掠れる声が怒りの深さを物語る。
 誰にも聞こえない囁きが、表に現すことのできない心情を物語る。











 麻衣は必死で前に進もうとする足を止めようとするが、身体が自分の思うとおりに動かせない。少しでも気を弛めば全ての意識が男の声に浚われそうになる。強い睡魔に襲われ、鼻をつく臭いに意識は霞んでいくが、必死に意識を保とうとする。
 今まで彼らは目に付いた女性を無差別に襲っていた。だが、望む物を見つけた彼ら・・・いや、吉田はとうとう自ら動き出した。駒であった男を使うのではなく、手がおそらく容易に出せないだろう麻衣を手中に収めるために、自らが動き出した。
 もしも、このような事態を誰か一人でも想像していたら、きっと麻衣を一人にしなかっただろう。誰もが、吉田の存在をそれほど深く考えていなかった。麻衣に手を出すときはあの男自身が動くと思っていた。吉田自らが動くほど、こうして麻衣の意識を乗っ取るほど力が強いなど誰も思いにもよらなかった。
 けして油断をしていたわけではないはずだ。
 だが、計算を間違っていたことは確かだ。今頃きっと皆自分の不在に気が付いて慌てて探し出しているはずだ。やがて、旅館内に自分の姿が無いことに気が付けば、皆が探し出してくれるはず・・・きっと、すぐに森に行かされていることを知るはずだ。それまで、何としても捕まるわけにはいかない。
 このまま、眠りに意識をゆだねたら駄目。
 内からそう叫ぶ声が聞こえてくる。
 意識までも手放してしまったら、二度とみんなに――ナルに会えなくなってしまうと。
 それだけはイヤだ。
 ナルを置いていきたくはない。
 ジーンのように内へと触れることを許してくれたナルを、ジーンと同じように置いていきたくはない。一人残して置いていきたくはない。残される者のつらさは良く知っているから、大切な人に――人達に同じつらさを味あわせることだけは、したくはない。
 唇を強く噛みしめる。その瞬間錆びた味が口腔内に広がる。どうやら歯で切ってしまったようだが、切れて血が滲もうとも傷みで睡魔が少しでも遠のくのなら、血が滲み出てくることぐらい気にならなかった。
 森を歩いているというのにやけに静かだった。蝉の鳴き声も他の虫たちの鳴き声も聞こえない。草を踏みしめる音だけが微かに聞こえるだけだ。
 やがて、あの場所へとたどり着く。
 一面を覆う曼珠沙華の原。まるで血の色で塗りたくったかのように、赤い花々が咲き乱れている。遠い昔多くの女性達がこの地で、命を絶たれた場所。そして、一人の男の妄執が渦巻く地。
 今までに来たとき麻衣は二人の青年しか見ていなかった。その時には真砂子が視た女性達は視えなかったというのに、今は視える。首から溢れ出る血を流し、胸の前で手を合わせて『神』に祈る女性達が。
 人の血によって穢された地に渦巻く人の願い。かつては、純粋なる願いだったのかもしれない。この地に『水』を。この地に『平和』を。その願いはいつしか歪み捻れてしまった。二人の男によって……
 薄れゆく女達に囲まれるように二人はいた。
 一人は全身を血に染めて、不気味な笑みを刻んで立っている男。麻衣をこの地へと誘導した吉田忠士。死んでもなお恋人の死を認められず、過去の妄執にとらわれてこの地に彷徨い続けている男。そして、一人の女性に病的なまでに執着したために、吉田に付け入られたもう一人の男が居た。その腕に朽ちた女性を抱きしめて。
 吉田は麻衣に近づくと腕を伸ばしてその顎に指を絡ませ仰向かせる。澱んだ黒い瞳が麻衣を品定めするように見る。
――「きれいだ」
 うっとりと吉田は麻衣の双眸を見て呟く。
――「漸くふさわしいモノを見つけられた。僕のモノだ、キミは僕のモノだよ」
 逃げたいのに全身が硬直して逃げられない。
 逃げなければ、新たな犠牲者の列に自分の名が加わってしまう。
 どんなに叱咤しようとも身体はいうことを聞かない。
 吉田の声に従うかのように、男は立ち上がった。その手に鋭利なナイフを握りしめて。
――「どんな目でも駄目だった。どんな血でも駄目だった。欲に穢れ力持たない者では、本当に彼女の力にはなり得なかった…力を持つ者の血と、その何よりも純粋な眼があれば、彼女は真実甦る。僕の名を呼ぶ力を取り戻し、僕をその両眼で見てくれる。
 さぁ…望みを叶えるんだ。彼女の全てを捧げれば愛しい者は甦る」
 吉田の囁きに促されるように、意志をなくした男がゆらりと立ち上がり麻衣に手を伸ばす。腕を掴まれた瞬間、麻衣に男の記憶が瞬く間に流れ込んできた。もう片方の手が振りかざす刃を霞んでいく意識で見つめながら、麻衣は男の過去を追体験していく。
 そして麻衣は、目の前の男と一度縁日に行った帰りに逢ったことがあったことを思い出す。


















