第五話
                    





 河原近くの小さな平屋建ての家の前で、友人と別れるとガラス戸を開けて中に入る。外は蝉が短い生を謳歌しようと、狂ったように鳴き、太陽が容赦なく照りつけ、盆地のためひどく蒸し暑かったが、ドアを開けて中に一歩入るとクーラーで冷やされた空気が、労るように出迎えてくれる。
 庭に面したガラス戸は全てカーテンがしっかりと引かれているため、昼間だというのに薄暗い。板作りの廊下を歩くたびに、男の体重を受け止めた床がきしみを上げる。
 そして、一番奥の部屋のふすまの前で止まると、男は静かにふすまを開けた。
 よりいっそう薄暗い部屋。
 窓という窓は全て厚手のカーテンで日光を遮られ、よりいっそう部屋を薄暗くしていた。その部屋の隅にあしらわれているソファーに座る人影が、薄闇の中浮かび上がっている。
「ただいま千尋…気分はどうだい?」
 男の問いに千尋はニッコリと微笑んで、調子がいいことを伝える。が、男は軽く首を振って千尋の柔らかな髪を優しくなでる。
「我慢をする必要はないんだ……」
 男はそう言うが、千尋はゆっくりと首を左右に振る。
 小さく唇を動かして、「私は大丈夫」と伝える。
 掠れたような声は、言葉として男の耳に届くことはない。それでも、男は千尋の伝えたいことをそこからつかみ取る。
「そんな悲しそうな顔はしないで、俺は千尋が傍にいてくれればそれだけでいいんだ」
 千尋の頬を優しくなで、その小さな唇にそっと口づける。
「千尋が望むことは何でも叶えて上げるから」
 今にも折れそうな細い身体を労るように抱き寄せ、頬に、額に、瞼にキスをする。何度も何度も。慈しみ守るように。
「そうだ、千尋、グレープフルーツが好きだろう? 美味しそうなのが売っていたから買ってきたんだ…今、剥いてあげるから少しだけ待っていて」
 男は大きな紙袋からグレープフルーツを一つ取り出すと、皮をむいていく。酸っぱい柑橘系の馨が、部屋に充満していく。
「ほら、千尋」
 綺麗に向けた果肉を千尋に手渡すと、千尋は美味しそうにそれを口に運ぶ。あの日以来すっかりと食が細くなってしまって、日に日に痩せていく千尋。
 何とかしなければ…男は焦っていた。
 漠然とした恐怖がぬぐい去れない。
 一度覚えてしまった喪失への恐怖。
「千尋……俺を置いていかないでくれ」
 男が掠れた声で呟くと、千尋はそのほっそりとした腕をゆっくりと動かして、男の頬に触れる。ヒンヤリとした掌に男は頬をすり寄せる。
「ずっと…いるわ」
 千尋の囁きに、男はひどく嬉しそうな顔をする。目を細め幸せそうな笑みを浮かべると、頬に触れる千尋の掌にそっとキスをする。
「千尋が居てくれるなら、俺は他に何も望まない」
「私も…貴方が居てくれれば、それでいい―――」
 小さな囁きに、男は笑みを深くすると向いたグレープフルーツを千尋に手渡す。千尋はそれを自分の口にではなく、男の口へと運ぶ。差し出されるままそれを口に含んだ男は酸っぱさに目を細める。
「けっこう酸っぱいな…」
「でも、美味しいでしょ?」
「ああ…美味いな」
 男は酔いしれる。
 甘い囁きに。
 千尋の、温もりに。
「少し休むといいよ。千尋」
 今日は一日起きていたのだから、きっと疲れているだろう。
 千尋の身体をそっと横たえる。信じられないぐらい軽いからだ…また痩せた。その事実に胸のどこかがうずく。だが、けして千尋に悟られないように、男はゆっくりと寝かすとその額に、口づけを落とす。
「喉が渇いたらこれを飲むといい…身体にすごくいいからね。
 お休み、千尋」
 千尋が寝付くまで側にいた男は別室へと行くと、ずるずると膝が砕けたようにその場に座り込む。
 どうか…どうか、神様。
 口から出るのは、哀願とも言えるような囁き。
 どうか、どうか、千尋を連れていかないで下さい…
 切なる想いが口を出る。
 彼女が側にいてくれるなら、どんなことでもするから、何でもするから、彼女を自分に下さいと…
 その願いに答えてくれる、声はない―――だが、男は知っている。けして見放されたわけではないと言うことを。なぜならば、『神』は一度願いを叶えてくれているのだから。そして、その通り願いは成就されているのだから……男は無意識のうちに左手首の傷に触れる。
「大丈夫。千尋は消えない」
 言い聞かせるように、何度も、何度も囁く。