 石渡という名の男だった。
 何をしても続かず、全てが途中で終わってしまうような中途半端な人間。小心者で引っ込み思案な故に、友人と呼べるような人間は少なかった。いたとしても自分をパシリ替わりに使うような人間達ばかりだった。
 石渡はある日、千尋という女性と偶然知り合った。
 自分に優しく言葉をかけてくれた、笑顔の素敵な女性だ。石渡が話しかければ千尋は優しく微笑みながら話を聞いてくれた。相談にも乗ってくれた。やがて恋に替わり友人から恋人へと二人の関係は替わっていった。
 だが、彼女はすぐに自分を避けるようになった。
 なぜ、どうして。
 あんなにうまく言っていたのに。
 すごく幸せだったのに。
 千尋は急に余所余所しくなってしまった。
 何がいけなかったのだろうか。自分は嫌われてしまったのだろうか?
 そう思うこともあったが、彼女が自分をすごく辛そうな目で見るために何か深いわけがあると思って、彼女の動向を毎日毎日見守っていた。
 やがてすぐにその理由は判った。
 千尋は町の男に騙されていると言うことが。
 いいように弄ばれていると言うことに、不安を覚えたのだろう。そして、その事を自分に言えないことに罪悪感を覚えているのだ。
 気にする必要はないよ、そう言いたくてその夜千尋が帰ってくるのを待っていた。
 だが、千尋は逃げてしまう。
 なぜ逃げるんだろう。
 どうして逃げるんだ?
 僕は怒らないのに。怒るつもりは全くないのに。
 なぜ、逃げる?
 逃がさない。どこまでも追いかけてやる。
 息が切れるのも気にせず追いかけた。
 ふいに千尋は前方で足を止めた。
 ああ…漸く待ってくれているんだ。そう思ったが次の瞬間鈍い音が辺りに響き、千尋の身体が枯れ葉のように宙を舞って、地面の上に激しくたたきつけられた。呆然とする中眩しいライトを反射させて、車が通り過ぎてしまう。
 ふらつく足取りで近寄ると、千尋は頭から血を流して倒れていた。
 すぐに病院に連れていかないと。そう思ったが既に遅いことに気が付いた。
 首が折れていたのだ。
 彼女の脈は止まり、呼吸もしていない。
 どのぐらいそのままにしていただろう。
 空がうっすらと白み始めていた。腕の中の彼千尋の身体は氷のように冷たく、硬直すらしていた。
 このまま失ってしまうのだろうか?
 イヤだ。それだけではいやだ。
 彼女を抱き上げて森の方へと足を進める。
 小さい頃祖母から聞いていた伝説。
 この森には『神』が住んでいると言われている。そして、その神はどんな願い事も叶えてくれると言う。そう人すら甦らせてくれると言うのだ。
 一面曼珠沙華の野原で「神」が姿を現してくれるのをひたすら待ち続けていた。どんなに愛しい人の姿が変わろうとも、気にならなかった。この姿は仮なのだ。すぐに元に戻る。だから、待ち続けた。
 そして何日が過ぎただろうか、ふいに男は現れた。
――「同じ願いを持つ者よ。愛しき者を生き返らせたくば、血を与えるがよい」
 底冷えするような声が全身を震わせた。目の前の男からナイフを受け取るとためらいもなく腕を切る。痛いというより熱いと思った。切り裂かれた傷口からは赤い血が溢れる。そして、愛しい人をその血で染め上げた。
 やがて、朝日とともに目覚めるだろう。
 男はそう言って姿を消した。
 そして、男の言うとおり千尋は意識を取り戻したのだ。朽ちた身体も元通りになって、何もかもが変わらない。これでもう僕だけの物だ。
 千尋を自宅へと連れ帰ってしばらくして、彼女に変調が起きた。
 血が足りないのだ。
 自分一人の血では彼女には足りなかった。だから、近隣の動物の血を与えた。彼女が望むままに深紅の液体を。だが、それは場凌ぎにしかならず千尋はある夜、とうとう人を殺してしまった。その血を貪り、腸を喰らい抜け落ちてしまった髪を求めた。
 次には血と腐り落ちてしまった耳の変わりを。
 そして―――千尋が一番望んでいる物は。

 最も美しい澄んだ眼だ。

 この男も吉田同様に、甦った者が欠けてしまった物を補うべく人を襲ったと思ってはいるが……今の麻衣には、千尋になりきっている石渡が動物たちを殺し、女性達を殺し、血を浴びていたのが判る。虚ろな眼差しには自分の意志はなく、まるで心をなくした人形のように、女性達を襲っていた。
 千尋が生きているのだから、千尋が襲っていると自らに強く思いこませ、現実から目をそらし続けていた男達が起こした凶行、それが今自分に向かっている。
 麻衣は振りかざされたナイフを虚ろな瞳で見上げる。
 アレが向かっているのはこの両眼。
 石渡は完全に勘違いしている。
 一度も生き返ることのないまま朽ちていってしまっている彼女を、元に戻そうとして自分が行っていた事を、三十年前の吉田と同じように彼女が行っていると思いこんでいる。
「眼を……さま、して」
 渾身の力を振り絞って、麻衣は唇を動かす。掠れたような声が微かながらも漏れる。その声に石渡がピクリ…と身じろぎする。
「現、実を見、て――も、う戻らない――よ。千尋さんは…もう、戻らない」
「いな――い?」
 麻衣の声に石渡の意志が揺らぎ始めたのか、戸惑いを浮かべ出す。
 そんなわけはない。
 千尋は生きて動いているのだ。
 『神』が甦らせてくれたのだ。
「いない――か、みなんて――どこにも、いない」
 麻衣は脂汗を滲ませながら、吉田の拘束をはねのけるように必死に唇を動かす。体の自由は取り戻せないが、何とか言葉を紡ぐことはできた。何とかして、石渡を正気に返らせねば。その一念で吉田の拘束を振り払っていたのだが、麻衣のしようとしていることに気が付いた吉田が、石渡に近づいて何かを囁く。
 そして告げなければいけない。千尋が望んでいることを。
 麻衣はチラリと視界の端で千尋の亡骸を見る。二人の願いとは名ばかりの独りよがりな妄執が渦巻き、浄化できず苦しみあがいている女性が、そこには佇んでいた。
 ジーンが言っていた三人目…それは、きっと彼女のこと。この永遠と渦巻くメビウスの輪から逃れたく、藻掻き啼いている『千尋』という名の犠牲者…彼女もまた、犠牲者でありこの地に過去から連綿と渦巻く『願い』の一つになっている。『自由になりたい』という願いの…それが、巡りに巡って吉田に力を与えている結果にもなってしまっている。
 吉田の力の源はこの地に渦巻く『願い』という名の妄執だ。この地にいる中で最も強い「願い」を持っている吉田が全てを乗っ取り、意のままに操っている。今もなお成仏できずにいる過去の女性達の、純粋な『願い』すらも自らのねじり曲がった『願い』のために使っている。
「うそを言うな…千尋は、生きているんだ。
 俺を置いていくわけがない。
 千尋はずっと俺の側にいるんだ、俺の側から放さない。放してなるものか」
 麻衣の声を振り切るかのように、石渡はナイフを勢いよく振り下ろす。が、それは何かによってはじき飛ばされた。
「うわっ!!」
 ナイフが陽光を煌めかせながら砕け散る。
 そんなことができるのはただ一人しか居るはずがなかった。それに被さるように鋭い声が空気を切り裂く。いつものほわわんとした声と同じ声とは思えないほど鋭い声だ。