 熱い。
 麻衣はそう思った。
 熱い。身体が燃えるように熱かった。
 何でこんなに熱いんだろう。
 全身が内から熱を持って閉じこめられているようで、頭が朦朧としてくる。
 同時に、寒い。そうも思った。
 身体のうちはすごく熱いのに、寒かった。
 身体に触れると、氷のように冷たくて、悴んでいく。
 熱いのに寒い。寒いのに熱いというべきか。矛盾としかいえないような感覚が身体の内と外で起こっている。
 その上、喉がすごく渇いて、無意識のうちに何度もグラスに手が伸びる。よく冷えているオレンジジュースが喉を通り、胃までも冷たくしてくれるが、それは一時のことに過ぎず、すぐに乾きを訴え、身体が燃えるように熱くなってくる。そして、触れれば凍ってしまいそうなほど身体が冷たい。
 身体を動かすのがひどく気怠くて、その内グラスにすら手を伸ばすのも面倒になってくる。それでも、最初は皆に迷惑や心配をかけれないと思い、会話に参加していたのだが、やがて彼らの声すらひどく間遠くなって、聞こえなくなってくる。
「麻衣?」
 麻衣の様子がどこかおかしいことに気が付いたのは、夕食時だった。忙しなく動いていた箸の動きがパタリと止まって、麻衣は虚ろな眼差しでテーブルを凝視している。向かいに座っているナルが問いかけても麻衣は、一切反応を返さない。
 隣に座っている綾子が麻衣の目の前で掌をヒラヒラと振るが麻衣は無反応だ。
「麻衣さん?」
 ジョンも問いかけるが、麻衣はぼ〜〜〜〜っとテーブルを見つめている。
「麻衣」
 ナルが呼びかけに漸く麻衣は顔を上げる。
 虚ろな鳶色の双眸は、熱を孕み潤んでいるようだ。頬が僅かに赤く紅潮し、呼吸が乱れているように思える。ナルは立ち上がるとテーブルを周り麻衣の隣に膝を突くと、白い手を伸ばして麻衣の額に触れてみる。
 思わずナルの眉がしかめられる。
 ナルは体温が低めだ。そして、麻衣はやや高めの方だ。だから、普段から麻衣の体温はナルにとっては高く感じるのだが、今掌に感じる麻衣の体温は高く感じるというレベルではない。
「麻衣、僕が判るか?」
 ナルの手が頬に回るとその冷たさが気持ちいいのか、麻衣は自分から掌に頬をすり寄せて、目を細める。だが、ナルの声が聞こえているのか聞こえていないのか、返事は返さない。
「松崎さん、すみませんが布団の準備をして下さい」
「わかった」
 綾子は素早く立ち上がると、自分たちに用意されている部屋へと引き返す途中で、中居に声をかけて急いで布団を持ってきて貰って、部屋に布団を引く。
「準備できたわよ」
 8割がた準備が整うと、後を仲居に任せて綾子はナル達の待つ元ベースへと報告に行く。ナルは麻衣の細い身体を難なく抱き上げると部屋へと足早に運び、タイミング良く準備を終えたばかりの布団へと、麻衣の身体を横たえる。
「風邪ですか?」
 中居の一人が麻衣を見下ろして問いかける。
 ナルはいつも通り無表情な顔で、おそらくは…と無愛想に答える。それを美味くフォローするのは今回は、綾子とジョンの役割だった。とりあえず一晩様子を見たいから、氷枕と体温計を貸して欲しいと頼むと、中居は快諾しすぐに用意して持ってきてくれた。
 体温を測れば、38.6℃と高めの数字を示していた。
「風邪かしらねぇ」
 麻衣の額に氷水で冷やしたタオルを乗せながら、綾子が呟く。
「麻衣さん大丈夫でっしゃろうか? 昼間は、あないに元気でいらしたのに……」
 ナルでさえ昼間麻衣は不調には見えなかった。
 もしも、麻衣に不調があることに気が付いていれば、昼間外を出歩くことを許してはいないだろう。が、ジョンの言葉に綾子が「アッ」と小さく呟く。
「そう言えば…麻衣、昼間様子が変だったわ」
「変、とは」
「一瞬、ぼうっとしたのよ。
 まるで立ったまま目を開けて寝ているかのような感じで…すぐに元には戻ったから対して気にはしていなかったんだけれど……もしかしたら、その時からこの子具合が悪かったのかもしれないわ」
 そのことに気が付かなかった自分を悔やむように、綾子は親指の爪をギリッと噛む。
「ですけど、その後の麻衣さんそんな感じではあらへんかったです」
 ジョンが慰めるように言うが、綾子の耳には届いていないようだった。
 そして、ナルも余計表情を険しくする。
「もしかしたら……」
「なに? ナル何か思い当たることでもあるの?」
 綾子の問いにナルは顔を上げる。
 言うつもりのないことだったのを、思わず口に一部してしまったのだろう。綾子とジョンが問いただしげに視線を向けてくるが、ナルは何でもないと言ってそれ以上言わない。
 綾子は無理矢理にでも聞き出そうと、食い下がるつもりだったが、ジョンに止められる。
「渋谷さんは確信のないことは言いませんよって、まだ、仮定の域をでていないんではおませんか?」
 穏やかな笑みを浮かべながら問いかけてくるジョンに、さしものナルも苦笑を漏らす。
「もう少し具体的なことが判ったら、二人にも協力を仰ぐことになると思います。だが、今の段階では何とも言えないのが事実です。
 ただの、風邪の可能性もありますから」
 麻衣を見下ろしながら言うナルに、ジョンは「お手伝いさせていただきます」といつもの笑顔で浮かべて、綾子は「その時はすぐに言ってよね」と、ハッキリと言わないナルに苛立たしげにいったのだった。