「我は汝に言葉をかける物なり。我はキリストの御名において命ずる、身体のいかなる箇所に身を潜めていようとその姿を現し、汝が占有するからだより逃げ去るべし」
 ジョンは素早く聖水を振りまきながら言葉を口にする。
 それに拒絶反応を起こすかのように、石渡はうめき声を上げてその場に跪く。石渡だけではなく、邪魔が入ったことに吉田も怒り、邪魔を取り除こうとするが、綾子の結界に阻まれて麻衣達に近づくことができず、うめき声を上げている。ジョンの綴られる言葉に酷く抵抗するように、石渡はのたうち回る。
「父と子と精霊の御名により、聖なる身体は汝に永遠に禁じられたものとなすべし」
 身体を激しく震わせ、うめき声を上げる。
 ジョンが十字を切り、聖水で石渡の額に十字を書くと身体の震えが唐突に止まり、石渡はゆっくりと顔を上げて瞬き辺りを見渡す。何が起こっているのか判っていないのだろう。目の前にいるジョンを不思議そうに見上げ、更に麻衣やナルや真砂子、綾子達を見渡す。
「落ちましたわ」
 真砂子がポツリと言ったと同時に、石渡は叫び声を出す。
 今まで何をしていたのか思い出したのだろう。キチガイじみた悲鳴がその口から漏れ、森を震撼させた。
「俺が悪いんじゃない!! 俺は何も悪くはないんだ!!
 俺は千尋の為に…千尋の為だけにやったんだ!! 森の神がそうしろと言うから俺は千尋が望むままに、女達を千尋に与えてやったんだ!!
 森の神がいけないんだ! なぁ、そうだろう? 俺は何も悪くないよな!?」
 石渡はすがるように彼らを見渡す。
 ワケを詳しく知らない綾子や真砂子は比較的に同情的な眼差しで見ていた。確かに石渡は吉田の霊に操られてこのような凶行を起こしたのかもしれない。だが、元凶は石渡自身にあったのを麻衣は知っている。
 石渡の過去を視た。
 そして、千尋が石渡をどう思っていたのかも、今なら判る。
 今なお助けを求めている千尋をチラリと視ると、自由を漸く取り戻せた麻衣は、石渡に近づくと腕を振り上げた。

 ぱしっ――

 と乾いた音が辺りに響く。
「人のせいにしないで。元凶は貴方にあったんだよ?
 千尋さんが亡くなったのは、貴方のせいでしょ?」
 麻衣のいつにない鋭い声に石渡は、弱々しく首を振って否定する。
「逃げないで!」




 麻衣はなぜ、千尋が石渡から逃げていたのか知っていた。











☆☆☆ 作者の戯言 ☆☆☆
 ちょっと長くなってしまうので、除霊編は二回に分けさせていただきます(^^ゞ
 って言うか真のクライマックスは次回です。
 言霊云々については、ネット上で調べたことをチョビット載せてみました・・・・幾つか読んだ内容を抜粋した物です。こういうのってけっこう調べてみるとはまりますね。
 他にもSSに使ってみようかなっと思っていることをネット上で検索してみると、つい、時間の経過忘れちゃいます。調べたことを使える日が来るといいなぁ〜〜〜〜調べたくせに全く使わないと言うのもちょいと悲しいので(^^ゞ










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