 


 意識が不意に覚醒する。僅かに枕元にともされていライトに照らされている室内に視線を向けると、誰かが壁に凭れて眠っていた。
 起こさないように、部屋を出る。
 ヒタヒタヒタヒタ……
 静かな廊下を歩いて、そのまま人気の皆無な道路へと出ていく。
 身体が燃えるように熱い。
 どうして、こんなに熱いんだろう。それなのに、身体に触れると凍えそうなまでに冷たかった。
 どうして、なぜ。
 疑問が頭を掠める。
 こんなに熱いのに、すごく寒い。
 喉もすごく渇いて、渇いてこのままでは頭がおかしくなりそうだ。
 どうすれば、この渇きが癒えるのか……どうすればいいのか、思案を巡らしていると答えが自然と脳裏に浮かぶ。
 そう。そうすれば良かったのね……
 麻衣は笑みを口元に刻む。
 普段彼女を知る者がいれば、きっと眉をひそめただろう。
 そう、思わずにはいられないような、麻衣らしくない笑みが刻まれていた。
 どうすれば、渇きが癒えるのか答えを見つけた麻衣はひどく身軽になった気がした。目的さえ出来れば我慢は出来る。
 でも、やはり早く渇きをいやしたい。熱を冷やしたい。そして、冷えてしまっている体を温めるには……
 麻衣は、見つけた。アレさえ、手に入れれば全てが癒える。
 手に握りしめている物の感触を確かめる。
 それは、頼りない街頭の光を受けて暗い夜道に乱反射していた。誰もいない虫の鳴き声すらしない通りに、高いヒールの音が響き渡る。一定のリズムだが少し足早だ。夜道を恐れて家路を急いでいるのだろうか。微かに周囲に警戒しているのが強ばっている身体からも判る。
 麻衣は目の前を歩く、同じぐらいの背丈の女性に向かって小走りで近づく。女性は近づいてくる足音に気が付いたのか、ゆっくりと振り返った。怯えたような眼差しと目が合う。麻衣は女性に向かってニッコリと微笑むと、手を振りかざす。その手に握られている物に気が付いた、女性が驚きと恐怖によって目を大きく見開かせる。
 女性が悲鳴を上げる前に、麻衣は勢いよく腕を真一文字に動かした。
 鋭い刃が空気を、そして何かを一閃する。
 刃をとおして伝わってくる、今までに感じたこともないような感触。そして、噴水のように吹き出す、熱い液体。
 視界を真っ赤に染め変えるほどの、赤い液体が女性の首元から降り注がれる。
 麻衣はうっとりと恍惚とした表情で、赤い水を頭から浴びていた。頭も、顔も、全身をその液体で染め変える。むわっとむせるような生臭いが甘美な物に感じ、手に着いた液体を舌で舐めると、芳醇な馨を放つワインのようにさえ思えてくる。
 女性は首を押さえていたが、やがてゆっくりと膝が崩れその場に倒れようとするのを麻衣は血塗れに染まったまま見下ろしていた。
 そして、たった今女性の血で真っ赤に染まったナイフを持ち変えると、倒れた彼女の腹部に勢いよくナイフを突き刺し一気に横に切り開く。抑圧されていた腸が無くなった腹空圧に押し出され勢いよく飛び出す。血にまみれたピンク色の腸を無造作に手で掴むと勢いよくむさぼり食う。血を啜り腸をはむ姿はまるで、鬼のようともいえるかもしれない。顔ばかりか全身を血塗れにし、ひたすら飢えを満たすかのように貪り続けると、ふいに血塗れになった唇を拭い女性の耳に手を伸ばした。片手で掴むとひっぱり根本からナイフで切り落とす。
 肉を切り、軟骨をナイフが切り落としていくのが伝わってくる。
 罪悪感などない。
 これは、自分が生きていく上で必要なことなのだ。
 人は動物を食べるために殺す。いやそれは人だけではない。生ある物はみなそうだ。生きていくために自分以外の動物を殺す。たまたま、自分が生きていくためにはこうするしかなかったのだ。
 必要なのだ。暖かい血も、生気を宿している内臓も。欠けてしまった耳も。
「ありがとう」
 麻衣は彼女に向かってそう囁く。
 罪悪感など感じない。生きていくためには必要なことなのだ。だが、感謝の念はある。彼女が居てくれたから、自分は狂わずにすむのだ。
 狂気にまみれた赤い笑みを麻衣は浮かべ………………………………その顔が、不意に驚愕に見開かれる。
 目の前にある物が信じられないかのように、鳶色の双眸を大きく見開く。
 手に持っているモノを見て、身体が震え出す。
 音を立ててナイフが落ち、まだ温もりを失っていない切り取ったばかりの両耳が落ちる。
 今、自分は何をしたのだろうか?
 いったいどうして、こんな所にいる。
 それよりも、それよりも、それよりも、それよりも……


 むせ返るほどの生臭い匂いが全てを狂わせていく。
 現実が、真っ赤な闇に染まって………


 血塗れの両手で、同じように血塗れになっている頭を抱え込み………………

















「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっっっっっっっ」











 麻衣の悲鳴が闇に響いた。








☆ ☆☆ 作者の戯言 ☆☆☆
すみません…極悪なところで終わらせている自覚はあります。
今回どこで話を区切ろうか迷いました。当初予定していたところだと若干量が少ないようなきがして、それとここで切られるといやだろうなぁ〜〜〜と思ってもう少し書き進めていったら……もっと極悪な形で終わらせることになってしまいました(笑)
続き、早めにアップします(>_<)なら、いっぺんにアップしろと言われそうですが……しばらくお待ち下さい。
漸く、終わりに向かって…話が進み始めました……ナルとのラブラブは、いつ入れられるんでしょう?というかこの話にはいるのか?

















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